目次

主   文
 第1 原告らの求めた裁判
 第2 事案の概要
 第3 当事者の主張
 第4 本件訴訟の争点
 第5 当裁判所の判断
 第6 結論

謝 罪 文 (別紙2)

原告らの主張 (別紙3)
 第1部 日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
  第1 本件細菌戦被害の発生
  第2 被告の細菌戦
  第3 被告の細菌戦と本件各被害との因果関係
  第4 本件細菌戦の残虐性
  第5 井本熊男業務日誌による細菌戦の自認
  第6 被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為
  第7 原告らの損害
  第8 細菌戦による原告らの名誉侵害
 第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
  第1 ヘーグ陸戦条約3条に基づく謝罪及び損害賠償請求
  第2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への適用による謝罪及び損害賠償請求
  第3 中国法に基づく謝罪及び損害賠償請求
  第4 日本民法に基づく謝罪及び損害賠償請求
  第5 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求
  第6 被告の立法不作為による謝罪及び損害賠償請求
  第7 被告の細菌戦隠蔽行為に対する謝罪及び損害賠償請求
  第8 原告らの請求

被告の主張 (別紙4)
 第1 国際法に基づく請求について
 第2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への適用による謝罪及び損害賠償請求について
 第3 法例11条により準拠法となる中国民法に基づく請求について
 第4 日本民法に基づく請求について
 第5 条理に基づく請求について
 第6 立法不作為を理由とする国家賠償請求について
 第7 隠蔽行為を理由とする国家賠償請求について


 


平成14年8月27日判決言渡  同日判決原本領収 裁判所書記官 伊藤富雄
第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件
第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件
口頭弁論終結日 平成13年12月26日

判      決
当事者の表示   別紙1の「当事者目録」記載のとおり。
主   文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由




主文


第1 原告らの求めた裁判

1 第1事件原告らの求めた裁判
(1) 被告は,第1事件原告ら各自に対し,別紙2記載の「謝罪文」を交付し,かつ,同謝罪文を官報に掲載せよ。
(2) 被告は,第1事件原告ら各自に対し,各金1000万円及びこれに対する平成9年11月5日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  (3) 訴訟費用は被告の負担とする。
  (4) 仮執行宣言
 2 第2事件原告らの求めた裁判
  (1) 被告は,第2事件原告ら各自に対し,別紙2記載の「謝罪文」を交付し,かつ,同謝罪文を官報に掲載せよ。
  (2) 被告は,第2事件原告ら各自に対し,各金1000万円及びこれに対する平成12年3月18日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  (3) 訴訟費用は被告の負担とする。
  (4) 仮執行宣言


第2 事案の概要

 本件は,中華人民共和国国民である原告ら(第1事件原告108人,第2事件原告72人,合計180人)が,被告が第2次世界大戦中に中国大陸において当時の国際法に違反する細菌兵器を使用した戦闘行為(以下「細菌戦」という。)を731部隊等の細菌戦部隊に実行させて一般住民である原告らないしその親族を殺傷し,同大戦後は違法に救済措置立法を怠り,また細菌戦の事実を隠蔽したことによって原告ら又は承継前原告ら等に多大の精神的損害を与えた旨を主張して,被告に対し,謝罪文の交付及び官報掲載(謝罪)と慰謝料(原告1人について1000万円)の支払とを求めた事案である。
 原告らは,上記各請求の根拠として,@1907年(明治40年)の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ヘーグ陸戦条約」という。)3条ないしこれを内容とする国際慣習法,A現時点における国際慣習法の過去への遡及適用,B中国法(中華民国民法)の不法行為規定,C日本民法の不法行為規定,D条理,E国家賠償法1条1項(立法不作為,隠蔽行為)を主張しているのに対し,被告は,原告らの請求の法律上の根拠はいずれも主張自体失当であるとして,原告らの請求を争っている。
 なお,上記Eの請求は,上記@からDまでの細菌戦を原因とする請求に対して予備的請求の関係に立つ請求であり,かつ,上記Eの立法不作為に基づく請求と隠蔽行為に基づく請求とは並列的な請求であり,金銭賠償としてはそれぞれ500万円ずつの慰謝料の支払を求めるものである。


 


第3 当事者の主張

1 原告らの主張
 別紙3の「原告らの主張」のとおり。
2 被告の主張
 別紙4の「被告の主張」のとおり。


第4 本件訴訟の争点

 1 ヘーグ陸戦条約3条ないしこれを内容とする国際慣習法に基づく損害賠償請求権(謝罪請求権及び慰謝料請求権)の有無
 2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への遡及適用による損害賠償請求権の有無
 3 中国法に基づく損害賠償請求権の有無
 4 日本民法に基づく損害賠償請求権の有無
 5 条理に基づく損害賠償請求権の有無
 6 被告の立法不作為による損害賠償請求権の有無
 7 被告の細菌戦隠蔽行為による損害賠償請求権の有無


