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[控訴人側] 第七準備書面
2002年(ネ)第4815号謝罪及び損害賠償請求控訴事件
控訴人(一審原告) 程 秀 芝  外179名
被控訴人(一審被告) 日 本 国
第7準備書面
2005年3月22日
東京高等裁判所第2民事部 御中
控訴人ら訴訟代理人
弁護士   土    屋   公    献
同     一    瀬   敬  一  郎
同     鬼    束   忠    則
同     西    村   正    治
同     千    田        賢
同     椎    野   秀    之
同     萱    野   一    樹
同     多    田   敏    明
同     池    田   利    子
同     丸    井   英    弘
同     荻    野        淳
同     山    本   健    一

目 次

第1部 本件細菌戦による不法行為と損害賠償責任
  第1章 本件細菌戦の加害行為の残虐性、深刻性
    第1 731細菌戦部隊
    第2 原判決の「細菌戦事実及び国家責任」の認定と控訴審での事実調べ
    第3 控訴審で明らかにされた事実―常徳の場合
    第4 控訴審で明らかにされた事実―寧波の場合
    第5 控訴審で明らかにされた事実―衢州の場合
    第6 本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について
  第2章 請求権問題、「日中共同声明等による解決」論について
    第1 原判決および被控訴人国の追加主張の誤り
    第2 日中共同声明の文言から、国民個人の賠償請求権を放棄していないこと
    第3 日中国交正常化交渉における賠償請求権問題
    第4 日華条約によっては賠償請求権は放棄されていない
    第5 中華人民共和国の発足と蒋介石らの台湾逃亡の歴史的意義
    第6 日華条約の前提にするサンフランシスコ条約について
    第7 戦争被害の実態に応じた賠償は全くなされていない
    第8 国家が国民個人の損害賠償請求権を放棄することはできない
    第9 被控訴人国の従前の主張(外交保護権の放棄)との食い違い
    第10 中国政府は、個人の被害賠償まで放棄したと認識していないこと
    第11 最近の戦後補償をめぐる裁判所の判断
    第12 結語
  第3章 ハーグ条約および国際人道法に基づく謝罪及び損害賠償請求権
    第1 はじめに
    第2 原判決について
    第3 ハーグ条約3条の解釈
    第4 国際人道法違反の被害者の損害賠償請求権
    第5 二国間協定と個人請求権の関係
    第6 国際人道法違反の被害者が救済を受ける権利
    第7 結び
  第4章 国際慣習法の過去の不法行為についての加害国に対する個人請求権に基づく謝罪及び損害賠償請求権
  第5章 中国民法にもとづく謝罪及び損害賠償請求
    第1 法例第11条1項が適用されないとの認定をした原判決の誤り
    第2 法例11条1項に基づく準拠法の決定
    第3 法例11条2項の適用はない
    第4 法例11条3項の適用はない
    第5 中国民法の規定とその適用関係
  第6章 「国家無答責の法理」は、本件細菌戦には適用されない
    第1 「国家無答責の法理」の確立は認められない
    第2 本件細菌戦は、国際慣習法に違反した違法行為であり、「適法な公権力行使権限」に基づかず「国家無答責の法理」は適用されない
    第3 本件細菌戦は非権力的な公法上の行為(事業活動)なので、「国家無答責の法理」は適用されない
    第4 「国家無答責の法理」は外国での外国人に対する権力作用には適用されない
    第5 ハーグ条約の国内法化によって「国家無答責の法理」は排除され適用されない。
    第6 「国家無答責の法理」は一法解釈にすぎず、現在の法解釈に基づき裁判すべき
    第7 まとめ
  第7章 時効・除斥の不適用
    第1 時効は未だ完成していない
    第2 本件細菌戦において時効・除斥期間の適用を制限すべきである
    第3 除斥期間を適用しない近時の判例
    第4 まとめ
  第8章 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求
    第1 原判決は社会的正義に反する
    第2 条理の法源性
    第3 条理に基づく補償請求について
    第4 本件における条理の存在
    第5 条理に基づいた裁判例
第2部 戦後の不法行為と損害賠償責任
  第1章 被控訴人国による細菌戦の隠蔽及び行政不作為、立法不作為の事実
    第1 被控訴人国の国家意志による証拠隠滅と隠蔽行為の継続
    第2 被控訴人国による敗戦前後の証拠隠滅
    第3 連合国の占領下における被控訴人国の隠蔽工作
    第4 1980年代の被控訴人国の隠蔽行為
    第5 1990年代の被控訴人国の隠蔽
  第2章 立法不作為による謝罪及び損害賠償請求
    第1 問題の所在
    第2 ハーグ条約第3条に基づく被控訴人国の国家責任の成立とその性質論
    第3 ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権と日中共同声明における「賠償請求の放棄」について
    第4 ハーグ条約第3条に基づく個人の損害賠償請求権と日中共同声明
    第5 ハーグ条約第3条に基づく中国の損害賠償請求権と日中共同声明
    第6 被控訴人国には被害者個人に対して立法上の救済義務が発生する
    第7 立法義務の不履行による立法不作為の成立
    第8 結論
  第3章 行政不作為による事実調査・救済義務違反の不法行為
    第1 問題の所在
    第2 作為義務の発生要件
    第3 本件細菌戦における被控訴人国内閣の事実調査・救済義務の不作為
    第4 本件細菌戦の被害発生と被控訴人国の作為義務の成立
    第5 公務員の職務上の義務規定のない本件細菌戦被害救済義務と条理に基づく作為義務の成立
    第6 結語
  第4章 隠蔽による不法行為
    第1 問題の所在について
    第2 国家無答責論の破綻
    第3 控訴人らは,被控訴人国に対する損害賠償・補償請求権を有する。
    第4 本件隠蔽による権利行使妨害の重大性
    第5 被控訴人国による隠蔽という作為は、控訴人らに重大な精神的損害を与えているものであり,それらの隠蔽行為は、控訴人らに対する新たな加害行為をなす。
    第6 結語
第3部 控訴人らの請求
    第1 謝罪請求
    第2 損害賠償請求
    第3 結語

第1部 本件細菌戦による不法行為と損害賠償責任

第1章 本件細菌戦の加害行為の残虐性、深刻性

第1 731部隊による本件細菌戦

 1 原判決は、本件加害行為を行った731部隊について、「同部隊は、昭和13年(1938年)ころ以降中国東北部の ハルビン郊外の平房に広大な施設を建設してここに本部を置き,最盛期には他に支部を有していた。同部隊の主たる目的は, 細菌兵器の研究,開発,製造であり,これらは平房の本部で行われていた。また,中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に 送り込まれ,同部隊の細菌兵器の研究,開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。」と認定した。
 本件加害行為の国際法違反について検討する意味でも、731部隊の設立及び活動内容について確認していきたい。

 2 日本は、1931年9月、自ら南満州鉄道を爆破した柳条湖事件からい わゆる満州事変を起こし、敗戦まで中国侵略戦争を続けた。この14年間の中国侵略の中で、日本軍は、国際法を無視して細菌戦を研究し、実戦で細菌兵器を使用した。
 これより先、日本は、日清戦争で中国から台湾等を割譲させ、日露戦争で租借地関東州(旅順・大連など)と南満州鉄道を獲得、以降、関東軍を使って中国東北地方における日本の権益の確保・拡大をめざしていた。柳条湖事件後まもなく、関東軍は、中国東北(旧満州)のほぼ全土を占領し、翌32年3月には、日本の傀儡国家「満州国」が建国された。
 その後日本は、中国の華北の一部を当時の中国国民政府(国民党政権)の支配から切り離そうとする「華北分離工作」を続け、37年7月、ついに北京近郊で中国軍との武力衝突を引き起こし(盧溝橋事件)、日中両国は全面戦争に突入した。ただちに日本軍は、華北では北京・天津を占領したのち鉄道線沿いに南下して諸都市を占領し、華中では8月に上海に上陸してこれを占領した。さらに12月には首都南京を陥落させ、このとき南京大虐殺事件を起こした。翌38年には5月に徐州を、10月には武漢をそれぞれ占領した。しかしこれ以降、中国は新たに重慶を首都とし、侵略に対する抵抗・反撃を強め、日中両軍は対峙段階に入った。1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃とマレー半島上陸を行い、日中戦争はアジア太平洋戦争に発展した。これ以降も敗戦まで、日本は中国大陸に100万人規模の軍隊を配置して侵略戦争を継続したが、中国の抵抗は強く、ついに1945年8月、日本軍は中国に降伏した。
以下、日本軍における細菌戦部隊の創設の経過について、詳述する。

3 まず「満州国」が建国された32年、東京の陸軍軍医学校に防疫研究室 がつくられた。翌33年、中国東北の黒龍江省5常県背陰河に防疫班(東郷部隊)が設置された。東郷部隊は、一時東京に戻ったのち、中国東北の込櫛篋市南崗に移転した。36年4月、関東軍参謀長板垣征四郎は、陸軍次官梅津美治郎あてに「細菌戦準備の為」の「関東軍防疫部」の新設を要求、その結果、同年8月、東郷部隊は「関東軍防疫部」として天皇の軍令にもとづく正規の部隊となり、ハルビン市南東24キロの平房に施設の建設を開始した(甲3の11頁)。
 右の部隊は、表看板としては軍隊における「防疫」や「給水」、すなわち伝染病の予防と浄水の供給を掲げていたが、実態は、細菌兵器の開発と実用化をめざす秘密機関だった。戦線が拡大するにつれ、兵員の消耗や物資の不足が深刻となり、とりわけ兵器の近代化の遅れが顕著になると、細菌兵器は、安価に製造でき、かつ敵国に無差別な大量被害を与えることができるとして重視されたのである。

4 1936年秋、関東軍防疫部のために囲い込まれたハルビン郊外平房の 6平方キロメートルにわたる地域で、施設の建設が始まった。38年6月には、「関東軍参謀部命令第1539号」にもとづき「特別軍事区域」が設定され、部隊の周囲を「無人区」とするため、中国人農家546戸が強制的に立ち退かせられた。こうして日本の細菌戦の中枢となる部隊の本部官舎、細菌製造工場、各種実験室、監獄、専用飛行場、隊員家族宿舎などが建設された(甲30の68頁以下、甲54、甲110、甲184)。
 施設の中心は、約100メートル四方、3階建ての「ロ号棟」とよばれたビルであり、1940年に完成した(甲560。関東軍防疫部は1940年に「関東軍防疫給水部」と改称され、翌41年、「731部隊」の部隊番号をもつようになる)。
 部隊の中枢は4つの部から構成されていた(甲109)。その第1部の細菌研究部と第4部の細菌製造部はこの「ロ号棟」に置かれ、ペスト、コレラ、チフス、炭疽菌などが研究・製造された。別棟に置かれた第2部は、実戦研究を担当し、植物絶滅の研究班や昆虫(ノミなど)の研究班、さらに航空班などがあった。ハルビン市南崗の陸軍病院に置かれた第3部は、部隊の正式名称にかかわる「防疫給水」のための濾水器の製造のほか、ペスト菌などを入れる細菌戦用の陶器製爆弾の容器を製造した(甲32の21頁)。
 第4部では、「ロ号棟」の3棟、5棟で、細菌の大量生産が、石井式培養缶(甲87)を用いて行われた。
 元731部隊員の証人篠塚良雄は、実際に大量生産された細菌の種類と特徴について、原審法廷で次のように供述する。
「私たちが教えられたのは、この石井式培養缶、これは3パーセントの普通寒天培地に増殖する通性好気性菌はすべて培養できるんだと。破傷風、結核菌を除けば、ほとんどのものができるんだと、このようなことも聞きました。実際、私どもが行ったのは、赤痢、チフス、パラチフス、コレラ、ペスト、脾脱疸菌。1941年以降は、特に脾脱疸菌、ペスト菌、コレラ菌が多かったと、このように記憶しております。私どもは、この培養に当たっては、何の細菌を作るんだと、はっきりと言い渡されてはおりませんでした。しかし、私たちはかき取った細菌のにおい、形、濁り具合、これらによって判断したわけであります。赤痢菌は昔のキュウリのような、確かににおいがしました。チフス菌は、比較的きれいなものであります。培養したコロニーと言われている集落を見ると、真珠か何かのような感じすらしました。脾脱疸菌は、濁りが強いと、コレラ菌はガサガサしている、このようなことから、区別しました。また、ペスト菌、これは納豆をかき回して引っ張るような感じ、糸を引くと。ペストに感染して死んだ隊員が多くいます。恐らく、この糸が切れなくて感染したんだろうと、私はこのように思っております。このような特徴を、この中で知ることができました。」(篠塚調書22頁)
 「ロ号棟」の中庭には、最大400名を収容できる特殊監獄が建設された。この特殊監獄には、日本の支配に抵抗した、あるいは抵抗したとみなされて捕えられた中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが収容された。これらの人々は、名前を奪われて「マルタ(丸太)」と呼ばれ、1本、2本と数えられた。彼らは、「ロ号棟」の中の解剖室や野外の実験場で、人体実験に使われ次々に殺されていった(甲25の92頁)。
 人体実験では、細菌を注射・塗布して観察する生体実験を始めとして、動物の血液との交換、人為的な凍傷、減圧実験などありとあらゆることが行われた。また平房から120キロ離れた安達に設けられた野外実験場では、被験者を杭に縛り、飛行機からペスト菌弾や炭疽菌弾、毒ガス弾を投下・炸裂させ、効果を測定する実験などが行われた(甲131ないし甲137、甲142の91頁)。ハルビン市松花江の中州でも同様の野外実験が行われた。
 細菌兵器のうち、もっとも殺傷力が高いと評価された「ペスト感染ノミ」を撒布する方法は、上記のような研究・実験から生み出された。ペスト感染ノミは、ペスト菌を注入したネズミにノミをたからせ、その血を吸わせて生産された。
 ペスト感染ノミを使う方法は、ペスト菌を空中から撒布すれば菌は死滅するという当時の世界の生物学界の常識をはるかに越える独自のものであった。ペスト菌の場合も他の菌と同様に、特に上空から裸の菌を投下する場合、空気の抵抗や気温の変化によって菌が死滅するおそれがあるうえ、撒布作業をする人が菌に汚染される可能性が高かった。そこで考案されたのがペスト感染ノミを製造しそれを撒布するという方法である。ノミは、人間へのペスト感染を最も媒介しやすいうえ、裸の菌よりも空気の抵抗、気温の変化に比較的強いからであった(甲3)。
 
