−第二審のトピックスへ戻る
原告陳述書

>原告陳述書のメニューに戻る


陳  述  書

控訴人    朱   左  峰

1 わたしは、朱左峰と申しまして、今年46歳です。わたしはChina 
Unicom(中国のある携帯電話会社)衢州支社の職員です。自宅は中国浙江省衢州市馬站底15弄5単元401室にあります。妻は王剣英と申しまして、工商銀行衢州支社の職員です。娘の朱茜は16歳で、高校一年生です。
 わたしの母の呉秀芬は本件細菌戦の原告であり、彼女は2000年4月16日に亡くなりました。その後、わたしが母の遺志を継いで、本訴訟を続けることにしました。

2 1942年当時、わたしの祖父(母の父)の呉炳揚の家は暮らし向きが豊か
で、衢県城内美俗坊という街道に店があり、城から十二里離れたところの柯山郷石室村には田圃がありました。祖父は二人の嫁をもらいました。正室は徐氏で、わたしの祖母は側室です。
 1940年10月4日、日本軍は衢県の上空からペスト菌を投下し、衢県でペストを流行させました。あらかじめ予防措置も取っておきましたので、局地的にコントロールできました。
 1942年8月20日に、日本軍の細菌戦を行った主要犯罪者の石井四郎が衢州に到達しました。彼は「浙?(浙江省と江西省)戦役」から撤退する時に、沿線で人工的に直接、ペストなど猛烈な伝染病を撒き散らすことを計画しました。
 日本軍は衢州を占領した時、千名近くの日本軍の兵士が城から10キロ離れている石室郷に駐在していました。彼らは民宅を強制的に占領したり、木々を切り倒したり、村民を捕まえ塹壕を掘らせたりしました。さらに、村民の家の食卓を切って、日本軍の食事習慣に合わせました。
 8月31日に、衢州を侵略する日本軍は撤退しました。九月の初め頃、衢県など周辺の五つの県の都会と田舎で、ペスト、コレラ、チフスなどの伝染病が発生しました。

3 1942年旧暦11月上旬、祖父は彼の母の呉毛氏を城内美俗坊から、城から
10キロ離れている石室郷の村に送り、そこで春節を迎えるつもりでいました。しかし、石室郷に来てから何日も経たず、79歳の呉毛氏は高熱を出し、倒れてしまいました。彼は旧暦の11月12日に亡くなりました。
 相次いで、11月16日に、呉毛氏に仕えていた祖父呉炳揚も高熱を出し、熱く感じたり、冷たく感じたりして、病死しました。59歳でした。11月18日に、祖父の正室だった59歳の徐氏も亡くなりました。わずか一週間の間に、祖父の家ではペストで三人も死なせてしまいました。

4 呉家はその時から落ちぶれてきました。わたしの母呉秀芬はまだ11歳で、
学業の中断を余儀なくされました。衣食の心配をした事のないお嬢さんから年少労働者へと身をやつし、祖母と二人きりで頼りあって、つらい歳月を過ごしました。
 祖父の近隣の凌金海のおばあさん、75歳の呉氏、38歳の母親の張氏、二人の妹である5歳の凌秀蓮と3歳の凌小妹も同時にペストによって、死んでしまいました。
 当時、村では泣き声があちこちから聞こえ、死人も絶えず出てきました。金持ちは墓を掘って死者を葬りますが、金のない人は乱雑に埋めます。
 付近の山には、当時の墓がまだ残っていて、人々の日本軍に対する恨みを呼び起こします。

5 母がまだ生きていた時には、その頃のことを言い及ぼすたびに、いつも泣
きたくても、涙がすでになくなったように、悲しみのあまり死を願うほどでした。この恨みはずっと母の心の底にあり、母が最期を迎えた時にも、まだ日本政府からの謝罪と賠償がかなわなかったのです。
 母はずっとわたしが彼女の代わりに公正を求めることを願っていました。
 わたしは息子として、最後まで頑張り、60年前の日本軍の罪悪を控訴して、天にまします母の霊を慰めるつもりです。

以 上