第5 当裁判所の判断

1 ヘーグ陸戦条約3条ないしこれを内容とする国際慣習法に基づく損害賠償請求について(争点1)
(1) 原告らの請求根拠について
 原告らも主張するように,ヘーグ陸戦条約2条には,同条約及びこれに附属する「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「ヘーグ陸戦規則」という。)の規定は交戦国がすべてヘーグ陸戦条約の当事者であるときに限り締約国間についてのみ適用するという,いわゆる総加入条項が規定されている。しかし,第2次世界大戦の交戦国中には同条約の締約国でない国も存在していたから,同条約は第2次世界大戦については直接適用されないことになる。そこで,以下においては,同条約を内容とする国際慣習法が成立していたことを前提とする原告らの主張について検討を進めることとする。
 しかるところ,原告らは,旧日本軍が「原告らの主張」第1部第1の1の@からCまでの時期と場所(中国大陸の4か所)で行ったと主張する細菌戦(以下「本件細菌戦」という。)による被害について,被害者個人が加害国に対し直接損害賠償請求をすることができるというヘーグ陸戦条約3条を内容とする国際慣習法が遅くとも本件細菌戦当時成立していたと主張するものであるから,まずヘーグ陸戦条約3条の意味内容を検討し,その上で原告らが主張するような内容の国際慣習法が成立していたかどうかを検討することとする。
(2) 条約の解釈方法
 条約の解釈方法については,1969年(昭和44年)に採択された「条約法に関するウィーン条約」(以下「条約法条約」という。)31条,32条がこれを規定している。しかし,一般に,条約の解釈はその条約の発効時における国際法上の条約解釈の規則によってされるべきものと解され,条約法条約も遡及しない旨が定められている(同条約4条)から,ヘーグ陸戦条約の解釈に条約法条約における規則を直接適用することはできない。しかし,条約法条約31条,32条における条約解釈の規則は,国際判例等により従来から認められ国際慣習法として成立していた条約解釈の準則を確認し明確化したものと解されるから,ヘーグ陸戦条約の解釈も,条約法条約31条,32条の条約解釈の方法に準じて行うのが相当である。
 ところで,条約法条約31条1項は,条約の解釈に関する一般的な規則として,「条約は,文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い,誠実に解釈するものとする。」と規定し,同条3項は,「文脈とともに,次のものを考慮する。(a)条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意 (b)条約の適用につき後に生じた慣行であって,条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの (c)当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則」と規定している。また,32条は,解釈の補足的手段として,「前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため,解釈の補足的な手段,特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる。(a)前条の規定による解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合 (b)前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合」と規定している。そこで,以下においても,この解釈方法に従って順次検討することとする。
(3) ヘーグ陸戦条約3条の用語の通常の意味に照らした解釈(条約法条約31条1項)
ア 国際法における伝統的な考え方によれば,国際法上の法主体性を認められるのは原則として国家であり,個人は,国際法においてその権利義務について規定され,かつ,個人自身の名において国際的にその権利を主張し得る資格が与えられて初めて例外的に国際法上の法主体性が認められると解されている。また,個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には,当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず,その個人の属する本国が,当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって,自らに対する法的な侵害として引き受け,国家間関係に切り替えて相手国(加害国)に国家責任を追及するものと解されている。
 しかるところ,ヘーグ陸戦条約3条は,「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ,損害アルトキハ,之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ,其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ。」と規定して,附属規則(ヘーグ陸戦規則)に違反した締約国に損害賠償責任を課しているが,その相手方(損害賠償請求権を有する者)についての文言は存在しない。また,ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則には,個人が国家に対して損害賠償を請求することを前提とした手続規定も存在しない。さらに,同条約2条は「第1条ニ掲ケタル規則及本条約ノ規定ハ,交戦国カ悉ク本条約ノ当事者ナルトキニ限,締約国間ニノミ之ヲ適用ス。」と定めており,同条は締約国間の権利義務のみを定めているように見える。このように,ヘーグ陸戦条約が個人に請求権を認める明文規定を設けていないことは,前示のような国際法の基本的な性格に照らしてみるならば,同条約が国際法上の原則どおり国家と国家との間の権利義務を定め,個人の請求権を認めたものではないことを示していると理解するのが自然である。
イ ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則の趣旨・目的は,同条約及び同規則の規定に照らすと,陸戦において軍隊の遵守すべき事項を定め,もって戦争の惨害を軽減しようとする点にあるものと解される。もとより,戦争の惨害は最終的には個人に帰するものであるから,同条約及び同規則の究極の趣旨・目的は,陸戦の過程における非戦闘員を含めた個人の保護にあると解することができる。しかし,国際法の存在形式としての「条約」の基本的な性格やヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則の規定内容に照らすと,同条約及び同規則の直接的な趣旨・目的は,各締約国の軍隊の規制の点にあると解するのが相当である。
ウ 以上の諸点に照らすと,文脈と条約の趣旨・目的とに照らして与えられる用語の通常の意味に従って解釈する限り,ヘーグ陸戦条約3条の規定は,ヘーグ陸戦規則の遵守を実効化するため,同規則に違反した交戦国の損害賠償責任を定めたものであり,同規則違反によって損害を被った個人が加害国家に対して直接損害賠償請求権を行使することまでを認めたものではないと解するのが相当である。
(4) 事後の実行例に照らした解釈(条約法条約31条3項(b))ア 原告らは,各種の判決を挙げ,これらが事後の国家実行例に該当すると主張するので,順次判断する。
(ア) エピルス事件判決
 ギリシャに占領されていたトルコ領エピルス島の住民がギリシャ政府を相手として徴発により被った損害の賠償を請求した事案において,アテネ控訴裁判所は,ヘーグ陸戦規則46条及び53条に体現された私的財産の不可侵性を認める国際法の原則が本件にも適用されると述べ,原告の請求を認容した第1審判決を支持した(甲209の1・2)。
 しかし,この判決は,ヘーグ陸戦規則46条及び53条を援用しているものの,ヘーグ陸戦条約3条を請求権の根拠として原告らの請求を認容したものかどうか明らかではない。したがって,この判決をもってヘーグ陸戦条約3条の規定が個人の損害賠償請求権を認めたことを示す国家実行例であると評価することはできない。
(イ) 1924年7月15日イギリス控訴院判決
 原告らは,第1次世界大戦中に戦時徴発権に基づきイギリスに財産を押収されたエジプトの商社がイギリス政府に対し損害賠償を求めた事件に係るイギリス控訴院の上記判決が,原告らの主張を基礎付ける国家実行例であると主張している。
 しかし,本件において,同判決が国際法に基づき個人の加害国家に対する損害賠償請求権を認めたものと的確に認めるに足りる証拠はない。かえって,弁論の全趣旨によれば,同判決がイギリスの国内法に基づいて原告の請求を認容した可能性も否定できない。したがって,同判決をもってヘーグ陸戦条約3条の規定が個人の損害賠償請求権を認めたことを示す国家実行例であると直ちに認定することはできない。
(ウ) 1952年4月9日の旧西ドイツ行政控訴裁判所判決
 第2次世界大戦後ドイツが英国に占領されていた時期に英国占領軍構成員の起こした交通事故の被害者が損害賠償を旧西ドイツに求めた事案で,旧西ドイツのミュンスター行政控訴裁判所は,1952年4月9日,「原告の損害賠償の請求は,国内公法からだけでなく,国際法からも導き出されるものである。1907年ヘーグ陸戦条約3条により,国家はその軍隊に属するすべての人員が犯したすべての行為〔すなわち,規則の違反行為〕について責任を負う。」と判示して,原告の請求を認容した(甲208の1・2)。しかし,同判決は,加害行為をした者が属する英国の損害賠償責任を認めたものではないから,これをもってヘーグ陸戦条約3条が個人の損害賠償請求権を認めたことを示す実行例であると認めることはできない。
(エ) 1997年11月5日ドイツ・ボン地方裁判所判決
 第2次世界大戦中に強制収容所において強制労働に従事させられたユダヤ人が賃金の支払をドイツ政府に請求した事案について,ドイツのボン地方裁判所は1997年11月5日,「侵略者の責任は,すでに両世界大戦の間に国際法の要素となった。その上,占領地の捕虜と一般市民を殺害したり奴隷化したりしてはならないという原則も国際法の一般規則に属しているということについては意見が一致している。この一般規則は,1907年10月18日の陸戦の法規慣例に関するヘーグ第4条約(ヘーグ陸戦条約)にも表現されている。ドイツ帝国は,ヘーグ第4条約を1919年10月7日に批准したので,その規則を遵守しなければならなかった。この条約の附属規則(ヘーグ陸戦規則)52条によると,占領地の市民による課役は占領軍の需要のためにするのでなければ要求することができないし,市民が母国に対する戦争行為に参加する義務も含めてはならない。その上,46条によると,市民の名誉,生命,信仰・宗教は尊重されるべきである。したがって,交戦中のドイツ帝国にとっては,ユダヤ系の市民を軍事工場で,殲滅を目的として非人間的条件下で強制労働させることも禁じられていた。」と判示して,原告の請求を認容した(甲214の1・2)。
 しかし,同判決では,損害賠償の直接の根拠を国内法(民法典)に求めているから(甲246・52ページ),この事例をもって原告らの主張を基礎付ける国家実行例と評価することは相当でない。
(オ) 1997年10月30日ギリシャ・レイバディア地方裁判所判決
 ギリシャ占領中のドイツ軍が行った残虐行為により被害を受けたギリシャ人がドイツを相手方としてギリシャのレイバディア地方裁判所に提訴した事件(ただし,ドイツは,同訴訟がドイツ国家の主権を害するものであるとの理由から訴状の受領を拒否し,応訴しなかった。)において,同裁判所は,1997年10月30日,同訴訟に対する裁判管轄権を肯定した上,ヘーグ陸戦条約はギリシャによって批准されていないが同条約の内容はギリシャ及びドイツを拘束する国際慣習法の一部となっており,原告らの請求は,ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則,とりわけ同条約3条及び同規則46条により合法的であって,これらの請求は主権国家により行われる必要はなく個人の資格で行うことも可能であるとして,個人である原告らの損害賠償請求を認めた(甲230の1・2)。
 この判決は,ドイツが訴状の受領を拒否し応訴しなかったのに本案判決をし,かつ,主権国家の他国占領中の行為について主権免除の特権を否定したというものであるが,個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたものであって,原告らの主張に沿う国家実行例であるといえる。
(カ) その他の判決について
 原告らは,原告の主張第2部第1の9(6)のアからケまでの各判決が国家実行例に当たると主張している。しかし,本件証拠及び弁論の全趣旨に照らしても,これらの判決が被害者個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたものと直ちに認めることはできない。
イ まとめ
 以上のように,多くの判決のうち個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたと評価できる国家実行例は1例(上記(オ))だけであるから,このような国家実行例の観点からヘーグ陸戦条約3条が被害者個人の加害国家に対する直接の損害賠償請求権を認めたものと解釈することはできない。
  (5) 条約の作成過程に照らした解釈(条約法条約32条)
ア 次に,ヘーグ陸戦条約の作成過程について検討する。
 条約法条約32条は,同条約31条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は同条約32条(a)又は(b)の場合における意味を決定するため,条約の準備作業及び条約の締結の際の事情,すなわち条約の作成過程の事情に依拠することができるとしている。しかるところ,ヘーグ陸戦条約3条の規定が条約法条約32条(a)(前条の規定による解釈によって意味があいまい又は不明確である場合)に該当しないことは前示のとおりであり(条約法条約31条3項(a),(c)の事項については検討しなかったが,ヘーグ陸戦条約3条の規定の解釈に影響を与えるべきこれらの事項が存在することを認めるべき証拠はない。),またヘーグ陸戦条約3条の規定が条約法条約32条(b)(前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合)に当たらないことも明らかである。したがって,ヘーグ陸戦条約の作成過程の検討は,条約法条約に即して言えば,同条約31条の規定の適用によって得られたヘーグ陸戦条約3条の意味を確認するためのものということになる。
イ 証拠(乙19)と弁論の全趣旨によれば,ヘーグ陸戦条約3条の作成過程に関し,次の(ア)から(ケ)までの事実を認めることができる。
(ア) ヘーグ陸戦条約3条の規定は,1899年の第1回ヘーグ平和会議において採択された陸戦の法規慣例に関する条約(以下「旧ヘーグ陸戦条約」という。)及び陸戦の法規慣例に関する規則(以下「旧ヘーグ陸戦規則」という。)の修正として,1907年(明治40年)の第2回ヘーグ平和会議で検討された。
 まず,ドイツ代表が,以下のような規定を新たに設けることを提案した。
 第1条  この規則の条項に違反して中立の者を侵害した交戦当事者は,その者に対して生じた損害をその者に対して賠償する責任を負う。交戦当事者は,その軍隊を組成する人員の一切の行為に付き責任を負う。
 現金による即時の賠償が予定されていない場合において,交戦当事者が生じた損害及び支払うべき賠償額を決定することが,当面交戦行為と両立しないと交戦当事者が認めるときは,右決定を延期することができる。
 第2条  (同規則の)違反行為により交戦相手側を侵害したときは,賠償の問題は,和平の締結時に解決するものとする。
(イ) ドイツ代表は,提案理由を以下のとおり説明した。
「陸戦の法規慣例に関する条約(旧ヘーグ陸戦条約)によれば,各国政府は,同条約付属の規則(旧ヘーグ陸戦規則)の規定に従った指令をその軍隊に対して出す以外の義務を負わない。これらの規定が軍隊に対する指令の一部になることにかんがみれば,その違反行為は,軍の規律を守る刑法により処断される。しかし,この刑事罰則(だけ)では,あらゆる個人の違反行為の予防措置とはならないことは明らかである。同規則の規定に従わなければならないのは,軍の指揮官だけではない。士官,下士官,一兵卒にも適用されなければならない。したがって,政府は,自らが合意に従って発した訓令が,戦時中,例外なく遵守されることを保障することはできないであろう。
 かかる状況にあっては,同規則の規定の違反行為による結果について,検討しておくべきである。『故意によるか又は過失によるかを問わず,違法行為により他者の権利を侵害した者は,それにより生じた損害を賠償する義務を右他者に対して負う。』との私法の原則は,万民法の,現在議論している分野においても妥当する。しかし,国家はその管理・監督の過失が立証されない限り責任を負わないという過失責任の法理によることとするのでは不十分である。(このような法理を採ると)政府自身には何の過失もないというのがほとんどであろうから,同規則の違反により損害を受けた者が政府に対して賠償を請求することができないし,有責の士官又は兵卒に対し賠償請求をすべきであるとしても,多くの場合は賠償を得ることができないであろう。し
たがって,我々は,軍隊を組成する者が行った規則違反による一切の不法行為責任は,その者の属する(軍隊を保有する)国の政府が負うべきであると考える。
 その責任,損害の程度,賠償の支払方法の決定に当たっては,中立の者と敵国の者で区別をし,中立の者が損害を受けた場合は,交戦行為と両立する最も迅速な救済を確保するために必要な措置を講じるべきであろう。一方,敵国の者については,賠償の問題の解決を和平の回復の時まで延期することが必要不可欠である。」
(ウ) ロシア代表は,ドイツ代表の提案を支持し,次のとおり述べた。
「我々は,先程この会議に提案を行った際,戦時における平和市民の利益を念頭に置いていたが,ドイツ提案はその同じ利益に合致するものであると考える。我々の提案は,1899年条約(旧ヘーグ陸戦条約)の実施にあたりこれらの市民に課せられる苦痛を和らげることを目指すものであった。ドイツ提案は,この条約の違反によりこれら市民に対し生ずる損害を想定したものである。これら2つの提案の根底にある懸念は正当なものであり,それ自体として国際的合意の対象となって然るべきであると考える。」
(エ) フランス代表は,ドイツ提案が中立国の市民と交戦国の市民とで扱いを異にしている点に疑問を呈して,次のように述べた。
「ドイツ提案は,非常に深刻な別の根本的反対を引き起こす。即ち,この提案は,今まさに第2小委員会が議論している中立国の者の処遇についてのドイツ提案に見られる,中立の問題に関するドイツ代表団の非常にはっきりした主張の直接の帰結と考えられ得るのである。この主張は,中立国の国民と侵略地又は占領地に居住する交戦国の国民とを区別し,前者に有利な地位を与え,彼らにいわゆる中立の配当を認めんとするものである。
 私はここで,仏代表団は如何なる意味においてもこの考え方を受け入れることはできず,個人のためにとられる保護措置は,『中立の者』か『交戦相手側の者』かにより区別を設けることなく,全ての者に対し同様に適用されるべきであると考える旨繰り返したい。ドイツ代表団により提案された文案は,まさにこの区別を確立せんとしているようである。なぜなら,その第1条においては『中立の者』に対する損害についてしか語られず,『交戦相手側の者』は第2条においてしか扱われていないからである。……
 ……現代の戦時規則により徐々に支配的となりつつある考え方,即ち,保護的措置であれ抑圧的措置であれ,敵対行為に参加しない全ての個人を完全に平等に扱おうとする考え方に従えば,保護的措置が中立の者に限定されるのは受け入れられない。」
(オ) スイス代表は,以下のように述べて,フランス代表の疑問に反論しドイツ代表の提案に留保なく賛成した。
「この提案が認めさせようとしている原則は全く正当なものであり,1899年規則(旧ヘーグ陸戦規則)の実際上の穴を埋めるものであるといえる。
 ……
 ドイツ提案の内容そのものについては,これが中立の者に許し難い特権を与えるというのは誤りである。この提案が提示している原則は,損害を受けた全ての個人に対し,敵国の国民であるか中立国の国民であるかを問わず,適用可能である。これら2つのカテゴリーの被害者,即ち権利保有者の間に設けられた唯一の区別は,賠償の支払いに関するものであり,この点に関する両者間の違いは,物事の性質そのものにある。中立の者に対する賠償の支払いは,責任ある交戦国が被害者の国とは平時にあり,また,平和な関係を維持しており,両国はあらゆるケースを容易にかつ遅滞なく解決し得る状態にあるため,大抵の場合,即時に行い得るであろう。このような容易さないし可能性は,戦争という一事により,交戦国同士の間では存在しない。賠償請求権は中立の者と同様各々の交戦国の者についても生ずるが,交戦国同士の間での賠償の支払いは,和平を達成してからでなければ決定し実施することはできないであろう。」
(カ) ドイツ代表は,自分自身もできない最高の弁明をしていただいたと,スイス代表の発言に対し感謝の意を表した。
(キ) イギリス代表は,フランス代表の懸念を共有し,ドイツ提案がこれまでなかった特権を中立国に与えるものであることを理由にこれに同意できないとし,次のように述べた。
「第1条が中立の者に対し,受けた損害の賠償を交戦当事者に要求する権利を与えているのに比べ,第2条では,交戦相手側の者については賠償は和平の締結時に解決するとしている。したがって交戦相手側の者にとっては,賠償は平和条約に盛り込まれる条件次第,交戦国間の交渉の結果としての条件次第ということになる。
 私は,(陸)戦の法規慣例の違反の被害者に対し交戦当事国が賠償をなすべき責任を否定するものではなく,英国は如何なる意味においてもこの責任を免れようとしているわけではない。ただ,このような違反及び生じた損害の範囲を確定することが,しばしば非常に困難であることを指摘したい。原則を示すことはたやすいが,問題を解決すべき国家間の良好な関係を害する反対の声を引き起こすことなく,その原則を適用することは,大変困難である。」
(ク) ドイツ代表は,フランス代表及びイギリス代表の発言に対し,ドイツ提案の第2条の解釈について誤解があるとし,この条文が「中立の者」と「交戦相手側の者」との間に設けている唯一の差異は,賠償の支払方法についてであると述べた。
(ケ) 以上の検討を経て,検討委員会が,ドイツ提案を「本規則の条項に違反する交戦当事者は,損害が生じたときは,損害賠償の責任を負う。交戦当事者は,その軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負う。」との規定にまとめ,この規定が全体会合において全会一致で採択され,最終的に規則中ではなく条約(ヘーグ陸戦条約)の本文に3条として盛り込まれた。
 なお,この規定の作成過程においてされた発言の中には,附属規則違反の行為によって損害を受けた被害者個人が加害国に対し直接損害賠償請求権を有することを明確に肯定又は確認した発言はなく,また,個人が損害賠償請求権を行使する手続や制度に関する発言もなかった。
ウ 以上の事実に基づいて検討するに,第2回ヘーグ平和会議においてドイツ代表団が提案した案文には,その第1条において「その者に対して生じた損害をその者に対して賠償する責任」という表現があり,この部分だけをみる限り,賠償を受ける者,すなわち賠償請求権を有する者は被害者であると考えられているという見方も全く不可能なわけではない。しかし,ドイツ提案は,その案文全体を見ると,生じた損害及び支払うべき賠償額が「国家間」で「決定」されることを前提として(第1条にも「交戦当事者が生じた損害及び支払うべき賠償額を決定する」という文言が使用されている。),被害者が中立国の者である場合と交戦国の者である場合とで加害国と被害者の属する国との関係の相違に基づきその決定の時期を区別するという内容であった
と解するのが自然な理解である。現に,賠償額の決定及び支払が国家間で行われることを前提としてドイツ提案に賛意を示したスイス代表の意見に対しドイツ代表団が何ら異論を挟まず感謝の意を表したことも,この点を裏付けるものといえる。
 そして,その他の各国代表団の中に,ヘーグ陸戦条約3条の規定がヘーグ陸戦規則違反の行為によって被害を受けた個人が加害者の属する国家に対し直接損害賠償請求権を行使することができることにする趣旨を含むことを明言したものはないし,個人にそのような権利を付与することの是非やその具体的な手続について議論されることも全くなかった。さらに,ドイツ提案にあった「その者に対して」という文言は,最終的に採択されたヘーグ陸戦条約3条においては削除されているのである。
 以上のような諸点に照らせば,ヘーグ陸戦条約3条の作成過程において各国代表が意図していたのは,ヘーグ陸戦規則の実効性を確保するため,軍隊構成員が同規則違反行為を行った場合には,当該軍隊構成員の所属する国家の政府に主観的な有責性がなくても当該国家に被害者の属する国家に対する損害賠償責任を負わせることにあり,各国が,当時の伝統的な国際法の枠組みの例外として,個人の加害国家に対する損害賠償請求権を創設することまでを意図していたものとは認められない。
  (6) 原告らの主張について
 以下において,原告らの主張のうち判断を付加すべきであると思われるものについて述べる。
ア 原告らは,ヘーグ陸戦条約が前提としているヘーグ陸戦規則が交戦法規であり,交戦法規は伝統的に個人の法主体性を認めてきたと主張している。
 しかし,交戦法規が個人に国際法主体性を認めてきたことを的確に認めるに足りる証拠はない。現に,問題となるヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則には,個人が加害国家に対する直接の損害賠償請求権を有することを示唆する規定等は一切存在しない。よって,原告らの上記主張は理由がない。
イ 原告らは,ヘーグ陸戦規則52条,53条が,被押収者個人に対し返還請求権及び損害賠償金の請求権を付与していると主張している。
 確かに,同規則52条3項は,徴発の相手方となった住民等になるべく即金で支払うことを求めている。しかし,占領軍が金員の支払をしない場合に住民がその救済を求めるための国際法上の手段は設けられていない。また,同規則53条2項ただし書では,平和回復の時に還付や賠償が「決定」されるとしているから,この条項は,平和回復後の国家間の交渉により還付や賠償が決定されることを予定しているとみるのが合理的である。したがって,これらの規定は,同条項所定の行為を国家間で合意したものと解するのが妥当である。よって,これらの規定をもって,個人が相手国に対し直接何らかの請求をし得ることを認めたものと解することはできない。
  (7) ヘーグ陸戦条約3条に関するまとめ
 以上のとおりであるから,ヘーグ陸戦条約3条の規定は,文脈と条約の趣旨・目的とに照らして与えられる用語の通常の意味に従った解釈及び条約作成後の国家実行例に照らした解釈の双方の観点からみて,被害者個人の加害者の属する国家に対する損害賠償請求権を認めたものではなく,被害者の属する国と加害者の属する国との間の権利義務関係について定めたものと解すべきである。また,解釈の補足的手段である条約の作成過程を考慮しても,同条約3条の規定の意味は上記のようなものであることが裏付けられているということができる。
 しかるところ,ヘーグ陸戦条約は1907年(明治40年)10月18日に署名され(当事国44),1910年(明治43年)1月26日に効力が発生し,我が国も1911年(明治44年)12月13日に批准書を寄託したから,遅くともこのころまでには多数の国家の行態の中に同条約に対する法的確信が確認されるに至り,もって同条約を内容とする国際慣習法が成立していたものと認めるのが相当である(後記(8)参照)。
 原告らは,ヘーグ陸戦条約3条の規定が被害者個人の加害国に対する直接の損害賠償請求を認めているとの解釈を前提に,同規定と同一内容の国際慣習法が本件細菌戦当時成立していたと主張するものである。しかし,上記のとおりヘーグ陸戦条約を内容とする国際慣習法が成立するに至ったとは認められるものの,同条約3条の規定は被害者個人の損害賠償請求権を認めていないのであるから,結局,この点に関する原告らの主張は理由がないことになる。
  (8) 被害者個人が加害国に対し損害賠償請求権を有することを内容とする国際慣習法の存否
 次に,ヘーグ陸戦条約3条の規定とは別に,本件細菌戦当時交戦相手国の行為により損害を受けた個人が当該交戦相手国に対し直接損害賠償請求権を有するとする国際慣習法が存在していたかどうかについて検討する。
 国際慣習法とは「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」(国際司法裁判所規程38条1項b)をいうと解されるが,これが成立するためには,諸国家の行為の積み重ね(国家実行)を通じて一定の国際慣行(一般慣行)が成立していることと,それを法的な権利義務として確信する諸国家の信念(法的確信)が存在していることとが必要である。
 これを本件についてみるに,ヘーグ陸戦条約3条に関する国家実行例(前記(4))に照らすと,現時点においても,交戦相手国の行為により損害を受けた個人が当該交戦相手国に対し損害賠償請求権を有することを示す相当数の国家実行例の積み重ねによる国際慣行が存在するとは認められない。また,このほかに,個人の請求権を認めた個別の条約(ヴェルサイユ平和条約等)の履行とは無関係に個人の損害賠償請求権を認めた相当数の国家実行例の積み重ねによる国際慣行があるとの証拠も存在しない。
 したがって,本件細菌戦当時原告らの主張するような被害者個人の損害賠償請求権を認める国際慣習法が成立していたと認めることはできない。
  (9) 結論
 以上のとおりであるから,ヘーグ陸戦条約3条を内容とする国際慣習法又は被害者個人の損害賠償請求権を認める国際慣習法に基づく原告らの請求は理由がない。