 5 細菌戦部隊の創設には、軍医石井四郎の役割りが大きかったが、細菌戦
の研究と実戦という戦略的課題は、日本陸軍の中央部が認可し推進したものであった。
 したがって、細菌戦部隊(東郷部隊、関東軍防疫部)が当初、日本陸軍が主敵と見なしていたソ連に近い中国東北に設置されたことは当然である。また同部隊の4支部(牡丹江、林口、孫呉、今性櫛)も、ソ連との国境線に沿って配置された。細菌戦が最初に行われたのは、1939年の関東軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件においてのことであり、ハルハ河の上流ホルステン河にチフス菌が流された(甲86の11頁)。
 他方、日中戦争は、国共合作を実現した国民党軍と共産党軍の頑強な抗戦により、戦線は膠着した。日本陸軍は、北支那方面軍、中支那派遣軍(のち支那派遣軍に拡充)などを編成して1938年の後半には中国戦線に100万の兵力(これは当時の日本軍の総兵力の約8割に相当する)を動員したが、同年の徐州作戦と漢口作戦では国民党軍の主力を捕捉することに失敗し、国民政府は四川省重慶に移転して抗戦を続けた。また共産党軍は、華北を中心に日本軍占領地の後方にゲリラ戦地区を建設して、日本軍を消耗させたのである。
さらに1939年9月、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した。日本の中国侵略戦争が継続・拡大し、日米間の対立が激化する中で、翌40年9月、日本は、日独伊3国同盟に調印した。ドイツのヨーロッパにおける軍事的勝利に期待をかけつつ、日本は、南方の東南アジア等を新たに侵略することによって、事態を一気に解決するという戦略を打ち出したのである。
 このような状況のもとで、日本軍は、細菌戦研究を強化し、細菌戦部隊
の規模を拡張していった。すなわち、関東軍防疫給水部(731部隊、ハルビン)に加えて、中国では北支那防疫給水部(1855部隊、北京)、中支那防疫給水部(1644部隊、南京。甲57、甲58)、南支那防疫給水部(8604部隊、広州)が40年までに編成され、42年には南方軍防疫給水部(9420部隊、シンガポール)が編成された(括弧内は部隊番号と本部所在地、以下部隊番号も用いて表記する)。さらに、これらの各部隊には、数個から十数個の「支部」が設けられた(甲559)。
 日本軍の細菌戦は、これらの諸部隊が直接間接に参加して、中国の各地に対して行われたのである。

6 1940年、日本陸軍の中央部は、細菌兵器の使用を本格的に検討し、 細菌作戦発動を命じた。天皇の命令たる「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕」にもとづき陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」の「第690号」が発令されたのである。
 6月5日、陸軍参謀本部作戦課の荒尾興功、支那派遣軍参謀井本熊男、南京・1644部隊長代理の増田知貞の間で細菌戦実施についての協議が行われた。協議の結果、攻撃目標は浙江省の主要都市とすること、実施部隊は支那派遣軍総司令部直轄とし、部隊責任者は関東軍防疫部長石井四郎とすることなどが決定された。作戦方法は、飛行機による菌液撒布とペスト感染ノミの投下であった。
 7月25日、関東軍は「関作命〔関東軍作戦命令〕丙第659号」(甲20の証拠書類保管文書830号)を発令した。この作戦命令は、浙江省への細菌戦のために731部隊員で臨時編成された「奈良部隊」の人員・器材の輸送を命じたものであった。同命令によってハルビンを出発した「投下爆弾700発、自動車20両」などの器材が、8月6日、前線基地とされた浙江省杭州に到着した。2日後には、1644部隊と731部隊からの総勢120名の隊員が杭州に集結した(甲88の14頁)。
 元731部隊航空班の証人松本正一は、本法廷で、杭州から「寧波作戦」に航空班のパイロットの「ほとんど全員が参加した」(松本調書32頁)と供述している。
 これ以後、具体的な攻撃目標の捜索が行われた。9月上旬、細菌戦の攻撃目標に寧波と衢州が決まり、金華も候補にあげられた。このうち、寧波は中国東南部における重要な港湾都市であり、衢州・金華は浙江省から江西省に通じる浙p鉄道上の要地であった。9月18日、攻撃目標の候補地に玉山、温州、台州などが加えられた上、浙江省への細菌戦が始まった。
 9月18日から10月7日までに、コレラ菌、チフス菌、ペスト菌による6回の細菌攻撃が行われた。この6回の攻撃では、菌液撒布とともに、10月4日の衢州に対する攻撃の場合のようにペスト感染ノミが投下された(甲113)。続いて10月下旬、寧波にやはりペスト感染ノミが投下された。11月末、金華にペスト菌が投下された(次頁の井本日誌参照)。
 攻撃対象となった地域のうち、少なくとも衢州と寧波の2カ所で大規模なペスト流行が発生した。
 11月25日に、陸軍参謀総長杉山元は、支那派遣軍と関東軍に対し「大陸指第781号」(甲21)を発し、11月末日をもって作戦を終了させることを指示した。

7 1941年の前半、日本陸軍の中央部や関東軍防疫給水部(731部 隊)、北支那防疫給水部(1855部隊)、中支那防疫給水部(1644部隊)は、前年の細菌戦実施の結果をふまえ、攻撃方法や細菌増産のための施設拡充などについて、さまざまな検討を行った。また、1941年6月のドイツ・ソ連間の戦争開始に伴って行われた陸軍の対ソ連戦争準備(同年8月中止)の期間、731部隊は対ソ戦用のペスト感染ノミの増産をはかった。
 細菌戦再開が決定され、 陸軍参謀総長名の「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」が発令されたのは、9月16日になってのことである。攻撃の対象に選ばれたのは、洞庭湖に近い湖南省西部の戦略要地常徳であり、目的はペストの流行による国民党軍の交通路遮断であった。今回の作戦の中心となったのも、前年と同様、731部隊と1644部隊であり、731部隊からは40ないし50名が派遣され、作戦参加者の総数は約100名であった(甲112)。
 11月4日、731部隊の航空班増田美保は、97式軽爆撃機を操縦して飛行場を午前5時30分に離陸し、常徳に6時50分に到着した。ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物など36キロが、常徳の上空高度1000メートル以下から投下された。この常徳に対する攻撃には江西省の南昌の飛行場が使われた。
 井本日誌には、次頁の記載がある。1941年11月4日、日本軍は、湖南省の常徳市に対し、細菌戦を実行した。日誌から、実行者(731部隊の増田美保)、攻撃機の型式や攻撃時間、投下時の高度、さらにペスト感染ノミを飛行機の機体の下に取り付けられた函に入れ、その函のフタを開けて投下させる方法をとったこと等がわかる。
 「アワ36s」とは、ペスト感染ノミ36キログラムのことで、これが常徳に撒布された。しかも、細菌戦実行後の常徳のペスト流行の報告がなされている。
 増田美保は、薬剤将校で、731部隊で特別にパイロットに訓練された人物である(甲565)。
 11月12日、最初のペスト患者が発見された。翌1942年にかけて常徳の市街地・農村地区、および近隣の桃源県でペストが流行する。日本軍は、情報収集によって攻撃が成功したと判断し、ペスト感染ノミの空中投下という方法に自信を深めた。
 なお、1941年12月8日、日本はアメリカとイギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争の開戦にふみきった。かつての日清戦争の宣戦の詔書には、「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」と国際法に準拠すべきことが明記されていた。日露戦争、第1次世界大戦の宣戦・開戦の詔書も同様であった。しかし、この太平洋戦争の宣戦詔書には、こうした文言が全く見られないことは、きわめて示唆的である。事実、日中戦争につづき、アジア太平洋戦争にあっても、日本軍は国際法違反の細菌戦を計画し、実行するのである。

8 1942年の細菌戦は、戦争があらたな事態を迎える中で実行された。同年4月18日、太平洋上の空母を発進した米軍爆撃機が、初めて日本本土を空襲し、日本の政府と軍に大きな衝撃を与えた。米軍機は中国浙江省の都市を着陸予定地としていたため、同月30日、大本営は急遽浙江省から江西省に通じる浙袴鉄道沿線の諸都市を攻撃し、飛行場を破壊する作戦を決定し、「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕第621号」を発令した。この浙袴作戦(せ号作戦)は、第13軍の6個師団と第11軍の2個師団、計8個師団を動員する大規模な作戦であった。
 陸軍中央と石井四郎(当時軍医少将)は、この作戦の中で細菌攻撃を実施することを決定した。だがこの細菌攻撃について、第13軍司令官沢田茂中将は、陣中記録に、「石井部隊の使用、総軍〔支那派遣軍総司令部〕
よりも反対意見を開陳せしも大本営の容るる処とならず。大陸命を拝したりとならば仕方なきも作戦は密なるを要す。」(6月25日の項)、「石井少将連絡の為、来著す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ。」(7月11日の項)と記している。
 すなわち、この時の細菌戦実施は、極秘作戦として大本営で決定され、現地の支那派遣総軍や第13軍の実施反対は拒否されたのである。細菌戦の陣頭指揮にあたったのは石井四郎である。
 7月には、ハルビンの731部隊派遣隊が南京に到着、ここで南京・1644部隊の部隊員と合流した。要員総数は150ないし60名であり、8月初めには作戦実施のための配備が終了した。今回の細菌戦は、これまでの航空投下と異なり、主に地上撒布の手段が用いられた。すなわち、13軍など日本軍は所期の飛行場破壊の目的を達成し、同月中旬から1部の占領地を除いて撤退を始めたが、この撤退のさい、さまざまな方法で細菌が撒布されたのである。その目的は、日本軍撤退後に復帰する中国軍の行軍ルートや拠点都市に伝染病を流行させることによって、飛行場の再建を不可能にすることであった。
 江西省の上饒(旧称広信)や玉山では、ペスト感染ノミやペスト菌を注射した野ネズミが放たれ、同省の広豊でもペスト感染ノミが放たれた。さらに玉山では、ペストの乾燥菌を付着させた米を撒いて、その米を食べたネズミを感染させる方法も試みられた。また浙江省の衢州・麗水では、ペスト感染ノミの他、チフス菌やパラチフス菌が撒布された。さらに同省の常山と江山では、コレラ菌を@井戸に直接入れる、A食物に付着させる、B果物に注射する、などの方法が採られた(次頁の井本日誌参照)。これらの謀略的な細菌地上撒布により、前記諸都市ではコレラやペストをはじめ多数の伝染病患者が発生した。
 さらに、この1942年には、日本軍は太平洋戦域でも細菌戦を実行しようとした。たとえば、フィリピンのバターン半島に立てこもったアメリカ・フィリピン軍に対する細菌戦が準備されたが、準備中にアメリカ軍らが降伏したため中止された。また、サモア、アラスカのダッチハーバーや、オーストラリアの主要都市、インドのカルカッタに対する細菌戦が検討されていた。

9 1943年、ソロモン群島ガダルカナルからの撤退後、太平洋における日本軍の敗勢は明確なものとなった。中国での戦争も、本来の中国政府を 屈服させるという目的を放棄し、占領確保のための作戦が中心になった。こうした状況下に、ハルビンの731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、広州の8604部隊、シンガポールの9420部隊の日本軍細菌戦部隊は、ペスト感染ノミとネズミの増産に力を入れ、中国の他の地域に対してだけでなく、ビルマ、インド、ニューギニア、オーストラリアなどに対する細菌攻撃も検討された。
 なお、同年9月、日本軍第59師団防疫給水班は、中国山東省西部で、コレラ菌撒布により、細菌兵器の効果を実験し、あわせて行軍中の日本軍部隊の防疫能力を試す細菌戦を実施している(甲2の44頁)。

10 1944年になると、日本軍は、太平洋の制海権・制空権を完全に奪われ、南太平洋の拠点を次々に失った。同年6月には、大本営が前年に設定した「絶対国防圏」の要域であるマリアナ群島のサイパン島に、アメリカ軍が上陸した。陸軍参謀本部作戦課は、潜水艦を使ってシドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェーを細菌攻撃する計画を立て、さらにサイパン島攻防戦では、実際に細菌攻撃部隊が船で派遣された。この部隊の1部はサイパン島で玉砕、1部はトラック島に向かう途中で米軍潜水艦により撃沈された。同年7月、サイパン島が陥落すると、これを奪回するための細菌攻撃が検討されている。

