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鑑定意見書

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細菌戦の被害記憶と被害者意識
――湖南省常徳地域での実地調査を踏まえて――

東京女子大学教授   聶      莉   莉



目 次

第1.はじめに
第2.被害者本人や親族の記憶にある細菌戦被害
1.悲惨な死の連続
2.恐怖と怨恨の極まり
3.命を全うしようとする文化の哀傷
4.加害者日本軍に対する記憶
第3.細菌戦被害のその後
1.再び栄えることのない地域社会
2.「顛沛流離」(困窮流浪)の衆生像
3.被害者の子どもたち
4.外傷性記憶
第4.被害記憶の保存
1.心に秘めてきた被害記憶
2.細菌戦訴訟で蘇った被害記憶
3.記憶の共有
4.継承される記憶
第5.被害地の人々の細菌戦訴訟への思い
1.失われた多大なものへの償い
2.歪められた歴史的真実への是正と被害者の尊厳の回復
3.日本・日本人に対するイメージの変化
第6.自分が加害を与えた他者への視線を欠如する日本
1.「忘却の政体」と「無罰化」
2.他者への視線の欠如と「集団無知」
3.他者への想像力の展開が「知識」の普及と不撓不屈な努力が必要
4.私の提案
第7.陳述書リスト


第1.はじめに

 常徳地域は、湖南省の北部、中国最大の湖の洞庭湖及びその周辺に広がった平原の西部にある。現在、常徳市は、武陵区と鼎城区の二区と、桃源県、臨?県、漢寿県、安郷県、?県などの五県、津市市の一市を管轄し、人口が539万人(1999年現在)、うち常徳市街区の人口が50万人ほどで、土地面積が18,200平方キロメートルである。
 1941年11月の日本軍細菌戦部隊によるペスト菌投下の後、市街区に先にペストが生じ、後に被害は急速に周辺の農村地域へ広がった。その後、数年にわたってペストが流行り、その被害はきわめて痛ましいものであった。
 1941年当時、人口6万人ほどの常徳市は、西部中国と東南中国の平原や沿海地域とつながる要衝の地であり、湖南、湖北、四川、貴州などの省を含む広大な範囲における物産流通の集積地であった。
 常徳市における経済活動の商業的・手工業的性格により、農村地域と都市部の間では物流や人の流れが盛んで、戦乱から逃れてきた避難民もこの地域にたくさん流れ込んだ。ペストもこの人・物の流れに乗って、社会生活のルートに沿って広がった。
 また一方、当時の国民政府の防疫工作の指導力が弱かったことや、「重葬」(丁寧に葬式を行う)、「保全屍」(死者の身体を完全な状態に保全し、たとえ医療や防疫による必要があっても遺体に手を加えることを拒否する)などの地元の風俗習慣が、防疫工作を妨げ、ペストの伝播に一役買った。そして、宗族という強い絆を持つ父系血縁の親族集団が住居し、地域共同体を形成するという生活空間の形態が、居住が密集した村落内におけるペストの流行を防ぎにくいものにさせた。
 ペストはこの地域において猖獗をきわめた。1996年11月に成立した、被害者や遺族を中心とする市民団体「日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会」(以下「被害調査委員会」)の緻密な調査によると、70の郷鎮、486の村落に及んだ被害地における被害死者数は、7,643人*1である。
 この数字は、重い歴史的な事実をともない、ペストの猛々しい勢いを物語っている。これは、7,643人の尊い命ばかりではなく、数千ほどの家庭が破壊され、数万人に及ぶ遺族が、親族の死によって苦しみ一層困難な生活を強いられた苦難の道程を意味し、彼ら一人一人の心に刻まれた深い傷跡を意味する。
 一方、常徳では、被害調査員会の厳しい認定方法により、細菌戦被害の陳述をしたものの、承認を得られない者も少なくない。調査委員会は、被害者認定をする際、被害者の遺族が生きており、当時の隣人や友人などの証人による証言を得られることで、初めて被害者として承認するという規則*2を設けた。
 現在、15,000通ほどの被害陳述書が調査委員会に保存されているが、上記の条件を満たしていないという理由で、すでに認定された7,643人のほか、残ったほぼ半分の被害申告がまだ未認定のままである。また、家族や親族集団全員が死んだり、遺族が他地域に移転したような被害者は、登録することさえできていない現状ですらある。したがって、現在までの調査結果の被害者数は、決して当時の被害状況を正確に反映したものだとは言えない。
 本鑑定書は主として、筆者が1998年夏に始めた、常徳地域での細菌戦争被害と戦争記憶に関する文化人類学的研究の、数年来の成果に基づき作成したものである。1998年8月以来、5回にわたり現地調査を行い、資料収集や被害地考察のほかに、主に被害者や遺族を訪問し、彼らに対する聞き取り調査*3を行ってきた。
 本鑑定書の趣旨は、次のようなものである。第一に、できるだけ被害者や遺族の視線から細菌戦被害を考え、彼らの記憶にある被害状況を描く。第二に、大規模な戦争被害は、通過する一時的なものではなく、その後、被害者や周囲の人々の人生や心理に、長い期間にわたって影響を与え続けるので、被害者の証言に基づき、被害が彼らの人生や社会生活に与えた影響をできるだけ客観的に再現する。第三に、細菌戦の発生から現在まで、長い年月が経ち、被害に関する記憶が様々な形で当事者によって保存された。その記憶保存のあり方や記憶の継承について証言をする。第四に、日本で行われている日本軍細菌戦国家賠償訴訟について、被害地の被害者や遺族をはじめとする地域の住民は多大な関心と思いを寄せてきた。この鑑定書を借りて彼らの声を伝えたい。第五に、長年日本で生活してきた私が感じた、戦争遺留の諸問題をめぐって日本政府、日本社会における問題の所在に関し、率直な意見を述べたい。


第2.被害者本人や親族の記憶にある細菌戦被害

 被害調査委員会が提供した被害者名簿によると、70の郷鎮に及ぶ被害は、
五つの被害区域に分けられると思われる。
 それは、次頁の図面(湖南省常徳地域の細菌戦被害伝播地図)で示すとおり、@常徳市街区を中心とした南東の崔家橋鎮まで広がる大きな地域、A市街区の北東約24qにある石公橋鎮を中心とした郷鎮や村々、B市街区の南にある坡頭鎮を中心とした地域、C市街区の真北約36qにある黄土店鎮を中心とした地域、D市街区から20q離れた桃源県馬?嶺郷などである。
 ペストの伝播は、次のようないくつかの類型に分けられると考えられる。
 第一に、町や鎮などの社会生活の中心から、周辺の農村へと広がる。第二に、幹線道路や水運が盛んな河川流域に沿って、下流や支流へと伝播する。第三に、人の移動と共にペスト菌が運ばれ、遠い地域でも飛び火型に伝染区域が形
成されるパターンである。

1.悲惨な死の連続
(1)郷鎮や村々の被害状況
 各区域における死亡者数が50人以上の郷鎮を整理すると、下記の通りである。

表1.郷鎮別の細菌戦被害死亡者数
@ 常徳市街区武陵区
297
  武陵区芦荻山郷
224
  武陵区徳山郷
419
  武陵区丹洲郷
129
  鼎城区石門橋鎮
541
  鼎城区許家橋鎮
136
  鼎城区謝家舗郷
259
  漢寿県聶家橋郷
233
  漢寿県毛家灘郷
493
  漢寿県崔家橋郷
101
A 鼎城区石公橋鎮
1,018
  鼎城区鎮徳橋鎮
172
  鼎城区韓公渡鎮
347
  鼎城区周家店鎮
1,683
  鼎城区双橋坪郷
151
  鼎城区長嶺崗郷
118
  鼎城区白鶴山郷
58
   
B 漢寿県坡頭鎮
224
  漢寿県鴨子港郷
125
  漢寿県酉港郷
148
  漢寿県文蔚郷
71
C 鼎城区黄土店鎮
77
     
出典:『日本軍731部隊細菌戦被害死亡者及其遺族名冊』日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会編、2002年8月。

