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細菌戦の戦後責任
―戦後における七三一部隊の戦争犯罪と日本政府の責任―

長岡大学助教授  兒 嶋 俊 郎



目   次

はじめに
1 戦後における七三一部隊の所在・動向の把握
 (1) 敗戦後における七三一部隊の動向
  1) 引き上げ問題における七三一部隊の登場
   @ ハバロフスク裁判に向けた取調べと証人の確定
   A 七三一部隊について−特に天皇との関係
  2) 公職追放者の把握
   @ 七三一部隊の活動と細菌戦
   A 公職追放者に対する対応
  3) 日本政府による七三一部隊関係資料の確認と不作為の可能性
  4) アメリカ政府と基七三一部隊関係者の取引に関して
  5) 国内調査のその後
  6) 米国からの返還資料の所在を巡って
 (2)政府の責任
2 戦後日米安保体制の下で継承された七三一部隊の人脈と思想
 (1) 七三一部隊幹部
 (2) 日米安保体制のもとでの細菌兵器研究への協力
  @ 化学教育隊の活動
  A 情報専門家の米軍への派遣
  B 国内の細菌・化学戦関係米軍施設−ベトナム戦争におけるCB攻撃
  C 米軍資金導入問題
 (3) 政府の責任
3 問題の要点
 (1) 七三一部隊調査の回避
 (2) 旧七三一関係者の復権がもたらす危険を放置してきたこと


はじめに

 今日関東軍防疫給水部(以下七三一部隊と称す)が日本陸軍の中に存在し、人体実験を含む非人道的行為を重ね、さらには関連の部隊、参謀本部、支那派遣軍などとの連携の下、細菌戦の実地使用にまでいたったことは明らかである。にもかかわらず、日本政府は戦後長らく七三一部隊の非人道的行為を否認してきた。そして本件で問題となっている細菌戦の実施に関しては、今日なお否認を続けているのである。しかし今日、立教大学の吉見教授らの研究、また中国側被害地域での調査などによって、中国での細菌戦の実施と、その結果として膨大な人的・物的被害が出たことは明らかである。
1945年7月26日米英中三国は「ポツダム宣言」を発表し、日本政府に降伏を迫った。日本政府はこの宣言を基本的に受諾し戦争は終結した。この後日本政府は連合国の占領下に置かれるが、いわゆる間接統治の形式をとったため、占領当局(GHQ : 米太平洋軍総司令官/SCAP : 連合国最高司令官)の意思は日本政府を通じて実行されることとなった。従って、日本政府はポツダム宣言にもとづいて要求される事項を、誠実に実行する責務を負ったと解すべきである。そのポツダム宣言は次のように述べている。

「六 吾等は、無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じえざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞しこれをして世界征服の挙にいづるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず。」
「十 吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意思を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰をくわえらるべし。日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障擬を除去すべし。言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」
「十三 吾等は、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意につき適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。」

この宣言は、日本国内からの軍国主義勢力の駆逐と、「一切の戦争犯罪人」に対する処分をもとめ、それを日本政府が保証することを求めている。日本政府は本宣言を受諾した以上、この誓約を誠実に果たす義務をおったと考えなければならない。
さらに、日本政府は、1972年9月29日、北京で締結された「日中共同宣言」の中で、「日本側は、過去に於いて日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」とのべ、自らの侵略行為とそれがもたらした結果に責任があることを明確にした。また、1978年8月12日に締結された「日中平和条約」は、「前記の共同声明(日中共同声明をさす−兒嶋)が両国関係の基礎となるものであることおよび前期の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し・・(以下略)・・」とのべ、共同声明の重要性と、その「遵守」を確認したのである。
 にもかかわらず、日本政府は自らが過去に引き起こした戦争行為について、積極的にその実態を明らかにし、あるいは追加的な被害の発生を防止する努力を怠ってきたといわざるを得ない。
 そもそも七三一部隊に関しては、戦後間もない時期から、細菌戦部隊としてその所在が知られ、ハバロフスク軍事裁判などによって、非人道的行為が確認されていたのである。日本政府自身に戦争犯罪を自らの手で明らかにし、正義を実現する意思があれば、七三一部隊やその細菌戦の実施についても、はるかに早い時期にその実態が解明され、残された遺族との和解に道を開くことが出来たであろう。
 本意見書では、戦後日本政府が七三一部隊などが関係してきた細菌戦関連の問題について、いかに多くの追求のチャンスを持ちながら、それを生かさず今日に至ったかを、国会の答弁を通じてあきらかにする。


1 戦後における七三一部隊調査の回避と隠蔽の可能性

 国会の答弁記録をインターネットを通じて検索した結果、七三一部隊などに言及したものは、298件に及ぶ。この記録からは、国会における答弁を通じて、日本政府が早い時期から七三一部隊の活動について証言を得ていたこと、また公職追放となった七三一部隊関係者を、政府自身が監視していたことなどを確認できる。まずこういった点を確認していこう。
(1)敗戦後における七三一部隊の動向
1) 引き上げ問題における七三一部隊の登場
はじめて七三一部隊が取り上げられたのは、1949年12月23日の参議院「在外同胞に関する特別委員会」であり、以後引き上げ問題と、ハバロフスク軍事裁判との関係で七三一部隊が取り上げられた。引揚者の中に七三一部隊関係者がいること、また彼らの一部がハバロフスク軍事裁判で裁かれているといった実情が引き上げてきた関係者によって証言されている。
例えば12月23日の参議院「在外同胞に関する特別委員会」では、高山秀夫が帰還の問題、あるいはハバロフスク裁判の対象者の状況についてふれた中で次のように述べている。
「まず前職者と規定されるものは連合国軍の一員であるソ同盟に対する直接の攻撃に参加したものを言います。これは特務機関、それから憲兵、警察・・・国内の治安に当たっていたものはこれに該当いたしませんが、ソヴィエトに対する直接の攻撃に参加したもの、それから特殊部隊、例えばさっき御説明申し上げました防疫給水部、いわゆる細菌戦部隊、石井中将を長とする東条の直接の指揮下にあった恐るべき細菌戦部隊・・・それから三四五、それからパルチザン部隊、これらのものが前職者として現在取調べを受けておる筈であります。」
そして七三一部隊そのものについても次のように述べている。
「・・・それから防疫給水部、特に石井中将を長といたしまするハルビンの香坊の郊外にありました石井部隊、これは大体ちょっと概要を御説明申し上げますと、これら、ペスト、発疹チフス、このような恐るべき細菌を培養いたしまして、これをソヴィエト、あるいは中国の人民にばら撒いてそうして人民を惨憺たる戦火の中に巻き込んでいくという恐るべき部隊であったわけであります。」
また同じ日に証言した佐藤甚一も、日本への帰還停止の情況を報告する中で、「ナホトカから逆送された人員につきまして・・・本年の六月二十五日、帰国阻止に遭いまして、十月の十九日まで残っておりました。・・・・第二回目、十月の十一日・・・前職者、それから衣部隊関係者、防疫給水部、そういった人員構成で・・・。行先不明、作業に行くと言う事だけははっきり言っております」と述べ、日本への帰還が阻止されたメンバーの内情報告の中で七三一関係者が含まれていたことを指摘している。
また時期はやや遅くなるが(1955年5月2日)中国からの引揚者の証言の中にも、本人が大連衛生研究所に勤務していたといったものが現れる。
以上のように、1949年12月の時点で、すでに国会に於いて防疫給水部の存在と、その活動の一端が報告されていたことを確認できる。
上記の証人、ことに高山秀夫は旧陸軍に批判的な立場からの証言であるが、旧陸軍将校として、陸軍擁護、あるいは天皇擁護の姿勢に立つ者も、七三一部隊に言及している例がある。1950年2月6日の参議院「在外同胞に関する特別委員会」で証人にたった種村佐幸がそれである。ちなみに種村は陸軍士官学校第37期生、敗戦時陸軍大佐・第17方面軍参謀であり、任官後の経歴には、大本営参謀(戦争指導班、1941.2.15-42.1.21)、参謀本部員(1939.12.1任)、陸軍省軍務局課員(1945.4.23-45.8.4)等があり軍の中枢経験者である。(以上『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』芙蓉書房 1981年、475頁による)
彼はハバロフスク裁判に関連してエラブカ、モスクワ、ハバロフスクで尋問を受けているが、そのいずれに於いても防疫給水部隊については内実を知らなかったし、大本営との関係も知らなかったと主張し続けたと証言しているが、同時に防疫給水部関係者が裁判で被告とされるに至った経緯、またその内容に関して次のように証言している。
@ハバロフスク裁判に向けた取調べと証人の確定*1
「・・・第七分所には私に引き続きまして、続々防疫給水部関係の証人要員が調査本部で調査を受けては、その調査が終わるとまたどんどん第七分所に集進いたしまして、昨年十一月の一日か二日頃までに概ね百五十名ぐらいのいわゆる防疫給水部の裁判に関する証人要員が集まったのであります。・・・大体十一月の十三日になりまするというと、突然百十五名のうち三十五名を残しまして約八十名のものが証人としてまあ価値のないものとして第十三分所というところへ移されました。残された約三十五名の防疫関係の裁判の証人は、曾て防疫給水部で勤務し、又は防疫給水部に派遣せられて、そこで教育を受け、あるいはその部隊に入隊した者等防疫給水部の抹消における実体を殆どまあ掴んでおり、やがてはその人らは犯人、いわゆる戦犯的行為としてみなさるべき方々が約三十五名残ったのでありました。その方々が多分今次の十二月二十五日から二十八日までの間にハバロフスクで行われたというイズベスチヤによって報道せられております細菌戦裁判において証人として出席せられたのであろうと私は判断しております。(種村は第十三分所移送-兒嶋)」
A七三一部隊について−特に天皇との関係
 「・・・およそ部隊を編成いたしますときには、旧憲法の第十二条に基づきます天皇の編成体験に基づきまして、陸海軍大臣がこれを輔弼し奉りまして軍令というものが出され、これによっていわゆる部隊の編成が決められるのであります。従いまして、その決められるものの内容は部隊の編成でありまして、その石井部隊も秘密的な任務であるところのいわゆる細菌戦準備というようなことがもし事実であったとしても、天皇によって認可せられるところの軍令、それは内閣総理大臣の連帯を要するものでございます。従いまして私はそういう内容が示されるようなことは絶対無いと思います。」
 「・・・事実こうゆう謀略的行為(細菌戦をさす−兒嶋)に関しましては、当時の陸軍大臣と参謀総長の独断に基づきまして、そしてその部隊に対して任命(ママ)せられるのでありまして、天皇がこれに対してご存知になっておられたとか言うようなことは・・・絶対にないものと私は存じます。」
種村は、おそらくは天皇の戦争責任への波及を恐れてのことであろうが、天皇が七三一部隊の実態を知らなかったとするたと場に立っている。しかし彼の証言からは、七三一部隊という細菌戦部隊が存在していたこと、そしてもし細菌戦が実施されたとすれば、という過程の話ではあるものの、陸軍大臣と参謀総長という、陸軍の中枢はそのことを承知し、判断し、命令するものであることを証言したのである。
 以上のとおり、引き上げ問題に関する委員会の席上に於いて既に、七三一部隊という細菌戦部隊の存在と、仮に細菌戦を実施したとするならば、それは陸軍中枢の決定に他ならないという証言が得られていたのである。

2)公職追放者の把握
 次に七三一部隊が注目されたのは、朝鮮戦争におけるアメリカ軍による細菌戦実施との関係である。1952年3月20日と4月2日の両日にわたり、衆議院の外務委員会で林百郎委員によって質問が行われた(対応したのは吉橋政府委員)。
その際林議員は、七三一部隊と一○○部隊(長春にあった関東軍軍馬防疫廠をさす*1)の活動の一端を紹介した後、朝鮮戦争でアメリカ軍によって細菌戦が実施されているとの報道などがあること、さらに七三一幹部であった、石井四郎、北野正次、若松有次郎がこの件に関与していると、朝鮮民主主義共和国の朴憲永外相が声明の中で述べているとした。そして、これら三人に対するソ連政府の引き渡し要求(戦犯としての)を日本政府が拒んでいることに言及した上で、日本政府が戦争犯罪・戦犯を追及するという観点からこれら三人に対してどのような対応を取っているかを問題とした。

