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鑑定意見書

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寧波における細菌戦被害の深刻さ
――5年間の被害調査を踏まえて――

中国・寧波市工人文化宮記者  裘   為  衆



第1.5年間の調査の経緯

 5年余りの歳月をかけて、私は被害者の家、死亡した場所、避難した所等合計93ヶ所の村や町を訪ね、当時の現場を知る人や被害者遺族ら400人以上に対して調査を行った。
 現在、名前、住所、死亡日の確認ができた寧波ペスト被害者の総数は、すでに112人に達している。黄可泰先生が発表された、名前の判明した109人のほかに新しく4名の被害者(沈鳳丹、陳歳華、胡長富、汪桃月)を確認し、また、死亡者とされていた1名(徐正春@)の生存が判明した(図表1)。
 その他に十数名の死者の名前を確認中であり、名前が不明な人の調査はこれからである。


第2.調査で判明した新事実

 1.新しく4名の被害者が判明した
 (1)一人目は汪桃日(当時14歳)である。
 汪応発夫婦は、東後街137号から同139号までの敷地に建てられていた工場「汪氏紡績」を経営して生活していた。4台の糸車があり、数人の内弟子のいる家庭工場であった。主に、絹物の紡績をやっていた。
 汪氏夫婦の家庭は6人家族で、娘が4人いた。三女である桃月がペストで亡くなった。
 長女・汪秀琴はこう証言している。
 「3番目の妹が病気にかかった当時は疫病が激しく流行していた。隣人が相次いで亡くなっていたし、朝は誰々が亡くなって午後はまた誰々が亡くなる、というような状況だった。そのため、父はすぐに引越すことを決めた。翌日、開明街の向う側の東後街150号に引っ越したが、14歳の桃月は新しい家で亡くなった。私たちは、他の人には『桃月はもとから体が弱かったので、ペストで死んだわけではない』と嘘をついた」。
 また、新しい家は疫区に入っていなかったので、防疫隊から追及されることはなかったが、幸いペストは家族の他の成員には伝染しなかった。」

 (2)二人目は沈鳳丹(当時22才)である。
 沈鳳丹は、寧波市南大路福善里29号に住んでいた。1939年8月29日に息子・華忠林が生まれた。
 華忠林は、次のように証言した。
 「私が生まれて、まだ14ヵ月の時のことだった。母の沈鳳丹はいつものように、山芋を運んで開明街へ売りに出かけた。家に戻ってから、しばらくして、気分が悪くなり、身体中の具合が悪いように感じた。彼女は当時22歳で、若く健康的だったが、その後、嘔吐や痙攣が続き、11月3日に亡くなった。死ぬ前に全身が黒っぽい紫色になっていた。お腹には出産間近の赤ちゃんもいた。」

 (3)三人目は陳歳華(当時19歳)である。
 徐蒲ムの息子徐正春は、次のように証言した。
 「陳歳華は、東後街の徐蒲ムのもとで革靴作りの見習いをしていたが、徐蒲ムの発病の様子を見て、恐怖感を抱き、同じ義和郷にある陳婆渡という村の実家に戻った。しかしその時には、もう高い熱を出しており、その二日後に亡くなった。」