 2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への遡及適用による損害賠償請求について(争点2)
 原告らは,@交戦相手国の行為により損害を受けた個人が当該交戦相手国に対し損害賠償請求権を有するとする国際慣習法が現時点で成立しており,さらには,A過去の戦争犯罪行為が人道上決して許されない類のものである場合には,現在の時点から改めてその行為を見つめ直し加害国の責任を問い得るという国際慣習法が現時点で成立していると主張している。
 しかし,前記1の(8)において説示したように,現時点において上記@の国際慣習法が成立していると認めることはできない。したがって,このような国際慣習法が成立していることを前提とする原告らの請求も理由がない。

 3 中国法に基づく損害賠償請求について(争点3)
(1) 原告らは,本件の各加害行為には,不法行為の成立に関する準拠法を定める法例11条1項の規定により,不法行為の原因である事実の発生地である中国の当時の民法(中華民国民法)が適用され,同法によって被告に不法行為責任が発生すると主張している。
(2) そこで,まず,本件に法例11条1項の規定が適用されるのかどうかについて検討する。
ア 法例は,渉外的私法関係に適用される準拠法を定めた法律であるが,それは,人間社会には国家ないし公権力関係とは別次元の普遍的な対等市民間の私法が存在し,国家が異なっても相互に適用可能であるという前提に立つものと解される(乙24参照)。不法行為は,対等当事者間において一方の違法な行為が他方に損害を与えた場合に,当事者間の利害の調整を図り損害の公平な分担を図るという法律関係であり,法例は,不法行為のこのような性格を前提に,その成立要件及び効力について原因である事実の発生した地の法律を準拠法と定めているものと解される(法例11条1項)。
イ ところで,被告(国)が違法な公権力の行使により他人に損害を与えた場合の法律関係は,被害者から見れば,受けた被害の回復の必要性において対等当事者間の不法行為の場合と変わりはないが,加害者である被告から見れば,公権力行使が違法かどうかが大きな問題となり,その点が国家主権の在り方にも影響を及ぼすものである。このように,被告(国)の公権力の行使に起因する損害賠償責任に係る法律関係は,被害者の救済,損害の公平な分担という効果の面では法例11条1項の不法行為と同様の性格のものといえるが,我が国の公権力行使の適法違法(適否)が問題になる成立要件の面では異質な要素があり,この点で,このような法律関係は対等当事者間の純然たる私法関係とは異なり,公法的要素を含むものといわなければならない。
 また,被告(国)の公権力の行使に起因する損害賠償責任の存否が争いになる場合には,被告の公権力の行使の適否が問題になるが,当該公権力の行使はそれぞれの根拠となる我が国の法律に基づいて行われるものであるのに,その法律関係が法例11条1項によって他国の法律に従って判断されることになるのは相当ではない。また,同一の性格の公権力の行使が複数の国で行われた場合において,その法律関係が法例11条1項によって他国の法律に従って判断されることになれば,ある国の法律では適法とされ他の国の法律では不適法とされる事態もあり得ないわけではない。しかし,このような事態が我が国の法制上予定されているとみることはできない。したがって,公権力の行使の場面は,国家が異なっても互換可能であるとの前提に立つ私法と
は性格が異なるというべきである。
 なお,我が国の国家賠償法は,その6条で,外国人が被害者であるときは相互保証があるときに限って同法を適用するとしていて,同法が国家の利害に深く関係していることを示しているといえる。
ウ 以上のとおりであるから,国が違法な公権力の行使によって他人に損害を与えたという法律関係は,行為地が外国であり,また被害者が外国籍又は外国に住所を有する者であって渉外的要素を有しているとしても,法例が対象としている渉外的私法関係には当たらないと解するのが相当である。そうすると,公権力の行使を原因とする国の損害賠償責任の問題は,法例の対象にはならないから,法例11条1項の「不法行為」という単位法律関係には当たらず,同条項の適用を受けるものではない。
 本件は,旧日本軍の中国における違法な戦争行為・作戦活動を原因とする損害賠償請求であり,この行為は我が国の公権力の行使に当たる事実上の行為であるから,本件に法例11条1項の規定が適用されることを前提とする原告らの中国法(中華民国民法)に基づく請求は,その他の点について検討するまでもなく理由がない。

 4 日本民法に基づく損害賠償請求について(争点4)
(1) 原告らは,本件細菌戦が,中国現地における細菌戦の研究・開発・実行と日本における細菌戦の研究・開発・作戦指導とが一体となった行為であるから,不法行為が日本でされたものとして日本民法の不法行為法の適用があるとして,日本民法(第1次的に同法709条,710条,711条,第2次的に同法717条又は715条。謝罪請求について同法723条)に基づく損害賠償請求をしている。
 しかして,前記3の(2)の説示に照らすと,違法な公権力の行使を原因とする国の損害賠償責任の問題には,それが渉外的要素を有するものであっても,法例の規定を介さずに直接我が国の法律(現在においては国家賠償法)が適用されると解するのが相当である。我が国の国家賠償法(昭和22年〔1947年〕10月22日施行)は,附則6項で「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例による。」としているから,同法施行前の行為に基づく損害に関する法律関係は同法施行前の法令によって判断すべきことになる。原告らの主張によれば,本件細菌戦は1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)までに実行されたものであるから,本件についても国家賠償法施行前の法令によって判断すべきことになる。
 そこで,以下において,国家賠償法施行前の関係法令について検討する。
(2) 大日本帝国憲法61条は「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス」と規定し,行政裁判法(明治23年6月30日公布)16条は「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定していた。行政裁判法のこの規定によって,行政裁判所に国家責任訴訟を提起することはできなくなったが,同条は司法裁判所の管轄までを明文で否定したわけではないから,その限りでは,国の賠償責任は司法裁判所により民法その他の法律が認める範囲内で認められる可能性があることになる。
 そこで,司法裁判所における裁判規範となる民法についてみると,明治21年に起草されたボアソナードの民法草案393条は,「主人及ヒ棟梁,工業及ヒ運送ノ起作人又ハ其他ノ者,公ケ及ヒ私ノ管理所ハ彼レ等ノ僕婢,職工,傭員又ハ使用人ニ因リ引起サレタル損害ノ責ニ任スヘクアル,彼レ等ニ委託セラレテアル所ノ職務ノ執行ニ於テ又ハ其効果ニ於テ」と定めていた。ボアソナードによれば,同条は公権力の行使による損害についても国に責任を認める趣旨のものであった。ところが,このボアソナード民法草案393条の国家責任規定は,明治23年4月21日に公布された旧民法財産編(明治23年法律28号。ただし,周知のとおり,この旧民法は施行されないまま廃止された。)373条においては削除され,同条は「主人,親方又ハ工事,
運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者ハ其雇人,使用人,職工又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス」と規定するに至った。この間の経緯について,旧民法の立案過程に参加した井上毅は,旧民法公布の翌年に発表した論文「民法初稿第三七三条ニ対スル意見」で,公権力の行使による権利侵害について損害賠償を認めると行政機関の機能に支障が生じることを理由として,旧民法373条が行政権による公権力の行使に起因する損害賠償責任を否定する趣旨である旨を述べている。
 前記のとおりこの旧民法は施行されず,明治29年,新たに起草された草案に基づき現行民法(第一編から第三編まで)が公布され,明治31年7月16日から施行された。現行民法にも,旧民法と同様,国の公権力の行使により他に与えた損害の賠償責任を定めた規定はなく,この点に関する特別法も制定されなかった。
 この経過によると,旧民法373条から国家責任に関する字句が削除されたことは,少なくとも公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであるとみるのが相当であり,現行民法にもその立法者意思が継承されたといえるから,行政裁判法と旧民法(財産編)とが公布された明治23年の時点で公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立したというべきである。
 そして,戦前の大審院判例は,非権力的作用については民法の適用により国の損害賠償責任を認めてきたが,公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していた。後者の点については,国家賠償法制定後においても,最高裁判例により確認されているところである(最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決・集民3号225ページ)。
(3) このように,戦前においては,公権力の行使による私人の損害については,国の損害賠償責任を認める法律上の根拠がなく,そのことは公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策に基づくものであったから,公権力行使が違法であっても被告はこれによる損害の賠償責任を負わないものと解するのが相当である。原告らの主張する本件細菌戦も,国家賠償法制定前の被告の権力的行為であるから,当時の法令に従って,これによる民法709条,710条,711条に基づく損害賠償責任は否定せざるを得ないものというべきである。
(4) ところで,原告らは,第2次的に次のように主張している。すなわち,国は軍部を指揮監督する権限を有し,とりわけ731部隊という危険な施設を有していたことによる責任があるから,国による当該監督権限の不行使は管理作用に属するものであり,国の当該管理作用(権限不行使)によって本件の被害の発生を阻止し得なかったのであるから,被告は民法717条又は715条により損害賠償責任を負う,というのである。
 しかしながら,原告らの主張する本件細菌戦は,旧日本軍がその存在目的そのものである戦闘行為として行ったものであるというのであるから,その行為は公権力の行使(国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的行為)そのものであり,当時民法の適用対象となっていた非権力的作用に分類されるということはできない。
 また,その点を措くとしても,この点の原告らの主張は,軍隊を土地の工作物(民法717条)や小学校の校庭に設置された遊具と同視するものであって,採用することができない。
(5) 以上のとおりであるが,本件細菌戦と権力作用との関係について若干説示を補足する。
 原告らは,本件細菌戦のような国の戦争行為は「権力作用」に含まれないから,仮に国家無答責の法理が通用していたとしても,これを本件に適用することはできないと主張している。そして,原告らは,国家無答責論は,「支配者と被支配者の自同性」や「国家と法秩序の自同性」を根拠とする法理であるから,ある国家とその統治権に服する国民との間にのみ成立する法理であるとしている。
 確かに,欧米で主権無答責の法理が受け継がれていく過程において,原告らのいう「支配者と被支配者の自同性」や「国家と法秩序の自同性」の論理が同法理を支えるものとして唱えられたことがあったと解される。しかし,我が国に国家無答責の法理が確立した明治23年以降において,当時の我が国の法体系が,権力的作用の被害者が外国人である場合にその外国人に損害賠償請求権を付与していたことを示す事実は何ら認められず,日本人も外国人も等しく国家無答責の法理の適用を受けていたものと考えられる。このことは,旧民法の立案に深く関与した井上毅が,前記のとおり国家無答責の法理の根拠を行政権の円滑な運用に求めていたことによっても裏付けられるところである。そして,戦争行為が国家の公権力行使の重要な一内容であることは
明らかであるから,当時の法制度の下では,外国人も日本民法に基づき違法な戦争行為による損害の賠償を請求することはできなかったというほかはない。
 なお,原告らはパナイ号事件を援用しているが,弁論の全趣旨によれば,同事件は国家間において解決が図られた事件であって,被害者個人が民法の規定に基づき被告に損害賠償を求めたものではないと認められるから,これをもって外国人に国家無答責の法理が適用されなかった事例であるとはいえない。
(6) したがって,日本民法に基づく原告らの請求も,その他の点について検討するまでもなく理由がない。