@七三一部隊の活動と細菌戦
一部前項と重複するが、国会答弁の中で七三一部隊の活動内容、さらに細菌戦実施についてふれられたことを確認するため、七三一の活動に言及した林議員の質問を以下に示す。
「私はこの前岡崎国務大臣に質問いたしました、今朝鮮の戰線で問題になつております細菌戰の問題につきまして、日本人がこれに関興しているということが国際的に報道されておりますので、この点について政府から明確な答弁を求めたいと思うのであります。大体細菌戰につきましては旧日本の関東軍が元祖であつて、これが昭和十年、十一年に天皇の秘密軍令のもとにハルビン付近で第七三一部隊、部隊長は石井四郎中将、それから第一〇〇部隊、これは新京附近でありますが、部隊長は若松、後に少将になつた人であります。そして第七三一部隊の方では人間に、第一〇〇部隊の方では家畜に対する攻撃を準備しておつて、しかもこの実験のために毎年六百人が犠牲にされた、五年間に大体三千人の生体実験が行われたということは、これはソ連の細菌戦に対する公判の過程並びに日本の雑誌においてすら、すでに公知の事実として発表されているところであります。しかもこの日本の関東軍のつくりました細菌戦の細菌は、昭和十五年には上海の南方にこれが散布されまして(下線-兒嶋)、井戸や野菜、家畜、植物を細菌で汚染させて、病気が流行した。さらに昭和十七年にソ満国境のデルブル川に細菌を流して、それが本流のソ連領のアルグン川に流れ込んだということが、やはり同公判で明確にされておるのであります。そうしてこのペスト菌、コレラ菌は陶器でつくつた爆弾に入れて、この陶器の爆弾が発射されということが明らかになつているのであります(下線-兒嶋)。これは旧関東軍の当時の実験でありますが、最近朝鮮で行われました細菌戦によりますと、これが、はえ、蚊、のみ、だに、あるいはくもなどに、ペスト、コレラ菌がつけられたまま砲弾の中に入れられて発射されている。二月二十七日の朝鮮の新聞並びに中国人民日報の特派員の現地報告によりますと、筒が二つに割れて、中からはえや、のみや、くもや、ちようちようなどの昆虫が出て来た、これらの中に明ちかにペスト菌、コレラ菌があるために、至急火焔放射器でこれを燒き払う処置をとつたという記事が出て、目下国際連合でも問題になつているのであります。そこでわれわれはこれを他国のこととして傍観できないことは、今年の二月二十一日の朝鮮民主主義人民共和国の外相の朴憲永氏の声明によりますと、このアメリカ軍が目下使つている細菌に対して、日本のかつての旧関東軍の細菌戦の指導者である戦犯の石井四郎、若松有次郎、北野マサゾウ(ママ)、この三名が関係しておるということが声明されておるのでありまして、この三名につきましては、すでに一九五〇年の二月一日にソ連から引渡しを要求されたのでありますが、日本政府はこれの引渡しを放置しておるのであります。これは明らかに戦争犯罪人であり、日本の降伏文書によりましても、これは要求されておる当事国に引渡さなければならない義務を日本側が負つている戰犯人でありまして(下線-兒嶋)この名前が朝鮮民主主義人民共和国外相の朴憲永氏からすでに指摘されている際、われわれはこの三名に対してあくまで責任を追究する必要があるし、また日本政府がこれに対していかなる処置をとつているかということを究明したいと思うのであります。そこでまずその方面の、この三名の処置に対する責任のある政府の責任者から、この三名が終戦後どのような行動をとり、その後いかなる行動をとつているかということを詳細に報告してもらいたいと思うのであります。」
このように1952年の4月2日という段階で、朝鮮戦争における米軍の細菌戦実施との関連において、七三一部隊の活動の内容、そしてその一部として、上海南方方面などにおける細菌戦実施についてまで、指摘がなされていたのである。

A公職追放者に対する対応
この質問に対してまず吉橋政府委員*1は、答弁の中で三人の所在を正確に把握していることを確認している。例えば石井に関しては以下の通りである。
「・・・石井四郎元陸軍中将は昭和十七年七月以降関東軍防疫部長として勤務しておりましたが、終戦後昭和二十年十二月一日復員いたしまして、爾来東京都新宿区若松町七十七番地に居住いたしておりまして、同地において同人は、博愛病院という医院を開業しており、また同人の妻は同じく同所で旅館若松荘というのを経営いたしておりましたが、その後いずれも業務不振のため、昨年両者ともこの営業を廃業いたしまして現在石井本人は医学に関する執筆をいたしておりまして、特異の動向はありません。なお本人は本年三月二十四日付で公職追放を解除せられておりますし、戦犯の指定を受けたことはありません。」
次に一時石井に代わって七三一部隊長を勤めた北野政次に関して以下のように述べている。
「北野正次(ママ)元陸軍中将は、昭和十六年十月以降関東軍防疫給水部に所属しておりましたが、終戦後昭和二十一年三月三十一日に復員いたしまして、爾来東京都世田谷区代田一の六五二の五に居住いたしておりまして、今日に至っております。その間豊島区駒込六丁目八百二十二番地所在の中村滝という製薬会社の公衆衛生研究所に勤務いたしておりまして、現在も引き続き研究に従事しております。なお同人は本年二月二十五日付で公職追放解除になっておりまして、また戦犯の指定は受けておりません。」
最後に若松有次郎については以下のとおりである。
 「若松有次郎元陸軍獣医少将は、昭和十七年七月以降関東軍軍馬防疫廠長として勤務しておりましたが、終戦後昭和二十五年十二月三十日復員いたしまして、静岡県庵原郡袖師町横須那二千二百十八番地に居住いたしておりまして、爾来居住地袖師町にあります東亜燃料工場というものの中で日本医薬会社工場長として製薬に従事しております。なお本人は本年三月十九日付で公職追放解除になりました。なお本人も戦犯の指定は受けていないのであります。」
 以上のとおり、七三一部隊と軍馬防疫廠幹部という、日本の細菌戦の中枢を担った人物に関して、日本政府は特別審査局の監視下におき、その動向を性格に把握していたのである。ではこれら、人体実験や細菌戦の実施を担った人物に対して、日本政府がどのような態度を取ったのであろうか。

 林は1947年6月19日の極東委員会の決定が、「連合国の捕虜又は他の国民を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられなければならない。最高司令官又は連合国の適当な機関によつて戰争犯罪人として告発された者は、逮捕され、裁判され、且つ有罪の判決があつた場合には処罰されなければならない。他の連合国によつてその国の国民に対する犯罪を理由として要求された者は、最高司令官が裁判のためか、証人としてか又は他の理由で要求することのない場合には、右他の連合国に引き渡され、且つ、拘禁されなけれならない。」としていることを根拠に、日本政府がソ連政府からの引き渡し要求にこたえるべきだと質したことに対して、政府側は、以下のように答弁した。
○吉橋政府委員
 「戦犯の要求あるいは戦犯の指定、あるいはそれに関連する調査につきましては、われわれの当局においては、所管事務になつておりません。」
○林(百)委員 「その所管事務は、それではだれがやるのです。」
○吉橋政府委員 「その点はよく了解しておりません。」
 さらに吉橋は、「特審局の所管事務の内容は、林委員も十分熟知しておられる通りでありまして、団体等規正令と現在は追放令であります。われわれがこれら五名を含む軍人の動向を調査するというのは、従来これらの五名が追放指定になつておりましたので、追放者の動向監察という面において、これはわれわれとしては十分に調査し監査を続けているわけであります。」と答えている。