 (4)四人目は胡長富(当時5才)である。
 胡長富の姉の胡月芬が次のように語った。
 「当時の住所は江北岸(区)人和巷10号だった。家族は全部で9名で、当時一緒に住んでいたのは両親と4番目の姉、弟胡長富、胡月芬でした。他に嫁に行った3人の姉と、上海で商売見習いをしていた兄がいた。
 30年代中頃、父親の胡康広が煉瓦器具工場を経営していたが、商売はうまくいかなかった。親友の陳小保がやっている保山食品店の方は盛んで、人手が足りなくなったため父は店の経理と経営そのものも任された。その店の表側は売店で、裏側は工場になっていた。工場ではクリーム、パン、クッキー、ビーフジャーキーなどの食品を作っていた。販売先は大邸港の外国の船や市内の教堂、教会、病院、領事館等であった。父は一日ごとに各販売先を回って、注文を受けたり、集金をしたりしていた。その時期は家の生活は豊かであった。
 1940年10月29日、父は市内の各教会へ集金に行った。当時は日本軍の飛行機がよく空襲に来たので、弟の胡長富を家に残すのが心配で、彼を一緒に連れて行った。親子二人で東大街とにぎやかな開明街を通って開明教堂に行き、開明街の町へ入るところで、父はその大事な末子におやつを買い与えた。夕方には、二人とも無事に家に戻ったが、悪魔がその時すでにとりついていたとは誰も思わなかった。
 31日の夕方以後、弟が頭痛を訴え、発熱し始めた。11月1日の早朝には全身が異常な熱を帯びたので、母と父が彼を連れて、江北岸後馬路291号(引仙橋辺)にある有名な漢方医者馮忠gのところに行った。しかし馮医師は、こどもにありがちな熱だから大丈夫、漢方薬を飲んだら三日間で必ず治る」と両親に言った。
 両親は言われた通りに三日分の漢方薬を受け取ってすぐ家に帰り、薬をつくって弟に飲ませた。しかし、三日後に病状は酷くなり、熱も一向に下がる気配はなかった。体が曲がって痙攣が始まり、全身が赤っぽい紫色になった。その頃、父は開明街一帯で疫病発生との噂を聞いた。父は非常に恐れて、慌てて母に仏像に御経をあげるように言い、自分は外へ飛び出して、開明街の疫病の詳細を調べに行った。「あの日に連れて行かなかったら」と心の中でひどく自分のことを責めていた。開明街の疫病の話は聞くほどに恐ろしいものであり、急性伝染病と言われていた。
 11月3日の真夜中、弟は5才の短い人生を閉じた。家族全員が悲しみにひたった。父は開明街の疫病が伝染病であると知っていたので、皆に弟の死体には近付かないように言って、母一人に喪事を任せた。また、外の人には弟は飴が喉に詰まって窒息死したと言うようにと、私たちに言いきかせた。母が人に頼んで小さな棺を買ってきて早々に死体を片付けて人に頼んで草馬路の義塚地に埋葬した。
 開明街の疫病が酷くなるにつれ、私たちはそれまで以上に他人に対して気を遣い、弟の死因を隠すようになった。もしも弟の死因が伝染病だと知られたら家族全員が隔離されるのではないかと怖かった。また、隣の人々にも迷惑になるので、彼らの健康状態も心配だった。母は毎日こっそりと泣いていた。両親は50年代、80年代に亡くなったが、死ぬ前に、弟の名前を呼んでいた。
 90年代末になって、私たちは偶然に新聞から細菌戦裁判のことを知った。
 寧波の被害者が訴えるところはどこにあるだろうか。

 2.112名の死亡地点
 寧波を離れた人も含め、現在判明している112名の死亡者の死亡場所を確定した(図表1、図2)。

 3.家を焼却された隔離地区の115軒の家族の現在(1軒に複数の家族が住む場合を含む)
 (1)絶滅した家族
 もとからそこに住んでいた115軒の家の中で、11家族が全滅した。
 (2)それ以外の家族
 それ以外の104家族はすべてを失ったため、しかたなく寧波を離れた。彼らのその後の境遇はほとんど知られていない。感染していたのかどうか、現在生きているのかどうかすら分からない。新中国が成立してから、ごく一部の人は寧波に戻ったが、現在、寧波に残っているのは10家族にすぎない。