 被害地の中でも、被害が最も大きい村を幾つか訪問し調査したが、その被害状況は、下記の通りである。

表2.村々のペスト被害状況*4
  村名 当時人口数 発生時間 死亡者数 死者の比率
@ 徳山郷楓樹崗村 650 1942.4 187* 29%
  河伏鎮合興村 56 1942.9 17* 30%
  芦荻山郷伍家坪村 600 1942.5 201* 33.5%

表3.村々のペスト被害状況*5
  村名 当時人口数 発生時 死亡者数 死者の比率
A 石公橋鎮市街区 2,000 1942.10 115* 5.7%
  周家店鎮熊家橋村 578 1942.10 152* 26%
  周家店鎮九嶺村 80(他百名ほど) 1942.10 112(住民47他65)
  周家店鎮黄公咀村   1942.10 124*  
  周家店鎮胡家庄園 400 1942.10 144* 36%
  韓公渡鎮牛陂村   1942.10 203*  
  双橋坪郷蔡家湾村 371 1942.7 370* 99.7%
 
出典:上記の死亡者数は、聞き取り調査、被害遺族の陳述書及び『日本軍731部隊細菌戦被害死亡者及其遺族名冊』等を総合的に整理したものである。詳細は、添付した陳述書1〜13号を参照のこと。但し、個人が陳述書で述べた死亡者数はここに記載した総合的な判断の結果としての数字と一致しない場合がある。また、双橋坪郷蔡家湾村の場合、蔡氏一族は一人の男性(当時21才)以外全員が死亡し、死者の名前を明記することができないので、上記「名冊」には載っていない。
 記載されたたペスト発生時間は、旧暦である。
*:参照の陳述書を添付したこと。

 被害が大きい村々では、住民の人口数に比べ死亡率がかなり高く、状況は悲惨なものだった。以下に、二つの村の事例を挙げ、その被害状況をより具体的に見てみることとする。

(2)「死神が君臨した」周家店鎮九嶺村
 死者が112名出た周家店鎮九嶺村の向道同(1923~1999)は、ペスト発生後の状況を次のように描写した。
 「ペスト発生後、人々の顔からは笑顔が消え、昔の和やかな雰囲気はすっかりなくなった。人々が憂いに沈み、死んだ息子や娘、父親や母親に涙の別れを告げる。
 乱葬崗(筆者注:正常死ではない死者の埋葬地)には、死者を埋葬した箇所に積み上げた土饅頭がぎっしりと並び、親族の遺体を埋葬地に送る人の姿は、夜明けから日暮れまで、日暮れから夜明けまで絶えることがなく、泣き叫ぶ声が野原をどよもす。親は死んだ我が子を嘆き、子は死んだ我が親を嘆き、心が千々に砕けんばかりであった。
 さらに惨めなのは、飢えて飢えて食べ物を求める赤ちゃんが、死んだ親の身体に突っ伏して泣き、垂暮老者が身も世もなく泣いているという姿だった。死神が我が故郷に君臨した。
 その後、村にはニワトリや犬の鳴き声もなく、家々は門を閉ざし、荒れ果てて見る影もなく、夜更けにはどこからともなく、啜り泣きの声が聞こえてきた。
 以上述べた事実は、一切、私が自ら見聞きしたこの地域のペストの惨状であり、血涙をのんだ心痛する史実であり、屈辱の歳月であり、苦難のいにしえである。」(陳述書8号)
 向道同はペストで兄嫁、弟、妹と幼い娘を失い、本人も感染したが、石公橋で防疫作業をしていた防疫隊にすぐ運ばれ、防疫専門家伯力士に治療を施され、難を逃れた。
 ペストの流行で、80人ほどだった向氏一族に死者が47名も出て、3つの家族が死滅した。道同の父親は1910年代から、菜種やゴマ、ワタの種から油を搾る油工場を開き、長年にわたり信頼のある経営を行い、遠い湖北省や湖南省の都長沙からも商人が来るよう、取引の範囲を拡大していた。ペスト発生時、工場に取引に来ていた商人たちも相次いで巻き込まれ、亡くなったのは名前を数えられる者だけでも9家族合計25名であった。
一方、裕福な向氏一族に頼った乞食一団があった。向氏の長老が族内の祠堂(祖先の位牌を祀る建物)や、空いていた部屋を提供し、数十人の乞食が常住していた。その乞食たちが、日頃お世話になった恩返しとして向氏一族のペスト死者埋葬を手伝った。そして、乞食たちもペストに罹り、彼らの大半が亡くなった。
また、九嶺村には中華武術を伝授する「私塾」があり、学生が数十名ほどいた。私塾の教師や生徒もペストの流行に巻き込まれ、2人の教師と少なくとも十名以上の学生が亡くなった(向道同陳述書8号と本人に対する聞き取り)。
(3)村の人口が600名から40名までに激減した、芦荻山郷伍家坪村
1940年代の伍家坪村は、朱氏一族が住居する村であった。ペストの流行で、総勢600人ほどだった朱氏に、201名の死者が出た。残った人々は難を逃れるために我先に逃げだし、災禍の後、村の人口は40名が残るのみであった。
伍家坪村の住民、朱明星(1921~)は、村人が次々と死んでいく悲惨な状況について、次のように語った。
 「死者が絶え間なく出るので、担ぎきれなかった。先に亡くなった人の棺を4人で担いだが、その後、死者がどんどん増えたので、2人で担ぎ、さらにその後、1人が天秤棒で2人の死者を運ぶようになった。
 死者を埋葬するための穴を掘る作業も間に合わなくなり、大きな穴を一つ掘り、複数の死者を同じ穴に埋めることにした。
 生きている人が死者を担ぎ出してまもなく、その人も倒れていった。そのうち生きている埋葬者が、重体となって死を待っている人に対して、『早く亡くなった方が良い。さもないと、あなたを埋葬する人さえいなくなってしまう』というように声をかけた。
 その惨めな有様は、惨たらしくて見るに忍びない。」
 朱明星の家にも死者が19人出た。
 1942年5月中旬、村に死者が出始めた頃、葬式を手伝った彼の伯父朱兆慶が感染し、伯母劉金枝にも伝染し、夫婦ともに亡くなった。
 その後、従兄弟朱廷河(12才)、伯父朱兆興(30才)、その妻羅元英(29才)、従兄弟朱廷雲(18才)、従兄弟朱廷呂(16才)、従姉妹朱月英(14才)、伯父朱兆微(15才)、伯父朱兆美(13才)、叔母朱喜枝(8才)、伯父朱兆清(29才)、伯母黄冬支(28才)、従姉妹朱秀英(9才)、従姉妹朱元英(29才)、伯父朱兆望(35才)、その妻何蘭英(34才)、従兄弟朱廷湘(14才)、従姉妹朱宝玉(14才)などが相次いでペストに感染し、亡くなった(朱明星陳述書3号と本人に対する聞き取り)。