?特別審査局の活動とそこから伺える日本政府の戦争犯罪追及姿勢の欠如
 ここで特別審査局がいかなる機関であり、本来どのような目的を以て設立されたのかを検討しておこう。なお以下に関しては主として、荻野富士夫『戦後治安体制の確立』と同氏編『治安維持法関係資料集 第四巻』の「解説」、自治大学校『戦後自治史』、増田弘『公職追放論』によっている。
 戦後日本の民主的改革をめざした占領当局は、1945年10月4日「人権指令」を出し、治安維持法に代表される様々な治安法令を廃止すると共に、特高警察と思想検察機構を解体し、刑務所や予防拘禁施設に収容されていた思想犯を解放した。
翌1946年1月4日GHQは指令「公務従事ニ適サザルモノノ公職ヨリノ除去ニ関スル件」を出し、「公職追放」が開始された。これに対応して日本政府は指令の実施に関わる勅令案の検討に入り、GHQに実施計画書を提出する。そして一連の手続きを経て、勅令第101号が1946年2月22日に公布された。その名称は「昭和二十年勅令第五百四十二号『ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ヅク政党、協会、其ノ他ノ団体ノ禁止ニ関スル件』」と言い、2月25日に出された内務省告示第19号、20号とともに、政党・団体などの結社禁止や公職追放の対象などを規程したものであった(この勅令は、もちろん占領当局の指令に基づくものであり、SCAPIN-54 8がそれである)。
この勅令の第一条は「『政党、協会其ノ他ノ団体ニシテ其ノ目的亦ハ行為ガ左ノ各号ノ一二該当スルモノ』ハ之ヲ結成スルコトヲ得ズ」として、その一に「占領軍に関する反抗または反対亦ハ日本国政府が連合国最高司令官ノ要求二基ヅキテ発シタル命令二対スル反対又ハ反抗」ガあげられている。そして第四条は、「左ノ各号ノ一ニ該当スル団体ハ内務大臣ノ特ニ定ムル場合ヲ除クノ外之ヲ第一条第一項ノ団体ト看做ス」として、以下具体的に列挙しているが、その一の(ロ)において次のものを挙げている。
「昭和五年一月一日以後現役ニアリタル陸海軍将校及相当官(短期現役将校及同相当官ニシテ志願ニヨリ服役ヲ延期セラレタル者ヲ含ム)又ハ特別志願予備役将校タリシ者」
本規程により、戦犯として拘束されなかった多くの将校が公職を追放されることとなった。
公職追放に関係した組織は様々であるが、日本政府の組織としては、首相-所轄大臣の下に中央公職適否審査委員会が置かれ、ここが公職適否の審査に当たった(公職追放が地方に拡大されてからは県知事の下に地方公職適否審査委員会が設置された)。ただし、増田弘によれば、個々の審査決定に当たって、GHQ中でも政治部門担当の民生局(GS)の事前あるいは事後の審査を必要としたと言いう。またGSの他、民間諜報局(CIS)や参謀第二部(G2)なども独自に情報を集めていたといわれる。
このような経緯をへて、「連合国最高司令官の要求に基づく政党、協会、その他の団体の結成の禁止に関する事項」を担当する部局として(それ以外の業務もあわせもっていた、この業務に関しては第三課が担当)、内務省調査局が調査部から昇格したのである(8月7日)。そしてこの組織が後の特別審査局となる(なお調査局の前身の内務省調査部は、もともと軍放出物資所管のため、1945年10月に設置されたもの)。
しかし調査局は必ずしも十分軍国主義的団体や超国家主義的団体の監視や解散を実施していなかったと考えられる。そのため、47年の4月11日に民生局のケーディス次長から、久山調査局長と小倉第三課長が呼び出しを受け、それまでの報告の遅延や虚偽、各地での共産主義者に対する暴行事件の発生について厳しい批判を受けている。さらに4月21日にも、民生局のマーカムは再度久山局長を呼び出し、調査局の報告が「余りにも遅く、不適切かつ不完全で、翻訳はひどく、しかも責任逃れ」に終始していると叱責した(増田著39頁)。旧内務省組織を改変した組織において、戦争犯罪追及の意識が極めて希薄であり、果たすべき任務に対してまったく消極的だったことが伺われる。
この後内務省解体に伴い12月17日付で法務庁法が公布された。ただし、新官庁の用意が整わなかったため、暫定的に総理庁のもとに内事局が48年1月1日に設けられ、内務省調査局は内事局第二局に移行する。
そして2月15日、内事局第二局は法務庁特別審査局に移行した。設置時の特別審査局には、総務課(人事・経理・庶務担当)、監察課(覚書該当者の監察)、調査課(勅令101号に基づく各種団体に関する業務担当)がおかれた。初代局長には、戦前司法官赤化事件で治安維持法違反にとわれ下獄した経験を持つ瀧内礼作がついた。この局長のもとで、軍国主義的団体などの調査・解散は精力的に進められたとされる。いわば本来の目的が追求されたのである。
しかしこの後特別審査局に大きな変化が生じる。占領当局が日本国内の労働運動や左翼勢力の拡大に危機感を強めるなか、これに呼応して日本側の陣容が変化するのである。1948年11月30日、吉田内閣成立に伴い法務総裁に殖田俊吉が就任すると、直ちに特別審査局長は吉河光貞に交代した。吉河は1950年10月に行った特別審査局の新人研修の講演「特別審査局の沿革と使命」の中で、48年末頃から「ようやく左翼もまた対象として取り上げられる」と述べたという(この点は竹前栄治『戦後労働改革』からの再引用)。冷戦構造の中で占領当局の姿勢が変化する中、それを利用して特別審査局の活動にも大きな変化が生じたのである。もっとも左翼に対する監視はもともと内務省調査局時代から業務の中に含まれてはいた。しかし、既に紹介したケーディスらの発言にあるとおり、本来求められていたのは軍国主義者などに対する調査や監察であり、左翼の活動については主たる任務とは程遠かったのである。
1950年9月の『中央公論』に藤井彰が書いた、「特別審査局を衝く」は、吉河が勅令第101号の第一条第1号第7号を根拠とする「占領軍に対する反抗反対、暴力的計画による政策の変更」を、左翼勢力に対しても適用しうると読み替えたとしている(増田著81頁)。いずれにせよ、占領当局の姿勢の変化を利用して、特別審査局の役割を大きく変更させていったことは間違いない。
そして1949年4月4日、団体等規制令の交付・施行にともない、5月に増員となり、本部も機構改革が行われるとこの傾向はきわめて顕著になっていく。このとき第四課課長に就任したのが、上記答弁に立っている吉橋敏雄である(前任は検事)。ちなみに本部には、第一から四課までの四課体制となり、第一課は旧軍人調査と人事・経理・庶務、第二課は公職追放該当者の登録と観察、そして第三課と第四課は旧調査課を受け継いだ。
 4月4日に制定された団体等規制令は勅令101号を改正し、GHQの指示に基づくポツダム政令である。本令は1952年廃止され、代わって破壊活動防止法が制定されたことから分かるとおり、特別審査局の役割に大きな変化をもたらすものとなった。第四課長であった吉橋はこの規制令の立案に直接従事したといわれるが、後に二つの論文を執筆し基本的な考えを明らかにしている(「団体等規制令逐条解説」『警察研究』49年5月、「団体等規制令について」『法律時報』50年10月)。
 そこでは勅令101号の不備を補うことが強調されたが、第一条、政令の目的については、説明を落としているのである。この第一条は、「この政令は、平和主義及民主主義の健全な育成発達を期するため、政治団体の内容を一般に公開し、秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的および反民主主義的団体の結成及指導並びに団体及個人のそのような行為を禁止することを目的とする」と述べている。このうち「反民主主義的団体」という文言は勅令101号にはなかったものであり、以後特別審査曲が共産党を初めとする左翼の活動などに力を入れていく、根拠となったのである。
 1950年になると特別審査局は拡充され、やがて朝鮮戦争の中で、レッドパージに大きな力を発揮するようになる。最終的には法務庁の法務府への変更に伴い、法務府特別審査局となった後、は会活動防止法の制定を経て、1952年7月21日に公安調査庁となる。
 以上のように特別審査極の変化の過程をみると、日本政府が保津ダム宣言にもとづき、本来しなければならなかった軍国主義者などへの追及に、特別審査局が当たった期間は1948年前半、瀧内局長時代に限られるといってよいほどである。以後は、冷戦の進行に伴う占領当局(アメリカ政府)の姿勢の変化を利用する形で、戦前以来の検事等が(検事は思想検事を含め、比較的追放などの処分が軽かった、荻野著)、勅令条文の読み替えや、やがては団体等規制令の制定を通じて、本来の戦争犯罪や軍国主義者の追及を放棄し、左翼活動や労働運動の抑圧に向かったのである。
 上記答弁における吉橋政府委員の消極姿勢は、戦前依頼の思想を払拭していない特別審査局責任者が、戦争犯罪の追及よりもむしろその隠蔽に積極的だったことを示すものとも言える。しかしそのことは、団体等規制令でさえも、やはり第一条に「軍国主義的、極端な国家主義的」団体や個人とその行動を禁止するとうたったことにも明らかに反しているといわざるを得ない。そしてこのような姿勢が、今日に至るまでの戦争犯罪の追及の遅れにつながったのである。
 
 以上のとおり、朝鮮戦争とハバロフスク裁判との関係で生じた七三一部隊幹部への追及に対して、日本政府は全く対応をとらなかったのである。その背景は、今特別審査局に関連して述べたとおりである。しかしこの変化を占領当局・アメリカ政府の姿勢の変化にのみ帰して説明することは出来ない。むしろ日本政府の関係者・機関は、それを積極的に利用して、故意に戦争犯罪の追及を遅らせ、隠蔽し、旧体制を残すことを試みたのである。このような姿勢が、林議員と吉橋政府委員の答弁にも明らかであろう。少なくとも今日、今一度敗戦の時点に立ち返って、日本のあり方を考えるならば、悲惨な侵略戦争を生み出した思想・組織・個人のあり方を深く反省し、それを以下に克服するかを考えるべきであって、よしは政府委員の態度は、まさにそれ自体戦争犯罪を隠蔽するものである。
しかし同時にこの国会答弁でも、人体実験や細菌戦の実施を含む七三一部隊の活動内容があきらかにされていたのであり、それに基づく行動の欠如は、まさに今上に述べた日本政府の姿勢によるものであり、日本政府は戦争犯罪の事実の追及を放棄し、むしろ隠蔽したといわざるを得ないのである。

3) 日本政府による七三一部隊関係資料の確認と不作為の可能性
 1982年4月6日、榊議員は衆議院内閣委員会において、恩給問題に関連して七三一部隊を取り上げた。これに対する森山説明員の答弁により、政府が所持する原資料によって七三一部隊の規模などが確認された。それを以下にあげる。
 「関東軍防疫給水部、・・・でございますが、この部隊の復員者・・・のうちで恩給公務員の数、・・・と申しましても普通恩給の年限の資格があるかどうか分かりませんが、一応身分的に恩給公務員となるという人の数を申し上げます。
私どもで保管しております留守名簿という名簿がございまして、これは昭和二十年一月一日現在で外地にあった部隊の所属者の名簿でございます。これは終戦後も残務整理で復員の記録などを書き込んだものでございます(下線部-兒嶋)。これによりますと、将校が百三十三名、准士官、下士官、兵これが千五百五十二名、それから文官と申しますが、これは技師とか技手それから属官でございますが、これが二百六十五名、合計千五百五十名です。それから恩給公務員でない人、つまり雇傭人が主体でございますが、この方々が二千九名。以上でございます。」

 以上は平房の本部に関するものであるが、支部についても答弁がある。
「昭和二十年六月十五日の時点でございますが、配置情況が書いてあるわけでございます。これによりますと、本部がハルビン・・・ここに約千三百名、それから支部がハイラル、これが約百六十五名、それから牡丹江約百名、孫呉約百三十六名、林口約二百二十四名、大連二百五十名。・・・これを足しますと約二千三百名ぐらいになるんじゃないかと思うのですが、これは今申し上げました軍属なんかが入っていないのじゃないかというふうに推定しています。」
 また森山説明員は、質問に答えて「留守名簿には日赤の看護婦も載っている場合がございます」と答弁している。軍人ではない、赤十字の看護婦(旧称のまま使用する)までが動員されていることを確認している。

 しかし人体実験や細菌戦の実施について確認を求めると、森山声明員はその点の確認を拒否している。すなわち、「おとといアメリカのCBS放送でもこれを大きく取り上げたようであります。要するにこれはペストとかコレラ、天然痘その他の細菌を使っての細菌戦、ガス戦、これの研究、人間の生体に馬の血を注入する、どこまで生きるか、冷凍実験をする、生きたまま解剖する、しかも人間を丸太ん棒の丸太と称して、つまり物とみなして生体実験の材料としたわけであります。その犠牲者は三千名に上ると言われています。内訳は中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人、ポーランド人、オーストラリア人、アメリカ人、イギリス人、大体これくらい確実になっておりますけれども、ほぼそういうふうに理解してよろしゅうございますか、あるいはそういうことも御存じでしょうか。」と言う問いに対して、「その間の事情は承知しておりません。」と回答したのである。

 またこの件について調査するつもりがあるかと言う問いに対しても、田辺国務大臣は、「この調査の問題については私のところの所管でございませんので、関係省によく照会をしてみたいと思っています。
」と答えるにとどまり、田辺国務大臣は、「厚生大臣とよく打ち合わせをしてまいりたいと思います。」と答え、森山説明員は、「私のところでは調査をしておりません。しかし、これはむずかしい問題だと思いますが、なかなか困難ではないかという感じがいたします。」と答えている。

以上から明らかなことは、(1) 政府に保管されてきた原資料によって、部隊の配置と規模が確認されたこと、(2) そして注目されるのは、下線を引いた部分が示すように、敗戦後も政府がこの名簿に基づいて部隊の構成や規模を正確に知っていたのみならず、部隊員の復員情況などを把握していたことである。政府は名簿の管理を通じて旧隊員の復員情況などを把握していたことである。
しかし政府側は人体実験や細菌戦など、具体的なヒ人道行為については時事関係の確認を避けると共に、その調査を求める要求に対して、きわめて消極的である。日本政府は敗戦後も一貫して、七三一部隊員に関して、復員情況の確認を通じて情報を持っていたのであり、恩給支給のための作業であったことを考えれば、各人の住所なども把握していたと考えられる。当然、関係者に対するヒアリングなどを通じた調査は可能だったのであり、それをしてこなかったこと、そしてそれを求められても実施の姿勢がないことは、戦争犯罪の追及をやはりここでも放棄していると言わざるを得ないであろう。

4) アメリカ政府と元七三一部隊関係者の取引に関する調査の回避
 同じ委員会において、榊委員は米軍と元七三一部隊関係者との取引についても追及している。この件は、ジョン・パウエルが書いた「歴史における隠された一章」(‘Bulletin of Atomic Scientists’, October 1981)によって明らかであり、1982年当時その抄訳が森村誠一『悪魔の飽食ノート』に掲載されて、邦文でも読むことが可能であった(その後本論分のもとになったものが翻訳され、「細菌兵器と生体実験(上下)」『創』1982年1月、2月)として公刊された)。
 榊議員はこの論文を取り上げ、この取引に関する日本側資料の所在を確認しようとした。
○榊議員 「それでは次の質問ですが、アメリカのジャーナリストのジョン・パウエルという人の論文があります。それによりましても、情報公開法で公開された戦後のマッカーサー司令部、GHQの文書には、終戦直後にこの元七三一部隊の首脳部と米駐留軍との間に密約が交わされている、細菌戦の技術を対米提供する、七百ドルだ、安いものですが、それと引きかえに戦犯にすることは免除する、こういうことにしたということがGHQの文書にあるわけであります。そのことは米国務省が日本側に伝える、そういうことも述べているわけでありますけれども、この当時のアメリカ側の通報など関係記録は外務省にあるのじゃないかと思うのですが、これは公表できるのでしょうか。」
これに対して外務省を代表して加藤説明員が次のように答弁し、調査する意思のないことを表明している。
○加藤説明員 「お答え申し上げます。何分三十年以上も前の、わが国がまだ占領下に置かれておりましたときのお話のようでございますので、外務省といたしましてその御指摘のような事実、それに関する記録というようなものがあるか、この点は承知しておりません。」
○榊委員 「このGHQ文書はもう公開されたのです。実は私も見たのです。ですから外務省はアメリカに問い合わして取り寄せてみて、そうだとすればそれに照応する文書、これはちゃんとあるでしょうから、戦後の講和の前のものもそれは調査していただきたいと思う。」
○加藤説明員 「お答え申し上げます。 外務省といたしましては、個々の小説でございますとかあるいは論文ないしは伝聞に基づく報道といったようなものにつきまして、その内容の一々を対米照会するという立場はとっておりません。」
○榊委員 「そのGHQ文書は、もう三十年、公開されていますよ。それは外務省、手に入れてないんですか。だとすれば、不勉強というほかない。やはりこれは入手をして、責任を持って――直接日本に関することなんですから、いま手元にないとすれば入手する方法は幾らでもあります。問い合わせることだって幾らでも可能だと思うのであります。余りしたくない、こういう態度のようでありますから、それはもうこれ以上質問しませんけれども、いずれそれはやっていただきたいと思います。」
 外務省の対応はアメリカへの問い合わせをしないと言うものであり、戦争犯罪を自ら追及する姿勢が欠落しているとしか言いようがないものである。