 4.原告胡賢忠の体験談
 原告胡賢忠はその中の一人である。彼のケースを通して、ペストの残酷さを垣間見ることができる。
 ペスト禍を生き残った胡賢忠(本訴訟原告)は、大変つらい思いをよみがえらせながら、自分の悲惨な子供時代を次のように述べた。
 「当時、私は九歳だった。父胡世桂は開明街70号で麻雀の牌を売っていた。隣りの家屋を復興館、滋泉豆腐店に貸し出して、店の商売は皆盛んだった。10月30日頃、隣の人々が相次いで病気になった。31日、父も頭痛に悩まされ、発熱したので、すぐ?県センター病院へ診てもらいに行くと、隔離入院させられた。
 11月1日の早朝には、開明街や中山東路、東後街でも次々と人が亡くなった。疫病が激しく蔓延し、2日に母は家族全員を連れて、義和郷陳埠頭というところへ避難した。丁度郷里についた時、姉の胡菊仙は意識不明になり、その日のうちに亡くなった。翌日、弟も同じ病気で亡くなった。当時、寧波政府は疫区から逃げ出した人を捜しており、地元の保長が防疫部門に私の家族の感染と発病を報告した。
 悲しいことに、入院していた父は6日に甲部隔離病院で亡くなっていた。8日、母も同順提荘(いわゆる甲隔離病院)へ送られて、11日には病気が重くなって亡くなった。このように、わずか十日の間に家族4人が相次いで亡くなって、私だけが残った。」(図22)

5.原告姚翠玉の体験談
 姚翠玉の体験談は以下のとおりである。
 「ペストが爆発的に流行した時、原告姚翠玉はわずか6歳で、開明街82号姚聚興竹木店に住んでいた。父と母、そして兄弟8人の家族だった。13歳の姉の姚小娥は、疫区でなくなった。
 両親は叔父の葬式に参列して帰ったばかりで、家が疫区とされたことを知っていた。近隣の人は幼い姚小娥と姚翠玉が隔離されたことを気の毒に思って、監視者がいなくなった時に二人を運びだそうとしてくれた。しかし、姚小娥は「私を置いていって」と言い、自ら疫区にとどまった。そして11月8日、甲部隔離病院で亡くなった。父は娘を失った上に姚聚興竹木店を焼き払われ、悲しみにくれて1942年に喀血してなくなった。叔父にあたる王仁林の5人家族では、叔母一人が生き残っていた。それからは、叔母とお互いに頼りあって生きていった。」

6.原告蒋杏英の体験談
 本訴訟を継続している時に亡くなった原告蒋杏英は、彼女の家の状態について以下のように述べていた。
 「父の蒋阿宝は、東大路で宝昌祥内着店を経営していた。1940年まで、一家はそこに住んでいた。一階は店、二階は工場で、三階に家族が住んでいた。商売が盛んになって、経営や生産の拡大が必要になったので、家と工場は西門城外の源源里へ引越した。店はもとのところに残していた。ペストが流行してから、父、伯母、兄の蒋信発及び内弟子14人が相次いで感染した。
 保母の毛施氏は、疫区の東大路の店で料理や掃除をしていたのでペストに感染し、西門の源源里で亡くなった。父は母を源源里から出し、西郷の茅草柴の親戚の家に避難させ、兄は嫁と一緒に義母の所へ行かされた。父だけが引き続き店の世話をしていた。父のおかげで母と私(当時はたった3歳だった)、兄と嫁、そして源源里の裁縫工たちは、幸いペストに罹らなかった。宝昌祥では、源里で亡くなった毛施氏、奉化孔峙で亡くなった蒋康華、湖西中営巷で亡くなった林小狗以外の11人が隔離病院で相次いで亡くなった。
 疫病の流行がおさまった後、母と私は西門の源源里に戻り、それからは二人で頼りあって生きて来た。」

7.疫区を離れる人々
 突然のペストによる死者の発生後、その地域の住民、また一部の感染者は、ペストから逃げるために(図3、4)ぞくぞくと本籍地へ戻り、又は他所へ避難したり、親戚や友人に助けを求めに行った。感染後に疫区から外へ逃げた人は,測桂生、汪応発、胡世貴の3世帯の他にたくさんいた。胡康宏、沈丹鳳のように、疫区の外に住んでいて、ペストに感染した人は数えきれない。
 『時事公報』によると、11月10日にペストで亡くなった人のうち、名前もない人が5人いた。その中には、中心地でなくなった乞食や流浪者は含まれていない。当時でも、死者全員の身分や氏名を断定することはできなかった。

