【朝日新聞夕刊掲載記事】(2004.02.02)


平和遺族会全国連絡会代表 小川武満さん

 相模川を見下ろす神奈川県城山町の自宅に黒人男性の素描が掛けてある。Terryというサイン入りの横顔はどこか不安げだ。
 ベトナム戦争中の68年3月、横浜の野戦病院から逃れて来た米海兵隊員テリー・ホイットモアさんを自宅に約1週間かくまった。若者を落ち着かせようと、互いに相手を描いた似顔絵の1枚だ。
 「米兵が逃げてくるけれど、いいか」。ある日、妻幸子さん(78)に優しい目で打ち明けた。捕まれば重罪は免れないのに、「当たり前の口調でした」と幸子さん。
 看護婦の妻と無医地区に開いた診療所の医師で牧師でもあった。その6畳間が隠れ家になった。
 脱走兵を受け入れたのは戦争体験に由来する。中国の旅順に生まれ、中国人の子供とも遊んだ。侵略者としての日本人社会に腹を立てつつ、神学校に続いて満州医科大学を卒業する。後に北京で陸軍病院と陸軍監獄の軍医を務めた。
 敵前逃亡で銃殺される日本兵や利敵行為で斬首される中国人の死亡確認をした。「命を助ける医師として、救いの喜びを告げる牧師として、何たることだったか」
 その思いから非戦平和に邁進する。靖国神社「国家護持」法案が上程された69年には「キリスト者遺族の会」を作り、「法案は戦死者を英霊として尊崇し、戦争を美化する」と反対の先頭に立った。
 中曽根首相(当時)が靖国神社を公式参拝した翌86年には同趣旨の団体を束ね、平和遺族会全国連絡会を結成する。8月15日の平和集会は恒例になった。
 「今年行かなければ、来年はもう無理だ」。脳梗塞の後遺症をおして臨んだ昨年の集会で、「私自身が戦争責任を問われ、銃殺されても当然だった…」と語りかけた。静養していた自宅で高熱が出て入院し、1週間で亡くなった。
 35年間をともに歩んできた連絡会事務局長の西川重則さん(76)は「あれは力を振り絞った遺書だった」と振り返る。(田中洋一)

おがわ・たけみつ 03年12月14日死去(急性腎不全)90歳 03年12月17日葬儀