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裁判報告会(2004.7.20第6回控訴審後)

2004年7月20日、第6回控訴の終了後、弁護士会館で行われた裁判報告会を行いました。
 報告会では溝口雄三さん(東京大学名誉教授)の講演と意見交換が行われました。


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   ●7.20裁判報告・講演会における溝口雄三さんの講演●


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 731部隊の実践運動に携わっていられる皆さんにまず敬意を表したいと思います。
 今3時20分ですから、4時まで40分お話しさせていただきます。
 話のポイントは、731部隊の問題との関連から言いますと、なぜ日本人は長い間中国を
蔑視することが出来たかと、それはいかに根拠がないことであったかということを、歴史的観
点からお話ししたいと思います。

 といいますのは、この731部隊というものは、そもそも形成されること自体が、中国を非常に蔑視する中から生まれたことである上に、戦後これだけ長い間この問題を隠蔽し、問題が明らかになった後も、それに対する補償を肯んじない、知らん顔をする。もしこの相手がイギリスであったりアメリカであったりすれば、あるいはアメリカ政府なりイギリス政府が補償を求めるというような構図であったりすれば、日本政府はとっくに謝罪し、或いは補償しているだろうと思うんですね。

 ことアジアの問題に関すると、非常に政府、あるいは多くの政治家たちは、相手を蔑視する姿勢から自由になっていないという風に思います。で、こういうことが起こる背景には歴史に対する見方がやはり原因としてあると。

 先程申し上げたように、長い間日本は「脱亜入欧」と申しまして、アジアを脱してヨーロッパに入ると、自分たちは貧しいあるいは遅れたアジアではもはやないんだと、進んだヨーロッパの仲間に入ったんだと言って、自分たちをアジアの優等生の席に置いてきたこの歴史が、どのような観点から行われたもので、それがどのように間違っているかということをお話したいと思います。


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 歴史というのは、事実を組み立てた一つの実証的な、誰もそれを否定することの出来ない事実の学問だとお考えになっていると思うんですね。しかし、それは本当でしょうか。

 新聞を編集することをちょっと例にあげて見てみましょう。例えば朝日新聞と読売新聞と毎日新聞の三紙を並べて、それぞれが全く同じ事実を、記事にしているわけではないんですね。という事はどういう事かというと、事実を選んでいるということがあるわけなんですね。どの事実を記事にして新聞に載せるか、その記事をどの大きさで載せるか、どの面に載せるか、一面に載せるか、三面に載せるか、何欄に載せるか、どれだけの長さ、スペースをそれに与えるか、全てそれは記者なりデスクなりの作業として行われるわけですね。

 ということは新聞を作るには、言葉は確かに事実なんですけれども、事実を選ぶということ、それからそれを組み立てるということ、ある話として組み立てる、そういう作業が行われているということになるんです。

 歴史学も実はそうなんですね。ある事実とある事実を選び出す。選び出してAという事実とBという事実とCという事実の内で、BとCの事実を組み合わせてみる。或いはAとBとを組み合わせてみる。

 組み合わせによって、組み立てられた建物は変わってくるわけですね。どういう事実を選んでどういう組み立て方をするかによって、変わってまいります。

 さらに歴史学はそれに意味を与えます。例えば、中国が1911年に清朝を倒して新しい共和国を作ろうとした時期に、軍閥というのがあってこれが各地方に割拠している。そうすると中国には統一された政府がなくて、ばらばらの軍閥と称するものが各地に割拠していて、自分の利益だけ考えて国家のことを考えない、という風な組み立て方も出来るわけですね。そして中国は遅れていると。

 近代国家というのは、国民国家という名前で言われている統一された中央集権国家でなければならないと。そうでなくて、ばらばらの軍閥があっちで権力を用い、こっちでまた別の軍閥が権力を持つというような、こういう仕組みは、非常に遅れた形態であると。

 歴史的に遅れているという形で組み立てられるわけですね。これが一つの組み立てです。実際にそういう風に組み立てられてきました。

 ところが、実は長い300年の歴史で見てみると、こういう事実が分かってくるんですね。16世紀から17世紀にかけて、明という王朝が清という王朝に交代するんですが、その時に一つの変化が現れます。それはどういう変化かと言いますと、中国のことは自分たちにやらせろ、という声が民間から出るようになったのです。

