第二審関係 (現在審理中)
第一審判決
中国の新聞に掲載された
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[第二審関係] 2004年5月22日(土)キリスト新聞




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歴史に学び、今を生きる
中国の常徳・重慶を訪ねて
    政教分離の会事務局長 西川 重則

民衆による1万人抗議集会

 4月1日から7日にかけて、中国の常徳と重慶に出かけた。常徳市では若い世代の人々と市民とが結集して、4月2日、1万人抗議集会が開かれた。         
 抗議集会は4つの柱からなる主張でもたれたもので、その第一は、4度にわたる小泉首相の靖国神社参拝に対して、第二はイラクへの自衛隊「派遣」に対して、第三は七三一部隊細菌戦に対して、そして第四は、「戦争反対・平和」であった。
 私は、靖国神社問題についての報告と課題をステージから訴えた。それにしても、日本では難しい靖国神社参拝に対する1万人抗議集会が、民衆によって行われたことは常徳ならではという感を、深くせざるを得なかった。
 1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発して、対中国全面侵略戦争に突入、常徳は七三一部隊細菌戦の実験の場所となり、多くの被害者が出た。
 一方、重慶は1939年5月3日、4日を皮切りに、日本軍による無差別戦略爆撃が繰り返され、莫大な被害が出た。
 ともあれ、常徳においては、何が起こったかについて、日本ではほとんど知られていない。したがって、なぜ、1万人抗議集会が民衆によって常徳で行われたのかが理解できない。
 そこで、細菌戦のテスト・ケースにされ、言葉に表せない非人道的行為が繰り返され、東京地裁において裁判官が事実の認定をせざるを得なかった生きた証拠を報告しておきたい(『裁かれる細菌戦』資料集シリーズNo.8から)。

細菌戦被害地としての常徳

 @1941(昭和16)年11月4日、七三一部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し、ペスト感染ノミと綿、穀物等を投下し、これが県城中心部に落下した。
 A11月11日にはペスト患者が出始め、初発患者発生から約2か月間の一次流行で県城地区で8人の死亡患者が出た(当時の『防治湘西鼠疫経過報告書』による)。ところが、約70日の間隔を置いて、1942(昭和17)年3月から二次流行が起き、6月までに県城地区で合計34人の死亡患者が出た(同報告書)。
 B1942(昭和17)年3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。
 なお、「常徳市細菌戦被害調査委員会」によれば、調査範囲は極めて広いが、常徳関係のペストによる死亡者は7643人に上るとされている。
        
新しい戦争の先駆けとして

 重慶もまた、私にとって初めての訪問となった。なぜ、重慶かと問われれば、私は次のように答えねばならない。私がずっと地味な研究テーマの一つとして続けている侵略・加害の歴史の事実にかかわる重慶研究の場所に初めて具体的に足を運び、念願が適ったということである。
 重慶は、日本が対中国全面侵略戦争を開始するに至った1937年7月7日を契機に蒋介石が国民政府の首都としたことで知られるようになった。ここでは戦争中、援蒋ルートとして、イギリス、アメリカ、旧ソビエトなどが重慶に物資を輸送し、援助を続けたことから、日本が中国の経済封鎖を行うだけでなく、対日抵抗の拠点である重慶爆撃を企図した事実を報告しなければならない。
 初期の段階から日本の軍事戦略構想の一環として重慶爆撃が計画されたことは自明と思われるが、あまりに遠方であり、しかも天候不順が多いため、空爆が成功しない状態だった。
 そうした経緯を経て、ついに1939年5月3日、4日、海軍による無差別戦略爆撃がなされ、重慶は火の海と化した。その惨劇は語り継がれ、今に至っているのである。

今も残る無差別爆撃の傷跡

 特に、最初の重慶爆撃の目標は軍事施設ではなく、重慶の中央公園であったとされ、無辜の民衆に対する恐怖・惨禍そのものが戦略爆撃構想の主要な目的ではなかったのかといわれ、今日の無差別爆撃の先駆けとなったと批判されている。
 ナチス・ドイツによるスペインのゲルニカ、米軍による東京大空襲など、無差別爆撃の事例と共に、そして21世紀の今日、アメリカのイラク戦争に至るまで、軍事施設攻撃といいながら、無差別爆撃が繰り返され、尊い人命が失われるという、新しい戦争のタイプの先駆けとなった、重慶大空襲の惨劇の事実、その出来事は今後も忘れ去られることはないであろう。
 私は、中国の方に、中央公園の空爆の跡を直接見たいと頼み、ハードスケジュールの日程の中に入れていただき、その場に行くことができた。そして、65年前の1939年5月3日、4日の重慶の爆撃の惨禍に至る、戦争への道を、深い反省と悔い改めのうちに、思いを新たにし、今日の日本の状況を顧みた。
 その日、旧市街の一角、通称一八梯と呼ばれる場所にも案内してもらった。1941年6月5日夜、日本の飛行機が来襲し、市民は一八梯で尊い命を奪われた。逃げ切れなかった多くの人々が折り重なって命が絶えた。近くの防空洞に逃げた人々も、長い来襲時間のため、多くの人々が窒息死した。死者900人以上、傷つき倒れた者が無数いたと記されている。
 終わりに、一昨年5月の北京大学での講演のための訪中に続いての、短い中国の旅であったが、学ぶべきこと、日本の責任課題、私たちの克服すべき多くの緊急課題を与えられての帰国となった。
 今なお、侵略思想が息づいている日本にあって、キリスト者として、主にあって歴史に学び、今を生きる思いを新たに、併せて、歴史の事実に基づく検証による真の和解の道を歩み続けたい決意を表明してペンを置きたい。