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原告陳述書

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陳  述  書

控訴人    黄   炳  輝

尊敬する日本国東京高等裁判所裁判官の諸先生方:
 
1 私は、中華人民共和国湖南省常徳市武陵大道75号に住む原告の黄炳輝
(男性)です。1945年4月17日生まれで、現在満56歳 になります。被害当時、私はまだ生まれていませんでした。叔母の李芳清(現在78歳)と亡き父の黄金海から細菌戦と被害の事実を聞きました。
 私は被害者黄奕秋、黄元武の弟です。今日は原告代表として法廷に出席し、血まみれの事実を以って日本軍が実施した細菌戦によって我が家および被害を受けた常徳市民に持たらされた災難をあばきます。

2 私の二人の兄は、日本軍の細菌戦によるペストで相次いで死亡しました。
 元々、私の家族は常徳県城小梳子巷に住んでいました。しかし、1938年12月、日本軍が常徳県城を飛行機で爆撃し、我が家は200平方メートルの家2棟とすべての家財(人民幣30万元の価値)を焼失しました。それは酷い爆撃で、日本軍の爆撃から逃れるだけで精一杯だったそうです。
 そのため両親は何も持ち出せずに逃げ出し、姉の黄咏桃(現在66歳)を連れて東門外にある五鋪街の廟内に移りました。そこでまもなく兄の黄奕秋を生み、1940年1月15日に、また兄の黄元武を生みました。
 1941年の10月下旬、日本軍の飛行機が常徳上空に飛来し、布きれや麦などの穀物類を散布していきました。空襲警報を聞いて、また日本軍が爆撃に来たのだと思い、家具の下などに隠れておびえていた常徳市民は、その散布物を皆いぶかしく思ったそうです。
 同年11月、15歳になっていた叔母の李芳清は、ペスト流行の話を耳にしたそうです。初めの頃はネズミが大量に死に、それから市民の中に死者が出るようになりました。伝染病はあっと言う間に広まっていき、常徳市を恐怖に陥れました。叔母はその頃、よく私の両親の住んでいた廟内に遊びに行っていたそうで、当時の記憶があるのです。
 当時、五鋪街地域ではペストの死者が出ていない家は、一軒もないほどでした。人々は、「鼠」と聞けば顔色を変え、次の犠牲者は自分か、或いは自分の家族ではないかと、毎日を不安な気持ちで暮らしていました。子供達は、空から降ってくる麦などには、悪いばい菌がついているから決してさわってはいけない、と言い聞かされていたそうです。
 常徳は悲痛と恐怖に包まれるようになりました。常徳城の城門には関所が設置され、出入りする人にはワクチンの注射が義務づけられました。常徳市民は子供を元気なうちに市外の親戚のところへ避難させたり、感染していない大人は病気の家族をなんとか回復させようと、自分にはワクチンを打って奔走したりしていました。
 しかし、ワクチンで絶対安全が保証されるわけではなく、市外から応援にきた親戚で、注射をされたにも関わらずペストに感染してしまった人もいました。一家全員が次々に感染し、全滅してしまった家族も数多くあったそうです。死と隣り合わせの異常な状況の中で、常徳市民は隠れたり、市外へ逃げ出したりして、にぎやかに栄えていた常徳は死の都市と化しました。
 ペストの流行は15000人以上の命を奪い、その中で現在確認された死亡者数だけでも7000人以上に達しました。

3 そんな中で、年の明けた1942年の3月か4月のある日、2人の兄が突
然発病したのです。彼らは高熱のあまり寒気を感じ、暑がったり寒がったりして苦しみました。嘔吐と血便を繰り返し、首が異様に膨れ上がっていたそうです。その首の膨れは、ペスト菌によるリンパ腺の肥大という腺ペストの症状でしたが、当然ながら当時はそのようなことは思いもよりませんでした。兄達は、口もきけない状態のままで、発病して1週間もたたずに、相次いで亡くなりました。彼らの遺体は真っ黒で、とても悲惨でした。
 その頃、ペストで死んだ人の遺体は、すべて屋外に運んで火葬しなければいけなかったそうです。火葬以外の方法で遺体を埋葬した事が発覚すると、政府に罰金を取られたそうです。
 しかし当時の人々の間では、「生前と同じ身体状態で埋葬しないと、魂が輪廻することができない」という宗教観が受け継がれていましたので、政府の目を隠れてこっそり遺体を運び出し、土葬にする家もたくさんありました。私の家族も兄達の遺体を燃やしてしまうのはしのびなく思い、叔母李芳清の2人の兄(つまり叔父の李仲誠と李元冬、故人)が遺体を木製の箱に入れて、住んでいた廟の向かいにある荒れ地に秘かに埋葬したそうです。