 例えばある思想家はこういう文章を発表しているんです。中国に学校を作ろうと。学校長には、地方の人望のある人を選んでなってもらおうと。そして、学生達は試験に受かったらその学校で議論をすることができ、議論の中身は政治問題でよろしいと。
 そして県知事はこの学校長に対して弟子の礼をつくすと、こういうことを言っているんですね。
 こういうものを作ろう、こういう組織を作ろう。これは、今から言いますと一つの議会制のようなもの、地方議会のようなものを言っているわけなんですね。つまりその地方の学校に優秀な人材、試験に受かった学生と言われている人材を集めて、地方の行政的な色んな問題を話し合うと。

 で、その話し合ったことを学校長が県知事に伝えると。県知事はその学校長に対して弟子の礼をつくす。
 つまり県知事よりは学校長の方が上だということですね。こういうような動きが始まります。実際に清という一つの時代は、民間のそういう自治的な力がどんどん大きくなっていった時代なんです。どんどんどんどん大きくなっていきました。
 やがて、太平天国の乱という大きな動乱が起こります。清朝はこの太平天国の乱を鎮圧することが出来なかったんですね。出来なかったために当時、中央政府の高級官僚だった曾国藩という人に依頼して、湖南省で湖南省の軍隊を作って下さい、そして太平天国の乱に対して刃向かって下さいと。

 何で湖南省でと言ったかといいますと、湖南省は当時、中国の中で租税が最も沢山とれる非常に裕福な省だったんですね。穀物の生産高が非常に高くて、租税が沢山とれたものですから、その省が太平天国の反乱軍たちに占領される前に、湖南省の人間によって湖南省の軍隊を作り、湖南省を守って下さいということを要請したわけです。
 その結果、そこに湘軍という軍隊が出来た。それまで軍隊というのは、非常に遠い地方から派遣されてきた兵隊達によって編成されていたんです。

 例えるならば、山形県から連れてきた農民達によって作られた軍隊を、広島県に派遣するようなものです。言葉も通じない、自分の郷土でも何でもないところに連れてこられるんですから、郷土を守ろうなんていう気持ちは全くない。そういう軍隊だったわけです。

 それに対して、湖南省の地元の人々からなる軍隊を作ることによって太平天国に対抗すると。これはもともと清朝を守るために作られた軍隊だったんですが、やがてあちこちに同じような軍隊が出来て太平天国と戦うようになってですね。結果的にそれがもちろん軍閥になっていくんですけれども、この省が軍事力を持つことによって王朝を倒す力となっていったわけなんです。

 清という時代は、最初はそれ以前の王朝と同じような軍隊を持っていたんですが、中国の王朝の軍隊というのは、さっき申し上げたように、広島を守る軍隊として、山形県や秋田県の人間を連れてくる、というものでした。
 なぜそうしたかというと、その地方の人間でその地方の軍隊を作ってしまうと、反乱を起こすということがあるんですね。

 元々、中国の軍隊というのは外国と戦うための軍隊ではなくて、農民の反乱を抑えるために備えたのがそもそもなんですね。内乱を抑えるための軍隊。それが中国の軍隊で、外国と戦うということを一切考えていなかったんです。戦う外国がなかったんですね、それまではずっと。北の方に一部の敵がいるだけで。

 それが、太平天国の乱という大きな動乱によって、そういうことを言っていられなくなった。太平天国の乱というのは、一つの省の中で起こった暴乱というだけに留まらないんです。全中国に広がって、あっちでもこっちでも太平天国の軍隊が攻め込んでくるという、そういう動乱であったわけですから、それに対抗するためには、どうしても強力な地元の軍隊がなければいけない、というわけで地元の軍隊を作ったのです。

 そうして作られた地元の軍隊が、やがて成長して1911年に省の独立運動を起こすようになるわけです。各省が独立運動を起こして、実際に独立を宣言すると。もう中央政府の言うことを聞かないと。
 自分たちは軍隊も持つし、憲法も作るし、教育も自分たちでやるし、租税も自分たちで徴収するというような、一つの共和国のようになるわけですね。そういう形で清という王朝は滅んでいったわけです。