2.恐怖と怨恨の極まり
(1)原因不明の「瘟」
 1941年11月以降、常徳の各地域で大規模なペストが発生していた当時、被害地住民のペスト発生の真相に関する情報の把握はまちまちであった。彼らの話や陳述書によると、それはおおよそ次のような類型に分けられる。
@市街区の住民、特に商人や工場主等のより安定した生活をする市民は、政府の防疫工作や宣伝によって(2)、それが日本軍による細菌戦の結果であると理解し、政府の防疫措置であった「火葬」「遺体解剖」等には抵抗を示したが、ネズミ捕りや大掃除等の防疫工作には基本的に協力的であった。
A市街区の貧困層市民、特に農村部からの出稼ぎ労働者等の肉体労働者層は、字も読めず防疫宣伝を聞く暇もなかったので、ペストの状況や防疫工作の内容などについて把握することがなかった。
B農村部において死者が大量に出た石公橋鎮や、周家店鎮九嶺村等のように防疫隊が進駐し「重疫区」として警察に封鎖された地域では、防疫専門家や警察からの説明により、ペスト発生の理由が人々に伝わった。
C村に大量の死者が出たにも関わらず、政府からも防疫隊からも干渉されず、口伝も及ばなかったので、死因が「鼠疫」(ペストを意味する中国語)であることすら知らなかった人々。
 陳述書を読んだ限りでは、AとCはかなり多かった。それは、市街区でも農村でも、貧困層が絶対多数であったという当時の社会的状況に拠るものと考えられる。またその中には、1990年代の半ばまで「瘟」の真相を知らず、細菌戦訴訟のための調査が始まってから初めて分かった人も少なくなった。
 歴史上ペストが発生したことがないこの地域では、コレラなど、死者が多く出る疫病が発生すると、慣習的にそれを「瘟」または「人瘟」と呼んだ。ペストも「人瘟」として伝わり、被害者が亡くなる際に身体が黒くなったので、「烏鴉症」と呼ばれていた。
このように、一度に大勢の死者を出す病気に対して、多くの人はその病名さえ分からず、それが引き起こされた理由も分からなかった。彼らは為すすべもなく、ただただ恐怖を感じるばかりであった。
 また、原因不明の死であった故に、様々な猜疑も生まれた。例えば、長嶺崗郷長嶺崗村に在住した、人口60~70人の顔氏一族は、死者を30人も出したので、一族に「三怨」、即ち「人瘟」の流行が三つの理由から引き起こされたとし、その三つに対して深い怨恨を持たれた。
 第一に、一族の祖先を祀る「祠堂」(祖先の位牌を祀る建物)の風水。第二に、各家の住宅の風水。第三に、祠堂のすぐそばに生えていた楠の位置。これらが悪いために病気が流行ったのだと思われ、人々に恨まれた。(顔華橋陳述書14号)。
(2)「人瘟」の対策
常徳地域における病気を退治する為の慣習的な方法には、次のようなものがあった。
@、「請馬脚・老司子・神婆」。即ち、「馬脚」「老司子」「神婆」などと呼ばれるシャーマンを招いて、病気を引き起こした悪霊や邪鬼を追い払ったり、疾病鎮圧の儀礼を行ったりすることである。
A「請願」。即ち、「俗神」(地元で信奉されている神々)を祀る廟に参り、神に加護を懇願することである。
B「蓼辣子」(タデ)「艾蒿」(ヨモギ)等の薬草を用いて、それを煎じて飲んだり焼いて煙で燻したりするように治療を施す。
C蛙や、蛇、?魚等の「涼性」に属する水中生物*6を用いて、病人の身体を冷やしながら治療を施す。
陳述書や現地調査で聞いた話によると、ペストの流行時、これらの伝統的治療法が用いられたそうである。例えば、@については、羅開明の陳述書(15号)を、Aについては、顔華橋(14号)陳国建(15号)、黄桂栄の陳述書(17号)を参照頂きたい。Bは、河伏鎮合興村李本彪、桃源県李家湾李玉仙の話に基づいている。Cについては、曾昭輝の陳述書(1号)、聞宗雲の陳述書(18号)で述べられている。
しかし、長い歴史上沈殿されてきた生活の知恵も、ペストの治療にはほとんど役立たなかった。母親がカエルやタデスープで必死に看病し、奇跡的に生き残った李本彪や、夫が氷砂糖や甘草、雄黄、石灰、椿などの漢方薬で煎じた薬で看病した李玉仙のような「幸存者」(幸いにして生き残った者)はほんの一握りで、大多数が亡くなった。また、病人との接触によって、巫師や漢方医師も多数亡くなった。
『常徳県志』には、1939年に創立された常徳私立国医専科学校長張右長が、ペストの治療に関して、伝統的な漢方医学に基づき独特な医療法を検討し開発したという記載*7がある。しかし、そのような方法は、広大な農村に住む貧しい農民にとっては縁の無いもので、彼らにはまったく伝わらなかった。
絶対的な力と抵抗できない速さを持つ「瘟」の前に、人々は絶望感を感じ、それは恐怖感をさらに増幅させた。
(3)醜く憎い死
   人々の記憶にあるペストは、極めて醜く憎い、死そのものであった。
 ペストに感染した人々の身体には、一連の変化が見られた。それについ
ての、「幸存者」や遺族の話は、次のようなものである。
最初は、強烈な頭痛を伴いながら、高熱を出したり悪寒を感じたりする。
大量に汗をかき、よだれが出る。それから、断続的に、時に激しい痙攣をし、悪臭を放つ液体状の糞便を排泄する。また、皮膚に色濃い斑点が現れて、身体の色が黒く変色し、口から血の混じった泡を吐く。発病してから死ぬまでの時間は、人によって差があるが、早い者が数時間で、遅くとも3~4日ほどである。このようにして、被害者は非常に苦痛な状態のもとで死を迎える。
   愛する家族や親族がこの悲惨な死を迎えるのを見た家族は、最後の別れが忍びなかったあまり、往々にしてしっかりと死者を抱きしめた。そのために家族も感染し、亡くなっていく。向道同陳述書(8号)や、曾暁白の陳述書(19号)にその記述をみることができる。
   ペストの死とは、死にかけている者が辛く醜いばかりではなく、死者に別れを告げる家族も、情ある人間の常として、死の鎖に巻き込まれることとなり、それは本当に憎い死である。
   また、上述したように、相次いで死亡していく死の勢い、埋葬に追いつかないほどの死者の多さ、始末をする人さえいなくなった粗末な死など、死をめぐる諸々の事態は全て、人々の心に深い屈辱感を植え付けた。
(4)「心に刻まれた恐怖」
 そのような死の渦に巻き込まれた経験を持つ「幸存者」は、数十年が経った今日でも、生と死の縁を彷徨った過去の悪夢に悩まされている。
1941年11月にペストに感染し、常徳東郊外の徐家大家という場所の隔離病院に入れられた楊志恵(当時19才)は、次のように回想した。
 「母親は、人を頼んで担架で私を隔離病院に運んだ。病院は、地面に杭を打ってその上に藁を葺いた簡易な建物で、風雨を遮る程度の粗末なものだった。病院には、200名ほどの感染者がぎっしりと藁を敷いた床に並んで、ぼろぼろの蒲団や古い服で身体を巻いていた。
隔離病院に入った最初の日は、意識がまだはっきりしており、周囲を見回した。運ばれた者には、7~8才の子どももいれば、60~70代の年寄りもいた。感染者が相次いで運ばれてきたのを見たし、高熱で痙攣する感染者を火葬炉に運び出してゆく様もみた。
夜になると、部屋に鬼火のようなカンテラの光が灯り、感染者たちのやつれる顔を映し出した。陰惨でぞっとするような不気味さであった。死神が私に迫り来た。
隔離病院に入った翌日、私が重症の体を引きずるように這い蹲って医師を探していた時、人々が群がって、悲しみ嘆いていた人もいれば、悲鳴をあげていた人もいた。門の外から竹で造った担架が幾つか担がれてきて、担架の上には黒っぽいものがあった。私のそばを担架が通過した時、その黒っぽいものが、コークスと化した形のねじれた人間の死体だと分かった。私のそばに立っていた一人の女性が悲鳴をあげて、両手で顔を押さえて泣いた。私は吐こうとしたが、強烈な頭痛に襲われて気を失った。」(陳述書20号)
 楊志恵は、「地獄のような惨状を自ら体験し、自分の目で見た」と、私に言った。

