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原告陳述書

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陳  述  書

控訴人    周   福  菊

1 私は、中華人民共和国浙江省義烏市徐江鎮塔下洲村に住む原告の周福菊(女性)です。1936年8月26日生まれで、現在満68歳になります。

2 1942年冬、ペストは祟山村から私たちの塔下洲村に伝播し、ものすごい勢いで蔓延したのです。一ヶ月以内に103人の村人が死にました。私の家は4世帯が同居した14人の大家族でしたが、12人がペストで死亡しました。このため、私の世帯以外の3世帯が死に絶えてしまいました。父の周昌潮と私しか生き残りませんでした。
 当時私は満6歳でしたが、二つのことを今でもよく覚えています。一つは従姉の劉彩華の死でした。彼女は祖母と一緒に住んでいました。彼女がペスト感染後、他の家族に伝染しないように、サトウキビ畑に運ばれました。昼には食物などを届ける人がいましたが、夜にはいません。ある夜中、従姉がドアを叩く声が聞こえました。「おばさん、私は喉が非常に渇きました。お水をお願いします。」と従姉が言いました。母は「先に帰ってて、明日持って行ってあげる。」と答えました。しかし、従姉は「もう帰れません。はってきたのです。お水がないと、玄関で死んでしまいますよ。」と言いました。可哀想だと母は思って、起きて従姉を家の中に入れて、お水を飲ませました。その後、かまどの当りに寝させました。翌朝、私たちが起きてみると、従姉は既に死んでいました。
 もう一つは母の王小妹の死でした。従姉が死亡して数日後、母は高熱を出しました。翌日の午後、母を支えて彼女の叔母の家まで行きました。母のリンパ節が腫れたので、お酒とニンニクを塗ってもらいました。私は母と同じベッドで寝ました。夜中に、母に起こされて、喉が非常に渇いたので、お水を頂戴と言われました。母にお水を飲ませてから、私は寝つきました。翌朝、私は目が覚めて、母を起こそうとしたのですが、母は動きませんでした。母は死んでいたのです。それで私は号泣しました。私は母と同じベッドで寝ていたのに、ペストに感染しなかったので、「好運だ」と村人に言われ、「宝の宝の娘」と呼ばれるようになりました。
  短期間の間に、私の家族は12人もペストにかかって、次々と死んでいったのです。私は恐怖を非常に感じました。祖母と母が生きている時は私を可愛がってくれましたが、亡くなった後はもう可愛がってくれる人がいません。食べ物と服の面倒を見てくれる人もいなくなりました。冬になっても履く靴もなく、足にひどいしもやけができ、傷口が開き、夜になっても痛くて寝付きませんでした。私は6歳から、一日学校に行ったこともないし、生活のために農作業をやらなければなりませんでした。これも日本軍が行った細菌戦が原因なのです。

3 一審の判決で初めて細菌戦の事実が認定されました。この点について、正義と公平にかなっていると村人は皆思っています。
 しかし、日本政府は今でも細菌戦の事実を認めていませんし、被害者に謝罪と賠償もしていません。
日本政府は非人道的な細菌戦の歴史事実を正式に認め、被害者に謝罪をするべきです。さらに細菌戦による被害に対して賠償を行うべきです。