11 1945年1月、陸軍中央部は、細菌戦の戦略的実施を中止する決定を行った。
太平洋戦線における戦況の悪化は、もはや大規模な細菌戦実施を不可能にしていたのである。
 だが、中国東北では、事情が異なった。ソ連の参戦が確実となった2月以降、弱体化した兵力を補うべく、関東軍とその細菌戦部隊である731部隊は、ペスト菌の大増産計画を立てた。「満州国」の行政権力を通して民衆から大量のペスト菌培養用のネズミ類(ハタリス)が集められ、設備も増強された。さらに、国境線に配置された731部隊の4支部は、関東軍の各軍の指揮下に置かれたのである。1945年6月当時の731部隊は、関東軍防疫給水部略歴によれば、3550名の人員を要した(甲555)。
 こうした対ソ連細菌戦準備は、同年8月、日本の敗戦直前まで続けられた。
 8月9日のソ連参戦後、731部隊はその細菌戦研究・細菌兵器製造等の一切の施設を破壊し、収容されていた「マルタ」を全員殺害して撤退した(甲31の14頁以下)。
 だが、中国人に対する加害行為は、これだけでは終わらなかった。施設跡から逃げたネズミやノミによって、周囲の村落およびハルビン市内にペストが発生した。少なくとも数百名の死者を出したこの流行は、1959年まで続いた(甲78)。

第2 原判決の「細菌戦事実及び国家責任」の認定と控訴審での事実調べ

 原判決は、結論で被控訴人の法的責任を否定するものだったが、他面で、以下のとおり、旧日本軍731部隊等が陸軍中央の指令により中国各地で細菌兵器を実戦使用した事実を全面的に認定した。
さらに、原判決は、細菌戦の事実と共に、以下のとおり、当時、細菌戦が国際法に違反しており、被控訴人の国家責任が成立したことを認定した。
 控訴審裁判所においては、こうした認定を踏まえて判断すべきと思料する。

1 原判決による細菌戦事実の認定
  (1) 日本軍の加害行為
 原判決は、「1940年から1942年にかけて、731部隊や1644部隊等によって」、衢県(衢州)、寧波、常徳にはペスト感染ノミを投下し、江山にはコレラ菌を地上散布し、「細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた」(原判決30頁)と認めた。

  (2) 伝播による細菌戦被害
 原判決は、「衢県でのペストは、義烏、東陽、崇山村、塔下洲のようにその周辺の地域にも伝播し、大きな犠牲をもたらした」(原判決31頁)と認定した。また「1942年3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。」(原判決34頁)と認定した。このように二次感染、三次感染の発生そして伝播による被害地域の拡大が認定され細菌兵器の大量破壊性と残虐さが一層明確になった。

  (3) 細菌戦の指揮命令系統
 原判決は、「細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので、陸軍中央の指令により行われた」(原判決34頁)ことを認めた。

  (4) 細菌戦の犠牲者
 原判決は、本件裁判の被害地8ヶ所全体の細菌戦による死亡者の数が1万人を超えることを認定した(原判決30頁ないし34頁)。

  (5) 細菌戦の残虐性
 原判決は、「ペストは社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。」「ヒト間の流行が治まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期間に渡って汚染する病気である」と認定した。また「コレラは、伝染力が強く、次々と死者が出ると地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。」(原判決35頁、36頁)と認定した。

 2 原判決は、細菌戦被害への被控訴人の国家責任を認定
  (1) 日本軍の細菌戦の国際法違反性
 原判決は「もともと細菌兵器は、これが戦闘の目的と比較して不相当な性格のものであるとの従来からの少なくとも黙示的な共通認識を前提にジュネーブ・ガス議定書で明示的にその使用が禁止されたものと解され(当事国は125か国である。)、同議定書は1928年には発効したから、遅くともそのころまでには多数の国家の行態の中に同議定書に対する法的確信が確認されるに至り、もって同議定書を内容とする国際慣習法が成立するに至っていたものと認めるのが相当である。そして、前記認定の旧日本軍による中国各地における細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)がジュネーブ・ガス議定書にいう『細菌学的戦争手段の使用』に当たることは明らかである。」(原判決38頁)旨を判示した。
 このように、日本が中国で行った細菌兵器の実戦使用はジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法に違反していることを認めた。

  (2) 日本の細菌戦被害に対する賠償責任
 原判決は「ジュネーブ・ガス議定書のような条約ないしそれを介して成立する国際慣習法による害敵手段の禁止もヘーグ陸戦規則23条1項にいう『特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止』に該当すると解するのが相当である。したがって、ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法による細菌兵器の禁止に違反した場合にもヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生ずるというべきである。」と述べて、次に本件に関して「被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解するのが相当である。」(原判決39頁)と認定した。
 このように、日本が中国で細菌戦を行ったことについて、細菌戦被害者が受けた損害を賠償するというハーグ陸戦条約第3条を内容とする国際慣習法による国家責任が被控訴人に成立したことを認めた。

3 控訴審での事実調べ
 控訴審裁判所においては、こうした原判決の認定に踏まえて、控訴人らが被った細菌戦の被害の深刻性がより一層明白になったと思料する。
 細菌戦被害の深刻さについて、中国の3人の地元研究者(陳致遠、楼献、裘為衆)による鑑定書の提出及び証人尋問で、控訴人親族の被害を中心に追加立証を行った。
 すなわち、証人陳致遠(湖南文理学院教授)は鑑定書を提出し、湖南省常徳市の城区市街地の控訴人12名と石公橋市街地の控訴人5名について、控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証を行った。また、上記両地区の死亡者の死亡地点を地図に落とし、控訴人の死亡地点との関連を明確にして、控訴人親族の死亡とペストの流行と関係を一層明確にした。
 証人楼献(杭州商学院科技哲学研究所副所長)は、鑑定書を提出し、浙江省衢州の控訴人14名について、控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証を行った。
 証人裘為衆(ジャーナリスト、寧波細菌戦の研究者)は、浙江省寧波市の被害の追加調査を行い鑑定書を提出した。
 控訴人胡賢忠(寧波、1932年2月生、72歳。父母、姉、弟を亡くす)及び控訴人熊善初(常徳、1929年9月生、75歳。兄2人と甥2人を亡くす)は、本人尋問で、その被害の深刻性を生々しく証言した。
 また、地元の被害調査委員会による調査の成果として、湖南省常徳市の「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」が提出された。
 さらに、江田憲治教授(京都大学)は、鑑定書を提出し、湖南省と浙江省ではペスト防疫活動が続けられているなど細菌戦被害が戦後に波及している深刻性について立証を行った。聶莉莉教授(東京女子大学)は、鑑定書を提出し、細菌戦の被害記憶と被害者意識を分析し、被害者の精神的苦痛は現在においても深刻であることについて立証を行った。
 これらの証拠により、控訴人ら細菌戦被害者が被った被害の程度が極めて深刻であることが立証された。
 以下では、法律の適用を論ずる前提として、控訴審において明らかになった被害事実を主張する。

第3 控訴審で明らかにされた事実―常徳の場合

 1 細菌戦の犠牲者(「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」の提出)
 控訴審では、中国湖南省常徳市において、被害者や遺族を中心とする市民団体「日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会」(以下「常徳調査委員会」)が作成し、聶莉莉教授が点検作業を行った「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」が提出された(甲570)。
 常徳調査委員会は、1998年3月から、細菌戦被害に関する本格的な調査を開始し、被害者の遺族から聞き取りをしたり、遺族自身に書いて貰ったりして、約1万5000名の被害陳述書を作成し、死亡者名簿に7643名の死者を登録した。
 この死者の登録数は、常徳市档案館に保存されている1万5000通の被害陳述書の約半分であるが、「被害者の遺族が生きており、かつ当時の隣人や友人などの第三者証人による証言を得られる人について、初めて被害者認定をする」という厳しい認定基準に従っている結果である。
 たとえ被害当時の歴史記録に名前が被害者として記載されている場合でも、遺族が生存していない場合には、上記の認定要件を満たさないものとして調査委員会の被害者名簿からは除外されている。もちろん 「幸存者」は死亡者名簿には含まれない。
 原審裁判所において証言した聶莉莉教授(東京女子大学)は、2000年12月1日付鑑定書〈湖南省常徳地域における日本軍による細菌戦被害状況に関する研究―フィールドワーク等に基づいて文化人類学の観点から―〉(甲92)の中で、「常徳地域におけるペスト被害状況を明らかにし、死亡した被害者を登録することを主な目的とする調査委員会は、成立して以来、活動経費を提供する固定的なサポーターがなかったが、メンバーたちがいつも自費で調査に出かけた。2000年11月現在まで、彼らは、常徳及び周辺地域の13県の70郷鎮、486行政村において、ペストによる被害調査を行い、ペスト被害死亡者合計6,491人と、ペスト被害を受けた生存者28名の名簿を整理した(第一冊、死亡者4,127名、感染した生存者28名、1998年12月。第二冊、死亡者2,364名、1999年11月。死亡者合計6,491名)。近いうちに、その後登録した名簿を新たに印刷する予定であるが、新しい名簿を加えると、被害死亡者登録数は合計7,643人となるという。」(甲92の80頁)と述べた。その後の調査委員会の死者名簿の策定および聶莉莉教授の点検作業を通して、2005年3月3日付意見書(甲570)に「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」を添付して提出し、改めて常徳細菌戦被害による死亡者数が少なくとも7643人であることを再確認している。

 2 細菌戦被害の深刻性
 陳致遠教授の聞き取り調査から、控訴人の受けた精神的苦痛の深刻さを指摘する。ここでは一部を紹介する。
 (1) 全住民に対するペスト死亡者数の割合の多さ
  陳致遠教授は、 常徳都市部について、細菌戦が常徳の無辜の住民に深刻な影響を与えたことについて、死亡率が186分の1から100分の1に達することを指摘する。
 すなわち、1942年の常徳都市部の人口が62,150人であったところ、調査によって判明したペスト死亡者297人に、公文書に記録された死亡者37人を合計するとペスト死亡者は334人にのぼり、日本軍のペスト攻撃による死亡率を計算すると186分の1となる。また、ケ一?氏(常徳防疫所副所長)が主張する死亡者は600人余りであるとする説に則って計算すると、死亡率は約1/100となるという。
 (2) 遺族の受けた精神的苦痛
 細菌戦は、ペスト被害者に多大な肉体的苦痛を与えただけではなく、控訴人らを含む遺族に精神的な苦痛をももたらした。
 陳致遠教授が、この点につき、鑑定書16頁以下で、死亡者との親族関係につき指摘するように、ある人は父または母を失い、またある人は子供を、祖父、祖母は孫を失い、妻は夫を、夫は妻を失った。人々はそれぞれの親族を失い、どれほど悲惨なめに遭い、どれほど残酷な精神的苦痛を被ったのか計り知れない。
ア 控訴人方運勝の兄・方運登は1941年11月に8歳で、ペスト に感染して死亡した後、祖母は精神障害になり、一年中、夜中に孫の名前を呼びながら町をぶらぶら歩き回った(控訴人方運勝は、「兄は当時一家の唯一の男の子でした。祖母は彼の死を非常に悲しみ、精神を病んでしまいました。時々独りで孫の名前を口にしながら、一日中あちらこちら歩き回っていました。私がまだ子供の時に、祖母はよく私を連れて町のなかで兄の名前を呼んでいたことを覚えています。」と述べている)。
イ 控訴人高緒官は、鶏鵝巷に住む5人家族の家庭であったが、194 1年12月、2人の男の子を亡くした。13歳の高緒文と11歳の高緒武である。彼らの死に母親は昼夜すすり泣きつづけた。母親は両眼とも殆ど失明し、さらには、一時的に二ヶ月ほど精神に異常をきたしてしまった。
  (3) ペストによる家庭・生活の破壊
 細菌戦は、ペスト被害者に多大な肉体的苦痛を与えただけではなく、控訴人らを含む遺族の家庭・生活を破壊した。陳致遠教授の聞き取り調査から、控訴人の受けた家庭・生活の破壊の深刻さを指摘する。
ア 控訴人劉開国の祖父・劉棟成は元々常徳城内最大の味噌販売店2軒 の内の1軒の経営者であり、豊かな中産階級に属していた。祖父がペストで亡くなったため、店は閉店を余儀なくされ、家族の暮らし向きは急速に悪くなった。
イ 控訴人謝旋の父・謝行鈞は、常徳城北にある「興盛祥南貨店」の経 営者で豊かな生活を送っていた。しかし、1941年12月に5人の家族の内4人が7日間に死んでしまった。13歳だった控訴人謝旋は、家を離れて勉強していたため生き残り、単身おじさんの家で養ってもらった。
ウ 控訴人馬培成の祖父馬宝林は、容啓栄報告書『常徳鼠疫(ペスト) 患者一覧表』中の第22号被害者に記載されているが、人々に「馬瓦匠(左官)」と呼ばれて、常徳城東の五鋪街に住んでいた。1942年4月、夫人が先にペストに感染し、隔離病院で亡くなり、後に、彼も4月17日にペストに感染し、広徳病院で亡くなった。彼らの息子は14歳で孤児になったが、生活苦に耐えて成長していった。

  3 控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証
湖南文理学院の陳致遠教授は、鑑定書(甲536の1、甲536の2)において、武陵区城区の細菌戦による死亡者について、当時の歴史記録に基づく死亡者が37名、歴史記録以外で「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」中の城区323名中の市街地297名(但し、毛仁山が歴史記録20番、死亡者名簿122番の両方に記載されているのて296名)の合計333名の死亡家族分布図を作成した。
 さらに、陳致遠教授は、同鑑定書の附属文書一(日本語版46頁ないし88頁)で、武陵区城区の控訴人12名の被害調査を行い、被害当時の12名の控訴人の家族の住居を特定した。
 この点について、陳致遠教授は、本法廷で次のように証言した。