3.命を全うしようとする文化の哀傷
(1)「重葬」(丁重に葬礼を行うこと)の習慣と葬式
 多くの陳述書で人々は、葬式に参加したことで感染したと述べている。
常徳地域では、漢民族が居住していた他の地域と同じく、葬式は誕生、結婚、出産と並ぶ人生における四大儀礼の一つとされており、非常に重視されていた。丁重に死者――特に死者が父母や祖父母の場合――の葬式を挙げることは、儒教の「孝」の教えに基づいたし、仏教的な生命の輪廻観念や、土俗の霊魂信仰にも沿ったことであった。
 この地域の葬式は、「収蜃」(臨終を看取る儀式)、「下藹」(遺体を部屋から玄関へと移動する儀式)、「報喪」(親族や死者の友人へ訃報を送る儀式)、「入蜃」(棺を安置する「霊堂」を設置したり遺体を棺に入れたりする儀式)、「恂道場」(道士や和尚により行われる済度儀礼)、「家礼」(喪主が儒士を招いて孔子の像の前で祭礼を行う儀式)、「成服礼」(死者の子孫や親族が死者との親疎関係により五等に分けた喪服を着衣する儀式)、「三献礼」(親族が死者の位牌の前で行った供え物を捧げる儀式)、「賓祭礼」(弔問客が位牌の前で行った供え物を捧げる儀式)、「点主礼」(死者の位牌に朱色の点を付け加える儀式)、「陳倉礼」(煎った稲や穀物を死者の子孫に分ける儀式)、「択日」(風水師に死者を埋葬する日を選んでもらう儀式)、「出蜍」(棺を家から埋葬地まで担ぎ出す儀式)、「安葬」(棺を埋葬し墓を造る儀式)など、*8種々の儀式によって構成された。ここでは、各儀式に関する詳しい紹介は省き、本文と関連性があるものにとどめる。
実際の葬儀は家の経済力によって異なっていた。大半の儀式を一つ一つ丁寧に行う裕福な家庭もあれば、死者を棺に入れる「入蜃」や死者の霊魂を平穏無事に陰間(あの世)へ送るための「恂道場」や、棺を墓地まで運ぶ「出蜍」、棺を墓地に葬る「安葬」など、最も重要と思われる儀式しか行わない貧しい家もあった。
 しかし、葬式を丁寧に行う家でも、幾つかの肝心な儀式しか行わない家でも、葬式の時には、親戚や友人が多数参列するのが一般的であった。葬式に参列し、その手伝いをすることは、常徳の人々にとって、相互に付き合いをする上で重要な事柄であり、義理人情の現れでもあった。
 葬式では、「恂道場」の規模が一番大きい。常徳地域では、和尚よりも道士を招いて行うのが一般的であった。これも、家の経済力によって招いた道士の数が異なり、2人から4人、6人、8人など、金持ちであるほど道士は多くなる。儀式の時間も1日、3日、7日などの差があり、裕福であるほど、「恂道場」の期間は長かった。
 数日にわたって行われる「恂道場」には、また様々な儀式が含まれた。死者が男性か女性かによって儀礼は違うが、基本的には、次のような儀式で構成された。
@「打予告」天上や地下の神々や菩薩に死者の名前を告げる。
A「借天地」釈迦や如来などの仏が中国の最高神玉皇大帝に修行用の土地を借りる、神仏世界の出来事を演じる儀式。
B「啓師科」特に加護してもらいたい神仏に下界に降りてもらう儀式。
C「取経」三蔵法師が天竺へ経文を取りに行く様を演じる儀式。
D「簽約」下界に下りてもらう神仏と約束を交わす。
E「扎告」竈の神「竈王爺=司民菩薩」に葬式を行うことを知らせる。
F「啓水」水の神龍王に葬式を行うことを知らせる。
G「浄壇」魔物や妖怪を「壇」と呼ばれる甕に封じ込める儀式。
H「昇華」あの世の鬼神に死者に持たせた財宝を漏れることなく一つ一つ報告する儀式。
I「地蔵科」地蔵王に死者の到着を報告する。
J「開方破獄」地獄を通っている死者の霊を順調に通過させるための儀式。
K「招亡」逝去の者の魂を呼び戻して親族と対面する。
L「叫飯」死者の魂に食事を与える。
M「弥陀科」弥陀仏を祀る。
N「啓懺」仏教の「金剛経」「観音経」「弥陀経」などの経をあげる。
O「道懺」死者の霊に別れを告げるために、「観音経」「玉皇経」「血湖経」「十王経」「慈悲経」「金剛経」「七仏経」「弥陀経」「地蔵経」「解冤経」など十経をあげる(石門県夏家巷郷花藪村陳志良壇主に対する聞き取り調査)。
「恂道場」という儀礼には、仏教・道教・儒教・土着の信仰の習合が見られる。人々にとって、「恂道場」は重要な意味を持つ。それを通して、次のような目的を達成しようとすると考えられる。
@「解罪」即ち死者が生きている間に犯した罪を取り除く。
A死者の魂を陰間への道に案内して、順調に陰間へ旅出させる。
B家に未練があるあまり陰間に行かない魂がいて、その魂が家にいると子孫を驚かすので、道士はその魂を捕まえて肉体とともに陰間に行かせる。C陰間の閻王、菩薩を祀り、彼らの機嫌をとり、祖先の魂が陰間で楽しく生活できるような環境作りをする。祖霊の気持ちが良ければ、子孫を守ってくれる。
D自分の孝を世間に誇示する。
E不慮の災難に遭って死んだ場合、死者に憑いた悪い霊を退治して、死者の魂を慰める。
「恂道場」などの儀礼を行う際、道士たちは、経を朗唱しながら舞踊や劇も披露する。娯楽の少ない農村では、葬式には往々にして親族以外にも、見物人ややじ馬、子どもたち等がたくさん集まった。ペストとの関連から見れば、参列者が多数、見物人も大勢である葬式は、ちょうどペストに伝染ルートを提供したと言える。
(2)葬式とペストの伝播
実際、葬式に参加することで感染した者が多数あった。また、「恂道場」を行った道士と和尚や、雇われて棺を担ぐ者も多数感染し死亡した。
以下に、葬式とペスト感染との関連の事例を紹介する。

事例 葬式と親族の感染
 1939年に日本軍の爆撃で家族5人が死亡した草坪鎮葛麻山村の李秀雲が、その後、常徳市内で煙草を売る小店を経営することとなった。
 1943年3月に、李秀雲がペストに感染し、担架で担がれ実家の村に帰り、二日後に亡くなった。
李秀雲の従兄弟の李省山、李芝山、李小妹及び小妹の夫高秋山が李秀雲の看病をし、死語の葬式も手伝った。李秀雲の葬式が行われた後、李芝山や、李秀雲の夫の甥劉月橋が二、三日内に死亡した。李秀雲の葬式が行われた後、李芝山や、李の夫の甥劉月橋がまた二、三日内に死亡した。李小妹は兄李芝山の葬式に参加した後倒れて、二日後に死亡した。李小妹が死亡した後、李小妹の夫の兄高在春、高在生が義妹の葬式を手伝ったことによって死亡した。
 一方、劉月橋が死亡した後、劉氏親族から11人の死者が出た(高向東陳述書21号)。
死者が52名出た周家店鎮白鶴寺村では、最初の死者、村の床屋李必高が石公橋鎮に理髪の道具を買いに行って感染し死亡した後、彼の葬式が盛大に行われたので、それに参加した多くの村人が、ペストに感染した(貴伯群陳述書22)。

事例 「恂道場」の道士が死亡した
河伏鎮合興村のペスト死亡者17人は、全員村の最初の死者である李伯生の葬式に参列した後発病している。また、死者の中には道士も1人いた(李建華陳述書2号)。
 周家店鎮陽晉庵村に興福寺という寺があった。村にペストが発生して後、特に家族が感染し倒れた場合、人々は菩薩に加護するように、頻繁に寺に祈願に来た。そこで、寺の4人の和尚も感染し、全員死亡した(銭本儒陳述書23号)。
 李秀雲のペストによる死に巻き込まれて劉月橋も死亡したことは前述のとおりである。その劉月橋の葬式に「恂道場」に来た道士厳旺生、陽貴生、厳再芝は、劉家で亡くなった(高向東陳述書21号)。