8.?鶴齢の体験談
 東大街254号の勝利永成洋服店の主人?桂生の息子?鶴齢(図5)が、悲惨な体験を次のように語ってくれた。
 「1940年10月27日、日本軍の飛行機が寧波の空に現れた。警報が何度も鳴った。午前中の災難を回避した人々は、午後もまた禍を避けようとした。敵機は低空で旋回し、沢山のビラを撒いて、中国との親善を虚偽宣伝した。
 午後には、かき乱すように鳴っていた警報が解除され、人々は東大路開明街東北の辺りで、屋根等の所々にたくさんの穀物が散らばっているのを見つけた。
 3、4日後、東後街の隣家から、人が死んだという知らせが相次いで伝わった。大人はみな非常に不安で狼狽えて、どうしたらいいか誰も分からなかった。
 ある日、父の友人がやってきて、明日には一帯が封鎖されるので、早く逃げる準備をしろと勧めてくれた。母があわてて貴重品等を支度して、その夜家族そろって逃げた。
 私たちは薬行街後河24号(泥橋街19号)にある、先祖から残された家屋に隠れた。この家屋にはもともと伯母一家が住んでいた。伯父?厚生は四川省成都で商売をしていた。伯母は部屋を空けて、私たちを落ち着かせてくれた。これで災難を避けられたと思った私たち家族は、恐怖の中で家にとじこもり、決して外出はしなかった。
 しかし、悪魔は私たちを掴んで離さなかった。4,5日が過ぎた頃、5番目の妹良?が発熱した。病状は酷くなっていくばかりで、医者に連れて行くこともできなかった。父が極めて恐れていた様子を良く覚えている。母は8番目の妹を生んでからたった1ヶ月だった。まだ休養中の母が、涙で顔を洗っているかのように泣いていた。まもなく良?は、細菌戦の魔の手から逃げられずに亡くなった。
 隣家を騒がせないように、仕方なく、洋服箱を棺に仕立て、良?の死体を納棺した。また、中に大石を入れて、連夜人力車を呼んで来て運んで貰った。翌日、父が戻った。家族はみな悲しみで一杯で、声を出して泣くこともすらできなかった。その後、大人たちの話によると、父が良?を入れた洋服箱を埠頭に運び、船を雇って鎮海まで運んで海に沈めたそうだ。
 父が戻ってから3日目に、厄除けと安全を求めるために道士を招いて家の客間で鬼を追い払う儀式をやった。それでも、災難はまだ続いていた。儀式は夜まで続き、その時は父がもうペストに感染していて神様を拝む力もなかった。
 父は自分の病気を隣に住んでいる人に知られないよう、元気なふりをしてずっと側部屋のソファーに座っていた。二日後、父は亡くなった。母は自分の体のことに気を遣う余裕がなく、父の死後の後始末を自分でやった。隣の人や伯母の助けを借りて棺を買い、早々に父の死体を納棺した。柩をこっそりと西郷の蟹鉗千の祖先の墓へ運んで埋葬した。
 その後家族はしばらく田舎の親戚の家に滞在していた。田舎に一緒に行ったのは、母、二番目の姉、七番目の妹と私だけだった。一番上の姉はもう嫁いでいた。6歳の弟長齢は、姉が連れて行ったが、生まれたばかりの8番目の妹はもう他人の所に預けられていた。
 知らないうちに、日本軍が撒いたペスト菌に感染して母もまた突然発病した。親切な親戚のおかげで、母を寧波に送ることができた。その時は、誰の家に泊まっていたのか自分でも覚えていない。華美病院に勤めている友達が助けてくれて、母は華美病院に運ばれた。大人たちは、母の病気は必ず病院で治してくれると言った。その話は私たちの慰めになったが、入院してから3日後に、母の逝去の知らせが来た。
 母は死ぬはずではなかった。とても悲しいことだった。
 当時、私はまだ幼かったので、年配者たちが何をやっていたのかがわからず、ただ命が助かるため、悪魔から逃れるために、彼らに付いてあっちこっちへと行っていた。伯母は母の死後の始末をした。人を呼んで来て、父の時と同じように、柩は田舎まで運ばれて、祖先の墓に葬られた。」