この図は、私がこれを作りましたのは、1942年の容啓栄報告と、それから、現在の常徳細菌戦被害調査委員会の研究を基に、自分でいちいちそれを検証いたしまして作りました。(中略)これを見ますと、常徳のペスト患者が発生したところがきちんと特定できるということで、住所と番地によってそれを特定いたしました。この図から分かることは、1941年に日本軍が細菌戦によるペスト攻撃を行ってから、被害は45年まで続き、細菌攻撃を受けた地域にたくさんの被害者が生じ、現在訴訟を行っている控訴人もこの地域を中心に分布しているということが言えると思います。
(第8回口頭弁論、陳致遠証人調書速記録5頁)

このようにして、12名の控訴人の親族が、1941年11月4日にペスト菌の細菌弾を投下した後に流行し1945年まで続いた被害地域に居住し感染し死亡したことが立証された(次頁の分布図参照)。

  4 また常徳市石公橋の市街地におけるペスト死亡率、ペスト感染者の受 けた苦しみ、ペストによる家庭・生活の破壊について、陳致遠教授は鑑定書において次のように明らかにしている。
「中国第二歴史公文書館に保存されている『疫情旬報』第26号には、石公橋鎮のペスト発生及び予防治療の状況について、次のように記されている。
「今年1月の間、常徳城内関廟街の胡という姓の者は城内でペストに感染し、新徳郷石公橋に戻り、発病して死亡した。彼に続いて家の女性使用人も感染し死亡した。衛生署医療防疫総隊第十四巡回医療防治隊は一度役人を派遣し、調査処理をした後、再発はなく、ペストネズミも発見されなかった。しかし、10月27日には当該地区で突然、再び1名のペスト感染者を発見した。その後、殆ど毎日のように死亡者がでた。11月24日まで合計して35名のペスト感染者を発見した。そのうち、31名が死亡した。その他、石公橋より10華里離れた鎮徳橋では11月20日にも2人が死亡し、25日までに9人が死亡した。湘西防疫処が派遣した係の調査結果によると、病例が発見される前に死んだ鼠を発見していたのに、一般民衆はその鼠がペスト菌で死亡したと知らなかったので、最終的にペストの大流行が発生した…」。
「予防治療の経過:11月14日に湘西防疫事務所は大量の薬剤を持つ各課の防治作業員を派遣した。石公橋と鎮徳橋との両地で防疫の仮事務所を設け、石公橋で隔離病院支部を設置して当地駐在軍の協力の下で予防治療の仕事を進めた。現在、当該地区には衛生署医療防疫総隊第2大隊に属する10、14巡回医防隊…等9防疫部門がある。防疫専門家であるポリッツアー博士(オーストリア人)の指導下で、防疫に従事する役人が30人余りいた。その他、衛生署第15巡回医防隊と軍政部第4防疫大隊第1中隊とも疫病地区に行き、防治作業に協力した」
 中国第2歴史公文書館に保存されている、1942年12月4日に戦時防疫連合事務所の容啓栄主任が署名した第37号『ペスト疫病情況緊急報告』には、
「湖南省疫病情況について:衛生署医療防疫総隊第2大隊の大隊長代理人である施毅軒は11月16日に電報で報告:常徳県新徳郷石公橋鎮では11月6日に腺ペストを発見し、11月15日まで死亡者が20人に達した…治療チームをすでに1組派遣した。施毅軒はポリッツアー博士と一緒に第2チームを引率し疫病地区の一切の事項を監督・指導。施毅軒とポリッツアーは11月28日に電報で報告:石公橋鎮ではもう隔離病院を設置し、当該地区の疫病情況に対し積極的に対処し、堤防を築いて隔離し、住民を移動させる準備をしている」
と述べている。
 同公文書館所蔵の1942年12月21日の第38号『ペスト疫病情況緊急報告』では下記のように書いている。
「湖南省の疫病情況について…(二)施毅軒大隊長が12月3日に電報で報告:石公橋鎮では合計40人余りの死体を発見した。最近の1週間には新しい病例を発見しなかった」。
 以上の資料をまとめると、石公橋鎮は1942年10月27日にペスト流行が始まった。流行する前に大量の鼠の死体を発見した。11月6日、常徳防疫部門はペストの発生の情報を得た。11月14日、湘西防疫所は予防治療員を派遣し、疫病地区で予防治療の仕事を始めた。11月15日に統計した死亡者数は20人に達した。11月24日までに発見されたペスト感染者は35人で、うち31人が死亡した。12月3日まで合計して40人余りの病死者を発見した。」
 常徳市石公橋の控訴人ないしその親族の居住地は、日本軍による細菌戦が実行されたペスト流行地区であった(次頁の分布図参照。)。

 5 ペストの拡大と生活習慣
 聶莉莉教授は、宗教や生活習慣がペストが伝播し被害が拡大していったことについて、ムスリムの葬式について、次のように指摘する。
 事例 ムスリムの葬式とペストの伝播
 ムスリムの葬儀は、漢民族以上に厳格な様式に従って行われ、「老師傳」(イスラムの教義によって礼拝や儀礼を司祭する人)が葬式の全体を司った。
 ムスリム特有の儀式である「守霊」(通夜)、「洗屍」(遺体を水で洗って清める)、「包扎」(遺体を白い布で包む)、「入棺」(教会にある公用の棺に遺体を入れる)、「喪儀」(経を読んで死者と分かれる儀式)などが行われる。
 墓地に棺を運ぶ「出葬」では、通常親戚や隣人、地域の若者が棺を担ぐが、彼らは「喪夫」と呼ばれた。イスラム教の葬式で共通の棺桶が使われたり、死者の体を触ったりする習慣があることは、ペストが伝播する原因となった。許家橋郷民族村の被害者は全部で61人だったが、村の9人の「老師傳」のうち6人が亡くなり、「喪夫」をした人も8人が亡くなった(李光府陳述書25号)。
(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の21頁)
 また、火葬を嫌う世界観が、ペストの伝播を広げる結果になったことを次のように指摘する。
 他の地域の漢民族と同様、常徳人も「完屍」、即ち死者の身体が必ず保全されなければならず、「入土為安」即ち土葬された死者は安楽であるという観念が非常に強かった。
 中国人の世界観の中枢は儒教であった。身体の保全は、儒教の中心的教えの一つである「孝」とつながった。「身体髪膚、受之父母、安敢毀傷」(身体、髪、皮膚などは父母が授けたもので、敢えて毀傷することができない)という訓戒は、儒教の経典『孝経』に記載されている。儒教の影響を受けた中国の人々にとって、死者の身体を解剖することは受け入れがたいことであった。
また、仏教の影響により、遺体が解剖されると、死者の身体が完全でなくなり、「陰間」(あの世)においても安らかにできないし、輪廻転生もできなくなると思われていた。それは、死者にとって大変気の毒なことであり、生きている親族にとっては、亡人を守れず失格だということとなる。
 一方、「入土為安」の観念は、中国人の世界観にある風水思想とも密接に関連している。大地の偉大なエネルギーである「気」が、そこに埋葬された祖先の骨を経由して子孫に流れ込み、子孫の繁栄や出世、財力の蓄積、一族の隆盛など様々な恩恵を与える。この世の人々の富貴栄華、没落退廃などの運命は、祖先の墓に握られていると解釈する人々にとって、逝去した祖先を土葬するのは、「天経地義」(至極当たり前の道理)であった。
 「完屍」や「入土為安」という観念や慣習があるために、政府が実施した死体解剖や火葬などの措置は強く反感を持たれ、家にペストによる死者が出ても、防疫隊や政府に報告せずにこっそりと埋葬した家がたくさんあった。(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の21頁)

 6 現在まで続くペストの脅威の継続
 常徳市疫病予防制御センター(元常徳市衛生防疫センター)は1984年から毎年、1940年代にペストが大流行した常徳都市部と常徳石公橋鎮、それから桃源城関鎮の3つの地区の鼠に対して、ペスト検査を実施している。1990年には常徳都市部で2例、1991年には桃源城関鎮で1例のペスト抗体に陽性反応を示した鼠の血清が見つかった。これは今後常徳市でまだペスト発生の可能性があることを示している。陳致遠意見書で次のように述べている。
「5.常徳市は今日でもペストの潜在的脅威に直面している
筆者は常徳市疫病予防制御センター(元常徳市衛生防疫センター。)を訪問した。当該部門の主任である鐘発勝は次のように述べた。彼らは1984年から毎年、1940年代にペストが大流行した常徳都市部と常徳石公橋鎮、それから桃源城関鎮の3つの地区の鼠に対して、ペスト検査を実施している。1990年には常徳都市部で2例、1991年には桃源城関鎮で1例のペスト抗体に陽性反応を示した鼠の血清が見つかった。これは今後常徳市でまだペスト発生の可能性があることを示している。彼らが検査した3例の陽性を示したサンプルは1991年に、中国ペストブルセラ症防治基地である、「吉林省地方病第一防治研究所」へ送られ、再検査された。その結果も陽性であった。以下に『再検査結果通知書』のコピーを付録した。また、湖南省常徳市ペスト連合監督観測組の『湖南省1991〜2000年ネズミ間ペストの監測報告』をも添付した。
 鐘発勝主任は最後に筆者にこのように話した。「上述した検査結果は、常徳市で今日でもペスト再発の可能性があり、常徳の人民は今なお1941年の日本軍隊が投下したペストの危害に直面していること示している。」(甲536の2、31頁、32頁、甲507、3頁、10頁)

第4 控訴審で明らかにされた事実―寧波の場合

  1 新たに判明した被害事実
 控訴人らの被害状況について、証人裘為衆は、5年間にわたる聴取り調査の結果、新たに4名の死亡者名を確認し、また記録上死亡者とされていた被害者1名の生存を確認した。
 裘為衆証人は、鑑定書において次のように明らかにしている。
   「2.112名の死亡地点
 寧波を離れた人も含め、現在判明している112名の死亡者の死亡場所を確定した。
    3.家を焼却された隔離地区の115軒の家族の現在(1軒に複数の 家族が住む場合を含む)
(1) 絶滅した家族
 もとよりそこに住んでいた115軒の家の中で、11家族が全滅だった。
(2) それ以外の家族
 それ以外の104家族はすべてを失ったため、しかたなく寧波を離れた。彼らのその後の境遇はほとんど知られていない。感染していたのかどうか、現在生きているのかどうかすら分からない。新中国が成立してから、ごく一部の人は寧波に戻ったが、現在、寧波に残っているのは10家族にすぎない。」(甲538の2の5頁、6頁)

  2 当初の規模を上回り広範囲に広がっていた被害
 寧波近郊93カ町村での調査の結果、細菌戦被害者112名の死亡 地点がすべて判明し、細菌戦被害者らが開明街一帯の封鎖地区から逃亡・避難した先は、当初明らかにされていた地域よりはるかに広範囲であった事実が明らかにされた。
 証人裘為衆の鑑定書は、次の事実を明らかにする。
「7.疫区を離れる人々
 突然のペストによる死者の出現後、その地域の住民、または一部の感染者は、ペストから逃げるためにぞくぞくと本籍地へ戻り、又は他所へ避難したり、親戚や友人に助けを求めに行った。感染後に疫区から外へ逃げたのはろ桂生、汪応発、胡世貴の3世帯の他にも、たくさんあった。胡康宏、沈丹鳳のように、疫区の外に住んでいて、ペストに感染した人は数えきれない。
 『時事公報』によると、11月10日にペストでなくなった人のうち、名もない人は5人いた。その中には、中心地でなくなった乞食や流浪者は含まれていない。当時でも、死者全員の身分を断定することはできなかった。」(甲538の2の8頁)

証人裘為衆は、一家離散に陥った寧波の人々の被害についても次のとおり証言する。

お父さんの友人に、開明街に疫病が流行すると、早くこのところを離れろと言われまして、一家全部そこから逃げ出しました。逃げ出した直後に、その地域が感染地域として隔離されました。しかし、新しい家に引っ越しした直後に、妹の声良羞が発病して亡くなりました。お父さんがそのことを隠そうとして、妹さんの遺体を箱の中に入れて、ひそかに海に運んで、海にその遺体を捨てました。しかし、お父さんが家に戻りますと、今度、お父さんが感染しました。しかし、近所に自分が感染したということを知らせたくなかったので、ずっと我慢して自分の病気のことを言いませんでした。そしてソファーの上に座って、そのままソファーの上で亡くなりました。母親が父親の葬式をやりましたが、しかし、そのときには家族が感染しているということがケンキョされました。そこで、やむを得ず田舎のほうに引っ越ししました。田舎のほうで、今度お母さんが発病します。親戚に頼んで、寧波市の華美病院で治療を受けましたが、その病院で亡くなりました。お姉さんがお母さんの看病をして、そしてお姉さんも感染して、やがて亡くなりました。
(証人裘為衆速記録6頁)

証人裘為衆は、調査結果により、感染した患者が寧波市内各地及び郊外に逃亡した死亡した分布図を明らかにした(次頁の分布図参照)。
 ペスト流行地区に住んでいた人たちは、感染を恐れて離散したが感染地区以外で発病し死亡した。これが流行地区以外でもペストでの死亡者を生み出したのである。細菌兵器の残虐性の特徴を示している。

  (3) 控訴人本人らの聴取り調査によって、生存者・遺族らは、肉親を殺 され家屋をはじめすべての財産を失って孤児生活を余儀なくされるなど悲惨な生活を強いられた事実、細菌戦によって受けた精神的・肉体的苦痛は被害当時のみのものではなく、今日なお苦痛を強く感じている事実が明らかにされた(前同)。
第5 控訴審で明らかにされた事実―衢州の場合

