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原告意見陳述書

[常徳]

何英珍

李錫林


[浙江省]


王選

馮雪娜

楼謀謂




何英珍

 私は何英珍です。今年68歳で、中国・常徳市武陵区に住んでいます。1941年11月4日に日本軍軍機が常徳にペスト菌を撒布し、急性伝染病ペストの大流行を引き起こしました。この災難で18日間のうちに私の家族の6人の命が奪われてしまいました。
 私の家族ではじめにペスト菌で殺害されたのは、当時もうすぐ30歳になる義理の姉熊喜仔で、その次に亡くなったのは二番目の義理の兄の朱根保です。義兄は義姉が死んで3日後に干し唐辛子の袋を背負って階段を上がろうとしたときに倒れました。義兄の症状は義姉の身体に出た症状と全く同じで、高熱、昏迷、呼吸困難、首が腫れ、まもなく全身に紫の斑点が現れて、その夜死んでしまいました。
 昔繁華だった常徳市は死の恐怖に覆われて人影もなくなり、死の街になってしまいました。
 政府はペストに罹って死亡した人を西の城門の千仏寺に運んで火葬することを強制しました。その当時、人々には「完屍」といって死体を完全な形で保存しないと輪回転生できないという文化的考え方が根強かったため、火葬をたいへん恐れました。それで普通の家族に死者が出れば深夜にこっそりと埋葬するほかありませんでした。うちの家の場合でも、警察と近所の目を避けて小さな船を借り、家の後ろの川から義姉と義兄の死体を向こう岸の徳山に運び土葬したのでした。
当時、防疫のために、常徳市の東西南北すべてに検問所を設け出入りする人々に予防注射をしました。父と兄はその予防注射を受けたので災難から逃れ生き残ることができました。でも2人の可愛いこども、私の弟何毛と甥の何桃仙は、予防注射を受けなかったために、ペストに命を奪われてしまいました。
 父は、災難を避けるために、私と他の子供を祖母の所へ送りました。父は家に残って何とかして僅かな家財を守ろうとしました。そして江西省の原籍地へ帰っていた伯父・叔父に手紙を書き、我が家が不幸なことになっていることを知らせました。伯父の何洪発、叔父何洪源は大急ぎで常徳に戻ってきましたが、彼らも同じ病気に罹って亡くなってしまいました。
 18日間のうちに6人の肉親を失ってしまったことで、家族はみな死にたくなるほど悲しい思いをしました。
 6人もの命が犠牲になっても我が家の災厄は終わりませんでした。しばらくして、日本軍の軍用機が再び常徳に飛来して、無差別に空爆をしました。我が家は全部焼失し、兄も重傷を負いました。重傷を負った兄は、1943年に亡くなりました。父もまた、1949年に過労のため亡くなりました。私たちの幸福な大家族は、このように日本「鬼子」に破壊されてしまいました。私の家族の代々は、日本の侵略者を心底憎んできました。一日も早くその仇を討ち、恨みをはらすことができる日が訪れることを待ち望んでいます。
 私は、1997年8月11日、死者のために正義を主張していこうと誓って、常徳の被害者の代表として訴状を持ち、東京に来て日本政府に裁判で訴えました。しかし、5年の審理を終えて、東京地方裁判所はでたらめな一審判決を出しました。細菌戦の事実を認めた一方で、被害者への謝罪と賠償を認めませんでした。
 これまで常徳市の被害調査委員会は、常徳各地の被害調査を行ってきました。聶莉莉先生も日本から常徳市に来られて被害者の話を聞いたり事実の調査をしてこられ、被害の事実がさらに明らかになりました。それにもかかわらず、どうして裁判所は、こうした事実を認めながら、法律では退けるのでしょうか。
 私たち原告は、この判決を受忍することは到底できません。「殺人には命をもって償い、負債にはお金を返す」というのはどの庶民にも理解できる道理ですが、一審判決は法律と道理に違反するものです。私たちは、法律は公平で、悪を懲罰し、善を守るものであると思っています。
 日中友好30年と言われておりますが、まったく友好は実現されていません。日中の真の友好の実現のために、裁判所は、細菌戦の事実を認めて日本政府の法的責任を認めるべきだと思います。これは裁判所にしかできないことなのです。
 私たちは、東京高等裁判所に控訴することによって、二審の裁判官が法律の公平の精神と歴史の事実に基づいて一審の錯誤を正し、私たち被害者に正義の判決を下すことを心から願っています。