 5 条理に基づく損害賠償請求について(争点5)
(1) 原告らは,被告に対し条理に基づく損害賠償請求権を有していると主張している。原告らの主張する請求権の内容は必ずしも明確ではないが,原告らは条理に基づき損害賠償請求権又は損失補償請求権若しくは特殊な補償請求権を有していると主張しているものと解して,検討を進める。
 条理とは,一般社会に正義の観念に基づいて信じられ承認されている事物の道理であるが,本件で問題となる裁判規範との関係でいえば,条理とは実定法体系の基礎となっている基本的な価値体系を意味すると解される。したがって,条理は,単に裁判官の主観の中にだけ存在するものではなく,客観的に社会一般に存在しているものであり,また,一般には,具体的な事件の法的価値判断に適するような具体的な判断基準の形をとるものではない。
(2) 条理に基づく損害賠償請求について
 条理は,一定の法律的事象に対する直接の裁判規範として成文法又は慣習法が欠けている場合,すなわち法が欠けている場合に初めて機能すると解するのが相当である(明治8年太政官布告103号裁判事務心得3条参照)。したがって,法が存在するのに,それと異なる条理を直接の裁判規範として使用することは許されないというべきである。
 これを本件についてみるに,原告らの主張する本件細菌戦には,我が国の当時の法が適用されるところ,前示のとおり,当時においては,国の権力的行為による損害については国家無答責の法理が採用され,国は当該権力的行為が違法であっても損害賠償責任を負わないという法が確立していた。このように,本件細菌戦による損害の賠償責任に係る裁判規範として法が欠けていたわけではないから,本件において条理によって違法な公権力の行使に起因する損害賠償請求権を認めることはできない。
(3) 条理に基づく損失補償請求又は特殊な補償請求について
ア 前示のように,条理は,その本質上抽象的なもので具体的な裁判規範の形をとりにくいものであるから,これを安易に使用するときは,条理の名の下に裁判官が自らの主観的な信念に基づき判断をしてしまうおそれがある。したがって,条理が裁判規範となり得るためには,実定法秩序の中にそれが基本的な価値体系として含まれていることが必要というべきである。
 これを本件についてみるに,前示のとおり,原告らの主張する本件細菌戦が行われた当時においては,我が国においては国家無答責の法理により被告の公権力行使による損害賠償責任は否定されていたのであるから,当時の法体系中にこれについて損失補償その他の特別の補償をすべきであるという条理が存在していたと認めることはできない。
イ 原告らは,条理に基づく補償立法として,@原子爆弾被爆者の医療等に関する法律,A戦傷病者戦没者遺族等援護法,B台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律,Cドイツ,アメリカ,カナダ,オーストリアの第2次世界大戦後における各補償立法を援用し,原告らの主張する被告の加害行為による損害について補償をすべきことが条理にまで高められていると主張している。
 これら我が国及び諸外国における戦後補償に関する立法は,第2次世界大戦において国家の権力により犠牲を強いられ被害を受けた人々,特に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々に対しては,国家の責任においてその犠牲・被害について一定の補償をすべきであるという人道的配慮ないし国家補償的配慮に基づくものと解される。しかし,上記の各戦後補償立法による補償は,いずれも立法を待たずに行われたものではなく,立法によって初めて行われるに至ったものである。しかも,上記各立法は,いずれも単純に人道的,国家補償的な配慮だけに基づくものではなく,政治的,外交的,社会的,財政的その他の見地からする配慮をも併せた総合的配慮に基づき,かつ,様々な紆余曲折を経て制定されるに至ったのものである。したがって,こ
れらの立法の基礎には上記の人道的配慮ないし国家補償的配慮が存在しているとはいえるものの,これらの我が国又は国際社会における法体系の中に,立法を待たずに当然に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々が加害国に対し補償を請求できるという価値体系が確立しているということはできない。
 したがって,現時点においても,原告らの主張する本件細菌戦のような違法な公権力行使によって損害を受けた被害者が立法を待たずに当然に戦争遂行主体であった国に対し補償を請求することができるという条理はいまだ存在しないといわざるを得ない。
  (4) 以上のとおり,原告らの条理に基づく請求はいずれも理由がない。
 6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)
(1) 原告らは,被告の国会及び内閣が原告ら細菌戦被害者に対する救済措置立法を怠ってきたことは違法な不作為に当たるから,被告は国家賠償法1条1項の規定に基づき謝罪と慰謝料支払の義務を負うと主張している。
  (2) まず,国会の立法不作為について検討する。
 日本国憲法が採用する議会制民主主義の下での国会議員の立法過程における行動は,国会議員各自の政治的判断に任され,その当否は最終的に国民の自由な言論や選挙による政治的評価に委ねられるのが相当であるから,国会議員は,立法に関しては,原則として,国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり,個別の国民その他の者の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきである。したがって,国会議員の立法行為(立法をする行為又は立法をしない行為)は,その内容が憲法の一義的な文言に反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行い又は立法をせず放置したというように,容易に想定し難いような例外的な場合でない限り,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法と評価されることはないといわなければ
ならない(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512ページ参照)。そうすると,国会の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるのは,憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず,国会がその立法を懈怠したというような例外的な場合に限られることになる。
 ところで,原告らは,上記最高裁昭和60年11月21日判決の説示する場合に限らず,@人権侵害の重大性と,Aその救済の高度の必要性が認められる場合であって,しかも,B国会や内閣が立法の必要性を十分認識し,立法可能であったにもかかわらず,C一定の合理的期間を経過してもなおこれを放置したなどの状況的要件がある場合にも,立法不作為による国家賠償請求を認めることができると解さなければならないと主張している。しかし,原告らのこの主張は,憲法が認めている国会議員の立法過程における行動の特質を不当に軽視するものであり,これを採用することはできない。
  (3) そこで,上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが,その前提として,必要な範囲で,原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無についてみておくこととする。
ア この点については原告らが立証活動をしたのみで,被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので,本件において事実を認定するにはその点の制約ないし問題がある。また,本件の事実関係は,多方面に渡る複雑な歴史的事実に係るものであり,歴史の審判に耐え得る詳細な事実の確定は,最終的には,無制限の資料に基づく歴史学,医学,疫学,文化人類学等の関係諸科学による学問的な考察と議論に待つほかはない。しかし,そのような制約ないし問題があることを認識しつつ,当裁判所として本件の各証拠を検討すれば,少なくとも次のような事実は存在したと認定することができると考える(認定に供した証拠は,各認定事実の末尾に記載する。)。
    (ア) 731部隊の前身は,昭和11年(1936年)に編成された関東軍防疫部であり,これが昭和15年(1940年)に関東軍防疫給水部に改編され,やがて731部隊の名で呼ばれるようになった。同部隊は,昭和13年(1938年)ころ以降中国東北部のハルビン郊外の平房に広大な施設を建設してここに本部を置き,最盛期には他に支部を有していた。同部隊の主たる目的は,細菌兵器の研究,開発,製造であり,これらは平房の本部で行われていた。また,中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に送り込まれ,同部隊の細菌兵器の研究,開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。
 中国各地には他にも同様な部隊が置かれたが,その中で有力な部隊が南京に置かれていた中支那防疫給水部(「栄1644部隊」又は「1644部隊」)である。
(甲1,2,3,18,25,27,33,54,76,77,82,85,86,88,91,99の1・2,105の1,証人篠塚良雄,証人松本正一,証人辛培林,証人吉見義明,証人松村高夫)
    (イ) 1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて,731部隊や1644部隊等によって,次のa,f,g,hのとおり中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。
     a 衢県(衢州)
(a) 1940年(昭和15年)10月4日午前,日本軍機が衢県上空に飛来し,小麦,大豆,粟,ふすま,布きれ,綿花などとともにペスト感染ノミ(小袋に入ったものもあった。)を空中から撒布した。当日午後には,県知事の指示で,住民を総動員して散乱している投下物の収集・焼却が行われた。
(b) 10月10日以降,上記の投下物のあった地域で病死者が出始め(ただし,その病気がペストかどうかは確認されていない。),同じころからネズミの死体が続々と発見されるようになった。11月12日にペスト患者が初めて確認され,投下物のあった地域においてペスト患者が多発した。
 衢県で11月12日以降に発生したペストは,日本軍機が投下したペスト感染ノミがネズミにペストを流行させ,これがヒトに感染したものと考えるのが合理的である。
(c) 1940年(昭和15年)末までに当局に報告されたペストによる死者は24人であった。しかし,ペスト患者は,家族がこれを秘匿したり,隔離されることなどを恐れて逃亡するようなこともあって,病死者の実数はこれを上回るものとみられる。なお,証人邱明軒は,衢州細菌戦の被害者が1501人に上るとしている。
 また,衢県でのペストは,次のbからeまでのようにその周辺の地域にも伝播し,大きな犠牲をもたらした。
(甲2,88,91,98の1・2,105の1,283の1・2,証人松本正一,証人吉見義明,証人邱明軒,原告呉世根)
b 義烏
(a) 1941年(昭和16年)9月,衢県に流行していたペストに感染した鉄道員が義烏に戻って発病し,これをきっかけに義烏においてペストが流行した。
(b) ペストは,義烏からさらに周辺の農村へ伝播していったが,原告32ら現地の被害調査会の調査によれば,義烏市街地におけるペストによる死亡者は309人に上るとされる。
(甲77,89,98の1・2,105の1,142の1・2,証人邱明軒,原告陳知法)
c 東陽
(a) 1941年(昭和16年)10月,義烏で流行していたペストが東陽県に伝播し,同所で流行した。
(b) 原告59によれば,同原告の住む歌山鎮では40人以上がペストで死亡したとされる。
(甲77,98の1・2,353の1・2,証人邱明軒)
d 崇山村
(a) 江湾郷の崇山村は,北の上崇山村と南の下崇山村の2つに分れており,住宅は密集して建てられていた。しかし,上・下の区域を越えた人の交流はほとんどなかった。同村のペストは,1942年(昭和17年)10月から上崇山村で爆発的に流行し,死者が続出する事態となった。その後,12月上旬には上崇山村のペストはほぼ終結するように見えたが,12月に入ると今度は下崇山村で死者が出るようになった。
 このペストは,義烏に流行していたペストが伝播したものと考えられる。
(b) 崇山村のペストによる死者は,流行が終息する翌1943年(昭和18年)1月までに総計396人に上ったとされている。これは当時の崇山村の人口の約3分の1に当たる。
(甲58,89,105の1,142の1・2,286の1・2,証人上田信)
e 塔下洲
(a) 崇山村で流行していたペストは,1942年(昭和17年)10月に塔下洲村に伝播し,同村で大流行した。
(b) 塔下洲村のペストによる死者は,約2か月の間に103人に及んだとされている。この死者は,当時の村全体の人口の約5分の1に当たる。
(甲143の1・2,151,原告周洪根)
f 寧波
(a) 1940年(昭和15年)10月下旬,日本軍機が寧波上空に飛来し,中心部の開明街一帯にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した。
(b) 早くも10月29日にノミ等が投下された地域にペスト患者が出て,治療活動とともに防疫活動も活発に行われ,汚染区が封鎖され,消毒や家屋の焼却などが行われた。このような治療,防疫活動により,ペストは12月初めに最後の患者を出した後,終息した。
 このペスト流行は,主として,投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでペストがヒトに感染したことによるものと考えられる。
(c) 時事公報による報道,国民政府中央防疫研究所長の報告書,治療に参加した医師等からの情報提供に基づく証人大塚文郎らの調査(甲97の1・2参照)によれば,このペスト流行による死亡者で氏名が判明しているのは109人である。
(甲3,50,91,97の1・2,105の1,162の1・2,288の1・2,証人松本正一,証人吉見義明,証人黄可泰,原告何祺綏)
g 常徳
(a) 1941年(昭和16年)11月4日,731部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し,ペスト感染ノミと綿,穀物等を投下し,これが県城中心部に落下した。
(b) 11月11日にはペスト患者が出始め,初発患者発生から約2か月間の1次流行で県城地区で8人の死亡患者が出た(当時の『防治湘西鼠疫経過報告書』による。)。ところが,約70日の間隔を置いて,1942年(昭和17年)3月から2次流行が起き,6月までに県城地区で合計34人の死亡患者が出た(同報告書)。
 1次流行は投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでヒトがペストに感染したものである可能性が高く,2次流行は,ペスト菌がそれに感染したネズミの体内で冬を越し,春の活動期にノミを介してヒトに感染した可能性が高いと考えられる。
(c) 1942年(昭和17年)3月以降,常徳市街地のペストが農村部に伝播していき,各地で多数の犠牲者を出した。
 なお,「常徳市細菌戦被害調査委員会」によれば,調査範囲は極めて広いが,常徳関係のペストによる死亡者は7643人に上るとされている。
(甲1,2,33,75,88,91,92,93の1,105の1,144の1・2,145の1・2,,吉見義明,証人中村明子,証人聶莉莉,原告易孝信,原告丁徳望)
h 江山
(a) 日本軍は,1942年(昭和17年)6月10日ころから江山県城を占領し,約2か月後に撤退したが,この撤退の際,コレラ菌を使用した細菌戦を実行した。その方法は,主として,井戸に直接入れる,食物(餅状のもの)に付着させる,果物に注射するなどというものであった。
(b) 江山の人々の中には,これらの食物等を飲食しコレラに罹患して死亡する人が発生した。原告鄭科位及び同周法源の最近の調査によれば,当時七斗行政村においてコレラで死亡したと考えられるのは合計37人であった。
(甲91,105の1,163の1・2,293の1・2,原告周道信)
    (ウ) これらの細菌兵器の実戦使用は,日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので,陸軍中央の指令により行われた。
(甲1,2,21,33,76,91,証人吉見義明,証人松村高夫)
(エ)(本件細菌戦によるペスト,コレラ被害の内容・程度)
a ペストは,歴史上14世紀ころにヨーロッパで猛威を振るい「黒死病」と恐れられた細菌感染症である。病型としては,腺ペスト,敗血症ペスト,肺ペスト,皮膚ペストなどがある。一般に,軽微な前駆症状の後に突然に悪寒をもって発熱し,激烈な頭痛,眩暈,吐き気,嘔吐を伴い,速やかに高度な心臓障害及び血管障害が起こり,身体に色濃い斑点が現れ,痙攣を起こして,大変な苦痛のうちに死に至ることも多い。ただし,現在ではサルファ剤や抗生物質によって治療が可能になっている。
 腺ペスト(ヒトのペストの中で最も多く,80%から90%を占める。)や皮膚ペストは,ペストに感染したノミに噛まれて感染する。肺ペストは,ペスト患者の喀痰や飛沫が感染源になる。敗血症ペストは主として腺ペストに続いて起こる2次性のものが多い。特に本件の被害地域のように人的な繋がりが強い地域では,ペストはそのような社会形態を介して伝播し,人々を次々に死に追いやることから,差別とお互いの疑心暗鬼を招き,地域社会の崩壊をもたらすとともに,人々の心理に深刻な傷跡を残す。そして,ペストは本来齧歯類の病気であることから,ヒト間の流行が治まった後も,病原体が自然の生物界で保存され,ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で,ペストは,地域社会を崩壊させるだけではなく,環境をも長期間に渡
って汚染する病気であるといえる。
(甲89,92,93の1,98の1・2,証人上田信,証人聶莉莉,証人中村明子,証人邱明軒,弁論の全趣旨)
b コレラは,経口的に伝染して起こる消化器系伝染病である。米のとぎ汁様の激しい下痢と嘔吐による脱水症状や,筋肉の痙攣を起こし,治療が行われないとかなりの割合で死に至る。極めて苦痛の大きい伝染病である。ただし,現在では,適切な輸液と抗生物質の併用により致命率を大きく下げることができる。
 伝染力が強く,次々と死者が出ると,地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。
(甲163の1・2,179,293の1・2,原告周道信,弁論の全主旨)
   イ 次に,原告らの主張する被害についてみてみる。
 原告らは,旧日本軍の本件細菌戦により別紙3の「原告らの主張」の別紙「原告及び死亡親族一覧表」記載のとおりの被害(ペスト又はコレラへの罹患やこれを原因とする死亡)を受けたと主張し,立証としてこれに符合する陳述書を甲号証として提出し(甲142から145までの各1・2,161から163までの各1・2,283から293までの各1・2,295から474までの各1・2),一部の原告ら(原告呉世根、同何祺綏、同陳知法、同周洪根、同丁徳望、同周道信)が本人尋問においてその旨を供述している。大半の原告らについては,それ以上に原告らの上記主張事実を確認することができるより客観的な証拠は提出されておらず,これらの事実の的確な認定のためにはなお証拠の追加提出が可能かどうかが検討される必要があると思われるが,上記原告らの各陳述書及び本人尋問における各供述自体は十分了解し得る説得的なものである。
  (4) そこで次に,上記細菌戦の事実が国際法上どのように評価されるのか,そしてそれが中国と我が国との国家間でどのように処理されているのかについてみてみる。
ア この点について,原告らは,本件細菌戦は,ヘーグ陸戦規則23条1項イ(毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト),同条1項ホ(不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器,投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト)に該当し,25条(防守セサル都市,村落,住宅又ハ建物ハ,如何ナル手段ニ依ルモ,之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス)に違反するとともに,さらに,1925年(大正14年)6月にジュネーブで署名された毒ガス等の禁止に関する議定書(いわゆる「ジュネーブ・ガス議定書」)でも禁止されていた,と主張している。
   イ まず,ヘーグ陸戦規則23条1項イ及びジュネーブ・ガス議定書について検討する。
 ヘーグ陸戦規則23条1項イの文言上は,「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器」に細菌兵器が含まれるかどうか直ちに明確とはいえない。しかし,1874年(明治7年)のブラッセル会議において,ヘーグ陸戦規則23条1項イに相当する条項の討議の際「占領地において伝染病を蔓延させるような性質の物質を使用すること」という字句を加えようとの提案があったが,占領軍は麾下軍隊の伝染病予防に関しできる限りの注意をすることを怠ることはないだろうとの議長の解釈によって,発議者がその意味で本条項を解釈することに満足して同提案を撤回した,という経緯があったとされている(信夫淳平・戦時國際法講義第二巻342,343ページ)。また,そもそも戦争又は戦闘の目的は敵の兵力を弱めることにあるから(1968年のサンクト・ペテルブ
ルク宣言前文),交戦者が戦闘の方法及び手段を選択する権利は無制限ではなく(ヘーグ陸戦規則22条),過度の傷害又は不必要な苦痛を与える武器等を用いることは禁止される(同規則23条1項ホ)。このような害敵手段の制限の趣旨と上記の歴史的経緯とを踏まえるならば,上記のブラッセル会議当時においても関係国において細菌兵器が禁止されるべきことについては異論がなく,そのことについて少なくとも黙示的な共通認識があったものと思われる。その意味では,細菌兵器が同規則23条1項イの「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器」に該当すると解する余地もある。
 しかし,その後の国際社会において細菌兵器がどのように扱われていたのかは必ずしも明瞭ではない上に,原告らも引用する1925年(大正14年)に署名されたジュネーブ・ガス議定書(正式名称・窒息性ガス,毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書。当事国125)においては,毒ガスの禁止を細菌学的戦争手段の使用についても「拡張する」(英語の正文では“extend”という語が当てられている。)とされているから,直ちに細菌兵器がヘーグ陸戦規則23条1項イの「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器」に該当すると解することはなお躊躇されるところである。
 しかし,ジュネーブ・ガス議定書において細菌兵器の使用が禁止されたことは明らかである。そして,もともと細菌兵器は,これが戦闘の目的と比較して不相当な性格のものであるとの従来からの少なくとも黙示的な共通認識を前提にジュネーブ・ガス議定書で明示的にその使用が禁止されたものと解され(当事国は前記のとおり125か国である。),同議定書は1928年(昭和3年)には発効したから,遅くともそのころまでには多数の国家の行態の中に同議定書に対する法的確信が確認されるに至り,もって同議定書を内容とする国際慣習法が成立するに至っていたものと認めるのが相当である。そして,前記認定の旧日本軍による中国各地における細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)がジュネーブ・ガス議定書にいう「細菌学的戦争手段の使用」に
当たることは明らかである。
ウ そして,前示のとおりヘーグ陸戦条約の内容は遅くとも1911年(明治44年)ころまでには国際慣習法として成立していたものと認められるところ,ヘーグ陸戦規則23条1項が「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外,特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。」としていることや,ヘーグ陸戦条約前文にいわゆるマルテンス条項(締約国ハ,其ノ採用シタル条規ニ含マレサル場合ニ於テモ,人民及交戦者カ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習,人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生スル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当ト認ム。)が謳われていることを併せて考えると,ジュネーブ・ガス議定書のような条約ないしそれを介して成立する国際慣習法による害敵手段の禁止もヘーグ陸戦規則23条1項にいう「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止
」に該当すると解するのが相当である。したがって,ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法による細菌兵器の禁止に違反した場合にもヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生ずるというべきである。
 前記認定の旧日本軍による中国各地における細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)がジュネーブ・ガス議定書にいう「細菌学的戦争手段の使用」に当たることは上記イに説示したとおりであるから,被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解するのが相当である。
 原告らは,本件細菌戦はヘーグ陸戦規則23条1項ホにも該当し,さらに同規則25条にも違反すると主張しているが,上記のように本件細菌戦についてジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法違反としてヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解する以上,それ以上の陸戦法規違反を検討する必要はないから,次に議論を進めることとする。
エ 前に説示した国際法の基本原則によれば,本件細菌戦に係る被告の国家責任は,我が国と中国との国家間でその処理が決定されるべきものである。しかるところ,周知のとおり,中華人民共和国政府は昭和47年(1972年)9月29日の日中共同声明(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)において,「中日両国国民の友好のために,日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」し,昭和53年(1978年)8月12日に署名され同年10月23日に批准書が交換された日中平和友好条約(日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約)も,「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」している。
 したがって,国際法上はこれをもって被告の国家責任については決着したものといわざるを得ない。
(5) そこで,前記の事実及び説示を前提に,被告の国会に立法不作為の違法があるかどうかについて判断する。
ア 原告らは,被告は本件細菌戦によって悲惨な法益侵害をもたらしたのであるから,被害者に対し被害の増大をもたらさないよう配慮,保障すべき条理上の作為義務が課せられていると主張している。
 しかしながら,現在の実定法体系の中に原告らがいうような条理が存在していると認めることができないことは,前記5で説示したとおりである。もとより,補償は法益侵害に対しされるものであるが,国会は,そのような法益侵害の内容・程度等を含む様々な事情を前提に広範な裁量権を行使して政治的ないし外交的判断をすることができ,またそれを期待されているのであって,国会が原告らのいうような事情から原告らのいう法的な作為義務を負っているということはできない。そして,このことは,本件細菌戦被害の内容及び本件細菌戦に対する法的評価を前提にしても,この点が中国との間で国際法上は決着していることを考慮すれば,同様といわざるを得ない。
イ 次に原告らの挙げる憲法の関係条文について検討する。
(ア) 憲法前文について
 憲法前文には,裁判規範性はなく,これから具体的な事項についての立法義務が生ずることはない。
(イ) 憲法9条,13条,14条について
 上記各条は,平和主義・戦争放棄(9条),個人の尊重,生命・自由・幸福追求の権利の尊重(13条),法の下の平等(14条)を定めたもので,これらはいずれも戦争被害者に対する国の損害賠償ないし補償の立法措置を講ずべき義務を一義的に定めたものではない。
(ウ) 憲法17条について
 同条は「何人も,公務員の不法行為により,損害を受けたときは,法律の定めるところにより,国又は公共団体に,その賠償を求めることができる。」と規定して国の賠償責任の内容を法律に委ねているのであって,その内容が憲法上一義的に定まっているとはいえず,また,憲法施行前の公務員の不法行為について特定の内容の立法をすべきことを一義的に定めているともいえない。
(エ) 憲法29条1項・3項について
 同条項は,財産権の保障及び財産権についての特別な犠牲に対する補償を規定しているが,原告らが本訴で主張する損害は財産権に対する特別な犠牲とはいえない上に,上記各条項から戦争被害者に対する国の損害賠償ないし補償の立法措置を講ずべき義務が一義的に定められているということもできない。
   ウ また,原告らは,前記5(3)のイの我が国や諸外国における戦後補償立法に関する国内及び国際的潮流からすれば,違法な戦争行為の被害に対し賠償・補償をすることは国際慣習法として確立しているから,憲法98条2項の公務員の国際慣習法の遵守義務からして,国会には本件に係る賠償立法をすべき義務が課せられていると主張している。
 しかし,前記1の(8),2,5に説示したところに照らすと,原告らが主張するような国際慣習法が確立しているとはいえず,したがって,このことから国会に本件に係る賠償ないし補償措置立法をすべき義務が一義的に課せられているということはできない。
エ さらに,原告らは,平成5年の井本熊男日誌の発見以降の事実経過から,遅くとも最高裁平成9年8月29日第三小法廷判決(民集51巻7号2921ページ)から2年を経過した平成11年8月には本件細菌戦被害者の救済措置立法に係る不作為が違法になったと主張している。
 しかし,原告らの上記主張は,独自の判断基準に基づくものであって,これによって当該立法不作為が違法であるとはいえないし,当裁判所の判断基準によっても,原告らのいうような事情によって国会が本件細菌戦被害者に対する賠償ないし補償措置立法をする義務が一義的に生じていたとすることはできない。
オ まとめ
 以上のとおりであって,本件細菌戦による被害は誠に悲惨かつ甚大であり,旧日本軍による当該戦闘行為は非人道的なものであったとの評価を免れないと解されるものの,法的な枠組みに従って検討する限り,被告の国会に国家賠償法1条1項にいう違法な立法不作為があるとすることはできない。
 そこで,本件細菌戦被害に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば,我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ,何らかの対処をするかどうか,仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは,国会において,以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に,高次の裁量により決すべき性格のものと解される。
  (6) 以上のように,国会に本件細菌戦被害者に係る救済措置立法をしなかった不作為の違法があるとはいえず,これに基づく原告らの請求は理由がない。
(7) 次に,原告らは,内閣に救済措置立法に係る法案提出義務の違法な懈怠があったと主張している。
 しかしながら,内閣には法律案提出権が認められているものの(内閣法5条),内閣は法の執行機関であり(憲法73条1号,4号,5号),立法の補助機関ではないから,立法についての第1次的責任は国会にあるというべきである。したがって,国会の立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法とならない場合には,内閣の法律案提出権の不行使が同法1条1項の適用上違法と評価されることはないと解するのが相当である。
 内閣の責任に関する原告らの主張は,国会の立法不作為に関する主張とほぼ同旨であり,かつ,本件において国会議員の立法不作為が違法とならない以上,内閣の法律案不提出も違法と評価されることはないというべきである。したがって,内閣の立法不作為を理由とする原告らの請求も理由がない。
 7 被告の細菌戦隠蔽による損害賠償請求について(争点7)
(1) 原告らは,被告が本件細菌戦について隠蔽行為をしたとし,その隠蔽行為は細菌戦被害者の被告に対する様々な権利行使(例えば,細菌戦被害の拡大防止,被害者及び家族の人権侵害の回復措置,謝罪及び損害賠償に関する法的な請求。また,同様の内容に関する社会的・政治的な要求,さらに責任者の処罰要求などを含む。)を著しく妨害ないし不可能にするものであり,それらの個々の隠蔽行為は原告らに対する新たな加害行為を構成し,国家賠償法上違法であると主張している。そして,原告らは,被告による隠蔽行為は,第1期(昭和20年〔1945年〕8月15日の敗戦前後の証拠隠滅),第2期(昭和20年〔1945年〕8月から昭和27年〔1952年〕の連合国の占領下における隠蔽工作),第3期(昭和27年〔1952年〕の講和
条約発効から今日までの隠蔽行為)に分かれるとし,これら一連の隠蔽行為の全体が1個のまとまった新たな加害行為であるとともに,個々の隠蔽行為も新たな加害行為であると主張している。
(2) そこで,原告らの上記主張の当否について検討する。
ア 国家賠償法施行前の行為について
 国家賠償法が施行された昭和22年10月27日よりも前の行為については,同法附則6項の規定に基づき従前の法が適用されるところ,前示のとおり,同法施行前においては国家無答責の法理が確立していたから,公権力の行使による損害についてはそれが違法なものであっても被告は損害賠償責任を負わないといわざるを得ない。
 したがって,原告らが主張する隠蔽行為のうち国家賠償法施行前のもの(第1期及び第2期の一部)については,その他の点を検討するまでもなく,原告らの請求は理由がない。
イ 国家賠償法施行後の行為について
 国家賠償法1条1項にいう違法とは,公務員が個別の国民に対し負担する職務上の法的義務に違背することを指す。そして,国家賠償法上の違法が認められるためには,法律上保護された利益が侵害されたことが必要である。
 これを本件についてみるに,原告らが被告の隠蔽行為によって侵害されたと主張する権利利益のうち,原告ら被害者が被告に対して有する損害賠償・補償請求権等の法的権利を侵害されたとする点については,既にみたとおり原告らは被告に対しそれらの法的権利を有しないから,原告らのいう隠蔽行為が原告らの権利を侵害したという関係にはないといわざるを得ない。また,原告が主張するその他のもの,すなわち,原告らの被害に関する社会的・政治的な要求や責任者の処罰要求等が侵害されたとする点については,仮に原告らのいう隠蔽行為によって原告らがこれらの諸要求をすることに何らかの支障が生じたとしても,これが法律上保護された利益の侵害に当たるということはできない。
 したがって,原告らの主張する隠蔽行為のうち国家賠償法施行後のもの(第2期の残部及び第3期)についても,その他の点を検討するまでもなく,原告らの請求は理由がない。