 1 細菌戦被害の深刻性
 楼献証人は衢州の市街地の被害と原告14家族の被害について現地におもむき悲惨な被害の実態を調査した。
 楼献証人の鑑定書は次のように被害の実態を明らかにしている。
「8 1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告表および衢州日報日刊新聞と大明新聞の記録だけでも、1940年11月から1941年の12月までの14ヵ月間に、衢県県城内と近郊地区の死亡者数は204人であった。
 1940年12月末に至って衢県ペストは既に県城内58本の通りに広く汚染していた。また柯山、万田、横路、浮石、樟潭など13の町村に拡散してしまった。
 1941年3月、日本軍飛行機は衢州県の県区を爆撃した。住民は田舎へ逃げ、疫病は広く拡散された。ただ1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告、または「衢州日報日刊新聞」、「大明新聞」によっても、1940年11月から1941年12月にかけての14ヵ月間で、衢県県区と郊外市区の死亡人数は204人に至った。ペストを恐れてよそに逃げ出した人と隔離を嫌って死亡報告をしなかった人と報告し落とした人などを含めていない。この204人の死亡リストから見ると、死者は家族同士、隣同士の場合が多い。死亡時間は集中している。例えば、衢県県内では、1940年11月の死亡者数は23人、12月の死亡者数は11人、1941年2月の死亡者数は13人、3月の死亡者数は43人、4月の死亡者数は69人、5月の死亡者数は17人にのぼる。化尤巷30号では1941年3月に6人が死亡、羅漢井巷7号では1940年11月に7人が死亡、羅漢井巷5号では1940年11・12月に5人が死亡、柴家巷5号では1940年11・12月に5人が死亡と記載されている。衢県県内での全家族死亡は17戸、一家3人以上死亡は20戸、一家2人以上死亡は29戸である。この事件で衢州14人の原告は32人の親族がペストで死亡した。例えば、原告方石?、7人の親族は1941年5月に死亡した。原告葉賽舟も3人の親族が1941年5月に死亡した。」
 これにより、控訴人ないしその親族の居住地が、「衢州14名原告家人受害地点図」「衢縣城区40−41年ペスト死亡者世帯主要分布図」(次頁)のとおり、日本軍による細菌戦が実行されたペスト流行地区である事実が明らかにされた

 2 現在も続く精神的苦痛
 さらに、楼献証人の聴取り調査により衢州でのペストの流行と被害の事実が残酷であること、控訴人本人ないし被害者遺族が細菌戦によって受けた精神的・肉体的苦痛は被害当時のみのものではなく、被害調査などにおいても辛い記憶を呼び起こすこととなることから長期的・持続的である事実が明らかにされた。すなわち、楼献証人の鑑定書は次のように記述している。
「方石?によると、方石?の親族は皆ペストに感染してから約3日のうちに亡くなり、その間高熱と意識不明で何も食べられない状態が続き、また異常な喉の渇きから水ばかり欲しがるなど、その姿はとても悲惨で見ていられなかったと陳述書で述べている。また葉賽舟は、伝染病が流行していた地域に住んでいたために、ペストによって祖母、伯父、伯母を相次いで亡くしてしまった。当時まだ10歳くらいの子供だったが、苦しんだ家族のことを今でもはっきりと覚えており、ひどく恨んでいると陳述書で述べている。」

 3 防疫活動について
 民国政府が衢州に対し、11の医療防疫部門で1940年11月1 5日から1941年末までの間に合計489名もの医療人員を派遣し、防疫委員会を組織して各種の対策を講じた事実が明らかにされた(甲510)

 4 戦後においても細菌戦による衢州市のペスト流行の危険は存続し、12 の医療防疫部門で1945年から1966年までに合計456名の医療人員が派遣されて専門治療にあたり、現在なお監視と予防活動が続けられ、ペストの再流行を警戒している事実が明らかにされた(甲510、甲507、20頁)。

第6 本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について

 原判決は、本件細菌戦の事実を認定し、かつ、細菌戦が国際法に違反し、被控訴人の国家責任が成立していたことを認めながら、最終的には控訴人らの謝罪と賠償の請求を全面的に退けた。
 この原判決の重大な誤りを検討する際、その前提となる本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について、以下で指摘したい。

 1 細菌戦は、ホロコーストに比すべき残虐で非人道的な犯罪行為

 原判決は、「ペストは社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。」「ヒト間の流行が治まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期間に渡って汚染する病気である」と認定した。また「コレラは、伝染力が強く、次々と死者が出ると地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。」(原判決35頁、36頁)と認定した。

(1) 旧日本軍731部隊などの細菌戦部隊が中国各地で行った細菌戦は、 決して戦争犯罪という言葉だけでは言い尽くせない、実におぞましい悪魔の所業というべきものであった。
 細菌戦のために軍医を集めて秘密部隊を創り、その細菌戦部隊の中でペスト菌を生産し、鼠をペストに感染させ、ペストに感染した昆虫の蚤を大量生産し、空中から人の住む街や村に投下するという、空中から戦闘とは全く無関係の一般住民をペストやコレラなどの疫病に感染させ、その地域一帯に疫病を大流行させるという行為は、細菌兵器開発のための人体実験も含め、作家森村誠一が名付けたとおり、「悪魔の飽食」を彷彿とさせる。
 明らかに戦争という日本が中国で行った細菌戦の残虐さ、非人道的は世界史的にみてドイツ・ナチスが行ったホロコーストにも比すべき、残虐で非人道的なものであった。
 典型的なジェノサイドであり、中国の一般住民に対する大量無差別虐殺行為である。本質的に言うならば、まさに細菌戦は、ナチスが犯したアウシュヴィッツ等での毒ガス等によるユダヤ人・ポーランド人などの民族抹殺的な大量虐殺行為と何ら異ならない、人類史上最も残虐な行為なのである。

(2) 細菌戦部隊の本質は、日本帝国主義の中国東北地区の植民地支配(傀 儡「満州国」のでっち上げ)の残虐性と中国侵略戦争の民族差別的特質にある。農地を強奪して細菌兵器製造施設を建設し、農民を労工として強制労働させ、更には抗日派を含む中国人を特別監獄に投獄して生体実験の材料とした。これらは植民地支配の故に可能だった。また大量殺戮を企図した細菌戦の民族差別性は明白である。
 実は、日本が細菌戦部隊の事実をいまだに認めない動機は、中国植民地支配の残虐な実態が暴露されることへの恐れ、国策として中国に対して民族抹殺を含む民族差別政策をとってきたことが暴露されることへの恐れにあったのである。

(3) 731部隊は、細菌戦によって、明らかに軍事的拠点でもなく、また 軍事的目標も存しない中国の普通の一地方都市や農村に対して、戦闘機からペスト感染蚤を投下せしめ、あるいは地上で謀略的な手口をもちいてコレラ菌入りの食物を食べさせるなどして、平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。
 このような731部隊などの日本軍の細菌戦部隊が行った細菌戦の残虐さは、ナチスのアウシュヴィッツの残虐さに優るとも劣らない、実に恐るべき残虐行為と言わなければならない。
 このような集団殺害行為は、当時から国際法上の人道に対する罪に該当し、また現在の国際法上の概念ではジェノサイドにも該当するものである。
 細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力を有する潜在力をもっている。その破壊作用は長期間にわたり、一度おさまっても、再び三度流行することもある。
 細菌の大量培養による細菌兵器は、第一次世界大戦中、ドイツで開発が着手されたが、細菌兵器の本格的な開発、製造、実戦使用を行ったのは日本軍の731部隊などの細菌戦部隊がはじめてである。
 細菌兵器は、その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を内包する。

(4) 731部隊は、1933年、日本が植民地支配を行っていた旧「満州 国」ハルビン市郊外の平房に接収した610ヘクタールの広大な土地に本部を置き、各種細菌の培養・製造室、蚤・小動物(細菌媒体)の飼育室、特殊監獄、専用飛行場、宿舎等の大規模施設を建設して、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究・培養を行った。その際、常時200人から400人の「マルタ」すなわち捕虜を生体実験に用いて前記各種の細菌を培養し、細菌兵器を開発・製造したのであった。
 細菌戦がもたらす被害の特徴は、その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は、致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく、長期間流行する。一家族、一地域の大半が全滅する例が多い。
さらに細菌戦のもたらす被害の特徴は、伝播により被害範囲がどんどん拡がるということにある。被害範囲は、人や鼠の蚤を介した病原菌の伝播により、直接の攻撃対象地区にとどまらず、周辺の地域にどんどん拡がっていく。
 日本軍は、平房などで行われた大量の捕虜を使った人体実験によって開発された細菌兵器を、戦争史上初めて、大規模に実戦使用したのであるが、生体実験の残虐さと、細菌戦の残虐さは、表裏一体をなすものである。

 2 本件細菌戦による被害の重大性
  (1) 細菌戦による都市、村での疫病の流行
 日本軍は、細菌戦の実行で、生体移植により毒性を強めたペスト菌、コレラ菌等を大量に生物兵器として生産・使用し、中国全土の村や都市の住民間にペストなどの疫病を流行させた。狙いは非戦闘員たる住民の大量虐殺にあった。このような日本軍による細菌戦は、中国民衆に対する徹底した民族差別と排外主義に基づくものであった。
 日本軍による本件細菌戦が行われている最中、1942年3月に関東軍軍医・牧譲軍医中佐は、「細菌戦について」という講演の中で、「全般的には兵站に絡んでいることになる都市を攻撃して、都市をひどい目に遭わす。これは将来相当やられる問題であります。軍隊関係のものには、直接しないで大きな都市に伝染病を流行らしてゆく」「細菌戦の狙い所の一つは、後方を混乱せしめて精神上に困ったことになったと言うような観念を敵に与えることで、大きな都市をうんとひどい目に遭わすということがある訳であります」と述べている。
 牧はこの他に攻撃対象として、軍隊、物資の兵站補給地、軍事要塞、水道水源地、軍需工場、牧畜や農産物扱い所をあげている。
 細菌兵器は、人間、家畜、農産物など、生命あるものだけを殺傷する、最も残虐な大量殺戮兵器である。日本軍は、無差別に大量の住民を虐殺する、人類史上、最も残虐で卑劣なジェノサイドを中国民衆に対して行ったのである。

(2) 被害者は一般住民である
 控訴人らの肉親たちは、都市あるいは農村の住民であったが、731部隊の細菌兵器により、ペスト、コレラなどに感染し、あるいは汚染地区からの伝搬により感染したことにより、もがき苦しんだ後死亡した。あるいは控訴人ら自身が罹患した。
 また、ペスト流行地域は、寧波などの例に明らかなように、疫区として封鎖され外出禁止となり、1人でも病人が出ると家族全員が隔離の対象となった。いったん隔離所に入ると生還する望みを絶たれるも同然であった。罹患すると医師すら恐れて治療を拒否した。患者は脇の下や鼠径部のリンパ腺が腫れ上がり高熱と乾きに苦しみぬいて短期間のうちに死亡した。
 さらに、彼らの家屋は、衢州、義烏、崇山村、寧波の例のように、防疫のため焼燬・破壊された。
 また細菌戦部隊は、作戦後、被害地区に「防疫」の名目で入り込み、その疫病に苦しむ住民を生体解剖して、細菌戦の効果を確かめるなどした。
 このように、細菌戦の被害を被った中国民衆は、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたのである。

(3) 高い致死率と鼠、蚤、人を介しての強い感染力
 細菌兵器に使用されるペスト菌は、感染経路によって、腺ペストや肺ペストなどの症状を呈する、非常に強烈な病原体である。
 腺ペストは、蚤などを通して菌が人体に入り感染する。熱と悪寒がして虚脱状態を呈する。そして炎症性のはれものがリンパ腺にできる。とくに足に菌が入ることが多いので鼠けい部のリンパ腺にできる。
 肺ペストは、泡沫伝染で菌が呼吸器官に入って、肺炎に似た症状を起こす。泡沫喀痰に大量の菌がある。
 ペストにかかると、2、3日で死亡する。出血がひどく、死体は黒色を呈するので黒死病といわれる。どんどん伝染し、伝染が始まると、これを撲滅するのが難しい病気である。伝染病の中では死亡率が最も大きい。
コレラは、消化器官を冒す病気である。おう吐・下痢の非常に激しいもので、腹痛、けいれん、虚脱を引き起こすといった特徴がある。コレラ菌は、水や食物から口に入ってくる。とくに魚介類が汚染されて伝播する場合が多い。
 コレラも死亡率が高いうえ伝染力も非常に強い病気である。

(4) 治療など防御方法の困難さ
細菌兵器は、爆弾のように、いつどこに何が使用されたかということがすぐには判明しない。病気が流行しても、細菌兵器によるものか否かが直ちに判明するわけではない。
 しかも、細菌兵器に用いられた病原菌は、人に感染しても潜伏期間があるため、原因究明が遅れる。病気が発生しても、個体差があるため、使用された病原菌の特定が容易ではない。
 寧波においては、1940年10月27日、日本軍の飛行機が大量の小麦粉や麦粒を投下した後、市内でこれまで見たこともない真っ赤な蚤が大量に飛び跳ねているのが発見された。10月30日初めての死者が出た後、患者が続々と病院に駆けつけたが、最初、悪性マラリアか横根と誤診された。
 最悪の伝染病であるペストの確実な診断とその公表は、いかなる医者も事の重大性を認識しているがゆえに、慎重のうえにも慎重を期す。最初にペスト菌が発見されたのは、11月2日になってからであった。
 同日、県政府と予防委員会は、汚染地域の封鎖を決定したが、それほど厳重なものではなく、汚染地域からは逃亡者が続出した。その後消毒作業が行われたが、11月末に汚染地域の建物は焼却された。
例えペスト菌が発見されたとしても、感染を防ぐことは難しい。ペストの被害は直接に撒布された地域に限定されず、人や鼠を媒体として各地に拡がった。
 例えば、控訴人らのうち義烏、東陽、崇山村、塔下州のペスト被害は、衢州に投下されたペスト被害が拡大したものであり、また、常徳の場合も、市街地から、周辺農村地区へペスト流行は伝播している。
しかも、ペスト菌は、1回病気の流行が下火になっても、感染した鼠がいると再流行する。鼠に付着した蚤の行動する時期になると、再度、流行することになる。感染した鼠を撲滅するのは困難で、何十年と長期化する。