事例 雇われて棺を担いだ8人の「挑夫」が全員死亡
常徳市東郊郷易家湾村の易徳階、易徳経、易孝慈、易孝栄、易孝堂、胡毛児及び、隣村の喩承徳、喩水児など計8人は、常徳の波止場で「挑夫」(運搬労働者)をしていたが、1942年9月のある日、城北に在住した顧北樹に雇われて、「烏鴉症」(当時ペストに対する呼び方)にかかった北樹の母親を埋葬した。8人は、徐家で食事をした後、死者を棺に入れ墓地に運んだ。その後、8人が4日の間に、全員亡くなった。そして、易孝堂の八歳の娘友芝、胡毛児の9歳の娘小妹、及び他の村に嫁いでいたが息子を連れて実家を訪ねた易梅珍も亡くなった(易孝信陳述書24号)。

事例 ムスリムの葬式とペストの伝播
ムスリムの葬儀は、漢民族以上に厳格な様式に従って行われ、「老師傳」(イスラムの教義によって礼拝や儀礼を司祭する人)が葬式の全体を司った。
 ムスリム特有の儀式である「守霊」(通夜)、「洗屍」(遺体を水で洗って清める)、「包扎」(遺体を白い布で包む)、「入棺」(教会にある公用の棺に遺体を入れる)、「喪儀」(経を読んで死者と分かれる儀式)などが行われる。
 墓地に棺を運ぶ「出葬」では、通常親戚や隣人、地域の若者が棺を担ぐが、彼らは「喪夫」と呼ばれた。イスラム教の葬式で共通の棺桶が使われたり、死者の体を触ったりする習慣があることは、ペストが伝播する原因となった。許家橋郷民族村の被害者は全部で61人だったが、村の9人の「老師傳」のうち6人が亡くなり、「喪夫」をした人も8人が亡くなった(李光府陳述書25号)。

(3)「完屍」と「入土為安」
 他の地域の漢民族と同様、常徳人も「完屍」、即ち死者の身体が必ず保全されなければならず、「入土為安」即ち土葬された死者は安楽であるという観念が非常に強かった。
 中国人の世界観の中枢は儒教であった。身体の保全は、儒教の中心的教えの一つである「孝」とつながった。「身体髪膚、受之父母、安敢毀傷」(身体、髪、皮膚などは父母が授けたもので、敢えて毀傷することができない)という訓戒は、儒教の経典『孝経』に記載されている。儒教の影響を受けた中国の人々にとって、死者の身体を解剖することは受け入れがたいことであった。
また、仏教の影響により、遺体が解剖されると、死者の身体が完全でなくなり、「陰間」(あの世)においても安らかにできないし、輪廻転生もできなくなると思われていた。それは、死者にとって大変気の毒なことであり、生きている親族にとっては、亡人を守れず失格だということとなる。
 一方、「入土為安」の観念は、中国人の世界観にある風水思想とも密接に関連している。大地の偉大なエネルギーである「気」が、そこに埋葬された祖先の骨を経由して子孫に流れ込み、子孫の繁栄や出世、財力の蓄積、一族の隆盛など様々な恩恵を与える。この世の人々の富貴栄華、没落退廃などの運命は、祖先の墓に握られていると解釈する人々にとって、逝去した祖先を土葬するのは、「天経地義」(至極当たり前の道理)であった。
 「完屍」や「入土為安」という観念や慣習があるために、政府が実施した死体解剖や火葬などの措置は強く反感を持たれ、家にペストによる死者が出ても、防疫隊や政府に報告せずにこっそりと埋葬した家がたくさんあった。

事例 医者にうその証明書を書いてもらった
常徳市内西囲能周辺に在住した李明庭(当時六歳)の祖母が1941年11月にペストに感染して亡くなった後、医者が家に来て、遺体を検査しペストだと判断した。李の父親は、医者にペストだと教えられた途端、すぐさま医者の前に跪いて、遺体を火葬しないように懇願し、「紅包」(相手に依頼する時に渡す赤い紙に包んだ金)を手渡した。それを受け取った医者は、家族の死を隣人に知らせないように埋葬しなさい、と告げた。また、遺体を城外へ運送する時に検査されることを予想し、「正常死である」という手書きの証明書も渡した。そこで家族は、夜中にこっそりと祖母の遺体を故郷の徳山郷永豊村の墓地に埋葬した(李明庭陳述書26号)。

事例 家に死者が出たことを隠蔽する
 1942年4月の某日、常徳市内に在住した張礼忠の家で、彼の弟国民(5才)と国成(3才)が亡くなった。父親は死んだ二人の弟が眠っているようにかごに入れてふとんをかけ、警報が鳴った際に、城外に逃れる人込みにまぎれて、小西門外の校場坪という場所の南側にある荒れ地にこっそりと埋葬した(張礼忠陳述書27号)。
 「死が人間にとって解答を要する問題」であり、「現在地球上に見られる人間の諸社会、あるいはすでに歴史と先史のなかに消え去った諸社会のそれぞれが、文化を通して死を一つの問題として設定し、さらにそれに解答を提示している」。*9
 中国も、地球上に見られる他の文化と同じように、自分なりに死をめぐっての文化を作り上げてきた。「陰間」や風水思想等、想像の領域における展開を通して、具体的な個々の人々が「死ぬこと」は様々なイメージにつながり、したがって、「死ぬこと」は想像の世界で普遍化され、個々人の死という出来事にまつわる不安や悲劇を乗り越えられるようになった。
 しかし、本来人間に慰めをもたらす死の文化が、細菌戦という環境のもとでは、本来の機能を果たすことがまったくできなかったばかりではなく、新たな死、大規模な死をもたらした。これは、本当に哀しむべきことである。

4.加害者日本軍に対する記憶
常徳の人々は、細菌戦被害を日本軍による被害の一部としてとらえた。
 心理学者は、人間の記憶は、繰り返し生じた出来事を総括的に記憶する傾向があると指摘*10している。度々日本軍から残虐な暴行を受けた常徳人にとって、ペスト被害は、日本軍による中国人に対する様々な犯罪行為の一つであると言える。
実際、人々は、ペスト被害を往々にして他の被害と前後して被ったので、記憶もそれらと互いに錯綜した出来事として紡がれてきた。いざその記憶の中枢に触れると、半世紀以上も前の出来事が、一つの流れ、いや、複数の渦巻きが同時にあるような濁流のように、心の底から流れてくる。
常徳地域では、1938年から日本軍の爆撃を受け始め、その後、数年にわたって地域の住民が爆弾の脅威のもとで生活しており、死傷者も多数出た。
 また、1943年11月には、日本軍が10万人ほどの兵力を動員し、常徳城に攻め入って、常徳を守備する国民党軍隊と激しい戦闘を行った。*11
11月中旬から12月上旬の間に、日本軍は常徳城を占領した。日本軍は常徳市内及び周囲の農村地域で、民家に放火する、住民を虐殺する、婦人に対する姦淫など、様々な暴挙を尽くした。多くの地区においては、ペスト流行の打撃を受けた後、また、日本軍の暴行を受けていた。

事例 李整珍の話
 河伏鎮合興村は1942年8月にペストが発生し死者が多数出た後、1943年に日本軍に占領された。父親がペストで亡くなった李整珍(当時15才)は、次のように語った。
 「家族が相次いで亡くなった後、日本鬼が村にやってきた。彼らはわが李家の建築面積のべ800平方メートルの大きな四合盤(4棟の建物で四角形を構成した建築)に放火して焼いてしまった。私たちは文字どおりに「家破人亡」(家族を亡くし家屋が破壊される)であった。
 そして、日本兵は村の娘たちに対して残虐な暴行を加えた。李開成の娘は日本兵に集団で乱暴された後、尻から銃剣を刺され高く上げられて投げ殺された。鄭家の娘は僅か15才で、非常に可愛らしい娘だったが、日本軍に捕まって、集団で姦淫された後、裸のままで池に投げられ殺された」(28号 河伏鎮合興村座談会記録)。