 さらにこの件に関しては、1982年4月14日の衆議院外務委員会でも取り上げられている。野間議員がジョン・パウエルの仕事や、その根拠の一つとなっているアメリカ政府の公文書の存在を指摘して、更なる調査を求めたのに対して、政府(この場合外務省)の対応はきわめて消極で気であり、実質的に調査をするつもりがない、と言う答弁に終始している。以下に関係する個所を示す。
○野間議員
 「しかも、ジョン・パウエルのいろいろな論文やあるいは引用しておる資料を見ますと、これは公文書館にあります極秘電報、これはいま公開されているようです。これは二つ引用されておりますけれども、これには、このすべての情報を、ソ連での証人喚問の前にアメリカが事前にその石井等に会って事情聴取して、そしてソ連側に引き渡す前に、言ってはならないこと、秘密を保持することについては、これはどうしたらいいのかということの相談をやり、それと同時に、独占的にこの情報をアメリカ軍に引き継ぐということと引きかえに、石井中将等の戦犯からの免除、これについての極秘電報がパウエルの手によって明らかにされて、そしてこのことがいま大きな世界的な問題になっております。
 そこでお聞きしたいのは、こういう一九二五年のジュネーブにおきます議定書にも違反するものが、世界的な最大の規模で当時旧満州でつくられ、生体実験され、そして一部使用された、しかもこれは独占的にアメリカに戦犯との引きかえに引き継がれた、こういう疑惑が非常に出てきておるわけですね。ですから、これらについてアメリカにあるいろいろな資料を接触しながら、これらの実態を明らかにしていく、それと同時に旧満州にあるいろいろなそういう実験の実態とかあるいは使用した実態等々、これも調査する必要があるのではないか、これは私は外務省の任務じゃないか、こう思います。
 その点についての、こういう細菌戦部隊の置かれた立場や実態、仕事の中身、これについての所感と同時に、いまの調査をし、そして実態を明らかにするという要求についての答弁を求めたいと思います。」

○淺尾政府委員 
「いまお尋ねの件は、大蔵委員会においてもお取り上げになったわけでございまして(下線-兒嶋)、その過程の中で、総理大臣は調査をするというふうに言われましたけれども、その調査は日本の国内にある資料について調査をするということでございますし、また厚生省の関係者も、秘匿する部分はプライバシーを除いてはほとんどないであろう、ですからできる限りそれは調査するということでございます。したがって、われわれとしてもまずこの部分については日本の国内で具体的な資料があれば、それはやはり調査しなくてはならないというふうに考えるわけです。
 さて、それをアメリカ側に聞くかどうかという問題でございますが、森村さんの本というものは非常なベストセラーでございますし、またその中でジョン・パウエルという人の言葉も引用されておりますが、残念ながらすべて直接証拠に当たっての引用とは必ずしも言えないということでございますので、従来から政府としてこのような伝聞等についてそのまま照会はいたしかねる(下線-兒嶋)ということで、まず第一義的には日本側が持っている書類というものを見つけ出すというのが第一ではないかというふうに考えておるわけです。」

○野間委員 
「これは情報公開によって公開された文があるわけです。いま私が申し上げたのは一九四七年三月二十一日付ワシントンの統合参謀本部からマッカーサー司令官あてのもの。もう一つは、同じく四七年の九月八日付でアメリカの国務省からマッカーサーあてのもの。これは公開されておりますから、これをもとにして論文を書かれた。この赤旗日曜版にもその文書の写真がありますけれども、これは明らかなんです。だから、極秘のものがあるかないか、いま非公開のものがあるかないか、それはわかりません。しかし、少なくともこうやって公開されたものの中でも非常に重要なものがあるわけです。しかも、いま申し上げたように世界でも最も戦慄すべき大きな問題でありますから、これについてやはり外務省としてはアメリカとの関係でできるだけ資料を収集して、実態を明らかにし、空白を埋める、これは当然の責務じゃないでしょうか。大臣、いかがですか。」

○櫻内国務大臣 
「ただいま北米局長がお答えをしておることで尽きておると思うのです。国内で資料を探すということについては努力をする、それは可能なことだと思うのであります。いま承っておりますと、海外について何かやれ、こういうことのように受け取れましたけれども、これは年月もたっておることでもありますし、なかなか困難なことではないかと思います。(下線-兒嶋)」

○野間委員 
「調査が困難かどうかということ、これは年月もたっておりますから多少困難性があるかもわかりませんが、私はそういうことを言っておるのではなくて、困難でも必要であれば調査しなければならぬ。だから必要性の有無ですね。(下線-兒嶋)と同時に、私が申し上げておりますように、これは公開された資料がある。しかも、これは独点的にアメリカに引き継ぎをされた。国内でいろいろな生き残りの人から話を聞くとか、あるいは資料を収集するということも大事かもわかりません。と同時に、写真とかあるいは生体実験したときの資料が全部アメリカに行っておる、こういう疑惑がこの公電、極秘電文の中から推測されるわけです。そういう点から、国内で調査するといったってこれは限界がありますから、できることはやるのはあたりまえじゃないかということです。こういう残虐なことについてこれを否定し、戦慄すべきことだというように認識する以上、できるだけのことをやるのが当然じゃないでしょうか。外務大臣いかがですか。これすらしないのでしょうか。」

○淺尾政府委員 
「先ほどもお答えいたしましたように、まず第一義的には日本国内にある資料を調査する。それに基づいて具体的にどういうものが必要であるかということが出てきた場合に、アメリカ側に調査を依頼するということでないと、漠然としてアメリカ側にこの点についてという調査というのはなかなかできないわけでございます。
 それから、第二点のアメリカの国立公文書館にある書類についても、これはアメリカの情報公開法ということで出し得るということであれば別途の問題でございますけれども、まず日本の国内でやるべきことをやって、それからアメリカ側に対して臨むというのが基本的な考え方ということでございます。」

○野間委員 
「どうも消極的ですね。化学兵器の禁止についても、生物兵器の禁止についても批准が大変おくれておったりなかなか物にならない。だからこれはそういうものを早期に結ばなければならぬということの前提として、こういう大きな規模でのものを実態を、まずわれわれで全貌を明らかにして、そういうものの上に立って教訓を引き出して、こういうものを世界的なものにしていくということが私は大事だと思うのです。国内でまず調べて云々と言われますけれども、国内でも調べるし、可能な限り中国の東北部あるいはアメリカ、できるだけのものを集めて、ここで全貌を明らかにするのはあたりまえじゃないですか。何でこれができないのですか。それが私にはよくわからない。できないということは、しないということは、どうも私はそういうものの禁止についての熱意がない、こう言わざるを得ないと思うのです。可能な限りやる、これはどうして外務大臣言えないのでしょうか。いかがですか。」

 以上のやり取りをみれば明かなとおり、政府側は、一つはパウエル論文や、森村誠一氏の一連の著作の信頼性を低めるような発言を行いつつ、「困難」だとして調査を回避している。これに対して野間議員が、「必要性の有無」が問題だと指摘しているのはきわめて妥当なものである。このことは逆に言えば政府が如何にこの問題の解明に消極的、あるいは隠蔽に傾いてきたかを示すものである。

 またこの政府側対応に染もう一つの問題もある。政府側答弁の中でも言及されている大蔵委員会での質疑である。以下に関連部分を示す。

○蓑輪議員 
「七三一部隊は、日本陸軍の関東軍防疫給水部ということで、原爆やアウシュビッツと並ぶ人類の汚点とも言うべき生体実験を行っていたというところです。犠牲となった人々は三千人を超えております。戦争という異常な状況のもとといえども、これは人道に反するもので、人間の尊厳を踏みにじるとうてい許しがたいことだと思います。
 総理は、この部隊と、そこで行われた惨劇、それらの行為というようなものについて、どのような認識、感想をお持ちか、簡単にお聞かせいただきたいと思います。総理の感想をお聞きしたいわけで、もし特になければ、質問時間が限られておりますので次に進みたいと思います。感想は総理からお聞きしないと意味がないので、ほかの方の感想は意味がないのです。」

○鈴木内閣総理大臣 
「私は、この核兵器のほかに非人道的ないろいろな兵器なり細菌戦術なりが過去においてもあったということは聞いておるわけでございますが、そのような非人道的な悲惨なことが今後行われてはならない、このように考えております。」

○蓑輪議員 
「この七三一部隊は、まことに非人道的な行為を軍当局はやってきたわけですが、この事実の隠蔽を図っているわけです。犠牲者は中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人、ポーランド人、オーストラリア人、アメリカ人、イギリス人と、実にいろいろな国にわたっております。
 それで二十年八月十五日、敗戦の詔勅を前に陸軍省軍事課が指示し処理したことを示す公文書が残されております。それは「特殊研究処理要領」というふうにされておりまして、「一、方針 敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置ス」という、そこの中の2のところに「関東軍、七三一部隊及一〇〇部隊の件 関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡処置ス」というふうに記されておるわけです。これは、きのう外務省に要求したところでは、この文書そのものはないということでございましたけれども、私どもの調査の結果手に入れたものでございます(下線-兒嶋)。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  これらの関係書類というのは、まだいろいろなところに散逸しているものがあったり、あるいは石井四郎軍医中将がアメリカの軍当局にこれを提供して、向こうの公文書館に保管されているものがいろいろありますが、日本のこの政府の中にも数々の関係書類が残されているわけです。
 それで、この問題について国際的な大きな問題になってまいりまして、日本政府としてこれにどう対応するかということがいずれ求められる時期が来るというふうに思います。それに当たりまして、私は、ぜひ、七三一部隊あるいはここに挙げられております一〇〇部隊及びそれらに関連するいろいろな資料等について、政府がみずから持っているその資料をすべて整理し、公表し、そして国民の皆さんにわかるようにしていただきたいというふうに思います。ひとつこのことをお願いし、さらに一歩進めて、政府が戦史というものをあらわすに当たって、それがどんなに痛みを伴うものであっても、事実を明らかにし真実を明らかにするという形で全部この資料を公表していただくように求めたいと思いますので、総理の御見解を承りたいと思います。」

○北村政府委員 
「資料の点でございますので、厚生省からお答えを申し上げます。関東軍防疫給水部に関します資料といたしましては、私どもは、個々の構成員の留守名簿、それから関東軍防疫給水部略歴という資料は保有いたしております。個々の構成員の資料につきましては、個人個人の細かい身上調書等の要素もございまして、プライバシーに属するもので従来公開はいたしておりませんが、部隊の略歴その他につきましては、お求めに応じましては公表しても一向に差し支えないものであろう、さように考えております。」

○蓑輪議員 
「いま私が申し上げましたのは、そういうことではございませんで、この七三一にかかわるすべての資料が、厚生省だけではなくてあるいは防衛庁その他関係のところにいろいろとあるだろうと思うのですね。それらを責任を持って取りまとめ公表すべきであるということを申し上げているわけです。それで、各省庁の問題じゃなくて、総理にその辺でどのようにお考えかお聞かせいただきたいわけです。」

○鈴木内閣総理大臣 
「政府としては、こういう問題を隠蔽しようなどという考え方は毛頭ございません。何分古い、そして終戦のああいう混乱の中でございますから、どの程度の資料が集められますか、やらしてみたい、こう思っております。(下線-兒嶋)」