  (5) 自然環境の破壊
このように病気が発生すると、治療が困難で、感染した人を隔離して、感染を拡げないようにしたり、家屋、建物類を焼却することが、最善の防御方法になる。
 しかし、感染を防いだり、病原菌を完全に撲滅することは不可能で、一度被害にあうと、その影響は長期間にわたって、人間社会のあらゆる側面に及ぶ。
 細菌戦による被害は、人間の命を奪い、衣食住の環境を汚染し、さらに、人間が生きるための条件である広範な地域の自然環境の汚染となって、地域住民に影響を与える。

  (6) 地域社会を破壊
 こうした環境破壊とともに、細菌戦の被害は、人間の社会的関係の破壊となって影響を与える。隔離されたり、封鎖された地域の人々は、例え病気が治癒したとしても生活の手段を奪われる。また、伝染病が流行した地域は、長期間にわたって、不潔で危険な地域とみなされて、差別される原因になる。
 伝染病は、人々を隔離したり疎開させたりすることによって、人と人の交流を困難化させ、生き残った人の生活をも破壊していくのである。
 細菌戦の残虐性は、伝染病によって人々を殺傷し、パニック状態に落とし込めるというだけでなく、長期間にわたって、地域社会を根底から破壊していくという点にある。控訴人ら、細菌戦の被害地住民にとって、細菌戦による被害は、戦争一般による被害には解消できないものである。控訴人ら被害者にとって、何十年経とうと、その受けた被害を癒されることはないのである。

  (7) 以上の通り、日本軍による細菌兵器を使ったジェノサイドの被害は、 ナチスのアウシュビッツでの残虐さと同罪であり、過去に例がないほどの残虐なものであった。

 3 以上のように、本件細菌戦が人類史上、最も残虐で卑劣なジェノサイド であり、控訴人ら被害者の被った甚大な被害を踏まえて、原判決が細菌戦の事実を認定し、かつ被控訴人の国家責任を認めながら、控訴人らの請求を退けた法律論について、次章以下で、逐次、反論を加える。


第2章 請求権問題、「日中共同声明等による解決」論について

第1 原判決および被控訴人国の追加主張の誤り

 1 原判決の判断
   原判決は、日中共同声明等が控訴人らの請求にいかなる法的影響を及ぼすかという点について、「被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認めたうえで、本件細菌戦に係る被控訴人の国家責任は、日中共同声明で「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したこと、日中平和友好条約により「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」したことによって、「国際法上はこれをもって被告の国家責任については決着したものといわざるを得ない」と判示している。

 2 被控訴人国の追加主張
 被控訴人国は、控訴審において、「日華平和条約11条及びサンフランシスコ平和条約14条(b)により、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権は、国によって放棄されている。日中共同声明5項にいう『戦争賠償の請求』は、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権も含むものとして、中華人民共和国政府がその『放棄』を宣言したものである」(被控訴人第1準備書面124頁)と新たに主張を追加した。

 3 控訴人らの主張
 しかしながら、日中共同声明では、国民個人の損害賠償請求権まで放棄したとは言えない。
 第1に、日中共同声明の中で戦争賠償に関して述べている5項は、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と規定しており、文言自体からして、中華人民共和国政府の日本国に対する、いわゆる「戦争賠償」の請求を放棄しただけであり、中華人民共和国の国民個人の日本国に対する請求権を放棄したのではない。
 これは、日ソ共同声明、日韓請求権協定などの二国間条約等で「国及びその国民」と規定されていることと比較すれば、国民の請求権を意識的に除外したことが明らかであり、中華人民共和国が国民個人の日本国に対する請求権を放棄したのではない。
 この日中共同声明の文言は、日中間の国交正常化交渉の不正常な結果の産物である。
 1949年に中華人民共和国が成立し、国民党政権が台湾だけしか実行支配していないにもかかわらず、日本は国民党政権との間で、1952年に日華条約を締結し、国民党政権を中国の唯一の正当政府として外交関係を続けていた。
 日中共同声明で、日本政府は、前文で「日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。」とし、2項で、「日本国政府は、中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを承認する。」と約束しながら、日華条約有効説を採り続けることは国際法上許されない姿勢を続けている。
 また日中共同声明の文言からは、国家の戦争賠償の請求権(請求の権利)すら放棄していないと解されるのである。日本側は請求権の「権」を抜いたことについて日華条約で請求権はすでに放棄されているので二度放棄できないためであるなどと説明するが、実際の国交正常化交渉の過程とは正反対の説明であり合理的な説明にはなっていない。
 第2に、被控訴人国は、そもそも日華条約と同条約で準用するサンフランシスコ条約の相当規定において個人の賠償請求権は放棄されたことになると主張するが、控訴人らは中国大陸の住民であるので、サンフランシスコ条約及び日華条約の締結の際、中国大陸を実行支配をしていたのは中華人民共和国政府であり、中華民国政府ではない。その他、サンフランシスコ条約及び日華条約において、控訴人らの賠償請求権を放棄したという議論は、無益な為にする議論といわなければならない。
 第3に、戦争被害の実態に応じた賠償は全くなされていない。
 第4に、そもそも国家は、国民個人の外国政府に対する損害賠償請求権を自国政府の代償措置なしに、放棄することはできない。しかし、日中共同声明に際し、中国政府が被害国民に補償措置をとった事実はない。したがって、中国政府は被害国民の請求権を放棄することを想定していないといわねばならない。
 第5に、控訴人らの被害は、ジュネーブ・ガス議定書で明示的に使用が禁止された細菌兵器の実戦使用という国際法違反の悪質な戦争犯罪によって引き起こされたものであり、ジュネーブ第4条条約の「非人道的待遇(生物学的実験を含む)等の重大違反行為の賠償請求の免責禁止」条項により、政府が国民の権利を放棄することはできない。
 第6に、日韓請求権協定第2条【財産・請求権―問題の解決】で、「両締結国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたことになることを確認する。」と規定し、「国民の請求権」を含めて規定しているが、この場合でも、日本政府は、個人の請求権を放棄したものではなく、外交保護権を放棄したにすぎないと国会答弁しているとおり、日本が当事者となった国家間の合意で、日本人の外国等に対する請求権の場合と外国人の日本国に対する請求権のいずれも、国民個人の請求権放棄ではなく、外交保護権の放棄にとどまるという見解を表明している。
 第7に、中国の政府高官は、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、国民個人の権利であることを表明しており、日中共同声明の当事者である中国政府が個人の賠償請求を日中共同声明で放棄したと理解しているとは到底考えられない。
 第8に、最近の裁判例を検討して、いかなる意味でも、日中共同声明等で個人の賠償請求を放棄したと解する余地がないことを確認する。

第2 日中共同声明の文言から、国民個人の賠償請求権を放棄していないこと

 1 日中共同声明5項の文言
 日本政府と中華人民共和国との間で、1972(昭和47)年9月29日、日中間の戦争状態を終結させるため、日中共同声明が発せられた。同声明の5項は、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と規定した。
 日中共同声明は、文言自体からして、中華人民共和国政府の日本国に対する戦争賠償の請求を放棄しただけであり、中華人民共和国の国民個人の日本国に対する請求権を放棄したとは規定されていないのであり、個人の私的請求権は放棄されていない。

 2 各国との平和条約等の文言との比較
 日本国と各国との平和友好条約等では、国家と国民の請求権を分けて規定している。

(1) 1949年のサンフランシスコ平和条約14条(b)は、「連合国は、 連合国すべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事経費に関する連合国の請求権を放棄する。」と国家と国民の請求権を分けて規定している。
 これと明らかに異なり、日中共同声明第5項には、中国国民の請求権を放棄することは明記されていないし、中華人民共和国政府が放棄するとしたのは国家の「戦争賠償の請求」のみである。

(2) 1956年10月19日にソヴィエトと日本国間で締結された《日本 国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言》の中にも、既に国家賠償と民間賠償を区別した先例がある。(甲504菅建強「鑑定書」37頁以下参照)
 この宣言の第六条に、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に放棄する。」と規定している。
 このほかに、日本国とアジア国家の締結した平和条約あるいは協定でも、更にこの問題を説明することができる。

(3) ビルマはサン・フランシスコ講和会議に参加しなかったが、日本国と ビルマ連邦は単独で平和条約を締結し、1954年(昭和29年)11月5日、日本・ビルマ両国は「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」及び「日本国とビルマ連邦との間の賠償及び経済協力に関する協定」に調印した。日本国は、ビルマ連邦に対し、賠償と借款をすることとなった。日本・ビルマ平和条約第五条第二項に、「ビルマ連邦は、この条約に別段の定がある場合を除くほか、戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたビルマ連邦及びその国民のすべての請求権を放棄する。」と規定されている。

(4) 1958年1月20日、ジャカルタで平和賠償条約、即ち《日本国と インドネシア共和国との間の平和条約》が調印された。その第四条第二項に、「インドネシア共和国は、前項に別段の定がある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償請求権並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。」と規定されている。

(5) 1965年6月22日、日韓両国政府は《日本国と大韓民国との間の 基本関係に関する条約》及び4つの協定に調印した。《財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定》の第一条第一項に、「日本国は、大韓民国に対し、三億合衆国ドルを無償供与し、二億合衆国ドルを政府へ長期低利で借款するものとする。」
 第二条第一項に、「両締約国は、両締約国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全且つ最終的に解決されたこととなることを確認する。」と規定されている。

(6) 《日本とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定》 は、事実上、日本国のシンガポール国家及び国民に対する無償供与に関する協定であり、“「血債」協定”との名称がある。この協定の第一条第一項に、「日本国は、二十九億四千万三千円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をシンガポール共和国に無償で供与するものとする。」第二条に、「シンガポール共和国は、第二次世界大戦の存在から生ずる問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。」と規定されている。

(7) 《日本とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定》も、事実 上“「血債」協定”である。この協定の第一条第一項に、「日本国は、二十九億四千万三千円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をマレーシアに無償で供与するものとする。」第二条に、「マレーシア政府は、両国間に存在する良好な関係に影響を及ぼす第二次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべての問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する。」と規定されている。

(8) 1951年のサン・フランシスコ講和条約会議以後、日本とタイとの 国交が回復し、1955年7月9日、バンコクで、《特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定》が調印された。この協定の第一条第一項に、「日本国は、五十四億円に相当するスターリング・ポンドを、五年に分割してタイに支払うものとする。」第二条に、「日本国は、九十六億円を限度額とする投資及びクレジットの形式で、日本国の資本財及び日本人の役務をタイに供給することに同意する。」第三条に、「タイ政府は、次の請求権を含む「特別円問題」に関する日本国の政府及び国民に対するすべての請求権を、タイ政府及び国民に代って、放棄する。」と規定されている。

(9) ミクロネシアのパラオ共和国は、第二次世界大戦後、国際連合憲章お よび信託統治協定により米国の施政下に置かれていた。
 1969年4月18日、《サン・フランシスコ平和条約》第十四条(a)を基礎とし、日米間で《太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定》(アメリカとミクロネシア協定)が締結された。この協定の前文に述べられているように、太平洋地域の住人が第二次世界大戦中、日米間の敵対行為によってこうむった苦痛に対し同情の念を表明しつつ、日本国及びその国民に関する請求権、施政当局及び住民の財産・請求権の処理の問題についての両国間の特別取り決めの最終的解決を確認することにつき合意に達した。
 日本国は施政者であるアメリカ合衆国に対し、三年間、五百万米ドル(日本円十八億円)相当額の生産物及び日本人の役務を無償で供与し、アメリカ政府もこの地域の住民のために、五百万米ドルを拠出する。第三条に、請求権問題に関しては、既に完全にかつ最終的に解決されたことに双方同意することを調印する、と規定されている。

(10) 第二次世界大戦で中立国であったスイス、デンマーク、スウェーデ ン、スペインなどの国は、大戦中、日本軍が南方地域及び中国で、上記の国民の人的・物質的損害に対して、国際法の原則に基づき賠償請求する権利を有する。
 日本とスイスの間では、1955年1月に協定が調印され、日本はスイスに対し、1350万スイスフラン(約11億日本円)を支払った。 スペインとの間では、1957年1月、公文書が交換され、日本はスペインに対し、550万米ドル(約20億日本円)を支払った。
 スウェーデンとの間では、1958年5月に協定が調印され、725万クローネ(約5億日本円)を支払った。
 デンマークとの間では、1955年9月及び1959年5月に協定が調印され、日本は30万英ポンド(約三億日本円)と117万5千米ドル(約4億2300万日本円)を支払った。

(11) 日本とスイスの協定の第三条第二項に、「スイス連邦政府は、第一 条に掲げる金額が日本側から支払われた際、即、この条及び第二条に掲げる政府の一切の要求を放棄し、スイス国民は、この問題に関して、いかなる請求をも日本政府に対して提起しないことを約束する。」と規定されている。