   2003年5月20日


李錫林

 尊敬する裁判官の皆さん、
 私は、李錫林です。中国湖南省常徳市共城区許家橋ウイグル族郷民族村の村民です。私は1950年7月17日に生まれましたが、日本軍の731部隊による細菌戦争で無辜に殺害された被害者の遺族です。本訴訟の180名の中国人原告の一人です。
 私の故郷の許家橋は常徳市の市街からほんの10キロ程の所にあり、ウイグル少数民族が集中する所です。
 私の父李少清は、生前、次のように語ってくれました。
 李家の親戚に、丁家坪に住む李先密という人がいて、常徳市街で牛を販売する商売をしていましたが、1942年6月に、当時常徳で流行したペストに感染し、家に帰って間もなく亡くなりました。
 彼の娘の李光英もペストに感染し死んでしまいました。祖母(父の母)の任艘妹は、彼がどのような病気で亡くなったのか知らなかったので、葬儀に行って手伝いをしました。そのときペストに感染し、家に帰った後7月2日に発病しました。その症状は李先密と同様、高熱が出て痙攣をおこし、頭痛が激しく、7月6日には首のリンパが腫れて死んでしまいました。当時51歳でした。
 家族全員悲嘆に暮れ、中でも私の祖父は特に嘆き悲しみました。また、祖父は貧しくて祖母を埋葬するお金もありませんでした。
 仕方なく、祖父は親友に籾を2石借り、それをお金に替えて祖母の葬儀をしました。
 常徳でペストに感染した李先密が田舎に帰ったことによって、許家橋ではペストは爆発的に流行し始めました。付近の中堰、砲馬、薬王渓、永寺山などの村にも広がりました。村々では毎日人が死にました。一日に数十人の死者がでたこともありました。
 7月から10月まで、次々と117人の病死者がでました。死んだ人の症状はいずれも祖母の任艘妹と同じでした。
 ペストの恐怖が人々の心を覆い、村中が荒涼とした雰囲気になりました。後に、それが日本軍の戦闘機が撒布した細菌による災難であったという噂が流れてきました。
 このようなことがあったため、私の両親が生前日本侵略軍の話をする時はいつも、切歯扼腕して怒りをあらわにしながら子供らに教えるのでした。「国家と家の恥辱を忘れてはいけない、チャンスがあれば必ず日本侵略者に対して歴史の血の債務を清算せよ」と言い含めたのでした。 
 本日、私は中国人被害者原告の代表として、この公正を象徴する法廷において、日本軍731部隊の犯罪事実を訴え、法律という武器を利用し、歴史の正義を求めてやみません。日本軍の犯した大きな罪悪をひとつずつ数え上げて償いをさせ、中国民族の尊厳を守り、細菌戦争で殺害された無辜者の霊魂を慰めたいと思います。
 周知のように、細菌兵器はすでに1925年のジュネーブ条約によって禁止されています。今日に至っても、生物化学兵器の使用は国際法に違反する犯罪行為です。イラクに対する大量破壊兵器査察を行い、そして武力攻撃の懲罰を加えることに、日本政府も明確に支持の態度を表明しています。すなわち、中国の細菌戦被害者が確固たる事実を以って加害者である日本政府を控訴し、謝罪と賠償を求めることは完全に正当なことで、条理にも法律にも適うと思われます。
 2002年の8月27日の東京地方裁判所における一審判決は、極めて不公正なものであると思います。この判決は、日本軍が国家の命令で中国に対する細菌戦争を実施し、国際条約に違反した事を認定しました。そして、中国原告側の陳述した被害事実を認めました。この点については、裁判官の判断は賢明なものであったと思います。
 しかし、私たちの謝罪と賠償の請求を棄却したことは、裁判所が被告側に肩入れをしていることをはっきりと示しました。世の中に、自分の犯行を認めながら、何の責任も負わないで許される犯罪者がどこにいるのですか。このような理不尽な法律論がまかり通るはずがありません。
 1972年に中日国交正常化するとき、中国政府は日本に対する戦争賠償を放棄することを明確に表示しました。しかし、それは国家間の問題で、私たちの細菌戦被害者個人とは、まったく関係がありません。個人と国家は全く異なる法律主体です。また、1972年7月に、731細菌戦部隊の犯罪事実はまだ十分に摘発されていなかったため、中日共同声明を細菌戦賠償を含めたものであると解釈することは到底無理です。すなわち、日中共同声明は、本件とは全く関係がありません。
 私は、中国原告の代表として、ここで再び重ねて言明します。日本軍731部隊が中国で細菌戦を実施し、中国人民を虐殺した歴史的事実を含め、戦争責任をきちんと引き受けて、中国の被害者に謝罪と賠償をすることを日本政府に求めます。東京高等裁判所は、司法独立の原則を堅持し、裁判官にあるべき正義と良心を保持し、小泉政権による悪影響を乗り越え、中日人民の代々友好のために、本裁判において公正な判決を下してください。被害者に謝罪することと、一人一人の被害者に1000万円の賠償金を支払うことを被告に命じてください。
 最後に、この訴訟に関心を持っている世界各国のメディアには、この裁判における勝訴の結果を、世界中の平和を愛している人々に対し、朗報として広く報道して頂きたいと思っています。  