ここで何より重要なことは、内閣総理大臣自らが、「こういう問題の隠蔽を仕様などという考え方は毛頭ございません。」と答え、その上で資料の収集について、問題はあっても、「やらしてみたい、こう思っております」と回答したことである。実は、先に紹介した4月14の外務委員会の質疑は、この鈴木内閣総理大臣の答弁を受けてのものである。箕輪議員との質疑では、国内にあるあらゆる七三一部隊関連の資料について、それを収集・公表すべきであるとの要求に対して、総理大臣は問題はあっても「やらしてみたい」と回答しているのである。
14日の外務委員会に於いては、榊委員はアメリカ側資料の件も問題にしており、それに対して箕輪議員の質疑は国内資料についてなされたものであることは事実である。しかし内閣総理大臣は、まずこのもん台について日本政府は隠蔽の意思はないと表明しており、それを受けて、資料収集を行うと言う発言をしているのである。また箕輪議員の質問にあるとおり、人体実験の被害者だけで、その国籍が多岐に渡る可能性があり、またアメリカ側に渡った資料があることも指摘されている。草であれば、総理大臣に意向を受けて、日本政府が全体として資料の収集と開示に当たるべきことは明らかであると考えられる。にもかかわらず、14日の外務委員会では、総理大臣の発言にもかかわらず、政府が一貫して消極的であることが示されている。これでは、関係の官僚組織全体に、本問題を隠蔽したいと言う強い意思があると見られても致し方ないのではないだろうか。

5) 国内調査のその後
 それでは少なくとも政府側委員も否定となかった国内における資料調査はきちんとなされたのであろうか。1984年7月9日の参議院決算委員会に於いてこのことが取り上げられた。佐藤議員が、鈴木内閣総理大臣の答弁を受けた国内資料の調査情況の確認を求めると、既にこの時点までに明らかになっていた資料のみあげ、しかもその一部については、個人のプライバシーを理由に公表できないものがあるとしているのである。また佐藤議員が、調査のための部門の設置を求めると、きわめてあいまいな表現で、事実上これを拒否している。故人の履歴に関する資料の存在まで公言しながら、本格的な調査は行わず、公表も拒否して、民間の調査も許さないと言うのが政府の姿勢であったと言えよう。

○佐藤昭議員 
「ことしも一昨日の七日、日中戦争勃発四十七周年を迎えて、日本国民だけで三百十万の生命を奪い、中国初めアジア諸国民二千万人に犠牲を与えた侵略戦争への深い反省がひとしお求められているわけであります。この中で、近年、いわゆる七三一部隊による細菌戦、生体実験が大きな批判の焦点となってきました。五十七年四月九日、衆議院の大蔵委員会で我が党の箕輪議員が七三一関係資料の収集と公表を求める質問に対して当時の鈴木首相は、政府としてこういう問題を隠蔽しようという考えは毛頭ない、何分古いことだから、どの程度の資料が集められるか、とにかくやらしてみたいと、こう答弁をしているわけであります。
 そこで官房長官、この答弁、約束に基づいて資料の収集、整理の作業をどう計画し、以来今日までどのように進行しているか、まず御報告を願いたい。」

○国務大臣(藤波孝生君) 
「お話しのように、七三一部隊の資料に関しましては、国会で当時の鈴木内閣総理大臣から、できる限りこれを収集するように努力をしたい、という答弁をされまして、その後政府といたしまして、国会の御議論を踏まえまして、厚生省を中心にいたしましてその努力をしてきておるところでございます。しかし、ああいう混乱の中でのことでございますので、資料を収集すると申しましてもなかなか簡単にはいかない。時間をかけてその努力をして今日に至っていると、こういう状況になっておるところでございます。
 なお、厚生省が現在保管をいたしておりますものは、昭和二十年の一月一日に作成をいたしました留守名簿と、それから終戦後に作成をいたしました部隊略歴がございます。この留守名簿の方は全く各個人の身上記録を書いてあるものでございますので、これは一般には公開をしないということになっておることはぜひ御理解をいただきたいと思いますが、(下線-兒嶋)一方、部隊略歴につきましては、申し出のあった場合には閲覧に供するというような態度をとって今日に至っておるところでございます。
 なお、さらにいろんな資料を収集をしてまいりますように努力をいたしたいと、このように考えておる次第でございます。

○佐藤昭議員 
「ただいまもありましたこの関東軍防疫給水部略歴と、三ページにわたる資料を厚生省からいただいているわけでありますが、これはいわゆる七三一部隊の略歴を概略示したものと、こういう性格ですね。念のため確認をします。」

○政府委員(入江慧君) 「そのとおりでございます。」

○佐藤昭夫議員
 「この資料は、既にさっき引用いたしました昭和五十七年四月の衆議院大蔵委員会で厚生省政府委員が、こういうものがございますと、これは公表して差し支えありませんというふうに既に五十七年段階であったものであって、その後の調査で詳細補充をされているという内容ではありませんね。(下線-兒嶋)」

○政府委員(入江慧君) 
「その部隊略歴は、先ほど官房長官から申し上げましたように、要するに七三一部隊が戦後引き揚げてまいりましたときに、その部隊についての何といいますか、行動をまとめたものでございまして、その後、五十七年に御質問がありましてから私ども手元資料を精査いたしまして、特に昨年十一月に庁舎の移転というのがございましたものですから、私どもも手持ちの資料をこういうことを頭に置きながら精査いたしましたが、新しい資料は見つけることはできませんでした。」

○佐藤昭夫議員 
「といたしますと、この資料では肝心の生体実験の内容、その人数、国別、男女、子供別など、そういう内容が全く明らかになっておりません。こうした点から見ますと、四十七年(ママ)の総理答弁以降もう二年有余経過をしているわけですけれども、この間、とにかく可能な限りの調査をやりますと言いながら、全くそれが厚生省の関係についても進行していない、こういうふうに言わざるを得ないわけでありますけれども、今もお認めになったところであります。
 ところで外務省、お尋ねをしますが、昭和五十七年四月、その大蔵委員会のすぐ直後、十四日、衆議院外務委員会での我が党の野間議員の質問に対して、当時の櫻内外務大臣、まず、国内資料を探すため努力する、それは可能なことだと、こういう答弁があるわけですけれども、しからばこの二年間、外務省がどういう調査をして、どういうまとまりができてきておるんですか。(下線-兒嶋)」

○政府委員(栗山尚一君) 
「私どもの方は、委員御指摘の当時の外務大臣の御答弁を踏まえまして、厚生省の方に資料の照会をいたしましたけれども、その内容につきましては先ほど厚生省の方から御答弁がありましたとおりでございまして、私どもの方としましてはそれ以上の資料については確認するに至っておりません。」

○佐藤昭夫議員 
「官房長官、ただいまお聞きのとおり、いやしくも総理大臣が国会の委員会の席上でできる限りの調査をしてみますということでこの答弁、約束をされた、この事柄が二年間ほとんどと言っていい、進行をしていないという、こういう姿というのは、これはもう私はまことにけしからぬ限りというふうに言わざるを得ません。この点で政府の強い反省を求めますと同時に、この鈴木首相答弁なるものの精神は生きているはずでありますから、引き続き七三一関係資料の収集と公表のために、ぜひ一定の担当などを設けて一段の努力をしていただきたいというふうに思いますがどうですか。(下線-兒嶋)」

○国務大臣(藤波孝生君) 
「厚生省としても、外務省としても、鈴木総理が御答弁になった後全然何もしなかったということではなくて、やはり努力をしてきたと、私はそのように信じておるのでございます。
(・・・・・・・・・・・・・・・・一部略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
ただ、係を決めてという御指摘でございますが、係を決めてして果たしてこれまとまるかどうかということもございます。厚生省、外務省としてきょうのこの先生の御質疑に対して、これを踏まえて努力をするということで、私からそのようにお答えを申し上げておきたいと思う次第でございます。」

○佐藤昭夫議員 
「何しろ古いことでなかなか難しいんだというふうにおっしゃいますけれども、後からも触れますが、かなり今日この七三一部隊に関する単行本あるいは雑誌における論文も出ているわけですね。ですから、相当足がかりになる資料はある。だからそれをもとにしていろいろの調査をやれば、私は二年間何もできなかったという、こういうことはちょっと解せないわけです。(下線-兒嶋)こうした点ひとつ反省をしてもらって、今の答弁に基づいて一段の努力をお願いをしておきたいというふうに思います。
 もう一つ、この七三一部隊の存在について、最近六月二十八日の朝日新聞に報道されましたように、アメリカの公文書でも明々白々たる事実(下線-兒嶋)となってきたわけであります。
 そこで、国会図書館にお尋ねをいたしますけれども、ひとつできるだけ早くこれら資料の入手方について検討に上せてもらうというふうにお願いをしたいと思いますけれども、まずどうですか。」

○国立国会図書館参事(三塚俊武君) 
「先生御指摘の新聞記事では、この資料の所在その他必要な情報が十分ではございません。この資料が当館で現在収集を進めております日本占領関係資料の収集計画の中に含まれておる場合は当然収集されることになりますが、収集計画の対象外の資料に含まれている場合には、別途その収集方について検討いたしたいと存じております。」

(家永訴訟との関係)
なおこの件に関して、家永訴訟で問題となった、七三一部隊に関する検定不合格記述についても取り上げられている。佐藤議員が、検定不合格とした理由を尋ねたのに対して政府側は以下のように答えている。

○国務大臣(森喜朗君) 
「お尋ねのいわゆる七三一部隊につきましては、学会の現状では資料収集の段階でございまして、専門的な学術研究が発表されるまでには至っておりません。したがいまして、これを教科書に取り上げることは時期尚早であるという趣旨の意見を付したわけでございます。この意見を受けまして七三一部隊に関する記述は見本本では削除されたところでございます。」

この政府側答弁はまさに検定不合格の理由そのものであるが、家永訴訟で最終的に不当であると判断されたものである。そしてこの時点の政府側答弁で実に驚くべきことは、一方で七三一部隊に関する記述が学術研究で発表されていない、あるいは学界の定説になっていない(この点も不合格理由であり、この後に示す政府側答弁の中に現れる)としているにもかかわらず、実際に既に発表されている文献の内容に基づいて確認したか否かを質されると、「書かれた内容がどういう実態でどういう背景でということの具体的内容まで一々文部省が立ち入って調査をすることはないのでございます」と答えているのである。

○佐藤昭夫議員 
「念のため聞きますけれども、文部省はそういう検定の結論を出すに至る間、七三一部隊に関する著書、論文、今日幾つぐらいあるというふうに把握したのですか。(下線-兒嶋)」

○政府委員(高石邦男君) 
「文部省は、書かれた具体的な記述の内容が、特に歴史教科書の場合には、学会の通説になっているかどうか、そしてまたその事実が客観的に確定されているかどうかということを調べてやるわけでございまして、書かれた内容がどういう実態でどういう背景でということの具体的内容まで一々文部省が立ち入って調査をすることはないのでございます。(下線-兒嶋)」

○佐藤昭夫議員 
「現在国会図書館に所有をしておる資料でも、単行本十一、雑誌の論文、この関係論文が掲載をされておる雑誌が十あるわけです。(下線-兒嶋)果たしてこういうものも見ながら本当に十分慎重に検討したのか私は極めて疑わしいと思うわけでありますが、この先ほどの厚生省の資料、部隊の略歴なる資料、これでも七三一部隊というものが存在をしたということは、これはもう明白になっているわけであります。(下線-兒嶋)にもかかわらず、なぜ全面削除をしたのか。すなわち、記述のある部分についてはもう少し正した方がいい、改善をした方がいいというそういう指導じゃなくて、全面削除、こういう決定をしたというのは、これは私はもう極めて不当ではないかというふうに思いますが、文部大臣どうでしょう。」