 


第6 結論

 以上の次第で,原告らの請求はいずれも理由がないから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。

   東京地方裁判所民事第18部

裁判長裁判官  岩田好二

 裁判官手嶋あさみは差し支えのため,裁判官島田英一郎は転補のため,いずれも署名押印することができない。

        裁判長裁判官   岩田好二

 



謝罪文

 日本国は,中国に対する侵略戦争において,国際法で禁止されていた細菌兵器を使用して中国人を殺傷することを企て,ペスト菌・コレラ菌などを培養して多くの中国人などに人体実験を行ったうえ,731部隊や1644部隊などのいわゆる細菌戦部隊に細菌戦を実行させて,中国各地でペスト菌・コレラ菌等を撒布するなどしました。
 日本国は,上記の細菌戦の結果,1940年から1942年にかけて,中国浙江省の衢州市,義烏市,崇山村,寧波市,江山市及び湖南省の常徳市,石公橋鎮,桃源県において,東京地方裁判所係属の1997年(ワ)第16684号事件及び1999年(ワ)第27579号事件の原告らの肉親ないし原告ら自身などの多数の中国人を,ペストないしコレラに罹患させて殺傷しました。
 ここに,日本国政府を代表して,上記の裁判の原告の方々に,日本国が,国際法に明白に違反する,人類史上稀にみる非人道的な残虐行為である細菌戦を行い,計り知れない被害をもたらしたことについて深く謝罪いたします。
 加えて,日本国が,これら細菌戦の事実を50数年間にわたって隠蔽し続けるという誠に恥ずべき卑劣な行為を行い,今日まで長期にわたり細菌戦被害者の方々に癒えることのない悲しみと苦痛を強い続けてきたことについて深く謝罪いたします。
 日本国政府は,上記の謝罪に踏まえ,2度と細菌戦を繰り返さないことを決意するとともに,日本国が行った細菌戦に関する文書や資料で国や公共団体が保管するすべてのものを公開するなどして細菌戦の加害と被害に関する事実について徹底した事実調査を行うこと,また歴史教育を行うなどして日本国が中国に対する侵略戦争の中で細菌戦を行った事実を後世に伝えること,さらに日本と中国の間の真の友好と信頼の関係を築くためにあらゆる努力を傾注することを約束いたします。

    年  月  日
                   内閣総理大臣 (  氏  名  )

                 記

  (原告らの住所,氏名を列記)




原告らの主張


第1部 日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第1 本件細菌戦被害の発生

1 被告の細菌戦と中国8地域の被害
 中国の都市や農村では,1940年(昭和15年)以降,人為的原因と疑われる極めて不自然なペストやコレラなどが流行した。これらの疫病は,実は日本軍の細菌戦によるものであった。本件訴訟で損害賠償を請求するのは,次の8つの地域で発生した細菌戦被害についてである。次のCはコレラ被害,その他の7か所はペスト被害である。@ 浙江省の衢州市。日本軍は,1940年(昭和15年)10月,飛行機から細菌戦を行った。
A 浙江省の寧波市。日本軍は,1940年(昭和15年)10月,飛行機から細菌戦を行った。
B 湖南省の常徳市。日本軍は,1941年(昭和16年)11月,飛行機から細菌戦を行った。
C 浙江省の江山市。日本軍は,1942年(昭和17年)8月,地上作戦として細菌戦を行った。
D 浙江省の義烏市。衢州で流行したペストが義烏市街地に伝播し,1941年(昭和16年)の10月ころから爆発的に流行した。
E 浙江省東陽市。義烏の市街地で流行したペストが伝播し,1941年(昭和16年)10月ころから爆発的に流行した。
F 浙江省の義烏市の崇山村。義烏の市街地で流行したペストが伝播し1942年(昭和17年)10月ころから爆発的に流行した。
G 浙江省の義烏市塔下洲。義烏市崇山村で流行したペストが伝播し,1942年(昭和17年)の12月ころから爆発的に流行した。
 以上のように,DからGまでは@からの伝播なので,@の後に続けて述べる。