  2003年5月20日


王選

1、はじめに自己紹介させていただきます。私は、731細菌戦裁判原告団の代表を務めている王選と申します。私は、10年余前に最初留学生として日本に来ましたが、現在は兵庫県の姫路市に住んでいます。日本軍の中国侵略のころ、私の父方の叔父は浙江省崇山村に住んでいましたが、日本軍が行った細菌戦によってペストに感染し殺されました。

2、私たちが提訴した細菌戦裁判は、昨年の一審判決から9ヶ月たって、本日、控訴審の第1回目の裁判を迎えました。
 私たちは、提訴を決意をしてから8年間、提訴から6年間、細菌戦裁判をたたかってきました。これからは控訴審の裁判所で、これまで同様に細菌戦という重大な戦争犯罪の責任を徹底的に追及していきます。
 この意味で、本日の控訴審第1回の裁判は、私たちにとって、新たな闘いの始まりだと考えています。
 私たちは、日本の弁護団および友人たちと固く連帯し、細菌戦裁判闘争を最後まで闘い続ける決意です。

3、一審の裁判官は、旧日本軍が1940年から42年にかけて中国で細菌戦を実行した事実および細菌戦によって中国の人々が甚大な被害を受けた事実を認定しました。さらに、一審の裁判官は、日本が細菌戦について法的に国家責任を負うことも認定しました。
 このような一審裁判所の判断は、日本軍が犯した人類史上初の本格的な細菌戦という事実とその意味を確定させ、日本と世界の歴史の中に書き記しました。
 わが中国では、一審裁判所の認定は、細菌戦問題に関する一歩の前進として、高く評価されています。

4、しかし、一審の判決は、法律論で重大な誤りを犯しました。一方で日中共同声明によって国家責任は決着したと言い、他方でそもそも「謝罪と賠償」について細菌戦被害者の個人請求権は認められないとして、細菌戦被害者らに対する日本の責任を否定しました。
 細菌戦犯罪の悪質さ、被害者の苦痛の激しさと犯罪者の安寧が対照的であるこの判決結果は、世界の人々の目には日本という国の姿が不正義そのものとして映し出されています。
 細菌戦は決して許されるべき罪ではありません。この犯罪を犯した者にはその責任から逃れることを許す法律や論理も、道徳や条理も存在しません。
 この犯罪が責任を免かれるとすれば、それは文明への裏切りであり、人道に逆らう新たな犯罪となるものであります。

5、日本政府が、細菌戦の責任問題について、被害者たちが受け入れられるような正当な解決をすることができるならば、日本はこの罪から救われます。
 日本は、細菌戦被害者たちの尊厳を回復することによって、細菌戦を犯して自ら汚した名誉を回復することができます。
 日本は、細菌戦被害者たちの権利を取り戻すことによって、細菌戦犯罪によって失った信頼を取り戻すことができます。

6、控訴審の裁判官たちは勇気をもって法律論によって謝罪と賠償を日本政府が行うよう判決して下さい。
 また控訴人たちは、日本政府側と引き続き、細菌戦の戦争責任問題の解決について、対話を求めます。そのために全力を尽くすつもりです。
 日本政府に細菌戦被害の戦争責任をとらせるために、多くの日本の人々が努力して来ました。彼らは、日本の戦争責任問題は日本自身の力で解決するしかないという信念で、奮闘しています。
 この控訴審の結果が、日本の人々の力によって、人間の尊厳をとりもどし、正義の裁きとして行われ、平和の誓願の証明として、日本の歴史、又世界の歴史に刻印されることを、心から祈っております。

王  選
2003年5月20日


馮雪娜

尊敬する裁判官 殿
1 私は、馮雪娜と申します。この裁判で、原告馮南寿の娘として控訴人になっています。退職した元工場労働者で、現在49歳です。

2 父親の馮南寿は、提訴して以来、毎日毎日判決を下すことを待ち望んでいました。しかし、2001年5月、第一審判決を待ちのぞみながら、心残りにしてこの世を去って逝きました。
 85歳の父親は、臨終の際、私に、父親の代わりに、この訴訟を引き続けてほしいと頼みました。今日、私がこの法廷に立って陳述することを、父親の魂は喜んで安心し、私を守ってくれると思います。