9.周秀英の体験談
 今上海の康定路にすんでいる周秀英は、今年85歳である。周秀英は涙ながらに60年前の大惨事の様子を証言した。
 「幼い時、私は寧波湖西太陽巷63号に住んでいた。60年前、私たちは日本軍のせいでひどくつらい目にあった。弟周裕定は今生きていれば78歳になっている。本当に悲しいことだ。
 弟は14歳の時に、東門街にある店で見習いをしていた。日本軍機が毒物を落とし、先ずそこの店主がペストに罹った。その後、弟も感染し倒れた。その後弟は、紹介人に連れられて家に戻った時はもう高熱で、顔が真赤になっていた。弟は自分がペストにかかったことも理解していて、翌朝亡くなった。私たちはその後も避難を続けるしかなかった。
 私は今でも日本軍のことを憎んでいる。憎しみは骨髄にしみこんでいる。
 日本軍は爆弾を落としたのみならず、ペスト菌の様なものまで落とし、我が家の血縁を絶ってしまった。父は悲しみのあまり、翌年亡くなった。55歳の年で、私たちを離れてしまった。」

10.その他の悲惨な家族の例
 宝昌祥下着店の内弟子蒋康華は、ペストに罹って10月30日に故郷の奉化孔峙村へこっそり逃げて帰り、11月4日に家で亡くなった。母親はペストのことを何も知らなかったので、葬式後宝昌祥へ蒋康華の布団や服などの荷物を取りに戻った。防疫隊が事情を知って秘かに母親の後をつけ、孔峙村にやって来た。彼らは孔峙山の中から蒋康華の死体を掘り出し、焼却した。それから、もう一度深く埋め直した。彼の母親はこの惨たらしい情景を見て、気がふれてしまった。暫くして母親も亡くなった。


第3.寧波細菌戦の背景

 寧波は既に1937年8月16日から日本軍の空襲にあっていた。当時は、寧波の南の郊外にある?社、古林などの村が襲われた。同年10月30日、市内、鎮海及び寧海が、また11月4日には江北の岸辺も襲われた。住民が約30人死亡した。また200軒を超える家や船3隻が破壊された。この時、ちょうど??戦争(第2次上海事変)が始まった。
 1940年10月まで寧波市内(図6、7、8、9)?県、鎮海、奉化、寧海、慈渓、定海、象山、三門、余姚などはたびたび爆撃された。死んだ民衆は数百人にのぼった。壊れた家屋、商店、マーケットなどは、1万軒に近かった。
 その年の??戦争で中国軍が頑強に抵抗したので、侵略日本軍は大きい痛手を被り多くの戦死傷者を出した。これは日本軍国主義の「3ヶ月をもって中国を滅亡させる」という幻想に大打撃をあたえた。


第4.当時の新聞報道による日本軍機の襲来とペストの発生

1.日本軍機の襲来
 日本軍は、航空機を使用してこっそりペスト蚤を放った。
 まず、人々の耳目をおおうために、日本軍はビラで民衆を誘惑した。
 1940年10月28日付寧波『時事公報』2版の右下の記事(図10)には、「昨日の朝、敵機の一機が寧波に変なビラを撒いた――?県沿海には敵の軍艦が四隻あった」という見出しのもと、四つの報道があった。
 27日に寧波市上空に入った日本軍機の数及び飛行経路を次のとおり詳しく報道した。
 第1番目のニュースは、「昨日の朝6時47分、龍山で敵機一機が発見された。すぐ空襲の緊急警報をならした。敵機は侵入して上空を旋回し、当地で変なビラを撒き、慈渓、観海衛、余姚、許山、百官を経て、北西の方へ飛んでいった。7時52分当地は警報を解除した。」と報道された。
 第2番目のニュースでは、「昨日10時46分、観海衛で爆音が聞こえると直ちに、当地はすぐ空襲警報を繰り返し鳴らした。その後、敵機が慈渓の南の方へ消え去った。当地は11時10分に警報を解除した。」と報道した。
 このとき日本軍は、1937年の空襲以来、はじめて爆弾を使わずに、「変なビラ」を撒いた。「日本人民は衣食が満ち足り、余ったな食料があるので援助します。」というビラで、このような嘘をついて、民衆を誘惑して、警戒心をゆるめさせるつもりだった。
 そして、第3番目のニュースでは、午後敵機が寧波へ飛んできた経緯がはっきりと報道された。  「昨日午後2時20分、海門で南から北の方へ飛んでいく敵機一機が発見され、直ちに当地は空襲警報を鳴らした。2時27分、この飛行機が寧波を通過する時、当地はすぐに再び警報を鳴らした。この飛行機は、当地の上空を飛び、慈渓を経由して龍山へ行って、その後、海に出て、彼方へ飛び去った。2時50分当地は警報を解除した。」(図11)