 2 各地における細菌戦被害の発生
  (1) 衢州(上記1@)
 浙江省衢州の細菌戦被害の死亡者は,1940年10月から1941年12月までの間に少なくとも2000名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号1から14までの死亡者欄記載の30名である。さらに,多くの死者・患者の家族は,防疫のため強制的な収容措置を受け,さらに住居を焼燬されるなどの被害を被った。
  (2) 義烏(上記1D)
 浙江省義烏市市街地の細菌戦被害の死亡者は,1941年9月から1942年3月までの間に少なくとも230名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号15から58までの死亡者欄記載の124名である。さらに,ペスト流行地区の多くの死者・患者の家族や住民たちは,住居や生業を捨てて逃亡し,あるいは同地区の封鎖後はここに閉じ込められて感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。
  (3) 東陽市(上記1E)
 浙江省東陽市の細菌戦被害の死亡者は,1941年10月から1942年4月までの間に少なくとも113名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号59,60の死亡者欄記載の9名である。さらに,多くの住民が同地区の封鎖後はここに閉じ込められて感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。
  (4) 崇山村(上記1F)
 浙江省義烏市崇山村の細菌戦被害の死亡者は,1942年10月から12月までの間に少なくとも396名に上るが,そのうち,原告(又は傍線を付した原告の被相続人)の3親等内の親族である死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号61から90までの70名である。さらに,村の約半数の家屋は日本軍によって焼燬され,患者の一部は日本軍細菌戦部隊の人体実験の犠牲者となるなどの被害を被った。
  (5) 義烏市塔下洲(上記1G)
 浙江省塔下洲の細菌戦被害の死亡者は,1942年10月から1943年1月までの間に少なくとも103名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号91から95までの死亡者欄記載の21名である。さらに,ペスト流行地区の多くの死者・患者の家族や住民たちは,住居や生業を捨てて逃亡したため生活破壊は著しかった。
  (6) 寧波(上記1A)
 浙江省寧波の細菌戦被害の死亡者は,1940年11月から12月までの間に少なくとも109名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号96から104までの死亡者欄記載の13名である。さらに,流行地区の家屋は焼燬され,同地区の患者の家族・住民は家屋・店舗を失って路頭に迷うなどの被害を被った。
  (7) 常徳(上記1B)
 常徳市市街地に発生したペストの流行は,1942年3月,常徳市の農村部の河洑鎮,東江・東郊,芦獲山,闘姆湖,許家橋,石門橋,聶家橋,韓公渡,石公橋,周家店,馬宗窓,桃源九渓,草坪,大龍嫋,断港頭,鎮徳橋,白合山,肖伍鋪,南坪,黄土店,銭家坪,双橋坪,瓦屋当,中河口,沛子港,黒山嘴,黄珠洲,洲口,衝天湖,太平鋪
,毛家灘,丹洲,徳山などの約50か村に伝播した。その結果,湖南省常徳市全体の細菌戦被害の死亡者は,1941年11月から1945年11月までの間に,少なくとも6491名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号105から165までの死亡者欄記載の129名である。また*印の8名の原告は,ペストに罹患し死線をさまよったが,生き
残った者である。常徳の住民は,一家がほぼ全滅するような激しく長期間にわたった流行の結果,患者の家族・住民が常に感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。
  (8) 江山(上記1C)
 浙江省江山の細菌戦被害の死亡者は,1942年8月に少なくとも約100名に上る。そのうち,原告らの3親等内の親族の死亡者は,別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号166から180までの死亡者欄記載の23名である。*印の2名の原告は,コレラに罹患し死線をさまよったが,生き残った者である。その上,患者の家族や住民は,食事や水を摂取する際にも常に感染の恐怖にさらされるなどの受けた。


第2 被告の細菌戦

 1 被告の細菌戦部隊の創設
  (1) 満州国が建国された昭和7年(1932年),東京の陸軍軍医学校に防疫研究室が作られ,翌昭和8年(1933年),中国東北の黒龍江省五常県背陰河に防疫班(田中新一部隊)が設置された。田中新一部隊は,一時東京に戻った後,中国東北の込櫛篋市南崗に移転した。昭和11年(1936年)8月,田中新一部隊は「関東軍防疫部」として天皇の軍令に基づく正規の部隊となった。
 この部隊は,表看板としては防疫や給水を掲げていたが,実態は細菌兵器の開発と実用化を目指す秘密機関だった。戦線が拡大するにつれ,兵員の消耗や物資の不足が深刻となり,とりわけ兵器の近代化の遅れが顕著になった結果,細菌兵器が安価で,かつ,敵国に無差別な大量被害を与えることができる兵器として重視されたのである。
  (2) 昭和11年(1936年)秋,ハルビン市南東24qの平房の6平方キロメートルの地域に施設の建設が開始され,周囲の農家を強制立退きさせるなどして,細菌戦の中枢となる部隊の本部官舎,細菌製造工場,各種実験室,監獄,専用飛行場,隊員家族宿舎などが建設された(甲30・68ページ以下,54,110,184)。施設の中心は,約100m四方,3階建ての「ロ号棟」である。昭和15年(1940年)には関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部」と改称され,翌昭和16年(1941年)に「731部隊」の部隊番号を持つようになった。
 部隊の中枢は4つの部から構成されていた(甲109)。その第1部の細菌研究部と第4部の細菌製造部はこの「ロ号棟」に置かれ,ペスト,コレラ,チフス,炭疽菌などが研究・製造された。別棟に置かれた第2部は,実戦研究を担当し,植物絶滅の研究班や昆虫(ノミなど)の研究班,さらに航空班などがあった。ハルビン市南崗の陸軍病院に置かれた第3部は,部隊の正式名称に関わる「防疫給水」のための濾水器の製造のほか,ペスト菌などを入れる細菌戦用の陶器製爆弾の容器を製造した(甲38・21ページ)。
 第4部では,ロ号棟の3棟,5棟で,細菌の大量生産が石井式培養缶(甲87)を用いて行われた(篠塚証人調書22ページ)。ロ号棟の中庭には,最大400名を収容できる特殊監獄が建設され,ここに,日本の支配に抵抗し,あるいは抵抗したとみなされて捕えられた中国人,ロシア人,朝鮮人,モンゴル人などが収容された。これらの人々は「マルタ」(丸太)と呼ばれ,1本,2本と数えられた。彼らは,ロ号棟内の解剖室や野外実験場で人体実験に使われ,次々に殺されていった(甲25・92ページ)。
 人体実験では,細菌を注射・塗布して観察する生体実験を始めとして,動物の血液との交換,人為的な凍傷,減圧実験などあらゆることが行われた。また,安達に設けられた野外実験場では,被験者を杭に縛り,飛行機からペスト菌弾や炭疽菌弾,毒ガス弾を投下・炸裂させ,効果を測定する実験などが行われた(甲131から137,142・91ページ)。細菌兵器のうち最も殺傷力が高いと評価された「ペスト感染ノミ」を撒布する方法は,このような研究・実験から生み出された。

 2 昭和14年(1939年)から昭和20年(1945年)にかけての被告の細菌戦
  (1) 細菌戦部隊の創設には軍医石井四郎の役割りが大きかったが,細菌戦の研究と実戦は,日本陸軍の中央部が認可し推進したものであった。そこで,細菌戦部隊(田中新一部隊,関東軍防疫部)は当初,日本陸軍が主敵とみなしていたソ連に近い中国東北に設置された。細菌戦が最初に行われたのは,1939年(昭和14年)の関東軍とソ連軍とが衝突したノモンハン事件においてである(甲86・11ページ)。
 他方,日中戦争は,国共合作による国民党軍と共産党軍の頑強な抗戦により膠着化した。1939年(昭和14年)9月にはヨーロッパで第2次世界大戦が勃発,日本は昭和15年(1940年)9月日独伊3国同盟に調印し,東南アジア等を新たに侵略することによって,事態を一気に解決するという戦略を打ち出した。
 このような状況下で,日本軍は細菌戦研究を強化し,部隊の規模を拡張していった。すなわち,関東軍防疫給水部(731部隊。ハルビン所在)に加えて,中国では北支那防疫給水部(1855部隊。北京所在),中支那防疫給水部(1644部隊。南京所在。甲57,甲58),南支那防疫給水部(8604部隊。広州所在)が昭和15年(1940年)までに編成され,昭和17年(1942年)には南方軍防疫給水部(9420部隊。シンガポール所在)が編成された。日本軍の細菌戦は,これらの諸部隊が直接間接に参加して,中国の各地に対して行われたのである。
  (2) 昭和15年(1940年),日本陸軍の中央部は細菌作戦発動を命じた。天皇の命令である「大陸命」(大本営陸軍部作戦命令)に基づき陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指(大本営陸軍部作戦指令)第690号」が発令されたのである。
 同年6月5日,陸軍参謀本部作戦課の荒尾興功,支那派遣軍参謀井本熊男,南京・1644部隊長代理の増田知貞の間で細菌戦実施の協議が行われ,攻撃目標は浙江省の主要都市とすること,実施部隊は支那派遣軍総司令部直轄とし,部隊責任者は関東軍防疫部長石井四郎とすること,作戦方法は飛行機による菌液撒布とペスト感染ノミの投下とすることなどが決定された。
 7月25日,関東軍は「関作命(関東軍作戦命令)丙第659号」(甲20の証拠書類保管文書830号)を発令し,浙江省への細菌戦のために731部隊員で臨時編成された「奈良部隊」の人員・器材の輸送を命じた。同命令によって器財が8月6日に前線基地の浙江省杭州に到着し,2日後には1644部隊と731部隊からの総勢120名の隊員が集結した(甲88・14ページ,松本証人調書32ページ)。
 9月18日,浙江省への細菌戦が始まり,10月7日までにコレラ菌,チフス菌,ペスト菌(ペスト感染ノミ)による6回の細菌攻撃が行われた(甲113)。続いて10月下旬寧波にやはりペスト感染ノミが投下され,11月末には金華にペスト菌が投下された。そして,攻撃対象となった地域のうち少なくとも衢州と寧波の2か所で大規模なペスト流行が発生した。
 11月25日に,陸軍参謀総長真田穣一郎は,支那派遣軍と関東軍に対し「大陸指第781号」(甲21)を発し,11月末日をもって作戦を終了させることを指示した。
  (3) 昭和16年(1941年)の前半,日本陸軍の中央部や関東軍防疫給水部(731部隊),北支那防疫給水部(1855部隊),中支那防疫給水部(1644部隊)は,前年の細菌戦実施の結果を踏まえ,攻撃方法や細菌増産のための施設拡充などについて様々な検討を行った。同年9月16日に「大陸指」が発令され,細菌戦が再開された。攻撃の対象は湖南省西部の戦略要地常徳であり,目的はペスト流行による国民党軍の交通路遮断であった。今回の作戦の中心となったのも731部隊と1644部隊であり,作戦参加者の総数は約100名であった(甲112)。
 11月4日6時50分ころから,731部隊によって常徳の上空からペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物など36sが投下された。11月12日に最初のペスト患者が発見された。翌1942年(昭和17年)にかけて常徳の市街地・農村地区及び近隣の桃源県でペストが流行した。日本軍は,情報収集によって攻撃が成功したと判断し,ペスト感染ノミの空中投下という方法に自信を深めた。
  (4) 昭和17年(1942年)4月18日,米軍爆撃機が初めて日本本土を空襲した。米軍機は中国浙江省の都市を着陸予定地としていたため,同月30日大本営は急遽浙江省から江西省に通じる鉄道沿線の諸都市を攻撃し飛行場を破壊する作戦を決定し,「大陸命第621号」を発令した。陸軍中央と石井四郎(当時軍医少将)は,この作戦の中で細菌攻撃を実施することを決定し,石井四郎が陣頭指揮に当たった。
 7月には,ハルビンの731部隊派遣隊と南京・1644部隊の部隊員とが合流し(要員総数150名から160名),8月初めには配備が終了した。第13軍など日本軍は飛行場破壊の所期の目的を達成し,同月中旬から一部の占領地を除いて撤退を始めたが,この撤退に際し様々な方法で細菌が地上撒布された。その目的は,日本軍撤退後に復帰する中国軍の行軍ルートや拠点都市に伝染病を流行させることによって,飛行場の再建を不可能にすることであった。江西省の上饒(旧称広信)や玉山では,ペスト感染ノミやペスト菌を注射した野ネズミが放たれ,同省の広豊でもペスト感染ノミが放たれた。さらに玉山では,ペストの乾燥菌を付着させた米を撒いて,その米を食べたネズミを感染させる方法も試みられた。また浙江省の衢州・麗水では,ペ
スト感染ノミのほか,チフス菌やパラチフス菌が撒布された。さらに同省の常山と江山では,コレラ菌を井戸に直接入れる,食物に付着させる,果物に注射するなどの方法が採られた。これらの謀略的な細菌地上撒布により,コレラやペストをはじめ多数の伝染病患者が発生した。
(5) 昭和18年(1943年),ガダルカナルからの撤退後,太平洋における日本軍の敗勢は明確なものとなった。中国での戦争も,本来の中国政府を屈服させるという目的を放棄し,占領確保のための作戦が中心になった。こうした状況下で,日本軍細菌戦部隊は,ペスト感染ノミとネズミの増産に力を入れ,中国の他の地域に対してだけでなく,ビルマ,インド,ニューギニア,オーストラリアなどに対する細菌攻撃も検討した。
 なお,同年9月,日本軍第59師団防疫給水班は,中国山東省西部で,コレラ菌撒布により細菌兵器の効果を実験し,併せて行軍中の日本軍部隊の防疫能力を試す細菌戦を実施している(甲2・44ページ)。
  (6) 昭和19年(1944年)になると,日本軍は太平洋の制海権・制空権を完全に奪われ,南太平洋の拠点を次々失い,同年6月にはサイパン島にアメリカ軍が上陸した。陸軍参謀本部作戦課は,シドニー,メルボルン,ハワイ,ミッドウェーを細菌攻撃する計画を立て,さらにサイパン島攻防戦では実際に細菌攻撃部隊が船で派遣されたが,この部隊の一部はサイパン島で玉砕,一部は米軍潜水艦により撃沈された。同年7月,サイパン島が陥落すると,これを奪回するための細菌攻撃が検討された。
(7) 昭和20年(1945年)1月,陸軍中央部は細菌戦の戦略的実施を中止する決定を行った。
 だが,中国東北では事情が異なった。ソ連の参戦が確実となった2月以降,弱体化した兵力を補うべく,関東軍とその細菌戦部隊である731部隊は,ペスト菌の大増産計画を立て,大量のペスト菌培養用のネズミ類(ハタリス)が集められ,設備も増強された。同年6月当時の731部隊は,2275名の人員を擁していた(甲28・28ページ)。こうした対ソ連細菌戦準備は,日本の敗戦直前まで続けられた。
 8月9日のソ連参戦後,731部隊はその細菌戦研究・細菌兵器製造等の一切の施設を破壊し,収容されていた「マルタ」を全員殺害して撤退した(甲31・14ページ以下)。しかし,施設跡から逃げたネズミやノミによって,周囲の村落及びハルビン市内にペストが発生し,少なくとも数百名の死者を出したこの流行は1959年まで続いた(甲78)。