 王朝を滅ぼし共和国を作るということは、歴史からすれば一つの前進ではないでしょうか。つまり、軍隊を作ることによって省の自治能力が高まり、軍事権も行政権も持つようになった各省が中央の王朝に反逆して、自分たちの省の独立を図ることによって王朝制度を倒していった。そして新しい連邦制の共和国を作ろうとした。
 そういう流れから中国の歴史を眺めて、事実を集め、組み立て方をするならば、軍閥というものは、確かに一時的な混乱を生じたけれども、王朝を倒す上で大きな役割を果たす勢力であったと言えると思います。

 そうすると、それまでの日本人がそのときに考えていた、「中央集権国家ではなくて、ばらばらの封建的な割拠みたいになっているのは日本で言えば江戸時代のようなものだ」とか、「歴史が逆行しているんだ」、「中国は遅れているんだ」という見方は、実際に正しいかどうか、ということが問題になってきます。


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 二つ目に、事実をどう組み合わせるかという問題に加えて、もう一つ歴史にとって大事なことがあるんですね。それは、どういうものさしでこの事実を並べ、どういうものさしに従ってその事実を解釈するのかという問題です。そこで、ものさしとは何か。ここに実は大きな問題があります。

 アジアでは、特に日本では、ものさしはヨーロッパなんです。ヨーロッパの歴史がどのようであったのか、ということが、ものさしになるのです。
 では、どのようなものさしか。ヨーロッパでは、古代の次が中世で、中世の次が近代で、近代の次が現代だと。
 こういうふうに歴史は発展していくんだというふうに、ヨーロッパ人がヨーロッパの歴史を語っているわけです。そして、それがものさしになります。

 古代というのは、ローマとかギリシャだとか。中世というのは封建時代。封建時代というのは王がいて、王の下に貴族があって、貴族の下に騎士といわれる武士集団がいて、そして、その下に農民がいて支配されている、こういう時代です。江戸時代の封建時代と非常に類似したものなんですね。中世封建時代。

 それから、そういった貴族制をやぶって、商人たちが反逆して、ブルジョワジーという一つの階層が生まれて、市民社会というものや、議会制が生まれて、フランス革命が起こって、それで、市民たちが権利を持つようになって、それがヨーロッパの近代ですよ、と。

 みなさんどうでしょうか、この形態は日本も非常に似てますよね。古代があって、中世があってですね、まあ、中世がややこしいんですけど、日本では近世というのもつくり、徳川時代があって、やがて明治時代になる。

 ヨーロッパや日本で見られるこの形態は、一つの特徴を持っているんですね。それが、分散した状態から中央集権国家への移行です。封建時代の、例えば江戸時代のように、各藩に権力が分散している。束ねているのは将軍ですけれども、各藩の大名が、自分の領地を支配している。封建割拠の時代と呼ばれていますけれど、そういうふうに割拠する時代から、やがて廃藩置県で、藩は廃止され県になった。そして、県知事は中央から任命される、という形になって、中央集権制が出来上がるわけです。

 そうすると、近代国家というのは、ばらばらの分散している形態から中央に集権化して、軍隊も中央に集められて、一つの国家として形態を持つようになるもののことなんだと。そういう点では日本はそのようなヨーロッパの形態に大変良く似ているわけです。

 それに対して、中国は全く逆なんですね。長い間王朝制が続いていたわけです。漢から、唐、元、明、清。2000年にわたって、王朝が続いております。その王朝を倒そうとしたわけです。

 王朝というのは中央集権制なんです。皇帝が中心になっていて、官僚はその下にあって、中央集権国家を作ってきたわけです。中国は、2000年にわたって中央集権制を保ってきたわけなんです。
 これはヨーロッパと全く違います。しかもその上、先ほども申し上げているように、王朝制を倒すときには、中央集権制になるどころか分散していったんですね。軍閥が各省において独立を宣言すると。