3 私の祖父周毛毛、祖母周馮氏、叔母周妹妹の3人は、旧日本軍が投下したペスト菌でむごたらしく死にました。父親がまだ生きていたとき,私に次のように語りました。
 1940年頃、我が家族は衢州市内の水亭街に住んでいて、一つの鍜治屋をやっていました。1940年10月4日、旧日本軍の飛行機は町の上空を旋回しました。投下したものは爆弾でなく、大量の蚤が付着した麦、大豆、破れた布、綿等でした。
 数日後、県西街と水亭街の辺りで疫病によって死者が出始めました。当時の中国国民政府はペストだと分かった後、防疫のため、家を封鎖し、人々を隔離しました。
 しかし、私の祖父、祖母、叔母3人は、悪魔のペストから逃げられませんでした。1940年12月8日の日、3人はペストで死亡しました。死んだ頃の場面は見るも惨めなありさまでした。

4 中日両国の友好関係は代々続けていかなければなりません。
 しかし、日本政府は、細菌戦について全く謝罪もしないし、賠償もしないという態度を続けています。これは、中日友好に悪影響をもたらします。我が家族は、裁判に勝つまで息子と孫も後継者としてこの訴訟を代々続けて行きます。
 昨日、東京地方裁判所の遺棄毒ガス被害事件の判決公判に参加しました。日本の裁判官が、中国人被害者のために正義を守ってくれたことに大変感動しました。
 謝罪と賠償により、第2次世界大戦中に旧日本軍に殺された細菌戦被害者の魂が安らかに眠れるだろうと信じています。

以 上

   2003年9月30日


楼謀謂

敬する裁判官 殿

1 私は名前を楼謀謂と申します。1939年5月4日に浙江省義烏市橋東村に生まれ、現在、その村民で、元小学校教員です。

2 明日は私の祖国―中華人民共和国建国54周年の記念日であります。
 本日、私は、中華人民共和国の一国民として、東京高等裁判所の法廷に立つことができて、喜びが半分、心配が半分という気持ちで、胸が一杯であります。その「喜び」といいますのは、第1審裁判所である東京地方裁判所で、日本政府が細菌戦実施の国家責任を担うべきであるということが認定されたということであります。またその「心配」とは、貴庁が我々細菌戦被害者の訴訟要求を支持していただけるかどうか、細菌戦によって亡くなった我が家の8人の亡霊が安らかに眠れるかどうかということであります。

3 私の上の伯母である呉荷鳳が、生前に私に話してくれました。
 私の母方の祖母の家は義烏城内の北門街荷花芯にありましたが、我が家がある橋東村より僅か1キロ離れていました。私の母である孟彩鳳はよく実家に戻っていました。
 1941年末当時、義烏の北門街あたりではペストが流行していたため、私の母は感染してしまいました。そしてその後、他の家族に伝染しました。
 私の一番上の伯父・楼柾栄が、1941年12月24日(中国の旧暦)にペストで死亡しました。当時42才でした。上から二番目の伯父の長女である楼宝翠は、当時僅か10歳でしたが、その年の12月26日に死亡してしまいました。
 一番上の伯父の娘の楼金珠は、まだ6歳でしたが、12月27日に死亡しました。そして私の母孟彩鳳は、その年の12月29日に死亡し、当時25歳でした。その日は丁度、1942年の旧正月の大晦日でした。
 私の父楼柾富は旧暦の42年1月1日(旧正月)に死亡し、32歳でした。私の祖父・楼袤永は父と同じ日に死亡しました。62歳でした。
 私の祖母・呉金玉は、旧暦の42年1月2日(旧正月の二日)死亡し、60歳でした。私の上から二番目の伯父である楼孫華は、旧暦の42年1月8日(旧正月の八日)に死亡し、当時36歳でした。
 半月間にならないうちに我が家の8人がペストで死亡し、埋葬することも出来ませんでした。私は当時、まだ3歳でした。私は2人の従兄弟に背負われて家から逃げ出し、荒れた野原で過ごしました。

4 その後、1941年末の義烏のペストは、浙江省の衢県より伝わったものであることが分かりました。義烏出身の鉄道労働者である?冠明が、1941年9月2日にペストに感染し、5日に医者に診てもらうために列車で義烏へ帰ってきて、6日に義烏の北門街5号で死亡したのです。その後、義烏の北門と東門あたりでペストは相次いで流行しました。

5 すでに当時から60年の歳月が過ぎておりますが、孤児の私も老人になりました。しかし日本軍の細菌戦の罪は未だ決算されず、日本政府も謝罪と賠償をしていない現状であります。それゆえ日本が再びこのような罪を犯す可能性は十分あるのであります。このことは良心を有している全ての人々には絶対に許すことができないことであります。
 中国人民は、過酷な歴史を決して忘れません。
 裁判官が正しい歴史の審判を下されるよう心から望みます。

以上

   2003年9月30日