第3 被告の細菌戦と本件各被害との因果関係

 1 細菌戦と本件被害との因果関係の疫学的解明の方法
 まず,次の3要素,すなわち,@感染の原因となった病原微生物の特定,Aその病原微生物がいつ,どこで,どのようなルートで人に侵入し集団の中に拡がっていったのかの解明,B感染した人たちの免疫状態の観察をして,感染症の流行の全体像を捉える必要がある。
 次に,流行像を基礎としながら,感染原因の仮説を設定する。疾病発生の因果関係を満たすべき条件としては,通常@時間的順序,A統計的関連,B既存知識による支持(既存知識で解釈できるか否か)等が挙げられる。当時においても,疫学的アプローチに基づいた原因究明は十分可能であった(甲93の1・中村明子作成「鑑定書」20ページ参照)。
 以上のような方法論に基づき,以下において,本件各被害と細菌戦の因果関係について述べる。

 2 細菌戦による衢州のペスト被害
(1) 1940年(昭和15年)10月4日午前9時ころ,日本軍機1機が衢州市(当時衢県。以下旧称を用いる。)上空に飛来し,麦や粟などとともにペスト感染ノミを撒布した。同日午後には県知事の指示で,住民を総動員して至る所に散乱している投下物の清掃と焼却が行われた(甲98・証人邱明軒作成「鑑定書」参照)。
 日本軍空襲の17日後,衢県県城では大量の死んだネズミが発見され,20日後の11月12日に,住民が腺ペストを発症した。県衛生院は,同月20日腺ペストと診断し,この診断は,後に福建省から派遣された防疫専門官が行った検査等により確認された(甲56)。
 衢県のペストは,日本軍機から投下されたペスト感染ノミがまずネズミの間でペストを流行させ,これが人間に感染して流行したものである。衢県では1940年以前にペストが発生した歴史的事実はなく,また同年のペストは日本軍機によって穀物やノミが投下された地域に集中して発生した。
 11月下旬以降もペスト発病者の数は増え,隣接する数か所の通りでペスト感染者が続けて見つかった。11月22日,国民党軍第3戦区司令部がペスト流行地区を封鎖するように衢県駐屯の軍政部防疫部隊に命令し,衢県ペスト防疫委員会が設立され,流行地区を封鎖し,医療従事者を組織し,隔離病院・隔離所を設置した。さらに防疫委員会は,ペスト予防についての宣伝活動,学校閉鎖,ペストワクチンの予防接種,ペスト患者の出た住宅の焼却などを行った。
 1940年末までに関係当局に報告されたペストによる死者は,ペスト患者25名中24名であった。ただし,ペスト患者の家族の多くは,隔離されたり家を焼かれることを恐れ,患者を別の所に隠して報告しなかったため,実際の患者・死者数はこの数値を上回る(甲3・176ページ)。別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号1,2,6の死亡者欄記載の5名は,この1940年のペスト流行で死亡した者らである。 
(2) 翌1941年3月上旬,ペストは衢県城の坊門街で再発し,間もなく城内十数本の通りで同時に発生し,流行は激しさを増し,県城内の58の街から郊外農村の13の郷鎮に広がったが,同年12月にようやく終息した。中国の統計によれば,1941年に衢県県城地区で発生したペスト患者は281人,うち死者は274人である。
 このほか,衢県でペストが流行していた間,日本軍機が頻繁に県城を空襲したため,城内の住民は農村に疎開し,ペストは近代的な医療体制が全くなかった農村に広く蔓延した。県城地区とその周辺農村を合わせれば,ペストによる死者は,1940年10月から翌1941年12月まの間に少なくとも2000人に上った。
 別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号3から5,7,8,10から14の死亡者欄記載の20名は,この1941年のペスト流行で死亡した。
(3) だが,衢県のペストは,義烏の市街地,さらに東陽市及び塔下洲を含む義烏周辺の農村にまで伝播することになった。

 3 細菌戦による義烏のペスト被害
 1941年9月に始まる義烏市(当時義烏県,以下旧称を用いる。)のペスト流行は,前年に日本軍が衢州に投下したペスト菌の伝播によるものである。これ以前に,義烏でペストが発生した歴史事実はない。同年9月から翌1942年2月にわたってペストが流行した県城では,1942年初頭にピークを迎えた。
 しかし,義烏の防疫活動は,様々な事情から困難を極めた。そのため,ペストは,県城北門一帯から,県前街,東門一帯などほぼ県城内全域に広がり,さらに小三里塘,嶺下,楊村など県城周辺や,同稠城鎮内の義駕山村,下付村,陳村,橋東村,ュ頭村,沈村,大水畈村,そして蘇渓鎮の徐豊村や城西鎮の張村,稠関村,東河にまで波及した。1942年3月までの流行の被害は,少なくとも死者230名に上る。
 義駕山村では,1942年旧正月ころにペストが伝播し流行した。
 義烏県城のペストは,         (当時東陽県)に伝播して1941年10月から翌1942年4月までに,少なくとも113名の死者を出した。
 さらに,1941年中に始まった義烏の農村地区の流行は1942年に本格化し,佛堂,蘇渓,廿三里,平疇,青口,前洪,井頭山,官塘下,崇山などの鎮や村落に波及し,1944年4月に最後の死者が出るまで,2年8か月にわたって続いた。義烏県城と県城周辺の農村の被害を含めると,義烏県全体のペストの死者は,900名を越える(甲67から69)。
 別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号46から58までの死亡者欄記載の57名は,このペスト流行で死亡したものである。

 4 細菌戦による東陽市のペスト被害
 1941年9月に義烏県城に発生したペストは,防疫活動が困難を極め,流行地区は日々拡大していった。加えて,日本軍機が爆撃を重ね,城内の住民の多くが農村に疎開したので,12月末には流行は県城全域に及び,さらに郊外や隣接する東陽市(当時東陽県)に広がった。
 東陽市は浙江省中部に位置し,西を義烏と接している。同市の歴史上唯一のペスト流行は,1941年10月から42年4月上旬に発生したものである。「浙江省鼠疫流行史」によれば,感染源は,義烏に働きに行った左官がペストに感染して八担頭村に帰ったもので,ペストは周辺の村に急速に広がっていった。ペストは合わせて14の村で流行し,少なくとも117人が感染し,113名が死亡した。
 別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号59,60の死亡者欄記載の9名は,このペスト流行で死亡したものである。

 5 細菌戦による崇山村のペスト被害
(1) 江湾郷の崇山村は,義烏県全体の中でも最大のペスト被害に見舞われた。崇山村は,北の上半分村と南の下半分村の2つに分れており,住宅は極度に密集して建てられていた。同村のペストは,1942年10月から爆発的に流行し,上半分村でペストによる死者が続出する事態となった(甲89)。
 ペストが蔓延した当時,上・下の区域を超えた人の交流はほとんどなかったため,両者の間には流行の時期に差がある。上半分村では11月中旬に猖獗を極めた後,12月上旬にほぼ流行が終結したかに思えた。しかし,12月に入ると今度は下半分村で死者が多く出始めたのである。
 崇山村のペスト患者は,村はずれの林山寺や,あるいは同じく村はずれにある碑塘殿などに収容されたが,国民政府の防疫隊は全く活動できなかった。流行が終息する翌1943年1月までに,死者の総計は396名に上った。これは当時の崇山村の人口1200人の約3分の1に相当する。
 別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号61から90までの死亡者欄記載の70名は,このペスト流行で死亡した者らである。
(2) 日本軍は,調査班を派遣し,崇山村で流行した伝染病がペストであることを,その流行の当時確定していた(甲59から64,67)。
 日本軍の崇山村ペスト調査の目的は2つあった。1つは自軍へのペスト波及を防ぐこと,もう1つはペスト感染者を生きた実験材料とすることである。
 前者の目的のため,日本軍は,11月18日同村を包囲し,火を放って200余戸,400余室を焼却した。これによる被災民は700余人を数えた。
 後者の目的は崇山村のペスト感染者の生体解剖を行うことで達せられた。日本軍はペスト菌種を確認し,人体を通して強力となった強毒菌を取り出すため,隔離施設を構えて調査を行った。そして村の治安係を通じて治療が受けられると宣伝し,村人が患者を運んだところ,そこで1644部隊員たちにより生体解剖が行われたのである。また,日本軍は崇山村でのペスト発生の情報を得るや,感染者を村外に拉致し,解剖して内臓を取り出し,散布した細菌の効果を検査したりした。
 1943年1月,ようやく崇山村のペストは終息したが,村は陰鬱な空気に包まれ,人々の表情からは生気が失われた。祠堂の1つである集奎堂には,家を焼き出された20家族が,1980年代前半までひしめいて住み続けざるを得なかった。こうした劣悪な住環境の下,崇山村の生産性は低く,蓄えもできず,いつまでたっても家を新築することができなかった。若者は陰気な村に嫌気がさして,機会があれば村を出ていく。こうして,生気を失った村は,リーダーシップも育たず,この状況を打破する力も失うことになった。

 6 細菌戦による義烏市塔下洲のペスト被害
 塔下洲のペストは,1942年10月に崇山村から伝播した。2か月も経たないうちに,村全体で死者は103人(男40人,女63人)に上った。これは当時の村の人口の5分の1を占め,被害は全部で50世帯に及んだ。そのうち一家全滅したのが9世帯,母が死亡した家庭が13世帯,父が死亡した家庭が3世帯,妻が死亡した家庭が8世帯,夫が死亡した家庭が3世帯,孤児だけが残された家庭が2世帯,子供が死亡した家庭が10世帯,老人だけが残された家庭が2世帯になる(甲307)。
 別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号91から95までの死亡者欄記載の21名は,このペスト流行で死亡した者らである。

 7 細菌戦による寧波のペスト被害
(1) 衢州への細菌攻撃と同じころ,浙江省の港湾都市寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため,寧波には突発的なペスト流行が起こった。これ以前に,寧波でペストが発生した歴史事実はない。
 1940年10月下旬,日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空から小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去った後開明街一帯の商店の庭,屋根,水瓶,路上には小麦などが散乱し,生きている多量のノミも住民によって目撃された。
(2) 10月29日に最初の患者が出た。患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は,北は中山東路に沿って224番地から268番地,西は開明街に沿って64番地から98番地まで,南は開明巷に沿い,東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸,住宅69戸,僧庵1戸の計113戸,人口591人であった。
 顕微鏡検査,動物実験,細菌培養,臨床診断などから,寧波市開明街一帯で流行している病気は,ペストであることが証明された。
(3) 汚染区内に,甲部隔離病院と乙部隔離病院が設置され,甲部隔離病院には真正ペスト患者が,乙部隔離病院(のち汚染区外に移転)には,汚染区住民及び潜伏期間中と疑われた者が収容された(甲49)。隔離病院には総計約250人が収容された。甲部隔離病院に収容された61名は,11月末の時点で59名が死亡した。また乙部隔離病院に収容された127名は,潜伏期間を過ぎ,退院許可証を受けたが,このうち約半数は帰る家がなく院内に留まり続けた。
(4) この間,防疫活動も活発に行なわれた。すでに11月2日には汚染地域が封鎖され,4日,県政府は同地区の厳重封鎖を告示した。6日には,朶県防疫処が成立して防疫体制が整えられた。汚染区の周囲に高さ3.7m壁をめぐらす工事や,排水土管の破壊,暗渠の埋立てなどの工事が行われ,汚染区域は硫黄の薫蒸などによって消毒された。中央政府や省政府から防疫隊,防疫担当官が到着し,ペストワクチンの予防注射も本格的に行われた。
 だが,ペストの死者が出ると汚染地区内の住民は,伝染病を避け実家へ戻ったり,親戚友人を頼って区外へ出た。伝染病の蔓延を防ぐため,捜索隊が汚染区外に出た住民や感染者を捜索し,多くの患者や汚染地区の住民が連れ戻されたが,それでも汚染区外での死者は32名にのぼった。
 11月30日夜,開明街の汚染区のすべての家屋の焼却が断行された。焼却家屋は113戸,部屋数137室,面積約5000平方メートルであった。
 こうした防疫活動が功を奏し,12月初めに最後の患者が死亡した後,寧波のペスト流行は終息した。死者の合計は少なくとも109名であった(甲50)。
 別紙の原告番号102から104までの死亡者欄記載の3名は,このペスト流行で死亡したものである。

 8 細菌戦による常徳のペスト被害
(1) 1941年11月,湖南省常徳市(当時常徳県。以下旧称を用いる。)でペストが発生し,翌年になって市街地(県城)のみならず,農村部と桃源県に波及した。1941年以前にこれらの地域でペストが発生した歴史事実はない。
 同年11月4日,731部隊の航空班増田美保少佐が操縦する97式軽爆撃機から,ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物などが投下され,県城中心の関廟街,鶏鵝巷一帯及び県城東門付近に落下した。投下されたノミが直接人間を噛んだことから,ペストの潜伏期間を過ぎた11月11日からペスト患者が出始めた。
 死亡した患者が解剖され,細菌培養,動物接種などの実験が行われ,同患者が真性腺ペストにかかって死亡したことが医学的に証明された(甲70,72)。後に,ポリッツアー(ペストの専門家で,国民政府衛生署外国籍防疫専門官であった。)も,常徳における最近のペストの流行が11月4日の飛行機の攻撃と関連があることを疑う余地はない,と結論を下している(甲77・83ページ,93の1)。
 常徳県城のペスト流行によって,1941年11月から翌1942年1月までに少なくとも65名の死者が出た(甲92・88ページ)。
(2) 1942年2月には患者は発見されず,この時点で終息したかに見えた。だが,同年から常徳県城(市街地)内においてペスト感染ネズミが増大し始め,このネズミ間の流行が第二次流行を引き起こした。
 すなわち,同年3月から7月にかけて,病院に収容されたものだけで,常徳県城内で34名の患者,28名の死者が報告されたが,この数値は実際の患者数のごく一部にすぎない。なお,第二次流行はネズミの調査から予想されたため,事前の対策もとられたが,それでも農村部への波及は防げなかった。中村明子証人作成の「鑑定書」(甲93の1)も,これらの被害が二次流行であったことを指摘している。
(3) 1942年3月以降,常徳の市街地で流行したペストは,農村部へと伝播し,広範な地域に被害を及ぼした。常徳市全体の細菌戦被害の死亡者は,1945年11月までに少なくとも6491名に上った。その後の調査で死亡者はさらに増え,2000年11月時点で7643人になっている(甲92)。