(12) 日本とスペインの協定の第三項に、「第一項に規定する金額の支払 い後、日本国政府は、この条項に述べる損害及び苦痛に関する一切の賠償請求の責任を、完全かつ最終的に免除される。」と規定されている。

(13) 日本とスウェーデン政府間の協定の第四条に、「スウェーデン政府 は、第一条に掲げる金額をひとたび日本政府が支払った場合、この条項に述べる一切の請求権は、完全かつ最終的な解決を得たと見なすことを承諾する。スウェーデン政府は、日本政府がこの条項に掲げる金額の支払い後、前述の請求以外のいかなる賠償・支払いも請求しないことを保証することを併せて約束する。」と規定している。

(14) 日本とデンマークの協定の第三条に、「第一条に掲げる金額をひと たび支払った場合、第二次世界大戦(1937年7月7日のシナ事変の発端を含む)期間、日本国の政府機関がデンマークの政府機関及び国民と法人に与えた損害及び苦痛に対する、一切の相関する損害賠償請求の責任に関して、完全かつ最終的な免除を得る。」と規定している。

 以上をまとめると、1972年に日中間で《日中共同声明》が締結される以前に、多くの国際外交法の実践により、既に十分、国際習慣法上での国家と国民の戦争賠償請求権に関する明確な区別が存在していたことが説明できる。
 日中両国の指導者が《日中共同声明》に署名した際、日本とアジアの被害国が結んだ協定について、収集し研究し対比しなかったと考えることは不可能である。
 日本とアジア被害国国家が調印した協定の中に、国家と国民二種類の損害賠償の権利がある、との明らかな前提の下で、《日中共同声明》の中では、中国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄するとの条文を使用したのであり、その意図は明らかである。よって、共同声明の中で放棄したのは、中国の国家の請求のみである。

第3 日中国交正常化交渉における賠償請求権問題

 1 日中国交正常化と日中共同声明締結の背景
 米国政府は、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を秘密裡に中国に派遣した。キッシンジャーは周恩来首相と会談し(7月9〜11日)、15日にニクソン大統領が翌年5月までに北京を訪問すると発表した。 
 同年10月25日には、国連総会で、中華人民共和国の代表権を認め、台湾の中華民国政府(国民政府)を追放するという第2758号(アルバニア案)が圧倒的多数で可決された(賛成76、反対35、棄権17)。
 中国の国連加盟問題は、1949年の中華人民共和国の成立とともに起こり、翌1950年にはソ連が安保理に提出したが否決され、同年インドが国連総会に提出した決議案も否決された。中華人民共和国の加盟に反対したアメリカは、アジア・アフリカの新興国の国連加盟が急増すると、1961年に中国の加盟問題を重要事項(可決には3分の2以上の賛成が必要)にすることを提案して可決された。 
 1971年のキッシンジャーの訪中以後、アメリカは従来の政策を転換し、中華人民共和国の国連加盟は支持するが、台湾の中華民国政府の追放には反対するとの方針をとり、同年9月に中華民国政府の追放を重要事項とする逆重要事項指定決議案と、中華人民共和国と中華民国政府の二重代表制案を国連に提出し、日本も共同提案国となった。 
 しかし、10月に開かれた国連総会では、逆重要事項指定決議案は否決され(賛成55、反対59、棄権15)、中華人民共和国の代表権を認め、中華民国政府を追放するというアルバニア案が可決された。 
 1972年2月21日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、2月27日に共同声明が発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民共和国を事実上承認した。
 ニクソン訪中後、社会党、民社党、公明党各政党は代表団を中国に派遣し、日中国交正常化に関する原則を協議した。1972年4月13日、民社党訪中代表団と中日友好協会代表団とが共同声明を出し、次に挙げる復交三原則を発表した。
@ 世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人 民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」など荒唐無稽な主張に断固反対する。
A 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中 国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。「台湾地位未定」論と「台湾独立」を画策する陰謀に断固反対する。
B 『日華条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならな い。

 2 日中共同声明』と復交三原則に関する問題
 1972年9月25日、日本国首相・田中角栄が政府代表団を率いて訪中した。同年9月29日、中国政府を代表した中国首相・周恩来と中国外務部長・姫鵬飛並びに日本政府を代表した首相・田中角栄及び外務大臣・大平正芳が署名したことにより、ここに日中両国の共同声明が発表されたのである。
 日中国交が樹立されたのに伴い、日本と台湾との政府当局間の関係はすべてその法律的効果を失い、民間でのみ台湾との関係が保持されたのである。
 『日中共同声明』では、次のように言及している。
「日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。」(前文)
 この記載は、日本政府は中国政府が提出した復交三原則が日中国交正常化の前提条件であることを十分に理解し、日本国が充分な理解に基づいて中国政府との共同声明を発表したと、言い換えることができる(甲504菅建強「鑑定書」24頁以下参照)。
 よって、この声明の発表によって、日本政府が中国政府と同じ立場に立つこと、即ち、『日華平和条約』は無効な条約であるとする立場に立つことを承認したといえる。
 『日中共同声明』のみならず、その後に発表された『日中平和友好条約』においても、「前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきこと」を重ねて確認している。
 『復交三原則』の第一原則は、「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」(『日中共同声明』二項)ことである。
 『復交三原則』の第二原則は、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない」(『復交三原則』第二項)ことである。この問題に関しては、『日中共同声明』三項の形式により問題の解決が図られているのだが、即ち、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」のである。『ポツダム宣言』第八項には「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベクとあり、『カイロ宣言』では、次のように規定されている。
 「同盟国の目的は、…中略…並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。」
 『カイロ宣言』でいう“中華民国”は実際の国土としての中国大陸を意味しており、それ故に、中華人民共和国政府は台湾島が中国の領土であると主張するのである。『復交三原則』の第三原則は、「『日華条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。」と言うものである。

 3 国交正常化3原則と日華条約の取り扱い
 国交正常化3原則の第3項には日華条約は不法であり、破棄しなければならないとなっているが、中国政府は、日本政府の「困難」を考慮した形で、日本側の自発的な処理に任せた(甲505殷燕軍「鑑定書」18頁以下参照)。
 1972年9月28日第四回目の首脳会談で田中角栄総理は「台湾は日中国交正常化後は戦争状態に戻るといっているから、日本の総理としては困っている」と言った。周総理は「今回の共同声明につき、中国側で、戦争状態の問題につき、表現を考えたのは、その点に配慮したからである」と双方の妥協を説明した。
 つまり、日本側は、日華条約の破棄による効果は十分覚悟しており、「平和条約」破棄なら戦争に等しいことであるのは、十分承知している。また中国側は、日本側の「困難」を配慮し、「不正常な状態」に換えたのである。
 結局、日本側は、言葉的には、日華条約を破棄したのではなく、終了したという言い方で日華条約の無効化をさせたことにより、三原則の第三項の要求に応じたのである。
 また三原則の第一項は、共同声明第二項「中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であることを承認する」と、三原則第二項は、共同声明第三項、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
 日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と書き加え、台湾政権と国交を断交することで、中国側の正常化3条件を満たしたのである。

 4 周恩来首相の日華条約に対する態度と請求権に関する中国側提案の趣旨
 周恩来首相は、日中国交正常化に向けた田中角栄首相との第2回首脳会談(1972年9月26日)において、「日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという外務省の考え方を聞いて驚いた。蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約(引用者・サンフランシスコ条約)の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。田中・大平両首脳の考え方を尊重するが日本外務省(引用者・高島条約局長)の発言は両首脳の考えに背くものではないか。」(甲540『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』の56頁)と述べ、日華条約で賠償を放棄しているから二度放棄する必要がないという外務省高島条約局長の発言を批判し、日中共同声明5項に結実される戦争賠償放棄の提案の趣旨を説明している。
 これに対し、田中角栄首相は、「大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならない問題が沢山ある。しかし、訪中の目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。」「賠償放棄についての発言を大変ありがたく拝聴した。これに感謝する。中国側の立場は恩讐を超えてであることに感銘を覚えた。」(甲540の58頁)と応じ、日本政府として日華条約を実質的に無効にすることを約束した。
 なお、そこで想定された賠償の内容は、戦闘行為に伴い中国国家が支出した戦費や、通常の戦闘行為に伴う中国国家が被った物的損害などを念頭に置いたものであり、中国の民間人が被った個別の特別な損害などはもともと含まれていない。
 まして、明白な戦争犯罪によって中国民間人が被った損害についてまで、賠償請求を放棄して犯罪行為を宥恕するなどということは、論外のはずであって、それまで放棄の対象に含めるなどという考えは毛頭ないものというほかない。

 5 日中共同声明5項では、請求権という法的権利を放棄していない
 中国の戦争賠償請求放棄は法的表現ではなく、その請求「権」は放棄できなかった(甲505殷燕軍「鑑定書」21頁以下参照)。
 日中間の公式交渉会談で日本側が、賠償問題はすでに日華条約の段階で解決済みと主張し、「一国に二度の賠償放棄を認められない」と、中国側の賠償請求権放棄を「受け付けない」立場を表明した。共同声明での文言をめぐって、日本側は依然として日華条約が有効性をもつというこれまでの法律論を主張し、中国側からの「二度目」(台湾側が一回目)の賠償請求権の放棄に難色を示した。その結果、「戦争賠償請求の放棄、といった文言は、中国側の強い要求で共同声明に入れられたが、賠償請求権の「権」については、日本側の強い要望により文章から削除させられた(1972年9月30日の大平外相の自民党両院議員会議での発言)。
 ところで日本政府案と中国側の声明案とは、賠償条項の内容に違いが見られた。賠償条項について、日本政府案の第7項としながらも、全項に括弧をつけたのである。その括弧について日本の「対中説明」には次のように記している。「賠償の問題に関する第7項は、本来我が方から提案すべき性質の事項ではないので、…日本側提案のような法律的ではない表現であれば、日中双方の基本的立場を害することなく、問題を処理しうると考える」と。それにしたがって日本政府案には、「中華人民和国政府は、日中両国国民の友好のため、日本国に対して、両国間の戦争に関連したいかなる賠償の請求も行なわないことを宣言する」と書かれていた。ここに二つの問題が浮き彫りされている。
 一つは、日本政府は、「解決済み」とする賠償問題についても、「いかなる」賠償の請求ということで戦争賠償問題の「完全」解決を求めようとしたのである。もう一つは、戦争賠償請求権の放棄ではなく、「賠償の請求を行なわないことを宣言する」という形で、中国側の戦争賠償請求権の存在を認めること自体を避けようとした。つまり日本側はそもそも中国側の賠償請求権さえ認めようとしなかったのである。
 結局、日中共同声明第五項には「中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と書かれた。「戦争賠償請求を放棄する」といった請求権の“権”をとったことにより、それが法的表現ではないことを意味した。そのため日中間においては、戦争処理や賠償問題が法的に解決される文書が存在しているのかどうかも問題になった。
 つまり日本側が堅持した通り、この記述は法的表現ではない。「賠償請求は放棄したとはいっても、請求権は放棄していない」。またその権利はまだあることはもちろん、今回は請求しない。その請求の権利を日本側の強い要請で、留保させられたか、中国側がその請求の権利を放棄できなかったか、と解釈するしかないのである。逆にもし「賠償請求を放棄する」と「賠償請求権を放棄する」とは同じことだと解釈するならば、なぜ当初「賠償請求」の権をわざわざ日本政府が取らなければならないであろうか、と問わざるを得ないのである。
 この経緯は、日本側にとって、“日華条約の整合性”のため、好都合のように見えるが、実際に新しい問題を発生させた。つまり、日本側の認識として「法律的ではない表現」しか賠償問題の言及を認めないという立場により、せっかく合意された共同声明にある戦争処理に関する文言は、いずれも「法律的ではない表現」になることを、日本政府が認めたことを意味するからである。言い換えれば、中国側が日華条約の法的合法性を否定し、日本側が日中共同声明の法的意味を否定する解釈をすることにより、日中間の戦争処理問題は、今日になっても依然として法的には未解決のままにあり、双方の合意ができていない状態なのである。
 この問題に関する毎度の政府見解のなかで、必ずといっていいほど、「中国が賠償請求権を放棄した」と断言しているのであるが、それは日本政府が「うっかり」したためかどうか、日本政府が自ら求めた結果として請求の「権」を文書から取ったことを忘れてしまったのである。その結果、中国側がその「権利」を放棄した法的な根拠は、日中共同声明を含め、何処にもないはずである。

