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原告陳述書

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陳  述  書

控訴人    何   英  珍

1 私は何英珍と申します。1934年生まれで今年70才になります。控訴審の結審に際し、私は原告人の一人として、裁判官の皆様へ被害者の心情を申し上げます。
 1941年当時、私の家は常徳市武陵区にあり、両親の他にすでに結婚した兄や姉が一緒に住んでおり、全部で18人家族でした。父親の何保初は薬屋を経営していました。
 1941年11月、日本軍731部隊が常徳でペスト菌を散布したため、私の家だけでも6人が感染し、18日の間にあいついで命を奪われました。私の可愛い弟もその中の一人です。

2 この病気に感染すると、高熱を発し、意識がなくなり、呼吸困難となって 頚部が腫れ、リンパ液が増加して、間もなく死亡しました。
 当時、私の家では6人が亡くなりましたが、一時にこれほど多くの肉親を失っても、声をあげて泣くことはできませんでした。なぜなら家で死者があったことを人に知られてはならなかったからです。当時の政府はペスト患者を全て隔離し、遺体を野外に運んで火葬しました。私たちは肉親の火葬を恐れ、固く門を閉ざし、時を置いてこっそりと遺体を徳山へと運び埋葬したのです。
 1941年にペストが発生すると、私は学業を続けられなくなり、1943年の日本軍の爆撃により家を失うと、その後の数年間は竹と筵で作った仮小屋での生活を余儀なくされました。そしてそこで商売をして生計を維持するしかありませんでした。

3 本訴訟の原告が訴状で告発したのは、日本軍が中国で実施した細菌戦の犯罪行為です。日本政府は1945年の敗戦後、一貫してこの犯罪行為を隠蔽してきました。極東軍事裁判においても、細菌戦の関係者は審理の対象とはなっていませんし、現在に到っても日本政府は責任を認めていません。中国が国民党政権下また共産党政権下において、日本と締結した“条約”や“声明”が放棄したいかなる戦争賠償請求にも細菌戦の被害者への賠償は含まれておりません。

4 私たち中華民族は心から平和を愛し、中国人民は世界中の人々との平和共存を望んでいます。中国と日本は海を隔てた隣国であり、私たちはより切実に両国人民の平和友好を願っています。しかし、六十数年前、日本は数百万の軍隊を派遣して、中国の領土に侵入し、私たちの同胞を殺害し、家々を破壊し、筆舌に尽くしがたい悲劇をもたらしました。特に日本軍が秘密裏に細菌兵器を使用して、民族を全滅せんとする虐殺を行ったことは、その罪深さと悲惨さにおいて類がなく、中日両国の長きに渡る友好の歴史に暗い影を落としました。

5 中日国交正常化以後、日本政府の官僚は声高に平和友好のスローガンを唱えはするものの、殺戮に満ちた血生臭い歴史に対して、なんら反省を表す誠意もありません。特に“細菌戦訴訟”に関する態度は、依然として横暴であり、法律を軽視して、責任を認めようとはしません。これでは中国及びアジアの民衆の一層強い怒りを招き、被害者の心をさらに踏みにじり、その傷を深めるばかりです。

6 裁判官の皆様、人には誰でも自分の家があり、自分の家族がいます。たとえば皆様の親兄弟や祖父母といった人々が、私たち同様に罪もなく殺害されたなら、皆様はどういうお気持ちになるでしょうか。
 私たち細菌戦の被害者は裁判官の皆様を信頼するがゆえ、国境を越えて貴裁判所において日本政府を提訴することにしたのです。

7 裁判官の皆様が正義を守り、中日両国人民の基本的利益に立ち、法律に則って公正な判決を下されることを望んでおります。
 日本が平和を発展させ、アジア及び世界の人々の信用を得て、中国人の心に蓄積された恨みを解くためにも、日本政府に中国人被害者(原告)への謝罪と賠償を命ずる判決を下すように切望します。
ありがとうございました。