 自分たちはこれからいよいよ独立すると言って、各省が蜂起すると。もう、中央集権は結構ですと。皇帝権力は結構ですと。自分たちの政府をつくりますと。
 我々が知っている毛沢東さえも、当時1910年代にですね、彼は湖南共和国運動というのを一生懸命やっております。湖南共和国をつくろうというところで指導的な役割を彼は果たしているんですね。湖南省の独立ということをやろうとしていたわけです。
 そのように、中央集権制から各省の独立という方向に向かっていくのが、中国型の近代化の道なんですね。

 そうしますと、先ほど申し上げたものさしの話に戻りますが、ヨーロッパをものさしにした場合に、ヨーロッパと非常に似た歴史形態を持った日本は、ヨーロッパ的なものさしではかれる。
 ところが、ヨーロッパのものさしで中国を測ろうとすると、さっきからいっているように、全然合わないんですね。ものさしが合わない。それを無理矢理ヨーロッパのものさしに当てはめると、軍閥なんかは封建的だと、中国は遅れていると。こういうことになるわけです。センチのメモリで寸を測るようなことをやるわけです。日本はセンチなんです。これでいうと不思議な話なんですね、実はね。

 ユーラシア大陸というのがありますよね。シベリアから中国大陸、インド大陸、イスラムを通ってヨーロッパまで、大きな大陸が地球の上に続いております。そのユーラシア大陸の東の端の日本と、西の端イギリスを中心とする一部の西ヨーロッパの国、この両方だけが、封建制をもっているんです。他のユーラシア大陸のどの地域にも、封建制は生まれていないんです。皇帝制とか王朝制が中心なんです。これ、非常に不思議な話なんですね。

 なんでそうなのかはよくわかりませんが、たまたま日本はヨーロッパと非常に似た歴史形態を経験したんですね。ですから、日本が日本のことをヨーロッパのものさしを借りて測っても、大きなずれはないんです。だから、日本人は自分たちがヨーロッパ人に近いように思えるわけです。ところが中国になると全く逆なんですね。

 分散していた国々が集まって、一つの中央集権国家に変わっていくというこの近代化の道を、ヨーロッパタイプの近代化の道と僕は言っています。ヨーロッパタイプの近代化の道に、これには日本も加わっている。

 それまで中央集権であったのが、分散して、あるいは独立して分権化していくような形態、これは中国型の形態です。はっきりとヨーロッパ型の形態と中国型の形態があります。
 こんな当たり前のことを私は40年前から言い続けて、今回の本にもそういうことを書いているんですけれども、まさか私は少数派だとは思っておりませんが、一般の学会ではともかく、一般の市民社会の中では私の話はまだ耳新しい話のはずなんです。皆さんの中でも、学校の高等学校の教科書では、ヨーロッパタイプの近代への道だけしか教えてもらってないはずです。ヨーロッパタイプのほかに中国タイプもあるんですよという教育は、皆さん高等学校や中学校で受けておられないはずです。

 現在の教科書でさえ、ヨーロッパタイプの近代化の道でしかアジアのことを書いてないんですから、まして皆さんが学生だった20年前、30年前、あるいは10年前には、まだそういうことは教えられていないはずなんですね。これは残念なことですけど、事実として認めざるを得ない。

 ですから、私たちはそういう、ヨーロッパ中心主義と言いますけれども、ヨーロッパを目盛りにしたり、あるいはものさしにしたりするような見方を離れて、事実に基づいて歴史を見直してみるということが是非とも必要になります。

 それで中国タイプで見てまいりますと、この軍閥による各省の独立運動はどうだったかというと、あの時期外国の、特にヨーロッパや日本の侵略さえなければ、彼らは一時的にせよ連邦共和国を作ったはずなんです。
 そして、実際にそういう方向に動いていたんです。動いていたんですが、当時イギリスやアメリカ、フランス、ドイツ、日本がこの問題に干渉しました。そして自分たちがそれぞれの軍閥と手を結んで、中国の権益を自分たちのものにしようと軍閥を手先化しようとしました。軍閥も金が欲しいから外国と組んで、自分たちの勢力を強めようと謀りました。