○国務大臣(森喜朗君) 
「先ほども申し上げましたように、七三一部隊につきましてはいわゆる専門的学術研究が発表されるまでに至ってないということを申し上げたわけでございます。
 歴史教育は児童生徒に歴史について国民としての基礎的な教養を与えることを目的といたしております。教科書は教科、科目の主たる教材として使用されるものでございまして、したがって教科書は生徒のそれぞれ発達の段階に応じた基本的、基礎的事項に精選される必要がございます。したがって、まだ批判能力が十分でない生徒を対象にしていることもあるわけでございますので、いわゆる著者の学問、研究の発表の場というふうになるものではないわけでございますので、歴史教科書においては通説によって記述するとか特定の事実を必要以上に拡大して記述するということは行わないということが、教育的配慮がなされていかなければならぬ、こういうふうになっているわけでございまして、先ほども申し上げましたように、この七三一部隊につきましては学説としてまだ明確になっていない、こういう判断からいわゆる歴史的教科書としてはこれは適当ではないという判断をいたしたわけでございます。」

 ここでも政府による資料の隠蔽と、調査のための努力の不在は明らかである。

6) 米国からの返還資料の所在確認の回避と隠蔽
 七三一部隊の関係資料について、政府は一貫して国内でほとんど発見できないと言う立場をとってきた。ところが、1992年5月14日、参議院内閣委員会におけける質疑で、小川議員は1950年代に返還された七三一関係資料の国内の所在を質した。
この資料はもともと他の資料と共に、占領軍によって接収されたものである。この資料の扱いは長らく公表されてこなかったが、アメリカ陸軍記録管理局長であったジョン・H・ハッチャーが1986年9月17日、アメリカ下院の「退役軍人関連委員会」で証言を行い(この委員会はもともと米軍捕虜が七三一部隊で人体実験されたのではないかとの疑いに基づいて開かれた、そのため七三一関係資料の所在が問題となったのである)、資料は日本に「箱詰めにして送った」と証言したのである。当然その国内での行先が問題となった。
 この件について、朝日新聞は1986年9月19日の記事で、これらの資料が日本に返却され、最初に外務省復員局に入り、次に防衛庁が設置されたとき防衛庁に移され、さらに戦史室設置に伴って同室に移されたと報じていた。
 即ち政府が七三一関係の資料を早い時期から所有しながら、それを隠蔽してきた可能性が高いことが明らかになったのである。
 小川議員の追及に対して、畠山政府委員は「昭和三十三年四月、防衛庁は米国が押収しました旧軍資料の返還を受けておりまして、現在、戦史に関する調査研究に資するために防衛研究所におきまして約四万件の資料を保管しておりますが、その中には、ご指摘にございました、いわゆる七三一部隊の活動状況を示すような資料はございません」と答弁した。また、他の政府委員はそれぞれ国会図書館(坂東真理子)、外務省(鏡武)に資料がないと答弁している。
 さらに1995年4月25日、大脇議員はハッチャー証言に言及し、資料の所在を外務省に確認するが、林暢政府委員は外務省にないと答弁し、終わっている。
 しかし十分な調査が行われた上での答弁なのか、大きな疑問がある。以下に関係部分を示す。

○小川仁一議員 
「・・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 こういうことを申し上げてから、国立公文書館のあり方について質問いたします。
 まず初めに、公文書の保存、公開についてお伺いいたしますが、旧陸軍の細菌戦部隊であった七三一部隊に関する資料について。この資料は一九五〇年代にアメリカから返還されたと言われてい
ます。どこの官庁がこれを収蔵しておられるんでしょうか。外務省ですか、防衛庁ですか、国会図書館ですか、あるいは国立公文書館ですか。それぞれ御回答願います。」

○説明員(坂東眞理子君) 
「 七三一部隊に関するGHQからの返還資料につきましては、当館所蔵の資料の中に、満州第七三一部隊陸軍医師吉村寿人氏によって著されました「凍傷について」という資料がございます。」

○小川仁一議員 「私の聞いた資料と違うでしょう。」

○説明員(鏡武君) 
「御指摘の資料は外務省にはございません。」

○国立国会図書館参事(井門寛君) 
「国立国会図書館では、先生お尋ねの七三一部隊に関する資料の返還は受けておりません。」

○政府委員(畠山蕃君) 
「昭和三十三年四月、防衛庁は米国が押収しました旧軍資料の返還を受けておりまして、現在、戦史に関する調査研究に資するために防衛研究所におきまして約四万件の資料を保管しておりますが、その中には、御指摘にございました、いわゆる七三一部隊の活動状況を示すような資料はございません。
 ただそれとは別に、正式に関東軍防疫給水部にかかわる記述というものが、関東軍の部隊改編等を示す資料の中にはございます。(下線-兒嶋)」

○小川仁一議員 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なお、今のお答えではっきりしておきたいことは、旧軍関係の資料、アメリカから返還されたこういう資料は、これは総理府ですか官房ですか。
 いずれにしても、保存する場所をきちんとして整理して保存する、こういう方式をとらなければならないと思いますから、それぞれ御協議の上決定をし、後で御報告を願いたいと思います。」
 
 政府側答弁は資料が防衛庁にあること、そしてその一部に「正式に関東軍防疫給水部にかかわる記述というものが、関東軍の部隊改編等を示す資料の中にはございます」と答えるのみである。しかしどのような調査を行った結果か、誰が担当したの課など、実際の調査の形跡を示すものはない。実際には、政府答弁の中で触れられなかった、七三一部隊の北京支部であった、北支那防疫給水部に関する資料などが存在しており、兒嶋自身もそのコピーを所有している(部隊員の名前は黒塗りで確認できない状態であったが)。これが総理大臣の指示を受けて国内関係資料の調査に当たるとした、政府の誠実な対応と言えるであろうか。
  
(2)政府の責任
 以上のように多くの機会において、日本政府は戦後の早い時期から七三一部隊の存在と、その活動の一端を把握していた。中でも七三一部隊幹部については、旧陸軍幹部として公職追放となっていたため、特別審査局によってその所在が明白に把握されていた。にもかかわらず日本政府は彼らの戦時中の、あるいは敗戦後の活動について、なんら積極的に調査することがなかった。
 また教科書裁判の関係などで七三一部隊の問題が取り上げられ、ことにアメリカ政府と七三一部隊関係者が取引を行うことで、東京裁判での訴追を免れるといった事実について、その確認を国会で求められた際も、それを積極的に行うことを否定したのである。
 また七三一部隊感謝に関して、森山説明員の答弁にあるとおり、厚生省に継承された部隊名簿によって、その部隊の構成・旧隊員の現状に関して、日本政府が戦後一貫して把握していたことは明らかである。
 さらに総理大臣自らが関係資料の収集に当たると国会で答弁した約束は、到底果たされたとはいえない。これでは国政が誰によって運営されているのかさえ疑わざるを得ない。
 日本政府が民主的国家として、そして憲法前文に掲げられているように、「世界に於いて名誉ある地位を占めたい」と真に願うのであるならば、大日本帝国政府によって遂行された戦争犯罪の実態を積極的に解明し、そのような事態を二度と引き起こさない政治体制を構築するための基礎とするべきであった。そしてそのチャンスは存在したのである。このような点を考慮すれば、日本政府が自らの過去の過ちを積極的に解明する努力を進めてきたとは到底言えず、むしろその隠蔽に汲々としてきたといわざるを得ないであろう。日本政府は七三一部隊の活動の積極的解明を意図的に怠ってきたことによって、戦争被害者の苦しみを救済する努力を怠ってきたことは明白である。


2 戦後に継承された戦争犯罪を生んだ思想と人脈-関係者調査の回避と事実の隠蔽


ここでは、七三一部隊の関係者が戦後にどのような思想を継承しようとしてきたのか、また日米安保体制の下で、国民の目の及ばないところでわが国が以下に細菌兵器の研究開発に巻き込まれてきたかという点を検討する。
 七三一部隊の問題は決して戦争によって終わったのではなく、また中国など外国に限って損失を与えたのでもない。例えば非加熱製剤を危険であると知りながら大量販売してHIV感染者を数多く生み出した旧「ミドリ十字」は、七三一部隊幹部であった内藤良一によって設立された企業である。七三一部隊においては馬血の人体への輸血や、血液の粉末化などの研究がなされており、内藤らはこういった技術を基礎として、旧「ミドリ十字」(設立時の名称は「日本ブラッドバンク」)を設立したとも考えられるのである。
 人の命を救うという「医」の原則を逸脱した七三一関係者によって設立された企業が、自己の利益のため非加熱製剤を危険承知で販売したことは、決して無関係とはいえないであろう。七三一部隊の思想は、かつて中国の人々をしに追いやり、今日では日本国民の命をも脅かしているのである。

(1) 七三一部隊幹部
 七三一部隊幹部は戦後社会に復帰し、様々な領域で要職についたが、自衛隊も同様である。陸上自衛隊衛生学校の校長にも元七三一部隊員が校長として籍を置いていた。園口元陸将、中黒元陸将がそれである。そしてその衛生学校が刊行した『大東亜戦争陸軍衛生史』(全九巻、非売品)の編纂にも当たったのである。
 その際編纂の基本的観点はどこに置かれたのか。答弁に表れた文章をそのまま引用すれば、「敗戦とともに消えた陸軍衛生部は、今や陸上自衛隊衛生科としてその伝統を継承することとなり、その責任も極めて重大と言わなければならない。温故知新、それは事象発展の道程であり、大東亜戦間はもとより終戦時の衛生部活躍の跡を尋ね、その業績を偲び世界に誇りうべき軍陣医学の真髄に触れることはまことに有意義である」と言うものであった。
 かつて人体実験を行い、細菌戦を行った当事者たちが、その点に関する反省の念まったくなく、旧陸軍衛生部の活動を礼賛し、さらにはそれを自衛隊に継承するため歴史を編んだと述べているのである。この『大東亜戦争陸軍衛生史』は非売品であり、一般の目に触れる機会は限られている(国会図書館、慶応義塾大学図書館所蔵、ほかにあるか否かは未確認)。国民の目にふれにくいところで、国民の税金によって、かつての戦争犯罪の事実に目をつむったまま、その「成果」が自衛隊に継承されようとすることが、行われたのである。以下に関連する個所を示す。
 
○横路議員 
「旧軍で衛生部というのがありましたね。軍陣衛生要務令とかいうのがあった。そこで衛生任務は何かということであげているのでありますが、保健、防疫、傷病者の収容あるいは後送ですね。それから、敵の化学戦に対する衛生に関する情報収集、衛生材料の補給等の業務を行なうというように、これは旧軍の衛生部というのは何かということで指摘がありますが、いまの自衛隊の衛生隊の任務もこれと変わりないわけでしょう。」

○鈴木(一)政府委員 
「私、不勉強で申しわけございませんが、旧軍時代の衛生関係、いわゆる衛生部の仕事と、それから現在の自衛隊におきます衛生部の仕事と厳密に比較した点はございませんが、ただ、その業務の内容につきましては、そう大差がないと承知いたしております。」

○横路議員 
「つまり、軍医そのものを医官と皆さん方言っているけれども、これは衛生部隊の教育、運営、管理に結局は携わるということになりますね。あるいは携わっているということに。(下線-兒嶋)」

○鈴木(一)政府委員 「そういう衛生職種もございます。(下線-兒嶋)」

○横路議員 
「軍陣医学というのは何なのかということで、最近皆さん方の衛生学校のほうで、「大東亜戦争陸軍衛生史」というのをまとめられましたね。この中に、旧軍の衛生部というのは、どういう役割りを果たしてきて、どういう任務を負っていたのか、それぞれ外科、内科そのほかについて詳細な記述というものがあるのですけれども、先ほどあなたのほうで、CBRの関係とすぐ飛躍をされると、こうおっしゃったけれども、ちょっとお尋ねしたいのですけれども、これをまとめられたのは園口忠雄さんという方でありまして、これは四十五年の一月になって「監修の辞」を書かれておりますが、陸上自衛隊の衛生学校長ですね。この人は、旧軍の七三一部隊、昔、石井部隊といわれた、中国において三千人の人を生体実験に使ったあの部隊に所属をしておられた方だというように聞いておりますけれども、間違いございませんか。」

○鈴木(一)政府委員
 「これは、楢崎先生の昨年の御質問だったかと思いますが……(楢崎委員「おととし」と呼ぶ)失礼いたしました。先生御指摘のとおり、おととしでございますが、園口元陸将でございます。七三一部隊、すなわち石井部隊に関係しておられました。」