事例 李本福の話
 河伏鎮雷壇崗村の李本福の陳述書には、次のように書かれている。
 「日本軍は村に入った後、わが家の700平方メートルの四合盤に放火したので、先祖の財産を何もかも一瞬で失った。そして、日本軍はわが家から穀物数千斤(1斤=500グラム)、牛3頭と豚4頭を奪っていった。雷壇崗村も含めてこの辺の村々は、ほとんど日本軍に焼かれて瓦礫となった。
日本軍は、男性を捕まえると殺し、女性を捕まえると姦淫した。
 村の近くに楓樹堰という池があり、かつて日本軍が、捕まえた72名の農民をその池に入れ、誰かが頭を水面から出すと、すぐさま土のかけらで撃ちたたき、全員溺れて死んでしまうまで、殺人を楽しみごととした。
 また、項家大堰という池のそばで、日本軍は、彼らが捕まえて馬丁や運搬夫として働かせていた男性及び、姦淫の暴行を加えた女性等合わせて約150人を殺して死体を全部池に捨てた。殺された男性の半数以上が、頭部がなかったのに対して、女性はほとんど陰部から銃剣で刺されて死亡したようであった」(李本福陳述書29号)。

事例 張礼忠の話
 当時、常徳市内に居住した張礼忠は陳述書で次のように述べた。
 「1930年代、私の家族9人が4人の奉公人、徒弟と一緒に常徳市の繁華街邃安鎮大慶街(現在の高山巷口長清街)に居住した。父親は印鑑を彫刻する職人だった。腕が優れていたので、商売が繁栄し、家の家屋は200平方メートルの広さもあった。
 1938年の冬から、日本軍の飛行機は常徳市を爆撃するようになった。
 最初に爆撃を受けた日の午後、市内下南門の漢寿街あたりに十数人の被害者の死体を並べたのを、私は自らの目で見た。
 当時、「天も恐れず、地も恐れず、ただ日本軍の飛行機が大便する(爆弾を落とす)を恐れる」という童謡があった。その時、常徳は、ほとんど毎日日本軍の飛行機に爆撃されるようになっていた。
 1940年5月7日と8日に、日本軍の飛行機は燃焼弾を落とし、我が家は焼かれて瓦礫となった。その後、父親は高山巷口に木造の家屋を造った。
 1941年秋のある朝、防空警報が鳴ってすぐ、飛行機が現れた。私と父親は、近くの防空壕へ急いだが、途中一つの爆弾が筆屋に命中し、店の主人が家族とともに死んだのを見た。私の左足も被弾し、血が止まらなかった。私は大声で叫びながら、城外の方へ走った。城外四キロメートルの姻縁橋にて祖母や母親と合流した。
 午後、警報が解除された後、常徳に戻ってみると、道には不完全な死体があちこち見かけられ、電信柱にも人の手や足がくっついていた。非常に怖かった。その後、けがした足が化膿し、長期間にわたって治らず、1950年以後、やっと徐々に回復し始めた。
 1942年4月のある日、家の女中毛妹子(当時17才)が病気にかかり、高熱が出た。その後、弟5才の国民、3才の国成も病気をした。医者に診てもらうと、「ペストだ」と言われた。それを聞いた父は、徒弟王新n、羅弄山に命じて毛妹子を田舎にある彼女の実家に送らせた。毛妹子が発った夜、二人の弟が亡くなった。
 家族は悲しんだが、隣人や警察に知られないように、大声をあげて泣くこともできず、一夜をしくしく泣き明かした。翌朝、父は死んだ二人の弟を寝ているように見せてかごに入れふとんをかけ、警報が鳴った際に、城外に逃れる人込みにまぎれこんで、小西門外の校場坪という場所の南側にある荒れ地にこっそりと埋葬した。
 祖母は、死んだ孫たちのことを思い出す度に泣き、悲しみのあまり、体が痩せ衰えて、1942年の冬に亡くなった。ずっと故郷の韓公渡郷に居住し、一生農業に従事した祖父も、1943年9月に村にペストが流行した時に、感染して死亡した。
 1943年の秋、日本軍が攻めてくる前に、政府が市民に対して城内を離れ、農村地域に疎開するよう勧告した。帰るところがなかった家の女中厳媽(当時40代)が、一人で残り留守番をさせてくれと両親に懇願し、両親は承諾した。
 約1ヶ月後、日本軍が撤退し、私たちが家に戻ると、家屋は壊され、室内のものはほとんど奪われていた。そして、厳媽が庭で倒れて既に死んでおり、体も腐敗し始めていた。下半身が裸で、体に銃剣で刺された痕跡があった。日本軍の暴行によって、我が家ではまた一人が死んだ。
 ほぼ2年の間に、我が家では6人が死んで、家屋も焼かれたり壊されたりし、財産もほとんど失った。この大きな打撃を受けて、父は病の床についた。意識も失い、植物人間となった。1944年の秋に、父は死んだ(張礼忠陳述書27号)。

事例 李錫林の話
 許家橋郷民族村に住む李錫林は、家の被害状況について次のように語った。
 「1942年7月に、常徳市に牛を売りに行き、戻ってまもなくして亡くなった同じ宗族の李先密という男の葬式に祖母が参加した。その直後、祖母は高熱を出し、全身痙攣をし、首が大きく腫れ、非常に苦しんで亡くなった。
 祖母が亡くなった翌年の旧暦お正月に、叔父が壮丁として国民党軍隊に捕らえられ、入隊させられた。同年5月に、日本軍と戦い戦場で戦死した。妻を失って、また息子の訃報を受け取った祖父は、その打撃に耐えられずに精神をやられ、すっかり食欲がなくなり、毎日息子の名前を呼び続けるばかりだった」(李錫林陳述書30号)。
 戦時中日本軍の兵士だった大山三郎が書いた『日中戦争従軍記――従軍日記から』(私家版、2001年2月)では、本人が参加した南京攻略戦の経緯が記録され、日本軍が南京戦場で中国の民間人を虐殺し、中国人女性を凌辱するような、「戦時国際法にまったく無頓着」*12であったことが赤裸々に写し出されている。
 日本軍の南京での大虐殺をめぐって、その被害者の人数に関して日中の間ではまだ意見の相違が見られるものの、あの事件の存在はもはや否定することができない。実際、戦時中日本軍は、南京虐殺のような大きな事件だけではなく、中国の各地で残虐な行為をした。
 上記の1930年代後半から1940年代前半の日本軍による被害の記憶は、そうした日本軍の行動を被害者の側から証言している。


第3.細菌戦被害のその後

 前述したとおり、大規模な戦争被害は通過する一時的なものではなく、その後、被害者や周囲の人々に長い期間にわたって、彼らの人生や心理に影響を与え続けた。これからは、被害者の証言に基づき、被害が地域や被害者のその後の社会生活や人生に与えた影響を再現する。

