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原告陳述書

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陳  述  書

控訴人    胡   賢  忠

1 尊敬する日本国東京高等裁判所裁判官の諸先生:
 今日、私は、深い悲しみの気持ちを抱いて厳粛な法廷で証言をします。
 私は、細菌戦被害者の胡賢忠です。今年72歳、すでに定年退職しております。私は、中華人民共和国の公民であり、中国浙江省寧波市博文巷10号63室に住んでいます。
  もともと私は家族と寧波市開明街70号(?県唐塔鎮に属する)に住んでいました。父親胡世桂は自分で胡元興骨牌店を経営していました。
私、父親胡世桂、母親胡陳氏、姉胡菊仙、弟胡賢慶等の5人家族はやや裕福に暮らしていました。
私の家は3軒あり、それぞれ一階をお店に、屋上を住宅にしていました。
70号が骨牌の店でしたが、他の68号は河南省の人に賃貸し、河南省の人は復興館という店を開いていました。66号は象山の人に賃貸し、象山の人は滋泉という豆乳店を開いていました。

2 1940年当時、私は数え年で9歳でした。10月27日午後2時過ぎ、突然、空襲警報のサイレンが鳴りました。私は、一緒に遊んでいた仲間と塀の角に隠れました。
赤くて丸い印(日本の国旗)が塗られた飛行機が開明街に飛んできて、私の家の屋根の上空から大量の薄い黄色い霧のようなものを撒いていきました。  それらはざくざくという音がしました。
その後、私の家の屋根、ベランダ、庭に多くの麦、玄米、小麦粉、小さい綿を見つけました。
 30日、隣の66号の滋泉豆乳店の頼福夫婦が発病し、31日にその夫婦は急死しました。彼らの2人の弟は悲しくて声を上げて泣きました。息子さんも「お父さん、お母さん」と泣き叫びました。
 
3 私の父は31日の朝に微熱があり、その後頭が痛くなって吐き気をもよおし、さらにのどが渇いて高熱になりました。
父は、急いで?県中心病院(現寧波第一病院)に送られ、診療を受けました。最初悪性マラリアと診断され、隔離して治療を受けていました。その後、父は隔離医院甲部に移されました。
  11月1日に急死する人が次々と出てきて、近くの6、7世帯からのあちこちの家から泣き声が起こりました。10月31日の夜から11月1日の昼までの間に十人余りの人が死亡しました。
街のあちこちからも悲鳴が聞こえ、道を行く人は皆恐怖と不安で、とても痛ましい状況でした。
  その日の夜、姉の胡菊仙、弟の胡賢慶も頭が痛く、眩暈がして熱が出ました。この恐ろしい病気をさけるため、翌日の朝、母は家族を連れて急いで家義和郷陳婆渡の故郷へ帰りました。

4 ふるさとに帰ると、姉の胡菊仙の顔は真っ赤になり、頭がぼうっとしていました。
母は、姉の体を拭く時、太股の内側のリンパが大きく腫れていたのを見つけました。11月2日、姉は家で死んでしまいました。仕方なく、そこに姉を埋葬しました。
私は、姉が亡くなったとき、悲しくてたまらなく泣き崩れました。
姉はずっと私と一緒に暮らし、小さい頃から私をかわいがってくれて、発病の前にも私の勉強を教えてくれていました。私は、心から愛していた姉が亡くなってしまい、私は心が痛むほど悲しかったです。
   11月6日、弟も、姉のように家で急死しました。弟も簡単な埋葬ですませました。我が家は身も世もなく泣きました。それから私はまた家族がなくなるかと心配して恐怖を覚えました。

5 当時の?県の役所は、厳しい状況に対応するため、防疫関連部門を整えて、全面的な防疫措置をとりました。そのため保長が、姉と弟の埋葬に干渉してきました。母は、近所の人に頼んで、8日の朝、姉と弟の遺体を決められた場所に移しました。
  姉と弟の急死のため、母は、疲労から3日後に病気になりました。母も頭痛と熱が出ました。右脇の下のリンパが大きく腫れてとても熱かったです。8日の午後家に帰ると、母は倒れて少しも動けなくなっていました。捜査隊がまた来たのに気づいた近所の人は、私をその人の家に連れていって隠してくれました。
 捜査隊は、私を見つけられず、母を寧波隔離医院甲部に連れて行きました。
 夜になると、私は、近所の人に姜山頭潘さんの家へ送られ、おじの家に一日隠れました。しかし10日の朝、捜査隊が、姜山頭潘さんの家まで追いかけてきました。
捜査隊が私を連れて行こうとしたので、おじは、心配して私と一緒に隔離医院乙部に行きました。私は、小さな部屋につれていかれました。そこにはすでに2人の男性が泊まっていました。

6 恐怖のあまり生きた心地もしなかったその日々、私は、非常に母のことを心配しました。私は、自分の目でそのときの状況を見ました。開明街のペスト地区の周りは2メートルの高さの塀が作られました。
あまり広くない道路は白い消毒薬の粉末でいっぱいでした。政府当局の関係者はマスクをつけて、白い防疫服を着て、緑色の長靴を履き、絶え間なく殺菌の仕事をしていました。
道路の真ん中に5、6個の棺桶が置いてありました。私は、ペスト地区の悲惨な状況を見て、鳥肌が立つほど恐ろしい思いをしました。
その恐怖で悲惨な場面が私の脳裏に焼き付いて今でも忘れられません。まるで昨日のことのようです。