○横路議員 「この園口さんの前の衛生学校長というのは何という方ですか。」

○鈴木(一)政府委員 
「私もちょっと記憶を失しておりますが、中黒という陸将の方だったと承知いたしております。」

○横路議員 「この人は、昔どこの部隊に所属をしておられた方ですか。」

○鈴木(一)政府委員 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後の調査でわかりましたのは、ただいま申し上げました中黒秀外元陸将でございます。生年月日は明治四十一年八月七日、学歴は北大の昭和七年卒、旧軍の軍医中佐でございます。それから学位を二十年三月にとっておられます。」

・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○鈴木(一)政府委員 「それから次は高橋三郎、大正二年四月四日、旧軍の陸軍少佐です。」

 ・・・・・・・・・・・・(一部略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○横路議員
 「私、これからお尋ねしたい点は、非常に旧軍にはいろいろな問題があったわけであります。いま日本の社会でも、戦争についての責任ということがドイツ等に比べると非常に不徹底であったということが従来から指摘をされておりまして、たとえば、裁判官の問題とか、ジャーナリストの問題とか、医者等の科学者、技術者の問題とか、いろいろあるわけであります。そういう観点で私のほうはお尋ねをしていきたいと思うのでありますが、この「監修の辞」に、「大東亜戦争陸軍衛生史」というものがなぜ発刊を見たのかということで、旧軍の作戦支援に多大の貢献をしたその貴重な結晶というものを、しかも軍陣医学に長足の進歩をもたらしたものと確信をしている、これを旧陸軍衛生部の輝かしい伝統を受け継ぐ自衛隊衛生学校が編集をすることになったのだというように、「監修の辞」並びに「序」の中でいろいろ書かれているわけであります。「敗戦とともに消えた陸軍衛生部は、今や陸上自衛隊衛生科としてその伝統を継承することとなり、その責任も極めて重大と言わなければならない。温故知新、それは事象発展の道程であり、大東亜戦間はもとより終戦時の衛生部活躍の跡を尋ね、その業績を偲び世界に誇りうべき軍陣医学の真髄に触れることはまことに有意義である」というような観点からこれがまとめられて、しかも、いままでまとめてこなかったけれども、戦後歳月が経過して世の中に落ちつきが取り戻されたからやろうじゃないかということになったのだというような経過が記述されているわけです。(下線-兒嶋)
 ただ、この中で、七三一部隊、つまり中国で生体実験をやった人たちが、いまの自衛隊の中に、実は化学学校、衛生学校、そのほかにもまだたくさんおられると思うのでありますけれども、たとえばこの第二巻の中に凍傷に関する実験報告というのが出ているのです。これはごらんになったかどうか。その凍傷に関する実験報告というものは、これは報告者はだれかといいますと、一人は吉村寿人という人で、前の京都府立医大の学長をやっていて、蜷川知事がのら犬発言をしたときの学長でありますが、いまは兵庫県立医大の責任者であります。この吉村さんの論文とか、そのほか尾形さんという当時の関東軍軍医大佐の論文なんか出ておりますが、この論文の中身は、いわゆる中国においてこの七三一部隊が生体実験を行なったその記録なわけであります。学術的に価値があるというような意味なんでしょうけれども、こういう生体実験をやった記録というものを、旧陸軍衛生部の伝統を受け継ぐのだというような形で紹介をしてここに報告をしておるわけであります。(下線-兒嶋)時間があまりないので、ほんとうはこれから詰めて議論をしていきたいところなんでありますけれども、皆さんのほうで、この七三一部隊というのはどういうことをやったのか。つまり、この生体実験をやったということ、組織がどういう組織で、どんな経過でこれができて、そしてその中で吉村寿人という人はどういうことをやってきた人なのか。皆さんのほうに、この七三一部隊のことについて聞くからということでお話をしてあったと思いますので、ひとつその辺のところを述べていただきたいと思うのです。(以下一部関連質疑略)」

 ここまでの質疑から、日本政府、そしてここで恥得体の衛生部門であるが、このようなところが戦争体験の反省から再出発したのではないと言うことが明らかである。それどころか、七三一部隊の関係者を辞得体の要職につけ、旧軍の思想や七三一部隊での経験を無反省に継承させることを目的として資料が編まれ、それが教育に利用されているのである。
 さらに横路議員はただ、文書が残されていると言うだけでなく、現実の自衛隊に於いても隊員を対象に、七三一部隊の関係者が関与した実験が行われたことを指摘している。

○横路議員
 「その例としてちょっとあげたいと思うのですが、これは前に楢崎議員が、赤痢について自衛隊の中で生体実験をやっているじゃないかということで指摘をしたわけでありますが、それを見てみると、そのときの研究者が園口さんですね。指導をやったのがさっきの中黒さんですね。使ったのが株式会社ミドリ十字というところで開発をしたポリラクトンという薬でありますけれども、これは厚生省で認める前に、皆さんのほうで相当多数の隊員に対して、成人の集団実験による赤痢及び食中毒予防についてということでおやりになったわけでありますが、このミドリ十字のそのときの相談役が北野政次という、やはり七三一ですね。それから副社長をやっている内藤良一というのも、これまた七三一の生き残りですね。つまりそういう形での結びつきというのが、現実の問題として、ともかく、まだあれしない薬を自衛隊員に使って飲ませて、赤痢にきくかきかないかというような実験をやったわけですよ、たしか昭和四十二年か三年の話ですけれども。その薬会社のほうも七三一部隊であるし、それを指導したのも、実際に行なったのも七三一部隊だということになると、やはり長官、アウシュビッツの例も云々というようなことで簡単に過ごすことのない、もうちょっと、自衛隊の体質の中に深く、特に自衛隊の衛生学校あるいは衛生隊の中に深く根ざしている問題があるのではないかというふうに私は感ずるわけですが、いかがですか。(下線-兒嶋)」

 七三一部隊関係者は、自衛隊と言う国民から目のとどかないところで、関係者が関与する製薬会社の活動として戦後も自らのやり方で活動を続けてきたのである。これは日本政府が七三一部隊の様々な戦争犯罪の追及を怠り、そのような活動がなぜ許されたのかを厳格に反省しなかったことに根本的な原因があるとしかいえないのではないだろうか。
 
(2) 日米安保体制のもとでの細菌兵器研究への協力
 旧軍関係者の活動は、さらに日米安保体制の下で、あるいはそれに先行する占領体制のもとで、早くから米軍との協力関係の中に見出すことが出来る。いわば日米協力の名のもとに、国民の知らないところで彼らに活動の場が提供され、本来追及されるべき彼らの過去が隠蔽されたまま、戦後の軍事力再構築の中に組み込まれていったのである。以下にこれに関する質疑を示す。

 @化学教育隊の活動
1956年4月12日には、自衛隊が設置した化学戦部隊の実態を追及する過程で七三一部隊に言及が及んでいる。参議院の内閣委員会で吉田法晴議員は、自衛隊富士学校がCBR(化学、細菌、放射線)関係の研究開発あるいは教育訓練に携わっているか否かを追及した。
これに対して、政府委員の都村新次郎は、「化学教育隊におきましては、防衛上の見地からいたしまして、こういった汚染地物などの識別除去、応急手当、・・・必要な知識、技能を習得させるわけです」と答えている。吉田議員はさらに米軍やNATO、あるいはSEATOが実施している核戦争を想定したような訓練へ発展する可能性の有無などを質しているが、政府委員はこれを否定している。

A情報専門家の米軍への派遣
 しかし日米間の関係は強化されていた。例えば1960年3月25日の参議院予算委員会第二分科会では、岩間正男議員が、1957年10月1日に発効した新たな日米間の基本労務契約*1の中で、「軍事情報研究分析職、軍事情報顧問職」といったものが、雇われた職種の中に含まれていることを指摘した。この軍事情報研究分析職は、基本労務契約によって岩間が紹介したところによれば以下のような仕事である。
 「軍事情報研究の分野において、専門的、科学的作業について勧告し、運営、監督し、又は実施する労務者。この作業は、国家の安全に影響を及ぼすような一定の地域における物理的、地理的、科学的及軍事情況、一定地域の戦争が起こる可能性に直接的に関連を有するような地域の政治的、経済的状況又は外国軍隊の軍事的組織、訓練、武器及戦術に関する情報の収集、評価、分析および解釈をも含んでいる。(下線部兒嶋) この職名にある労務者は、次の職務を行う。(1)情報を入手する。(2)情報源を選択する。(3)情報を批評的に分析する。情報の量的不足を満たし、その質を向上せしめる。(4)地図、図表、写真を持って豊富に挿絵を入れた総括的、かつ、確定的な報告の形式を持って情報および結論を提供する。(下線-兒嶋) その報告は政策立案の係官が速やかに決定をするため考慮中になっている特定的な問題又は論点に関連を有する技術的データ又は情報を圧縮したもので、いくぶん短く、かつ、それほど詳細にわたることのない報告であったり、専門的な問題を解釈するため特殊な知識を必要とする事項にわたる特殊な報告であったりする。」
 さらに岩間は、「・・・軍用人種学分析員というのがございます、・・。この職種の中のある職種は何をするのかというと満洲に関する研究調査、それから満洲に関する情報入手、(下線部兒嶋)・・・はっきりと『満洲』という言葉がうたわれているわけです」と指摘している。
 ここには、旧日本軍の軍事専門家が米軍に動員されていた事実が示されている。しかもその職務は情報の収集・分析であり、しかも地理的には中国東北部の名前もあがっているのである。冷戦構造の下、中国封じ込め政策を取っていたアメリカ政府が、日本の旧軍関係者を雇用し、利用していたことは明らかであろう。
 ここで問題となっている基本労務契約は、もともとは1951年7月1日に、日米基本労務協約(旧契約と称された)が締結され、それが占領の終わりと共に新契約に切り替えられたのである。また、旧協約以前には、占領下で米軍の要請に応じて労務者の提供が行われていた。

 以上紹介したものには直接細菌戦に関するものではない。しかし以下に示すものは、米軍の細菌兵器関係部隊が、日本の日赤を通じて活動していたことを示すものである。
岩間議員は、後の1976年2月4日の参議院決算委員会で、四○六部隊(米軍の細菌・化学戦関係部隊)が関わった問題を取り上げている。すなわち、1950年10月5日の日赤新聞を根拠に、当時朝鮮戦争で闘っていた国連軍兵士に、日本人から採取した血液を提供したというものであり、その採取に当たったのが、「国連軍第四○六診療所輸出部」だったことを指摘している。占領下で、朝鮮戦争をきっかけとして様々な形で米軍の特殊部隊が日本国内の医療関係、あるいはそれ以外の組織と関係を持ち始めていたのである。
 占領は日米安保体制へと切り替えられたが、占領下に生じた米軍と旧日本軍の関係は、拡大強化されていったと考えられるのではないだろうか。実際、以下のような事例は、日米間の軍事関係が、細菌戦・化学戦の分野で一貫して強化されていったことを示しているように思われる。

B国内の細菌・化学戦関係米軍施設−ベトナム戦争におけるCB攻撃
 1970年3月26日には、参議院予算委員会第二分会で、神奈川県相模原市、小田急線相模原駅前に当時存在した、米陸軍第四○六部隊が取り上げられている。
質問を行ったのはやはり岩間正男議員であり、同議員は、駅のすぐ西側に広がっていた施設は周囲から隔絶した6万坪の広さをもち(現在は返還され、マンション、ショッピングセンター、公園、外務省研修施設となっている-兒嶋)、中には医学研究所が置かれ、細菌学部、化学部、昆虫学部、医療動物学、血液学などの多くのセクションを持っていた。この医学研究所では日本人も約350人が働いており、その中には「細菌研究職、防疫専門職の人」がいたとされる。本施設はフォートデトリックの米陸軍CBR兵器研究本部(当時)の付属機関のひとつであり、朝鮮戦争にも動員されたといわれる*1。関連する個所を以下に示す。