2.原告の語った当時の状況
 ペストの被害に遭いながら、幸い生き残った元原告銭貴法は、本件裁判提訴後に死亡したが、生前、次のように語っていた。
 「その時、暗い空に一機の日本軍機が寧波市内の上空へ飛来し、一周旋回して、すぐ東から西の方へ飛行し、麦の粒のようなものをいっぱい撒いた。屋根の瓦もサーサーと音をたてていた。」と述べて、その日本軍機が麦の粒、小麦粉、綿などをたくさん開明街の周辺へ投下し、それらが街中に散らばっていたと、その目で見たことを赤裸々に語った。
 警報を聞くと、街中の人々は慌てて部屋を出て、爆撃を避けるためにみな気を張り詰めて爆弾が降ってくる方をうかがっていた。銭貴法の見たとおり、彼らも、敵機が灰色のもやのようなものを投下したところを見た。警報が解除された後、人々は何が何だか分からずいらだっていたところ、3日目に発病者が出た。


第5.ペストの発生への対応

1.当時のペスト対応状況
 1940年11月2日付『時事公報』2版(図12、13)に伝染病が発見されたことや、できるかぎりの予防治療と消毒措置を取るべきとの内容の記事が掲載された。
 タイトルは「市内で伝染病が発見され、衛生院は予防と治療とに力を入れる――衛生指導員による疫病流行区の清掃と消毒。」
 報道は次のとおりである。「10月30日から、?県県東鎮の開明街と唐塔鎮東後街の周辺に急性伝染病が蔓延し、3日以内に治療を受けずに死んだ者は10人以上であった。病状は頭痛、悪寒、高熱などで、すぐに意識がなくなってしまった。死ぬ直前には下痢の症状の出た者もいた。
 県東鎮の鎮長毛稼生は深刻な事態を知って、すぐ?県衛生院の院長張方慶へ電話をかけて、県東鎮に来てもらった。2人は現場で手分けして、患者を見舞ったり、診察したりした。生きている感染者が何人かいて、すでにセンター病院へ送られて詳しく診察されていた。本当にどういう病気なのか、きちんと調べれば、真相が分かるはずである。治療し易いように診察券を発行しており、感染者であれば、鎮の役所から無料でもらえる。急いでセンター病院に送って治療する、それと同時に、県政府の衛生指導室に電話して、疫区の掃除と消毒などを要請する。」

2.目撃者の語る当時の状況
 元国民党立法委員会委員の毛翼虎は、当時開明街で発生したペストの目撃者である。彼は次のように証言した。
 「1940年、日本が寧波にペスト菌を投下した歴史を私は自ら体験した。その頃、私は寧波で弁護士をしていましたが、ほかに?県政府の秘書も兼任していました。飛行機が飛んできて、空を旋回してから穀物とよごれものを撒いたのを皆と見ていました。数日後、その近くにペストが発生して、疫病は急激に広まりました。」