 9 細菌戦による江山のコレラ被害
 江山市(旧称江山県)は,浙江省が江西省と境を接する位置にある浙江省最奧の都市である。
 同地に対し,日本軍は,1942年(昭和17年)細菌攻撃を行った。すなわち日本軍は,同年6月11日江山県城を占領し,8月21日に撤退したが,この時日本軍は,県城近くの清湖から県城に至るまでの一帯に細菌を撒布し,多数の被害者を出した。
 撒かれた菌は常山と同じくコレラ菌であり,井戸に直接入れる,食物(餅状のもの)に付着させる,果物に注射する,という3つの方法が用いられた。江山の人々は,日本軍の細菌戦とは思いもせず,これらの食物を拾って食し,被害に遭った。このコレラ流行で,江山では少なくとも約100名が死亡した。
 別紙の原告番号172から180までの死亡者欄記載の13名は,このコレラ流行の被害者である。当時の州の医療防疫機構と施設は日本軍によって致命的に破壊されていた。医者不足と薬の欠乏が甚だしく,しばしば防疫治療の仕事は断念せざるを得なかった。このため,短期間に伝染病が大流行したのである。

 10 戦後まで続いたペスト被害と現在まで続くペスト防疫活動
 ペスト等の流行は,衢州では1948年11月まで続く(証人邱明軒調書4ページ)など,各地区の被害が戦後も続いた。また,各地区のペスト等の防疫活動として,ネズミの保菌調査等が現在まで続けられている(証人邱明軒調書10ページ,証人黄可泰調書16ページ)。


第4 本件細菌戦の残虐性

 1 ジェノサイド兵器としての細菌兵器の残虐性
 国家が発動する戦闘行為においては,敵軍隊を撃退し,その軍事的能力を解体すること以上の行為は禁止されている。したがって,敵兵も捕虜になったものについては,国際法上の保護が与えられるし,非戦闘員たる一般住民に対する軍事的攻撃は禁止されている。細菌兵器は,それが国家が行う戦闘行為の手段である以上,国際人道法による規制を受ける。けだし,細菌戦は,非戦闘員たる一般住民の大量虐殺を目的とした戦闘行為だからである。例えば,1925年のジュネーヴ条約を始めとする国際法は,細菌兵器の使用を禁止している。
 ところが,731部隊等は,明らかに軍事的拠点でもなく,また軍事的目標もない中国の普通の地方都市や農村に対して細菌戦を実行し,平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。このような731部隊等の日本軍の細菌戦部隊が行った細菌戦の残虐さは,ナチスのアウシュヴィッツの残虐さに優るとも劣らない実に恐るべき残虐行為である。国際法が発達した今日では,このような集団殺害行為は,国際法上のジェノサイドに該当するものである。
 細菌兵器は,少量が使用されても大きな破壊力と潜在力を持っている。その破壊作用は長期間にわたり,一度収まっても,二度,三度流行することもある。
 また,細菌兵器は,その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を伴う。周知のとおり,731部隊は,チフス,コレラ,赤痢,ペスト,炭疽,凍傷などの研究に際し,常時200人から400人の捕虜を生体実験に用いた(甲35)。生体実験の残虐さと,細菌戦の残虐さは,表裏一体をなすものである。
 細菌戦の被害の特徴は,その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は,致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく長期間流行する。一家族,一地域の大半が全滅する例が多い。また,被害の特徴の一つとして,伝播により被害範囲がどんどん拡がることが挙げられる。被害は,直接の攻撃対象地区にとどまらず,周辺の地域にどんどん拡がっていく(甲22,23,25)。

 2 本件細菌戦による被害の重大性
(1) 細菌戦による都市,村での疫病の流行
 日本軍は,生体移植により毒性を強めたペスト菌,コレラ菌等を大量に生物兵器として生産・使用し,中国全土の村や都市の住民にペストなどの疫病を流行させた。細菌兵器は,人間,家畜,農産物など,生命あるものだけを殺傷する最も残虐な大量殺戮兵器である。細菌戦の狙いは非戦闘員たる住民の大量虐殺にあった。このような日本軍による細菌戦は,中国民衆に対する徹底した民族差別と排外主義に基づくものであった。
(2) 被害者が一般住民であることについて
 原告らの肉親たちは都市あるいは農村の住民であったが,731部隊の細菌兵器により,ペスト,コレラなどに感染し,あるいは汚染地区からの伝搬により感染したことにより,もがき苦しんだ後死亡した。あるいは原告ら自身が罹患した。また,彼らの家屋は,防疫のため焼燬・破壊された。
 細菌戦部隊は,作戦後被害地区に「防疫」の名目で入り込み,その疫病に苦しむ住民を生体解剖して,細菌戦の効果を確かめるなどした。細菌戦の被害を被った中国民衆は,筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたのである。
 (3) 高い致死率と鼠,蚤,人を介しての強い感染力
ア ペスト菌は,感染経路によって,腺ペストや肺ペストなどの症状を呈する非常に強烈な病原体である。
 腺ペストは,蚤などを通して菌が人体に入り感染する。熱と悪寒がして虚脱状態を呈する。そして炎症性のはれものがリンパ腺にできる。とくに足に菌が入ることが多いので鼠けい部のリンパ腺にできる。
 肺ペストは,泡沫伝染で菌が呼吸器官に入って,肺炎に似た症状を起こす。泡沫喀痰に大量の菌がある。
 ペストに罹ると2,3日で死亡する。出血がひどく,死体は黒色を呈するので黒死病といわれる。伝染力が強く,伝染が始まると撲滅するのが難しい。伝染病の中では死亡率が最も高い。
イ コレラは,消化器官を冒す病気である。おう吐・下痢の非常に激しいもので,腹痛,けいれん,虚脱を引き起こすといった特徴がある。コレラ菌は,水や食物から口に入ってくる。とくに魚介類が汚染されて伝播する場合が多い。
 コレラも死亡率が高いうえ伝染力も非常に強い病気である。
 (4) 治療など防御方法の困難性
細菌兵器は,爆弾のようにいつどこに何が使用されたかということがすぐには判明しない。病気が流行しても,細菌兵器によるものか否かが直ちに判明するわけではない。しかも,細菌兵器に用いられた病原菌は,人に感染しても潜伏期間があるため,原因究明が遅れる。病気が発生しても,個体差があるため,使用された病原菌の特定が容易ではない。
たとえペスト菌が発見されたとしても,感染を防ぐことは難しい。ペストの被害は直接に撒布された地域に限定されず,人や鼠を媒体として各地に拡がる。
 しかも,ペスト菌は,1回病気の流行が下火になっても,感染した鼠がいると再流行する。感染した鼠を撲滅するのは困難で,何十年と長期化する(甲105の1・松村高夫作成「鑑定書」85ページ以下)。
  (5) 自然環境の破壊
一度被害に遭うと,その影響は長期間にわたって人間社会のあらゆる側面に及ぶ。細菌戦による被害は,人間の命を奪い,衣食住の環境を汚染し,さらに,人間が生きるための条件である広範な地域の自然環境の汚染となって,地域住民に影響を与える。
  (6) 地域社会の破壊
 こうした環境破壊とともに,細菌戦の被害は,人間の社会的関係の破壊となって影響を与える。伝染病は,人々を隔離したり疎開させたりすることによって,人と人の交流を困難化させ,生き残った人の生活をも破壊していくのである(甲93の1参照)。
 原告ら細菌戦の被害地住民にとって,細菌戦による被害は,戦争一般による被害には解消できないものである。何十年経とうと,原告らの被害は癒されることがないのである。
  (7) 以上のとおり,日本軍による細菌兵器を使ったジェノサイドの被害は,ナ
チスのアウシュビッツでの残虐さと同罪であり,過去に例がないほどの残虐なものであった。


第5 井本熊男業務日誌による細菌戦の自認

 1 井本熊男の業務日誌の発見
(1) 日本軍が行った細菌戦の事実は,被告による徹底した隠蔽工作にもかかわらず,遂に1990年代半ばになってから,急速に解明されるようになった。
 細菌戦の事実が解明されるようになった最も決定的なきっかけは,吉見義明中央大学教授と伊香俊哉立教大学講師が,被告(防衛庁防衛研究所図書館)の保管する@井本熊男大佐の業務日誌(全23冊),A金原節三軍医大佐の「陸軍省業務日誌摘録」(全35冊),B大塚文郎軍医大佐の「備忘録」と題する日誌(全13冊),C真田穣一郎少将の業務日誌(全40冊)等の中から,細菌戦に関する重要な記述を発見し,平成5年12月にその内容を公表したことである(各将校の階級は最終のもの。甲1・8ページ)。
 このうち,特に大本営参謀本部作戦課員や支那派遣軍参謀等を歴任した井本熊男(以下「井本熊男」という。)の業務日誌(以下単に「井本熊男日誌」という。)は,細菌戦に関する日本軍側の記録として第一級の証拠価値を有するものである。
(2) 井本熊男は,昭和15年(1935年)12月に大本営参謀本部作戦課に配属されて以降,一貫して細菌戦に関し731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当だった(甲14,15の1,91)。
(3) なお,日本軍においては細菌戦攻撃の秘匿名を「ホ」号といい,井本熊男日誌には,「ホ号」,「ホ」,「ほ号」,「保号」などの形で記載されている。井本熊男日誌の記載を通して,本件原告の被害地である中国浙江省の衢州,寧波,江山,湖南省の常徳に対し日本軍が細菌戦を行った事実が一層明らかになる。

 2 昭和15年(1940年)の細菌戦に関する井本熊男日誌
 以下に指摘する井本熊男日誌によって,日本軍が衢州と寧波に対し細菌戦を行ったいたことは明らかである。
(1) 6月5日の井本熊男日誌
 6月5日の部分は,浙江省における細菌戦に関し,支那派遣軍参謀の井本熊男が参謀本部作戦課の荒尾興功(当時中佐。以下同じ),前田知貞(中佐)との間で行った打ち合わせの内容を記載したものである(甲2・17ページ)。
  (2) 上記(1)以降の井本熊男日誌には,次の日の部分に細菌戦に関する記載がある。
ア 6月28日
イ 7月2日
ウ 7月21日
エ 7月22日
(3) 昭和15年(1940年)8月16日の井本熊男日誌
 8月16日の部分は,「杭州ニ於テ連絡」と題し,井本熊男が杭州市筧橋の旧中央航空学校に赴き,細菌戦の実戦部隊である奈良部隊に対して支那派遣軍総司令部の「命令ノ伝達」などを行った時の連絡内容を記載したものである(甲1・10ページ)。支那派遣軍総司令部が行った「命令ノ伝達」とは,杭州にいた石井四郎部隊に対するものであり,その内容は,細菌戦に関する具体的な攻撃目標地点の空中写真,地誌等の捜索及び細菌戦の弾薬,消毒薬の準備等の作戦命令であった。
(4) 昭和15年(1940年)9月10日の井本熊男日誌
 9月10日の部分は,井本熊男が奈良部隊の大田澄中佐と増田美保大尉から攻撃目標と細菌輸送に関して報告を受けた内容を記載したものである(甲1・10ページ)。大田澄及び増田美保は,航空写真等による捜索の結果攻撃目標地点は寧波と衢県が適当であること,さらに金華を候補にあげたことを井本熊男に報告した。第1回の細菌戦輸送の弾薬は,当初予定された「C」(コレラ菌)ではなく「T」(チフス菌)に変更された。
  (5) 昭和15年(1940年)9月18日の井本熊男日誌 9月18日の部分は,井本熊男が奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容を記載したものである(甲1・10ページ)。奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容は,攻撃目標として寧波,金華に加え,新たに玉山,温州,台州などの地名を挙げ,寧波には1キロメートル四方当たり1.5sなどと,攻撃目標ごとの細菌使用量などが示された。細菌の生産量は,コレラ菌(「C」)が1日あたり10s,チフス菌(「T」)はそれ以上が見込まれていた。
また,細菌戦の開始が遅延した理由,細菌爆弾の輸送を航空機と陸上輸送を併合して行うことの確認がされた。さらに,山本吉郎参謀より,「稀釈セラレタル弾薬」を使用する場合と,「濃度大ナルモノ」を使用する場合の2通りの撒布方法が具体的に示された。さらに,細菌戦に使用する飛行場は杭州市の筧橋飛行場が予定され,使用の際は他の部隊の使用を禁止することが確認された。「謀略関係事項」についても確認され,細菌戦を秘密裏に実行するための検討が行われた。
(6) 昭和15年(1940年)10月7日の井本熊男日誌
 10月7日の部分は,井本熊男が奈良部隊の中心的実行者であった山本吉郎参謀ら5名から細菌戦の実施状況と実施の教訓についての報告を受けた内容を記載したものである(甲1・11ページ)。これにより9月18日から10月7日までの間に日本軍が浙江省において6回の細菌攻撃を行ったことが分かる。記載中の「蚤」とは,ペスト感染ノミのことである。
(7) 上記(6)以降,10月8日,11月25日,11月30日にも,細菌戦に関する記載がある(甲1,2・24ページ,)。

 3 昭和16年(1941年)の細菌戦に関する井本熊男日誌
 次のような昭和16年(1941年)の井本熊男日誌の記載から,日本軍が常徳に対し細菌戦行為をしていたことが明らかである。
(1) 昭和16年(1941年)1月から9月までの間の井本熊男日誌には,次の日にちの部分に細菌戦に関する記載がある。
ア 1月15日
イ 2月5日
ウ 2月7日
エ 3月25日
オ 3月26日
カ 9月5日
キ 9月12日
ク 9月16日
 同日の部分には,「ホノ大陸指発令」とあり,正式に細菌戦の実施に関する大本営陸軍部指示が出て細菌戦の実施が命じられたことが分かる。
  (2) 昭和16年(1941年)11月25日の井本熊男日誌
 同日の部分は,常徳における細菌戦に関し井本熊男が支那派遣軍参謀の長尾正夫から受けた報告の内容を記載したものである(甲2・30ページ)。
 日誌の記載から,実行者(731部隊の増田美保),攻撃機の型式や攻撃時間,投下時の高度,さらにペスト感染ノミを飛行機の機体の下に取り付けられた函に入れ,その函のフタを開けて投下する方法をとったこと等が分かる。「アワ36s」とは,ペスト感染ノミ36sのことで,これが常徳に撒布された。しかも,細菌戦実行後の常徳のペスト流行の報告がされている。
  (3) 昭和16年(1941年)12月22日の井本熊男日誌
 同日の部分は,井本熊男が増田美保から受けた細菌戦に関する報告の内容を記載したものである(甲1・15ページ)。井本熊男は,増田美保から,常徳での作戦が成功したことにより細菌戦部隊の士気が上がったこと,そのためペスト感染ノミ使用の効果に対して自信がついたことなどの報告を受けた。

 4 昭和17年(1942年)の細菌戦に関する井本熊男日誌
 次に述べる昭和17年(1942年)の井本熊男日誌から,日本軍が江山に対し本件細菌戦を行っていたことが明らかである。
(1) 昭和17年(1942年)3月から7月までの井本熊男日誌には,次の日にちの部分に細菌戦に関する記載がある。
ア 3月18日
 「「バタン」ニ対スルホノ件」として,バターン半島に立てこもるアメリカ・フィリピン軍に対する細菌戦を検討していたことが分かる。