1.再び栄えることのない地域社会
ペスト被害は、地域社会に大きな打撃を与え、前に述べたとおり、ほぼ全員が死亡した村もあれば、少人数のみが残ったものの、その後再びかつての繁栄は訪れなかった地域も多数ある。
一方、ペスト流行が日本軍の細菌戦によって起こったという真相が知られていなかったために、被害地周辺の村々や被害家族の隣人や親族等の、ペストの発生に対する様々な憶測があった。当事者が「犯?」即ち、祟りの神を犯したことや、悪霊に憑かれたことが原因だと噂されてきた。そして、そのようになったのは、彼ら自身に問題があったからだと囁かれ、被害の村や被害者家族は周囲から孤立され、付き合いが遠ざけられたことも少なくなかった。
(1)石公橋鎮の場合
 常徳地域の「十大名鎮」の筆頭にあたる石公橋鎮は、古い歴史を持つ町である。沖天湖という湖に囲まれた町は、長さ約1キロメートルの通りを中心に南北に細長く広がり、真ん中にある橋を境に「橋北街」と「橋南街」と呼ばれる二つのブロックに分けられた。通りの両側に300以上の商家が立ち並び、1940年代初期町の人口は2,000人ほどであった。
 昔から、石公橋鎮は、湖南省西部や湖北省北部にまたがる広大な地域にその名を知られた物産の集散地であり、各地から商人が訪れ色々な特産品を運んでくると同時に、常徳地域の米や、綿花、洞庭湖の水産品を運んでいった。
 また、石公橋鎮は、周辺地域の経済的中心のみではなく、社会生活や娯楽の中心でもあった。日常生活用品を扱う雑貨店や、農作業や生活の道具を造る鍛冶屋、木器屋、?器(竹製品)屋などの工場、また、茶館、居酒屋、賭場、薬屋、銭湯、劇場もあった。湖北省から漢劇団や、湖南省各地から花鼓戯団が上演に訪れ、常に二つ以上の劇団が常住した。
 そして、橋北街と橋南街の端には、それぞれ「北極宮」と「南極宮」と呼ばれる寺があり、中に釈迦や俗神の北極大帝などの神や菩薩が祀られ、石公橋鎮は地域の宗教的中心部でもあった。
 1942年10月に、石公橋鎮の町にペストが流行し、住民に115名の死者が出た。また、ペストは石公橋鎮から急速に周囲の農村地域へも広がり、数多くの村を災禍に巻き込んだ。
 周辺の村々の住民の陳述書には、ペスト感染の理由として石公橋鎮を訪れたことを挙げたものが少なくなかった。
 一方、ペスト被害者には、この町を訪れる人々や通過する人々も数多くいた。例えば、湖北省武漢市漢劇団の役者2人、湖北省北部の易市からの魚商人1人、湖南省中部の邵陽からの綿花商人1人、湖北省石首からの麻商人夫婦2人などである。
 ペストの爆発的な流行は、石公橋鎮に大きな打撃を与えた。死者が大量に出て、家族成員がほとんど死亡した商家もあった。
 例えば、町の上流商家、綿糸・米・魚屋の丁長発家では、一週間ほどの間に家族と奉公人など11人が相次いで亡くなり、残されたのは、当時、常徳市内の学校で勉強していた長男旭章のみであった。旭章は、店を閉め石公橋から去った。
 他地域に移転する商家はほかにもあった。その中に、引っ越しをする際に、船が沈没して財産を全て失ってしまった商家もあった。
 ペストの流行が落ち着いた後、生計を立てるために経営を再開する店は少なかった。取引相手や買い物客が減少し、町は寂れていった。石公橋がペスト発生の源と思われていたので、評判が落ち、人々はこの死をもたらした町に再び足を踏みこむことを躊躇した。
(2)芦荻山郷伍家坪村
 伍家坪村では、死者が201人も出たペストの流行後、村人が相次いで村から離れたので、残ったのはたった40人だった。
 その後、村の人口は増えることなく、1960年代まで40人前後のままだった。その理由は、周囲の村から、若い娘が嫁としてこの村に入ってこなかったからである。
 人口が少なく耕地が空いていたので、朱氏と姻戚関係を持ち、隣村に住んでいた彭氏や凌氏の家族が、村に少しずつ移住してきた。それでも、現在(2002年)の人口は、20戸130人のみである。

2.「顛沛流離」(困窮流浪)の衆生像
 ペストは、多くの人に死をもたらしたばかりではなく、残された家族や親族に大きな悲しみや苦しみをもたらした。
 常徳人の書いた陳述書には、「少年喪父、中年喪偶、老年喪子」(年少の頃に両親に死なれること、中年になって配偶者に死なれること、年をとってから子女に死なれること)という人生の最大の悲痛を形容する諺がよく引用されている。
 ペストの流行によって、たくさんの常徳人がこのような人生の悲劇を体験した。その苦痛に耐えられず、亡くなった家族を追うようにして死亡した人も少なくなかった。
 生き残った遺族たちにとって、ペスト被害は生活における大きな転換点であり、その後の人生が余儀なく変えさせられた。それは、それぞれ異なる彼らの人生軌道における一つの共通点だと言える。
 以下に、数人の遺族の事例を挙げ、彼らのその後の苦難に満ちた生活を紹介する。

事例 「中年喪偶」の悲しみに耐えられなかった「私塾」の講師
 周家店鎮熊家橋村の熊笏佑の妻劉月英が、常徳市内に在住する姉の葬式に参加して帰ってから倒れ、まもなく死亡した。当時「私塾」*13の講師をしていた熊笏佑は、その時、他の地で教えており、14歳の息子熊于青も父親のもとで勉強していたので、劉月英のそばには誰もいなかった。劉月英が死亡して2日が経ってから、やっと隣人に気付かれた。
 妻の訃報を受けた熊笏佑は、慌てて息子と一緒に村に戻った。妻の月英を埋葬した二日後、笏佑は、更に我が子の死を見送った。独りとなった笏佑は毎日泣き続け、約半月後に精神分裂病となり、各地を流浪し、半年後に道ばたで亡くなった。笏佑の遺体は、しばらく収拾する人すらなかったそうである(陽仁高陳述書6号)。

事例 夫と親族の死後
 常徳市から10kmほど離れた漢寿県聶家橋郷雷家涜村徐家湾集落の31歳の男徐明哲は、毎日常徳市内で天秤棒で米を担って行商していた。
 1943年10月に、明哲は常徳市から家に戻った直後に倒れ、その5日後に亡くなった。その後、明哲の甥紅鼻子(綽名)、母親劉春桃、29歳の弟明錫、11歳の息子正湘が相次いで亡くなった。
 妻や息子を失った明哲の父親は、何度も気を失い、毎日泣き続けたせいで目も見えなくなった。明哲の妻は、夫や息子を失った一連の打撃を受けて、髪の毛が全部抜けてしまい、半年ほど病床についたが、なんとか生き抜いた(徐万智陳述書31号)。

事例 「老年喪子」の生活
 熊家橋村の22歳の熊朋程がペストで亡くなって半年後、妻文三秀が「改嫁」(再婚で家を出ること)をした。朋程の当時50代後半の母親は2歳の孫を背負って、纏足した*14小さな足で村々を歩き、乞食の生活を送った(陽仁高陳述書6号)。

事例 一家の大黒柱が失われた後
 伝統的な中国社会においては、「男主外、女主内」、つまり、夫が家計をたてるために働き、妻は主として家事をする。このような社会構造において、ペストで夫・父親を失われた家族は、生活することが非常に困難となった。
 「徳玉和南貨店」は、石公橋鎮橋北街にある南部中国の特産食品を扱う店であった。店の主人王悋徳はなかなかの腕利きで、商売は繁栄していた。「徳玉和」には、8人家族の外に、経理1人と奉公人2人もいた。
 1942年10月に石公橋鎮にペストが大規模に流行した時、「徳玉和」の人々も災厄を免れなかった。悋徳と妹玉苗、従兄弟が亡くなった他、奉公人何長清も死亡した。
 悋徳の突然の死によって、「徳玉和」の経営は混乱状態に陥った。先祖から南貨店という家業を継承した悋徳は、勤勉に努め、経営規模は拡大されていた。信用は高く、またこの地域における商家間の慣習により、「徳玉和」が取引先や客との間で常に「不記帳」、つまり帳簿をつけないまま、取引や商売を行ってきた。また、友人との間で、金を貸したり、借りたりしたことも、記録に残されていなかった。
 悋徳の死後、悋徳の妻は夫の死に大きなショックを受けて、精神的に極めて不安定な状態に陥ったばかりではなく、勘定や返済を催促する人にも煩わされた。悋徳は生前、複数の人に金を貸したり、掛売ったりしていたが、彼の死後、支払いに来る人は一人もいなかったのに対して、返済を催促する人は山のように来た。
 また、当時の郷長が、悋徳の生前、彼に「光洋」(旧時の1元銀貨)400元を貸したと言って、しきりに返済を催促した。妻は、そのことをいっさい知らなかったが、仕方なく店の品物を抵当にして返済した。そして「徳玉和」は破産した。
 その後、当時の保長、熊という男も、悋徳に金を貸したと言い、現金で返済する能力がまったくなくなった「徳玉和」に、家族が住んでいる家屋を自分に売り渡すよう要求した。悋徳の母親が熊保長にしきりに懇願したにもかかわらず、結局、家屋の七つの部屋の五つを売り、それで得た現金を彼に渡した。
 金も財産もなくなった悋徳の家族は、腹いっぱい食べることさえできなくなった。毎回の食事に、食べ盛りの子供たちにとらせたのは、米がほとんど見えない野菜ばかりの粥のみであった。悋徳の妻は、食事をする度に涙をこぼして、精神がぼんやりした。毎晩彼女は「お父さんが戸をたたいている、早く戸をあけなさい」と、子供たちに言いつけた。その翌年、彼女は倒れて亡くなった。
 悋徳の妻も亡くなった後、家族の生活はさらに困難となった。悋徳の母親は、二人の幼い孫娘を連れて、庭で菜園を開き、野菜を栽培した。子供たちは毎朝早く起きて、市場へ野菜を売りに行った。冬には、祖母と孫たちは糸を紡いだ。一所懸命働いて、辛うじて生き残った(当時10才の悋徳の長女王長生に対する聞き取りによる)。