3.病院の対応
 当時、東大路、開明街は?県県東鎮に属しており、唐塔鎮と霊橋鎮と隣り合って、市の中心の繁華街であった。鎮長毛稼生は疫病の流行報告を受けてから、すぐ?県衛生院院長、華美病院院長など地方医学界の専門家に調査を依頼した。 
 開明街の急死事件が発生した後、患者は次々に病院へ行き、はじめは、医者がペストを悪性マラリアと診断した。当時の華美病院の院長丁立成はこう証言した。
 「私はこの疫病にかかった8歳の子供を診たことがあった。彼は始めにある病院へ行き、頭痛と悪寒を訴えたことから悪性マラリアと診断され、キニーネ2本を注射したが効かなかった。別の医者の所へ行って、又同じくキニーネ1本を注射してもらったが、効かなかった。あとで、喉回りの淋巴腺結の膨れを発見し、ペストと確認したが、死んでしまった。」
 そこから、日本軍の行ったその秘密の細菌戦が暴かれていった。

4.新聞による防疫対策
 1940年11月5日付『時事公報』は、ペスト防疫特集号であった(図14)。?県県庁が電報で配布した県庁公告第291号によると、「我が町寧波に不幸にもペストという禍が発生した。しかもこの疫病は極めて伝染しやすく、疫区の住民及び区内全域から物品を他のところへ移すようなことがあると、疫病は火のように広がるので、厳しく封鎖せざるを得ない。そのために、公告を発表する。これは県民全体が守らなければならない。親族や友人であっても、隠匿してはいけない。もし害を認識せず、あえて違反したら、隣人には県庁又は民光劇場に設置した防疫事務所に告発する権利が生じる。みなさんの命に関わる重大なことなので、油断しないように。そのことをくれぐれも申し渡す。県長兪済民」
 特集号は「巨禍」という大きな目立つ見出しで、県民を動員してペストと闘おうと呼びかけた。
 「『巨禍』!県民全体一緒にペストを撲滅しよう。寧波市内の開明街、東後街一帯にペストが発生した!ペストは一番怖い伝染病だ。感染した20人あまりが3日以内に全員死んだ。早く予防せよ。個人にとっても、社会全体にとっても巨大な脅威である。本日より、即時以下の予防措置を実施する。
@ 隔離:頭痛、発熱、リンパ腫脹、昏睡などの患者はすぐに開明街民光劇場にある臨時ペスト防疫事務所(電話番号は2300)に送って、診察して確認した後、南門の董孝子廟に送ること。感染者と接触のあった家族はすべての服を脱いで頭髪を剃り落とし、そして風呂にはいって清潔な服に着替えてから、ペスト地域から立ちのかなければならない。
A 消毒:上記症状が出たときは、2300に電話をかけて住宅の消毒を要求しなければならない。
B ねずみを補え、蚤を殲滅する:ペスト地域以外の住民は、自ら進んでねずみを補えること。ねずみがいなくなることは、即ちペストがなくなることである。だからみんなで積極的に行動しましょう!」

5.開明街でのペスト流行
 当時、開明街のペストは、発生の疑いが生じてから確認ができるまでわずか5日間だった。国民政府当局には大変な衝撃だった。
 1940年11月6日付『時事公報』第二版のトップで、永康県方岩で省府専員県長会議に出席していた?県県長兪済民が5日に寧波に戻っており、「?県長は省衛生所技師を寧波に連れて来て、ペスト消滅を指導、省防疫隊は明日到着、昨日隔離病院で11人が死亡、疫区区外9人死亡。皮膚ペスト患者を発見、治療中」と目立つタイトルで報道した(図15、16)。その後、「時事公報」は毎日疫区の疫病流行状況、疫病予防知識などについて大きく報道した。
 開明街のペスト発生(図17)は余りにも爆発的で猛烈な勢いだったが、前兆がなかった点から、自然なペスト流行とは明らかに異なっている。発生する前、大量の鼠が死んだという自然流行の特徴も発見されないし、寧波の地方歴史にもペスト流行の記録がない。
 また、10月27日、日本軍機が開明街上空から麦粒、小麦粉などを撒いた後、蚤が多量に増えたが、その蚤は色が赤く小さな目で、この地方の蚤とは違ったものであることを住民が記憶している。この赤い蚤が、実は今回のペストの媒介物だった。

