高鍵文氏のメッセージ

ある生存者の心からの声
侵華日本軍による重慶大空爆六・五大隧道虐殺事件の生存者

高鍵文


 1945年8月6日は広島の原爆記念日です。今日、平和を求める多くの人々がここに集まり、厳かに広島平和活動を行い、戦争に反対し、平和を呼びかけます。
 この活動には重大な意義があります。今年は中日国交回復30周年にあたる年であります。私は、この度「8.6ヒロシマ大行動」実行委員会共同代表の栗原君子元国会議員、一瀬敬一郎弁護士及び吉田義久教授のお招きにお応えし、王群生団長の下、第二次世界大戦日本侵略軍による重慶大爆撃の生存者として、この集会に参加できたことを、大変感謝し、嬉しく思います。
「8.6ヒロシマ大行動」は、日本人民にとって、戦争についての認識を深める好機になると共に、中日両人民の友情を深め、世界平和を促進し、維持するという点において、重大な歴史的意義をもつ集会であると思います。
 これから、私は日本の友人の皆様方に、重慶大空爆及び六・五大隧道虐殺事件の自らの経験を、沈痛な気持ちで述べさせていただきます。
 私は「重慶大空爆」という歴史的事実を思い出す度に、心が痛み、悲しい気持ちでいっぱいになります。1937年抗日戦争初期、わが国の上海、南京、武漢は、日本侵略軍に相次いで占領され、1938年には、国民政府は長江に沿って次々と敗走し、やむなく重慶に遷都しました。その後、重慶という都市は、日本政府にとって「中国の抗日戦争意志をぶち壊す」「空爆によって降伏させる」という戦略計画を実行する為の、最も主要な空爆目標となりました。
統計によると、日本軍は重慶に対し、218回の空爆を実施し、9,513機の飛行機を出撃させ、21,593発の爆弾を投下しました。この空爆によって、重慶市区はほどんど廃墟となり、死傷者は2.5万人余りの数に上り、財産と家屋の損失においては数え切れないほどの甚大な被害を受けました。
この被害の数値は、第二次世界大戦期間中、及び全ての人類史において、記録的数値です。日本軍事評論家前田哲男氏も「一つの都市に対して、こんなに長期的に強く攻撃し続けたことは、航空史初めてのことである」と認めました。
 そして、1941年の六・五大隧道虐殺事件は日本軍の「重慶空爆」の中でも最も悲惨な事件です。私は、この事件の生存者であります。
 あれは6月5日の夕方のことでした。暫く前まで小雨が降っておりましたが、止んで、だんだんと暗くなってきておりました。突然、空爆警報が鳴りひびき、市民達は急いで防空洞に入りました。
当時私は16歳で、瓷器街にある雑貨店を手伝う傍ら、重慶空襲服務隊のボランティアをしていました。私は空爆警報を聞いて、急いで市民達と一緒に衣服洞口から防空洞に入りました。この夜、日本軍は重慶を空爆するために、24機の飛行機を出撃させ、3回に分けて空爆し、空中から旋回しながら掃射し、少量の爆弾を市中区と南岸地区に投下しました。約1時間後帰航し、また8機の飛行機が飛んできて、繰り返し爆撃しました。このように、3回連続で爆撃が行われたため、夜11時になっても警報は解除されませんでした。
 このような連続爆撃によって、較場口中興路口の警報信号台の赤い灯籠が壊れました。そこで、ある人が、空爆警報の代わりに赤い布で包んだガスランプを使用したらどうかと提案しました。しかし、そのことが逆に、大隧道の中に避難している市民に、日本軍の飛行機が毒ガス弾を使うのではないかと誤解させるきっかけとなり、市民等はパニック状態に陥りました。避難人数が多く、大隧道の中にいる時間が長かったため、空気が足りなくなり、防空洞に避難した市民は窒息する恐れがありました。
しかしその一方で、さらに中へ避難しようとする人達が、防空洞口にいました。中の人達は新鮮な空気を求めて外に出ようとしました。そのため防空洞の中は、混乱状態に陥りました。何回かの騒ぎの後、ある人が突然倒れ、後ろの人達がこの人の体の上にさらに折り重なるように倒れ、出口が塞がれました。防空洞の中にいる、まだ窒息していない人たちは、石灰口、衣服口の方に向かいました。しかし石灰口、衣服口方面の人たちも十八梯口方面に押し寄せてきたので、道はついに塞がれてしまいました。