○岩間議員
 「三十九年十月十七日、羽田のサソリ空輸、輸入者は米陸軍第四○六部隊医科学研究所昆虫学部長ヒュー・レキーガ中佐。米陸軍第四○六部隊医科学研究所は、小田急相模大野駅の西側にあり、六万坪の敷地の一角にCBR兵器の研究を専門に行っている建物があり、最近学部、昆虫学部、医療動物学、血液学などのセクション別に米軍医や一般アメリカ人医師が働いている。第四○六部隊医学研究所には約三百五十人の日本人が働いているが、多くはガードマンや雑役、これに混じって細菌研究職、防疫専門職の人がいるのは注目される。また、雑役の人の中には、実験用のモルモット、サル、犬やその他の動物の死体処理にあたる人もあり、早くから細菌戦の研究機関として黒いうわさが流れていた。朝鮮戦争の末期、アメリカにとって戦況が不利になったとき、米軍は朝鮮各地で空からコレラ菌の入ったハマグリをまいたり、ペスト菌、炭疽菌の入ったクロバエ、くも、鳥の羽などを大量に散布し、多くの朝鮮人民を殺した、この作戦の士気を取ったのが米国メリーランド州にある米陸軍CBR兵器研究本部のフォート・でトリックである。相模原にある第四○六部隊医学研究所も、このフォート・でトリックの一つの付属機関であり、直接朝鮮戦争にも参加した。・・・・(以下略)・・・・・」

また、1977年4月1日には、野田哲議員が参議院予算委員会で、この四○六部隊経由で、韓国で流行した流行性出血熱感染者の腎臓がフォートデトリックに送られたことが問題とした*1。野田議員はさらに、米軍施設で働いている日本人専門職の所在の確認を求めた。これに答えた田村元大臣の答弁によれば、四○六部隊に昆虫専門職が一名在職しており、また相模原市の日米海軍医学研究所に同じく獣医職が一名在職していた。その他、沖縄の在日米軍医療センターに昆虫学専門職が二名在職していた。また同じところに80人の日本人労働者が働いていることが確認されている。
このように国内の米軍細菌・化学戦関係部隊に日本の専門家や一般労働者が雇用され、協力体制が長期にわたって構築されてきたのである。

C米軍資金導入問題
そして1970年代に入ると、米軍資金の日本の大学などへの導入が問題となった。その際、七三一部隊や化学兵器研究が取り上げられている。この件は80年代以降も続き、90年代に入っても取り上げられている。このことは言ってみれば、最近・化学兵器研究が日米同盟の具体的な内容となって展開されていることを示すものともいえよう。
1974年3月7日、衆議院予算委員会第二分会で楢崎議員は、以下の大学・研究室にアメリカ国防総省の資金が提供されており、それが化学兵器・細菌兵器研究の一環であることを指摘している。

表2 資金受け入れ機関として楢崎議員の質問で挙げられたもの

慶応大学    寄生虫エンセファリトゾーン研究
北里研究所  合田朗 細菌学・赤痢の免疫機構の研究
京都大学・ウイルス研究所 植竹久雄
      ・医学部生理学教室 井上章
九州大学    武谷健二 細菌学
          宮崎一郎 寄生虫学
奈良県立医科大学 安澄権八カ 解剖学
佐々木研究所 吉田富三所長 ガン細胞を使った細胞遺伝学
東京医科歯科大学 加納六郎 医動物学・ハエの研究
横浜市立大学 吉野亀三郎 細菌学・ウイルス病の診断

 またBの最後にあげた野田鐵議員の質疑でも、その後半ではこの問題を取り上げている。文部大臣は答弁において、「昭和四十二年当時までにおきましては、二十五の大学に研究費が出ておった(米軍関係から−兒嶋)という事実はございます。四十二年以降は一一文部大臣と協議することにしたのでございますが、その後は九大学が研究委託の継続などで行ってまいりましたが、四十七年度以降は全くございません」と答えている。
 実際に1972年以降研究委託が中止したか否か、相当の疑問が残るが、政府答弁においてさえ、日本の大学に米軍資金が広範に流入していたことを認めていたのである。
 そして80年代に入り、1986年の11月21日には、参議院決算委員会で佐藤昭夫議員が、産業医科大学で開催されたシンポジウム(86年9月21日〜24日、同大学白木教授主催)に米空軍研究所、アメリカの海軍研究所から資金が提供されていることが指摘された。しかもこのシンポジウムは元七三一部隊員であり、凍傷に関する人体実験で知られた吉村寿人京都府立医大名誉教授の業績をたたえるためだったのである*1。また佐藤議員の質問によれば、吉村は戦後パプアニューギニアにおいて、日本国内で薬品としての製造・使用が認められていないN15(窒素15、窒素の同位元素)を用いた生体反応検査を実施している(根拠はシンポジウムのパンフレット)。後でもふれるが、七三一関係者が戦後社会に復権し、高い社会的地位を占める中で大きな影響力を形成していくが、吉村を囲むこのシンポジウムは、そのような影響力の拡大が米軍の影響力とともにあったことを示している。
 ちなみに吉村寿人の凍傷実験報告書はインターネット上のアジア歴史資料センターからもアクセス可能であり、その実験内容を確認できる。これは「凍傷に就いて」と題された報告書で、とびらには、タイトルと昭和16年十月二十六日、満洲第七三一部隊、陸軍技師、吉村寿人、とある。
 内容は既に周知のことであるためここでは紹介しないが、「マルタ」と日本側が証した中国人捕虜に対して、様々な条件下で、人為的に凍傷を起こさせ、各種の「実験」を試みたものである。

 90年代に入っても、1990年6月5日の参議院予算委員会で矢田部理議員が、佐藤・ジョンソン会談以降、日米医学協力計画があり、日本の研究者や厚生省(当時)が米軍と共同研究を行ったり、米軍に研究者を送ったりしたのではないかと追求している。
 その一週間後の6月12日の参議院外務委員会でも、矢田部議員は国立予防衛生研究所と米軍の関係者(フォートデトリック)が流行性出血熱の共同研究を実施していることを指摘した。
 以上のように敗戦後まもなく形成された旧日本軍の細菌戦関係者と米軍の関係は、その後冷戦構造の中、朝鮮戦争・ベトナム戦争という現実化して戦争との関係の中で、拡大強化されたと見ることが出来よう。この関係の中で、吉村寿人が一つの典型を示しているが、七三一関係者が日米軍事協力の一つの結節点を為していた。彼らは日本社会に復権し、高い地位を占め、活動を続けていた。これは戦争犯罪人の追及を敗戦後の出発点としたはずの日本政府の立場と両立するものであろうか。

(3) 政府の責任
 以上見てきたとおり、敗戦後のごく早い時期から、日本の旧軍関係者および細菌学などの研究者は米軍の活動に組み込まれてきた。日本政府が公式には細菌兵器の開発には一切手を染めていないとしていたにもかかわらず、実際には米軍組織への参加や、その資金受け入れを通じて、そのような研究が国民の目のとど来ないところで遂行されてきたのである。これは民主国家としての正しい態度であろうか。
 また、七三一関係者は、『大東亜戦争衛生史』編纂の関係者の例に明らかなごとく、今次大戦への反省を全く欠いたまま、細菌戦まで実行した旧陸軍衛生関係者の「事跡」を構成に継承するために、執筆と編纂を行ったのであり、実際この衛生史は陸上自衛隊衛生学校などで教育に利用されているのである。戦後日本政府は新憲法のもとで民主国家、自由を愛する平和国家として再出発するとしたはずである。
さらに本件で問題となっている中国政府とのあいだで取り交わされた、「日中共同宣言」では、「日本側は、過去に於いて日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べられている。以上の経過を踏まえたとき、日本政府は果たして国際的信義に忠実に行動してきたのか、疑問が生じるのは当然である。
 1931年9月の柳条湖事件(満州事変)以降日本を戦争の傘下に引き込んでいった旧軍の思想を後世に継承するためという仕事が、自衛隊幹部によって行われ、それが実際に現自衛隊の教育に利用されているということは、日本国憲法はもとより、関係諸国との条約などに、明らかに反する行為だといわざるを得ない。そしてこのような行為の積み重ねが、日本政府自身による戦争犯罪追及を大きく遅らせてきた重大な要因の一つになっていると考えられるのである。
 日本政府が国際社会に対する約束を誠実に履行し、憲法の基本理念を現実に生かすことを使命と考えるならば、七三一部隊関係の資料の全面公開と、活動実態の克明な調査によって、戦争犯罪の実態を明らかにし、被害者に対する謝罪と保証を行うことが、必要不可欠である。


3 日本政府による戦争犯罪地位旧の回避と資料の隠蔽

(1) 七三一部隊調査の回避
 日本政府は戦後の早い段階で七三一部隊の活動を知ることが出来る立場にいながらそれを行わなかった。シベリアからの帰国者の証言だけではなく、公職追放となっていた石井四郎や北野政次などの所在をきわめて正確に把握しにながら、彼らに対する調査を行わなかったのである。その背景に日本政府自身が追及の姿勢を持たず、かえって隠蔽しようとさえした疑いの高いことは既に指摘したとおりである。
 さらに森山説明員(政府側)の発言に示されているとおり、厚生省に保管・利用されてきた七三一部隊の名簿によって、部隊の構成、隊員氏名などを戦後一貫して把握してきたと考えられるにもかかわらず、日本政府は彼らに対するなんら積極的調査を行わず、あろうことか、教科書検定において家永三郎氏執筆の高校日本史の七三一部隊関係個所の削除まで求めたのである(最終的には政府側が敗訴したが)。
 又アメリカ側返還資料の所在調査をめぐって明らかになったことは、既に1950年代に旧軍関係資料が日本国内に返還されたにもかかわらず、それを積極公開することを拒み、七三一部隊関係の調査の大きな妨げをなしている。
 それ以外にも、日本政府は七三一部隊の実態調査を一貫して回避し、それを国民の目から、あるいは教育の場から意図的に排除しようとしてきた。この行為は、柳条湖事件(満州事変)から第二次大戦に至る、日本の命運を決した戦争に関する重要事実を国民の目から遠ざけようとしたものであり、国民の知る権利を侵害するものであり、自由かつ国民主体であるべき国民の教育を受ける権利への侵害でもある。そして何より、七三一部隊の活動によって重大な損失をこうむった中国人に対する冒涜であり、救済を求める彼らの権利に対する明らかな侵害行為であるといえよう。

(2) 旧七三一関係者の復権がもたらす危険を放置してきたこと
 『大東亜戦争史』編纂関係者の例が明らかに示すとおり、七三一部隊関係者の犯罪行為を追及することなく、戦後日本社会への復帰を認めてきたことは、それ自体戦争に対する日本政府の無反省を示すものであり、同時に民主国家としての基盤を政府自ら損なうものである。旧陸軍衛生関係諸部隊の活動をたたえ、それを後世に継承することを目的とする歴史書が政府の費用で編纂され、それが自衛隊の教育に用いられていることは、日本国憲法に反するのみならず、諸外国との各種条約・宣言の誠実さを疑わさせ、中国のみならず今日国交を持つ多くの関係諸国との友好関係を損なうものである。また、国民に対して自由な民主主義国家であると主張しながら、非民主的で自由の欠落した戦前の体制の下での軍の行為を正当化する歴史が「教育」に用いられていることは、国民を欺くものといわざるを得ない。
 また国民の目の届かないところで、アメリカ軍との軍事協力を進め、その過程で細菌兵器の研究に関与してきたこと、そしてその過程で七三一部隊関係者が関与してきたことは、日本政府が意図的に国民を欺いて、七三一部隊などの活動の「成果」を、今日まで積極的に温存・活用しようとしてきたのではないかと疑わせるものである。

 以上述べてきたとおり、日本政府は七三一部隊の活動を早い時期から確認する機会を持っていたにもかかわらず、それを行わず、かえって隠蔽しようとしていたのではないかと疑わざるを得ないのである。それは関係者に対する直接の調査と、部隊関連資料の双方について言うことが出来る。このことは、日本国民が自らの国の歴史を知る権利を侵害するものであり、同時に、ポツダム宣言で誓約した、戦争犯罪の追及という誓約に反するものである。このようなことで、どうして良好な国際関係を維持・発展させることが出来るのであろうか。裁判所が日本国憲法のよってたつ理念と、国民の知る権利、主体的な教育を受ける権利を擁護する立場で、そして何より戦争被害者を救済し、以て国際社会に対する日本国民の誠実な姿勢を示すことが出来るよう、公正な判断を下されるよう求めるものである。