 このようにして、中国が、各列強の支配下に入ることを恐れて、1922年の共産党第二回大会で、「統一」ということを打ち出したんです。軍閥を倒して、統一中央集権国家を作らなければならない、という方針です。

 あの1921年に、毛沢東は湖南共和国運動をやっていたんですよ。1921年に。そして、1922年の共産党第二回大会では、もう軍閥による各省の独立運動は中止しなければならないと。各省はそれぞれ勝手に共和国運動を起こすべきではないと。中央に団結するべきであると。そして、一致して帝国主義と闘うべきであるという方向に転換したわけであります。

 従って、ある意味では、この内戦を経ての1949年の中華人民共和国の成立というのは、人為的な中央集権化であったともいえるんですね。自然の趨勢としては、共和国連邦を目指そうとしていたわけです。

 このような流れとしてみてみれば、軍閥だから封建的だ、あるいは、統一国家を持とうとしなかったから中国人には愛国心が無かったんだという見方は間違っているわけです。
 当時僕らが子どもの頃、散々中国人を馬鹿にしたときには、「あいつらは愛国心ないよ」、「日本軍が来れば日の丸振るよ」、「共産軍(赤軍・紅軍)がくれば赤旗振るよ」、「国民党軍がくれば青天白日旗を振るよ」、「自分たちの愛国心なんてなんにもないよ」、というふうに僕らは教えられていたんですね。
 ところが、実はそうではなかったわけで、彼らが求めていたものは、彼らの省による自立的な連邦共和国であったわけです。


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 以上、歴史の事実の選び方と組み立て方の問題を言いました。それから、ものさしの問題を言いました。もう一つに、歴史というものは、その国その国の色合いを持っている、その国その国に特殊な部分を見なければならないということがあります。

 我々は世界史という形で、あるいはアジアという形で全体を括りますけれども、歴史を見るときには、日本には日本の歴史の持ち味があります。中国には中国の歴史の持ち味があります。それを一緒くたにしてはいけない。その違いをきちんと見分けなければいけない。

 その場合の一つの例として、日本の場合は公の最高の位にあるのは、国家の天皇ですね。公としてこの考え方があります。自分たちが属している地域なり、集団なり、組織なりのトップを大事にする、あるいはその組織そのものを大事にする。そういう考え方ですよね。

 公に尽くすというときには、日本国のために尽くす、あるいは天皇のために尽くす、あるいは、地域社会のために尽くす、あるいは自分の学校に尽くす、自分の郷里に尽くす、自分の会社のために尽くす、これが公のために尽くすということの中身ですよね。
 これは、日本の特徴です。だから、日本の歴史を考える場合には、こういう日本型のスタイルをまず知らなければいけません。

 中国の場合は、公という字の一番最高の原理は天なんですね。天の原理で、それはいわゆる平等というものです。中国人にとっては、国家よりも天の方が位が高いんですね。
 国家のためというよりも天の原理のため。天の原理というのは、平等、公正、正義。天理と言われているものです。

 だから、日本人と非常に違うのは、彼らは原理を大事にする。理というものを大事にする。日本人は理というよりは情を大事にする。
 公をまとめていくには、理よりも情のほうがまとまりやすいんですね。道理とか情とか、みんなが妥協しあって、あんまり一人が気張って言い張るんじゃなくて、適当なところで折れて、お互いが丸く治めていくというのが、一番日本の中で好まれるスタイルなんですね。

 それに対して中国人は、徹底的に白黒を争う、理の世界を大事にするというようなことがありまして、それは言葉で言えば、もしくは天下国家ということでいえば、天下を大事にする国民なんですね。
 で、そういうところからまた中国の歴史を眺めてみると、先ほどの軍閥の時代は、国家を求めていたんではなくて、天下の平安を求めていたのだということがいえるわけです。


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 以上、歴史を見るケースについて35分お話してきました。
 これからまとめに入ります。とりあえず国家を形成する場合の歴史のあり方について、中国に対して日本がどのように中国を見てきたかを簡単に整理してみます。

 まず、日清戦争です。日清戦争のときに、日本は天皇制中央集権国家を早々と作っていました。日本の公意識は、天皇のため、国家のために尽くすということで、みんなが一体化していました。全国が一丸となって戦争に向かっていきました。