6.ペストの鎮静化
 疫区から外へ逃げた者や外で発病した者がいたが、全体で言うと、厳しい防疫と隔離措置が取られたため、ペストは拡散しなかった。半月経って、疫区に住んでいた人々は隔離され治癒し、または予防注射を打たれたので(図18)、ペストはだいたい抑えられた。疫区全体が封鎖、隔離、消毒され、最終的には全部焼き払われた。
 1940年11月30日付「時事公報」の報道によると、この人為的ペスト流行は拭い払われた。その後、寧波地方には二度とペストは流行しなかった。


第6.廃墟と化した隔離地区

 細菌戦で寧波が死の街となった際、商人が続々と逃げた。
 ペストで急死者が出たことを聞いた後、東後街118号から129号までの地域及び東大路沿の店の住民と一部の感染者はペストから逃げるため、寧波を離れた。故郷に帰る者もいれば、異郷へ行って親戚に身を寄せる人もいた。その後、疫病流行地区全体は焼き払われて、寧波の中心地、繁華街だった開明街は廃虚になった。その後、廃虚地は寧波の住民から“ペスト場”と名付けられた。
 これとペスト流行以前の東大路や開明街の繁華な状況には天と地ほどの差がある。(図19、20)


第7.おわりに

 寧波は昔からわが国の有名な開港場で、ビジネス活動や対外貿易は秦漢隋唐の時代に遡る。市誌によると、20世紀30年代、街のあちこちに大小商店がずらりと並んでいたらしい(図21)。1931年、各種商店は約5600軒に達した。半数近くの成年住民がビジネス、あるいはビジネス関連業務に携わっていた。多くの寧波人が助け合って、次々に上海、天津及び武漢などの開港場へ行き、店を開いた。東南アジア、さらに世界各地で商業に携わった人も少なくない。寧波はまさに、国の内外に名を馳せる“寧波商幇”であった。
 昔の寧波の主な商業は綿布業、薬業、南北貨物、水産加工品、時計等の百貨業、食料業、木材業、塩業等である。
 1937年に日本軍機が爆撃して以来、商業をはじめ、寧波のすべての業種が衰退した。商人たちは続々と店舗を上海、武漢、重慶などに移した。更に、一部分の金融家は、日本軍の略奪を避けるために、私設金融や銀行等を上海のイギリス、フランスの租界へ移した。
 日本侵略軍が寧波等で細菌戦を実施した目的は中国の滅亡である。
 日本侵略軍は寧波等で細菌戦を実施した理由は、単に寧波から各地の港への道を遮断するため(勿論、これは一つの要素である)だけではない。もっとも重要なのは、南京、上海、杭州が陥落したのち、寧波は戦略上で重要な土地であり、また日本軍が華東地方へ進行するのに邪魔になっていたことである。
 1938年9月以降、日本軍は寧波で手強い相手に会った。陸海空で激しく攻撃されても、鎮海の防衛軍194師団と寧波防衛司令部は命がけで要塞を死守し、且つ1940年7月17日鎮海の入口で勝利した。そのことは今一度、日本軍国主義者の「3ヶ月をもって中国を滅亡させる」という幻想と野心をたたきつぶした。日本軍国主義者は『ジュネーブ議定書』を無視し、石井四郎の残酷極まりない殺傷的な細菌兵器を用いて、寧波及ぼす浙?沿線等で大屠殺を実施した。1940年から1944年に至って日本軍はその地域で、数多くのペスト菌、コレラ菌、チフス菌や炭疽菌等を散布した。寧波、金華、義烏、衢州、常徳各地で疫病が蔓延した。この人為的災難は、他の数百万の中国民衆の死傷者と、数百万世帯の没落と家族の離散をもたらした。しかも、今日に至っても日本政府がこの非人間的な細菌戦の罪を隠している。細菌戦の被害者に謝罪と賠償をしないばかりでなく、公に歴史の真相を歪曲、改竄し、反人類のファシズム暴行を美化しようとしている。私は、裁判所が人類のため、アジアと世界の平和と正義のために公正な判決を下すよう希望する。

                                 以上