第4 日華条約によっては賠償請求権は放棄されていない

 1 日華条約締結の経緯
 中華人民共和国政府と中華民国政府の不参加にもかかわらず、日本は『サン・フランシスコ平和条約』に調印した(甲504菅建強助教授「鑑定書」16頁以下参照)。
 日本の国会では野党が、サン・フランシスコ条約の締結に関する審議の過程において、中華人民共和国政府と平和条約を締結すべきだ、との主張をした。それに対し、吉田茂首相は、台湾の国民政府は地方政権の一つに過ぎないと回答していた。
 1951年12月、アメリカは再度ダレス国務長官を特使として日本に派遣した。同月8日に挙行された吉田・ダレス会談の結果、日本は24日にダレス特使に渡した“吉田書簡”の中で、アメリカに次のように伝えた。「中華民国の国民政府が望むのであれば、日本は『サン・フランシスコ平和条約』の原則に従って、国民政府と日中国交正常化に関する条約を締結し、中国共産党政権とは締結しない。」
 日本が唯一恐れたのは、米国上院が『サン・フランシスコ平和条約』を批准しないことであり、それ故にアメリカが支持する中華民国と平和条約を締結する決定を下したのである。
 しかし、吉田茂首相は、「二つの中国」政策を採っており、サンフランシスコ平和条約第26条にいう「二国間平和条約」は、国連における中国代表権問題が国際的に解決されるまで延ばしたいと考えていた。中国との平和条約締結は将来の課題として、とりあえず国民党政権との間で、「正常な関係を再開する条約」を結び、その条約の適用範囲を台湾政権が実効支配している地域に限定しようとした。
 日本政府は、台湾政権の「中華民国」を全中国の代表政府として承認したのではなく、日華条約はあくまでも中国との全面的関係のワンステップと見て、台湾政権に対する全面承認はしない政策を取っていた。
 1952年2月17日、日本国全権委員・河田烈が台北に赴き、1952年2月20日から正式に会談を開始し、4月28日に『日華平和条約』に署名、調印した。この間に行われた公式会談は3回、非公式会談は18回にものぼる。
 当初、中華民国は賠償を強硬に要求していたが、それは日本に対して賠償を要求しないと、中国大陸の“国民感情”を抑えることができないと考えたからである。この要求に対し、日本政府は、一度は会談を中止し、代表団を日本に呼び戻そうとすら考えていた。台湾の国民政府がこのように強硬な態度を採ったのは、米国上院の議員の一部を中心とする国民政府支持者たちの支持を期待していたからである。
 だが、米国上院が『サン・フランシスコ平和条約』を批准したため、国民政府の期待は外れ、賠償の要求を取り下げざるを得なくなった。
 このような背景があるが、形式上は、国民政府が自発的に賠償の要求を放棄する決定をしたことになっており、議定書上には、「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第十四条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」(『日華平和条約議定書』1(b)引用)と記載されたのである。このようにして、『日本国と中華民国との間の平和条約』(略称は『日華平和条約』である)は1952年4月28日に署名され、8月5日から効力を発することになった。この条約は十四の条文から構成され、この他に議定書、交換文書がある。その中でも、“議定書”は、「(日華平和)条約の不可分の一部を」なしている。
 日華条約の交渉経過と結果から考察すると、中国大陸から台湾に後退せざるを得なかった中華民国政府の国際的な地位は著しく低下し、会談において弱い立場に立たざるを得ず、問題を円満に解決し且つ本来の意図に反しないため、自発的に賠償請求権を放棄したように演じ、これを以って日本が台湾政権を承認するように図ったのである。
 一方、中華人民共和国政府は、日本に対して、賠償金額は少なくとも500億米ドル(1946年当時の貨幣価値に基づいて日本円に換算すると、18兆円に達する)に相当するとして、賠償を要求する態度をとり続けていた。
 敗戦国たる日本は、アメリカが台湾を積極的に支持している背景の下、自国の優勢な地位を充分に利用し、地位的に弱い台湾政権を条約締結者として選択し、賠償請求権の放棄を強いたのである。

 2 日華条約は中国大陸を代表する政府との講和条約ではない
  (1) 中華民国政府が中国という国家を代表して平和条約を締結していない
 1949年10月1日の中華人民共和国の成立で、「中華民国」の消滅を宣言され、中国に関する「中華民国」のすべての主権、権限などが消滅してしまった。
 この段階で「中華民国」の中国代表性がすでになくなり、中華人民共和国はそのすべての主権、権限などを継承した。一国の主権は分割することはできないことが国際法上の重要な原理である。
 中華民国から中華人民共和国へと政権の移行と法的継承(1949年10月)はあった。つまり政体の変化が、その代表する国家を変えることはなく、継承されたのである。
 被控訴人国の主張の根本的な誤りは、1949年に成立した毛沢東を主席とする中華人民共和国政府は中国民衆から支持された政権であり、蒋介石を総統とする台湾政府は中国民衆の支持を失った政権であるという歴史的事実を無視していることである。この点は、サンフランシスコ条約―日華条約―日中友好条約の解釈に当たり極めて重要なことなので、次章で項を改めて詳述する。

  (2) 台湾にだけ適用されることを確認した適用範囲制限の交換公文
 日華条約は、交換公文第一号で、「この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある」旨の了解を行い、日華条約が台湾にだけ適用されることを確認した。
 日華条約締結交渉にあたり、日本が強く求めていたのは、この条約適用範囲の限定であった。
 最初、蒋介石の中華民国政府(以下では、「台湾政権」ともいう)は、全中国の「代表政府」である政治的主張から強く拒否し抵抗し続けたが、日本と条約を結ぶためには、このような「侮辱的」ともいえる限定条項を受け入れざるを得なかった。
 日本政府はこの吉田書簡に書かれた「条約適用範囲」に基づき、台湾政権との条約締結交渉に臨んだ。締結交渉の中、日本側全権委員は、吉田書簡の内容、つまり後の条約交換公文第一号の内容について一文字の修正も応じないという強い姿勢を示し、最後まで日台間の大きな紛争点であった。
 周知のように、台湾政権は、日華条約の発効から「終了」まで、台湾・澎湖地域しか支配しておらず、中国本土への支配はなかった。

(3) 日華条約が中国本土には適用できない
 『ウィーン条約法公約』第29条には、次のような規定がある。
「条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及びこの意図が他の方法によって確認される場合を除くほか、各当事国をその領域全体について拘束する。」
 この条文は、公約が規定する条約の適用地域に関しての基本原則の一つである。一般的には、条約は締結する当事国の領土全域に適用されるものである。条約締結国が条約の適用地域を締結国の領土、領空の一部のみに制限できるとは言え、国家間における戦争状態の終結、特に、日中戦争のように日本・中国両国の間で行われた戦争の終結問題に関して、平和条約を締結することは、双方の国家の全領域に条約が適用されることを前提にして条約を締結するのであり、一国の一部領域にのみ条約の効力が及ぶことなどありえない。
 仮に、締結した平和条約の効力がその当時において一国の一部領域及び一部の住民にだけ及ぶのであるならば、交換公文で述べられているように「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある」ならば、このようにその効力が将来にまで約束された条文は、現在の戦争状態を終了させる目的で締結される平和条約に、根本的に違反しているのである。
 それ故に、このように“平和条約”と名づけられた条約は、締結国全域と交戦国との交戦状態を今すぐ終了させるために締結されたものではないばかりか、交戦状態にある当事国ですらいつになったら戦争状態が最終的な終結を迎えるのか、見当がついていないことを証明している。
 『日華平和条約』が無効な条約であることの根拠は、結局のところ、日本国との『日華平和条約』締結は台湾国民政府の越権行為であり、日本国は国民政府が中国全土を代表して交戦状態を終了させる平和条約を締結する権利能力を持ち得ないことを知っていたにも拘らず、尚且つ国民政府と平和条約を締結したことにある。

  (4) 日本政府の国会答弁
 日華条約の批准に関する国会において、日本政府は、日華条約の適用範囲が中国大陸に及ばないことを明確に答弁していた。
ア 1952年5月30日、衆議院外務委員会において、林百郎(共 産)議員の「サンフランシスコ講和条約第14条(a)に基づき日本国の提供する役務賠償はこれを放棄するとあなた方の言う中華民国はいっているのでありますが、これは中国大陸全部に対する役務賠償を放棄するということを言っているのですか」との質問に対し、石原幹市郎外務次官は「重ねて申し上げますが、この条約には林委員が言われたような予見と予定とかいうようなことは何らいたしておりません」と答え、倭島英二条約局長は「いまご指摘の議定書1の(b)の関係でございますが、これは中華民国に関する限りこういう合意に達したということであります」と台湾地域に限定する発言をした(同委員会会議録15頁)。
イ 1952年6月18日、参議院外務委員会で、曽弥益(社会党右 派)議員が、日本と中華民国との間の戦争状態の終了がどれほどの効力をどの地域に対して持つかについて、「もう一遍全部を包括したはっきりした説明をして頂きたい」と質問したのに対し、倭島局長は「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する」ということでございますけれども、実際問題として、(中略)そういうことを言い放しでは、甚だ現実の状態と離れてしまう。」「中華民国政府は例えばこの戦争状態を終了して平和な恰好になつて来た。ところが日本と中華民国政府の支配下にない地方との関係において行われたこと、或いは起つた事件ということについて中華民国政府が責任をとらなきやならんというようなことが生ずるかも知れない。それは実際支配下にないところについては酷だという気持がするわけであります。従つてその支配下にない地域で起つたこと、それは戦争状態を終了してしまつたということであつてもそれについては責任がとれない。やはりそういう問題について中華民国の関係においては現実の事態に引戻しておかなければいけないということでありまして、で適用範囲のところに、交換公文にありますように中華民国に関する限りそれは現実の事態というものに即応する意味において現にその支配下にあり、又将来その支配下にあるべき地方ということに限定されたというようなふうに解釈をしております。」(同委員会会議録15頁)と答えた。
 さらに岡崎勝男外相は「今回の条約におきましては、相手国はリパブリック・オブ・チャイナというも、交換公文の第二段にあるのはチャイナである。こういう違いは我々も認めております。これがどういうふうに発展して行くかは、これは一つの政治情勢によると思いますけれども、要するにこの吉田書簡の趣旨によりまして、チャイナとの間には究極においては全面的な関係を打ち立てたい。そこで現在可能なのはリパブリック・オブ・チャイナとかかる関係に入ることである」と台湾政権への限定承認を認めた(前同)。
ウ 同年6月26日、参議院外務委員会において、日華条約について、 曽弥議員は、「この条約によって日本政府は、この中華民国国民政府というものを全面的な中国の主人として承認したものではない。(中略)その点は総理のはっきりしたお考えを、イエス・オア・ノーでお答え願いたい」と質問したところ、吉田は「これは条約にもはっきり書いてありますが、現に中華民国政権の支配しておる土地をもつ中華民国との間に条約関係に入る。将来は将来であります。併して目的は終わりに一中国全体との条約関係に入ることを希望して止まないのであります」と答えた。曽弥は「総理、ずばりと言えば、全面的な承認ではないということでございましょう」と詰め、吉田「そういうことです」と「誤解の余地のない言葉」で台湾政権への限定承認を認めている(同委員会会議録8頁)。
 つまり、日華条約調印当初から日本政府は台湾政権に対する全面承認ではなく、限定承認であることや日華条約の限定性も認めていたのである。また台湾政権(中華民国)は日本政府からみても最初から国際法上の当事者としても不適切だったのであった。

  (5) 中華人民共和国政府の日華条約に対する態度
 1952年5月5日、即ち日華条約署名1週間めにあたる日に、周恩来首相は中華人民共和国政府を代表し、次のような声明を発表した。
 「アメリカが宣布し、効力を発した全ての対日単独平和条約は、絶対的に承認することはできない。中国人民を公の場で侮辱すると同時に敵視した吉田・蒋介石平和条約に対し、断固として反対する。」
 同時に、蒋介石の行った“賠償要求の放棄”の承諾を「他人の物で自分の面子を立てる」ものとして激しく非難し、中国政府と中国人民は、蒋介石の承諾を絶対に承認しないと述べた。周恩来は、日華条約は違法且つ無効の条約であると厳しく表明した。

  (6) 中華民国政府の国際的地位
 サン・フランシスコ講和会議は、戦時下において最大の損害を受け、且つポツダム宣言の構成国であり調印国である中国の参加を招請しなかった。
 その当時、ポツダム宣言の署名国家4ヶ国の中では旧ソ連とイギリスが、中華人民共和国政府が中国における唯一の合法政府であることを承認済みであった。そのためアメリカが台湾の国民党政府に講和会議へ出席する代表権を与えることができなかった。
 アメリカは台湾政権を引き止めるため、日本政府に対し、サンフランシスコ平和条約の発効までに、日本が台湾政権と『日華平和条約』を締結することを要求した。

  (7) 国際法の原則から、日華条約は平和条約としての効力を有さない
 国際法の原則によると、内戦状態の時に革命によって樹立された革命政府の実際的支配が確立する以前に、旧政府と他国とが締結した条約などは、新しく樹立された革命政府に対しても拘束力をもつ。
 だが、革命政府が国内において実際的な支配を揺るぎないものとして確立した後は、旧政府と他国が締結したあらゆる条約は革命政府に対しての拘束力を失う。
 『日華平和条約』が締結された当時、新中国政府は中華民国政府が過去に支配していた地域のうち、台湾、澎湖諸島、金門そして馬祖二島の計四箇所を除いて、既に中国の全領域を支配しており、すでに支配地域における有効な支配期間は2年半にも及んでいた。
 前述した国際法の原則に基づいて考えると、日華条約は中華人民共和国政府に代表される中国大陸に対しては、拘束力がないのである。
 当時、台湾に追いやられた国民党政府は、限られた領域を占拠していた或いはそこの住民を支配していたにすぎず、中国本土に反撃する或いは本土を支配することは実質不可能であった。過去の歴史上かつては中国全土を代表する合法政府であったとしても、人民の武装蜂起により、その法律的地位は交戦団体の地位にまで下がってしまった。
 一国にはその国の代表としての政府は一つしか存在しないことは、当然のことである。内政の動乱の時期には複数の政府が樹立される可能性はあるが、それは暫時のことに過ぎない。中華民国の憲法の効力は中国の全領土にまで及び、既に台湾国民党政府は中国大陸の全領土と住民に対する支配力を完全に失っていた。

 3 日華条約により、国民個人の請求権の放棄が入るか
 日華条約には、国民個人の請求権放棄が明文にはなっていない。
 被控訴人国は、日華条約11条は、「この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除