4 この恐怖の記憶は、両親にとって一生忘れられないものです。彼らは生前、
この怖ろしかった時代を思い出すと、いつも苦しみと痛みに包まれたようになっていました。毎回私にその事を話すときは、泣きながら「もし日本軍が細菌戦を実施しなかったら、二人の兄はもう大人になっていたはず…」と言いました。そして、「絶対国の仇、そして我が家の憎しみを忘れないで」と注意してくれました。
 もし日本の侵略者が細菌兵器を使わなかったら、私の二人の兄は人間としての生存権を失う事も無かったはずです。二人の兄が今も生きているならば、どんなに幸せなことでしょう。私はいつもそう思っています。しかし、これは叶わない夢です。
 この苦痛は私と私の家族に生涯伴うことになるでしょう。この苦しい歴史が触れられる度に、私は日本の侵略者に対して歯軋りをすることを禁じ得ません。日本軍国主義者は国際法基準と人道的原則を違反し、細菌兵器を製造し、細菌戦を実施した犯罪行為は、既に世界中の人々が知っています。
 日本軍国主義者は細菌兵器を使って何の罪もない中国国民を虐殺しました。この細菌戦が我が家と他の被害を受けた常徳市民にもたらした災難的な結果は、言語を以って表現することはできません。
 日本侵略者が細菌兵器を使って常徳市民を虐殺した事実は、人間の起こした過ちの中でも最も野蛮で、残酷で、暗黒な歴史の一頁となりました。
 その国民の愚挙に責任を持つべき日本政府は、当時の日本軍の侵略者が細菌戦を以って、我々一般市民を虐殺した暴行に対し、深く反省し、被害者に真心をこめた謝罪と賠償をしていただきたいと、私は真摯に期待しています。これを以って犠牲者の霊を慰め、中国国民を含むアジア各国国民と国際社会の了解と信任を得、歴史的な悲劇が再び出現しないよう努力しましょう。

5 2002年8月27日に東京地方裁判所が下した一審判決では、1941
年11月4日に日本侵略者が細菌戦を実施し常徳一般市民を虐殺したという事実が認められ、日本軍が戦争中に国際法に反する細菌戦を実施したことが認定されました。
 しかし、この判決は日本政府が常徳市民に対して罪を犯したことを認めながら、その犯罪行為によってもたらされた深刻な結果に対する賠償責任は認定していません。これは国際公約に対する蔑視であり、明らかに不公平な判決です。これは日本政府に対する庇護です。
 中日両民族間には、二千年以上の友好交流の歴史があります。この中日関係を長期的・安定的・健康的に発展させることは、日本政府が細菌戦を実施した罪を真摯に反省できるかどうかということにかかっています。被害者の原告に対し謝罪と賠償をすることは、中日関係を更に改善させる大前提です。日本は加害国です。
 日本政府が法律責任を果たすことだけが、被害者の憎しみを解き、人間としての名誉と尊厳を取り戻させる事ができます。しかし、日本政府は現在でも一審判決で認定された事実に対し、認めず・謝罪せず・賠償せずという誤った姿勢をとっています。
 更に、日本政府は追訴時効が過ぎたとまで言い出しました。これは原告と被害を受けた常徳市民の心をひどく傷つけました。私は日本政府のこの姿勢を許せません。正義を実現するために、私はずっと闘い続けます。

6 私が原告代表として遥遥、貴国東京高等裁判所の法廷に出席したのは、正
義を実現し、人間としての権利と尊厳を伸張するためなのです。日本人侵略者は、常徳でペスト菌を撒きました。このことが常徳市民にもたらした被害については、数世代後でも忘れられることは無いでしょう。正義感をもつ良心的な、かつ平和を愛する裁判官であったら、このことについてお分かりでしょう。
 一審では、日本政府が中国被害者に謝罪をすることは判決に入れませんでした。この不公平な判決によって、中国原告側の心は傷つけられました。今、常徳市の労働者・農民・インテリ・青年学生たちは憤激しています。彼らは常徳被害者原告の正義なる訴訟の強い後ろ盾です。
 この荘厳たる法廷上で述べた上記陳述は、すべて私の心の奥底から出た言葉です。裁判官の諸先生方が上記の陳述をしっかり味わっていただきたいと願っております。事実を尊重する精神と国際慣例に従い、裁判官の人格魅力と遠見卓識を以って中国の原告側の勝訴という判決を下すよう、期待しております。こういう判決を下すには良心のほかに、勇気も必要です。
 事実認定を踏まえて、日本政府に謝罪と賠償という責任を果たさせ、法律と細菌戦被害者の尊厳を擁護し、中日両国国民の友好関係を永続的なものにしましょう。この判決を以って日本を国際民主社会の真の成員として受け入れさせましょう。
 もし不公平な判決が出るならば、日本国の利益は損われてしまうでしょう。それも計り知れない損害となることでしょう。

以 上