 そのとき私は、ほかの人の上に手を置いて、力を入れて外に辿り、なんとか防空洞の石椅子の上に登ることができました。しかし、上半身は押し合っている人たちの頭の上に抜け出すことが出来たのですが、腰は混乱状態の人に噛まれ、下半身は死体に埋もれたままでした。その後、やっとの思いで死体から抜け出しましたが、左足は死体にしっかりと掴まれてしまいました。掴まれた時間が長かったため、私の左足にはそのあと障害が残りました。
 6月6日午後3時ごろ、私はやっと救出されました。私は幸いにも助かりましたが、不幸にも亡くなった人たちの状況を見た時は、非常に恐ろしくなりました。その光景はあまりに悲惨でした。家族全員が亡くなったり、子供は孤児になったり、生まれたばかりの子供を抱いたまま死んだり、夫婦の片方が亡くなって残った人はショックで病気になったり、妊娠している女性は踏まれて亡くなったりしていました。
死んだ人は棺、蓆で包まれ、埋葬されましたが、死者の数があまりに多すぎて、棺、蓆はすぐに足りなくなりました。残った死体はトラック20台で朝天門に運ばれ、50台の木船を使って、対岸の江北黒石子でそのまま埋葬されました。
 虐殺事件の翌日、国民政府は被災状況について詳しく調査しました。較場口周辺地区の市民は、大隧道に入った人はほとんどの人が亡くなり、生き残った人は稀でした。家族全員が亡くなったケースもあります。当時、私と一緒に仕事をしていた五人は、全員防空洞に入りましたが、幸いにも死を免れたのは私一人でした。
 この事件の死亡者数については、いくつかの説があります。一万人が亡くなったという人もいれば、何千人が亡くなったという人もいます。当時政府の新聞で公表されたものによれば、死者は992人で、負傷した人は115人だそうです。(あくまで聞いた話に過ぎませんが、もし1,000人以上が亡くなったら、政府の役人たちは殺される恐れがあったそうです。)したがって、新聞の公表数は確実ではありません。その後の資料によれば、死亡した人は3,000人以上ということでした。
 この60年前の事件は、非常に悲惨で、国内外を驚かせました。今でさえ非常に恐ろしく感じます。この事件を思い出す度に心が痛みます。
日本軍による侵略戦争は、中国人民に甚大な被害をもたらしました。日本軍の重慶への空爆は、重慶人民に対し、日本軍が負った血の債務であり、犯罪行為が行われたことは明白な事実です。
残念ながら、近年、日本国内において、この侵略の歴史を否定する言動が目立ちます。たとえば、公式に「プライド」という映画を上映したり、教科書を改ざんしたり、靖国神社を参拝したりする行動は、完全に戦犯の魂を呼び戻し、中国人民及びアジア人民を傷つけ、挑戦するものです。これは、日本国内において、相当強固な軍国主義勢力が存在していることを示しています。
 したがって、我々中日両国人民はそのような動きを絶対に無視することはできません。常に警戒心を高め、日本における軍国主義勢力の動きに注意を払わなければなりません。一旦戦争が始まれば、人民に多大な犠牲をもたらすことになります。当時日本軍が行った侵略戦争において、中国は最大の被害国で、この戦争によって3,500万の中国人民が亡くなり、日本人民も300万人が亡くなったのです。
 そして、今ここに、我たちは重慶大空爆の生存者を代表し、広島の原子爆弾で亡くなった日本人民に対して、心から哀悼の意を申し上げ、その遺族に対して慰問いたします。中国には、こういう諺があります。「3,000人を殺すと、こちらも800人は死亡するだろう」。我々両国人民は戦争によって苦しめられたのであり、歴史的事実を絶対に忘れてはいけません。そして、この歴史的悲劇を再現させてはいけません。
わが国の江沢民国家主席は、「ひとつの民族はもし自分の歴史を忘れたら、現在を深く理解し、未来に向かうことができません」と言っています。この度、中日国交回復30周年を迎えて、我々は「歴史を鏡とし、未来に向かう」という理念の下、中日両国人民(特に青少年)の友情を、子々孫々にわたって永遠に継続し、両国人民が相互に交流を続けていくことを再確認すべきです。そして、我々の国をより繁栄・発展させ、人民にとって幸福な生活を保障しなければなりません。我々両国人民は協力し、この共通の願いを実現し、世界平和を守るために努力しましょう。
 最後に、「8・6ヒロシマ大行動」のご成功を、心からお慶びいたします。