 中国はどうでしょうか。
 中国はさっきから申し上げているように、外国と戦う軍隊を持っていない国だったんですね。外国と戦うということを殆ど想定していない、内乱を鎮圧することが軍隊の仕事だったわけです。軍隊は地方のためにあって、地方の反乱を抑圧するための軍隊です。そして、それぞれが各省に分けられていたんですね。省ごとに分けられていた。

 日清戦争のときに日本と戦ったのは、山東省を中心にしていた北洋軍という軍隊なんですね。中国全体の軍隊ではないわけです。山東省の農民暴動などを抑圧するための軍隊が山東省に北洋軍といわれて存在し、その大将は李鴻章という人でしたが、地方の軍隊なわけです。

 ちょうどアヘン戦争がその前に起こりましたけれども、アヘン戦争を戦った軍隊は広東省の軍隊で、これもまた中国の軍全体の軍隊ではなかったんですね。広東省の軍隊に、南洋軍と言いましたけれども、海辺の防御が委託されていたわけです。。地方の軍隊が外敵と戦わされたわけです。日本の場合もそう、日清戦争の場合もそうでした。
 このために日本人は、中国人は全然国家として戦う力を持っていないと考えたのです。日清戦争のときには日本中、北海道から九州の隅々まで、日本が戦争中だということを知らなかった人は一人もいないんですね。

 ところが、日清戦争の最中に、中国内陸部の、例えば貴酬省とか四川省とか、その辺の人たちは日清戦争の事なんか何にも知らない。
 有名な黄海会戦というのがあって、日本が勝利しましたよね。で、そのときにですね、南洋軍の軍艦が北洋軍に貸し出されていたんです。その南洋軍の軍艦も日本海軍に拿捕されて、呉の港に持っていかれちゃった。それに対して南洋軍の総督は、我々はあなた方と戦ったわけじゃないと、たまたまあの船は北洋軍に貸していただけの船だから返していただきたいと言って、要請の電報を打って、国際的な笑い話になっているんですね。つまり、中国人は国家意識が無いと。戦争しているときでも、分裂していて統一がないと。

 さっきから申し上げているように、日清戦争以来このように、事実の組み立て方の問題や、ものさしの問題、国々の特徴を考えないというような状況等が作用しあって、次から次へと中国を馬鹿にする種が生じ、多くの日本人が中国を蔑視し続けてきました。

 ところが歴史の真実はそういうことではなくて、中国には中国タイプの新しい、つまり、王朝を倒して共和制を作っていくという考え方があったのです。
 そして、歴史的に長い間課題であった、土地の国有化を完成させること、これは大変な財産を国家が持ったことになるんですけれど、そういう方向で着々と歴史を進めていて、今気がついてみると、おやおや50年前の中国と随分違うぞと。あるいは70年前、80年前の中国ともっと違うぞと。

 1900年に義和団事件というのがあって、西洋はじめ日本の軍隊が北京に進駐して、皇帝が北京から逃げるという、中国にとっては屈辱の歴史がありました。1900年です。そして2001年に中国は有人宇宙衛星を打ち上げているんですね。

 この100年の間に、100年前に国際的な恥をさらした中国が、2001年には有人人工衛星を飛ばしております。100年の変化がいかに大きいかが分かると思うんです。次の100年はもっと大きな変化が生じる、間違いなくそういうことが言えると思います。

 そうすると、今まで我々が持っていた中国への根拠のない蔑視というのは、もうすでに破綻している上に、現実の中国の変化もこれに追い討ちをかけるように、日本人の中国への間違った見方を早く改めるようにと、要求しているというふうに思います。

 この731部隊の問題も、そういう大きな流れの中で見た場合、小泉純一郎首相は、アメリカにいつまでもくっついているんじゃなくて、今日(2004年7月20日)の朝日新聞の社説にありましたけれども、もっとアジアに目を向けろと。アジア全体に目を向けて、日本国政府はこの問題に真剣に取り組むべきである、ということがいえると思います。
 どうもありがとうございます。                               (了)

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