7 11月21日、私はやっと隔離された状態から抜け出しました。ある人に教えられて、私は、父が既に亡くなり、母も11日に隔離医院でなくなったことが初めて分かりました。
私はその時まだ9歳でした。物心がついたばかりの私は、両親の死を聞いてぶるぶる震えて、涙を流すだけで口も利けなくなりました。
この短い10日間で5人の家族のうち4人が亡くなり、あっという間に私は孤児になってしまいました。
 両親が隔離医院に入院してから、私たちは一度も会うことなく、もちろん別れの話も一言もできませんでした。
9歳の私はこれからどうやって生きていけばいいのでしょう。それまで両親は、私の衣食住や乗り物にまで、至れり尽くせりの配慮をしてくれ、私は生活のことを何も知らなかったです。

8 11月30日、役所は疫病が再び流行することを防ぎ、将来の災いを根絶するため、ペスト地区を丸ごとに焼き払うということを決めました。
ペスト地区にあった私の家は、30日の夜に焼き払われました。私は家に帰るという最後の希望もなくなりました。その後私は、3年間通っていた裴迪小学校を離れて、苦しい少年時代を迎えました。
 私は、隔離医院から出た浮浪児ということで、いっそう差別されました。当時の人々はペストに対して非常に恐怖感をもっていたので、皆は私に会うと疫病神に会ったかのように逃げました。
このようないろいろな場面に遭遇して、私は、ひどくショックを受けました。そして夜が更けて人が寝静まるころになると、街の隅で寝ていた私はしばしば悪夢にうなされるようになりました。
夢の中には隔離医院乙部(永躍電力会社)に住んでいた頃の恐ろしい場面がまた現れました。
隔離されてから、私はいつも両親と会いたくて、しょっちゅう窓口につかまって封鎖されたペスト地区にある家を眺めていました。私は、回復した両親が隔離医院から私を迎え、以前の温かい家に帰るのを夢見ていましたが、現実に見たのはペスト地区から次々と運ばれてきた棺桶でした。

9 夜になるとさらに恐怖を覚えました。特に防疫隊員たちは白い防疫服を着てペスト地区の周辺を見回って、暗い街灯の下に、防疫隊員は伝説の「白い無常」(江南地区で言い伝えられている、人の命を奪いさる鬼の名のこと)のように見え、とても怖いと思いました。
このような悪夢は、少年時代、青年時代の間ずっと私を悩ましていました。

10 中国を侵略した日本軍によって行われたこの世のものとは思えないほどの細菌戦は、我々の寧波に甚だしい災難をもたらし、開明街、東大街の周りを地獄に変えました。
私の一家が分散し肉親を失わせただけではなく、近くの百世帯あまりも被害を受けました。
隣の(開明街64号)王順興大餅店は2人がペストに感染して亡くなり、開明街66号の滋泉豆乳店の頼福生一家は全員死亡し、開明街68号の復興館も2人がペストで亡くなりました。特に東大街に住んでいた10世帯は全員が死亡しました。
  死んでしまった人は、原因も知らないまま苦しんで亡くなり、一方、生存者は皆帰るべき家もなく、一文無しで生まれ故郷を離れて他郷を流浪し、辛うじて生き残るという状態でした。
近所の元泰酒店の店員銭貴法は、ペストに感染しまたが、九死に一生を得て、隔離医院から退院しました。その後の彼は、独りぼっちで家も頼る親戚もなく、貧しい生活を送りました。彼は、中華人民共和国政府が成立してから悲惨な流浪生活は終わり、その後、寧波の酒工場に務めました。
 また開明街88号王徳記家具店の一家5人の家族は、隔離医院を出た後、途中でものもらいをして奉化に行き、葛?村山地に定住したので、寧波に帰ることはありませんでした。
  家族全員が死亡した11世帯のほか、ペスト地区の120あまりの世帯は市街地から逃げ出して他郷を流浪しました。

11 姜山鎮姜山頭村に住んでいて農事をしたおじとおばは、私が食べるところも住む場所もなく、流浪していることを知り、私を彼らの家につれて行きました。私は、そこで牛を放牧する日々を送りました。
親戚が面倒を見てくれたにもかかわらず、家族の悲惨な境遇が幼い私の心にいつも現れ、私のこの苦しみはずっと消えませんでした。
日本軍が寧波を占領したあと、姜山の経済状況も悪くなったため、私は北京に行き、叔父胡世華を頼ることになりました。当時叔父の家の経済状況はまだ良かったのですが、戦争が所々で起き、人々は安心して生活することができなくなり、国の経済は著しく悪化しました。
そのため、叔父の家の経済状態も悪くなり、結局、私は寧波に帰りました。私は、親戚の紹介で開明街にある新華革靴工場で少年工として働きました。その時私はまだ13歳でした。4年間の丁稚の生活は、本当に一日が一年のように長くてつらいものでした。
  抗日戦争が終わりましたが、日本軍から全てを奪い取られた寧波はいまだに不況で、人の生活は苦しい状況でした。
   
12  日本軍が行ったこの残忍非道の細菌戦は、私たち開明街周辺の115個の店舗と137世帯に、家も家族も奪うという災難をもたらしました。
  名前がはっきりわかっている死亡者は112人、財産の損失は数えきれないほど膨大です。その被害状況は本当にむごたらしくて見ていられませんでした。
私は、他の被害者の遺族とともに、裁判所が公正な判決を下し、歴史の真相を明らかにし、人類の正義と平和を実現することを希望します。

以 上