事例 父親と兄弟4人を失い、自分も一生病気を身に纏った
漢寿県聶家橋郷先鋒村出身の50代の戴道南が30歳の息子戴加寛と一緒に、常徳市内大西門あたりで雑貨の行商をした。1942年5月に、加寛はペストに感染して死亡し、遺体は臨時火葬炉に送られて火葬された。
 その後、道南も発病した。常徳市で死ぬと必ず火葬にされると考えた道南は、急いで先鋒村に戻った。道南の義弟(妹婿)厳冬生が道南の看病の手伝いに来て、戴家で倒れた。厳冬生の弟南廷と厳家の奉公人が冬生を迎えに来たが、二人とも帰ることができず、すぐさま感染して先鋒村で亡くなった。
 また、同年8月に、戴家の次男道友と妻、子ども二人もペストで亡くなった。これほどの死者が出ても、まだ戴家の災難は終わっていなかった。
 1944年4月に、常徳市で布の小売りをした戴家の三男道理がペストに感染して先鋒村に帰り、家に戻った3日目に死亡した。道理の娘もその翌日に亡くなった。そして、1944年7月に、塩の行商をした戴家の四男秋廷が常徳市内でペストに感染して、先鋒村に運ばれて帰ってからまもなく死亡した。
 その後、戴家の末息子、兄弟の中に唯一に残った道遠もペストに感染して倒れた。道南の母親は、息子と孫たちが相次いで死んで、残った最後の一人も倒れたのを見て悲しみに沈み、地面に跪いて天の神に、「天の神よ、これ以上死なせないでくれ!もう耐えられない!」と、大声でしきりに懇願した。
 道遠のために、母親はあちこちの医者を頼んだり、漢方薬を捜したりして九ヶ月が経ち、なんとか道遠は生き返った。しかし、長期間にわたる高熱と咳が原因で、肺が悪くなり、呼吸困難の症状が一生つきまとった。
 一方、戴家は、多数のペスト被害者の治療や埋葬の費用を出すために、家屋3棟、耕地20数畝を売り出して、財産をほとんど使い尽くした。その後、残された家族の生活は、極めて困難となった(戴慧福陳述書32号)。

事例 ペスト被害後の張礼忠家族の生活
 張礼忠家族が受けたペスト被害について、第2の4にて詳細に紹介したが、彼の父の死後、15歳の兄国彦が家族を養う重荷を担った。兄は小さい頃から、父に印鑑づくりを学んでいたが、まだ腕が良いとは言えず、家族を養うことはできなかった。仕方なく、母は礼忠と弟の国保を連れて、遠い親戚の叔父の漁船で奉公した。
 叔父は性格が乱暴で、人使いが荒かった。まだ10代になったばかりの彼ら兄弟2人に重い荷物を運ばせたり、逆流の時岸で船を引いたりさせ、何かするとすぐ怒って棒や拳で殴ってくる。ある日、礼忠が仕事中居眠りをしたとき、叔父にひどく殴られた。彼の頭部には今でもその時の傷跡が残っている。
 1948年に、常徳に残った兄が病気にかかり、まわりに世話をする人が一人もいなかったので、まもなく死亡した。兄は19才だった。
 兄の死後、家族3人が常徳市に戻り、礼忠は父親の徒弟に印鑑づくりを教わり、路上で小さな露店を出したが、客があまりないので、家族を養うことはできなかった。母親は、毎日かごを持って屑拾いをした。そのような生活は、新中国が成立するまで続いた(陳述書27号と本人に対する聞き取りにより)。

事例 家族扶養の重荷を一生負った何英珍
 常徳市街区にペストが撒かれた1941年11月に、市内に住んでいた何英珍の家族は、18日間のうちに6人も死者を出した。
 何家は4世代19人の大家族であった(図1参照)。最初は、英珍の兄嫁、その後、姉の夫、兄の娘、弟、二人の伯(叔)父の順に、相次いで亡くなった。
また、1943年に兄が日本軍の空襲で死亡し、父親は家族の連続死の打撃で倒れ、1949年に亡くなった。姉が嫁いだので、年老いた母親や、二人の伯(叔)母と、まだ幼い甥や姪の生活の重圧が英珍にかかってきた。
 英珍は、高校を退学し家業の漢方薬屋の経営を手伝い、また、1949年の父親の死をきっかけにして、一家の大黒柱となった。

 儒教の道徳観の影響で、中国社会には、「好女不嫁二夫」(良い婦人は一生一度しか結婚しない)という観念が民間社会にあったので、伯(叔)母二人は再婚せずに英珍の家で暮らした。そこで英珍は、自分の母親ばかりではなく、1962年の伯母と、1965年の叔母の逝去まで二人の面倒も看た。
 また、亡くなった兄夫婦の子どもたちに関しては、甥が1950年代後半に北京鉄鋼工業学校を卒業するまで、姪がほぼ同じ時期に長沙地質学校に入学するまで扶養をした。
 そのような理由で、彼女自身の婚姻にも影響が出て、1962年に28才でやっと結婚をした。これは、当時ではかなりの晩婚であった(本人に対する聞き取り)。

事例 被害者の子どもたち
 「少年喪父」、即ち、年少の頃両親に死なれるということは、スタートしたばかりの人生において父母の愛を永遠に失うという、大きな悲しみを味わうことを意味するばかりではなく、扶養者としての両親がいなくなることで、生活がまったく立たなくなるという現実そのものも、幼い子どもにとっては何よりの危機である。
 ペストの流行によって、両親をともに失った子どもも少なくなかった。孤児たちのその後の人生は苦痛に満ちたものであった。
 一方、「伝宗接代」という観念が強い中国人にとって、父系血縁を継続するのに重要な担い手としての男の子の死は、受け入れがたいことである。息子が全員死亡したら、娘があるとしても、その世帯は「絶戸」(家の血筋が断った)と見られる。一世代に男子一人のみある場合、中国語では「独苗」(一粒種)という。ペストの流行によって、息子全員が死んで「絶戸」となった家庭がある一方、兄弟に死なれて「独苗」のみ残された家庭もたくさんあった。両者とも中国人の同情の念をさそい、周囲から憐憫の目で見られた。

事例 6才で牧童になった
 熊家橋村の熊運生は、妻と子ども二人の4人家族であった。30歳の運生がペストで亡くなった後、妻は生き延びるために、4歳の次男を連れて「改嫁」、即ち他の男に嫁いだ。
 残った6才の長男は、叔父の家に身を寄せ、雑用や牛の放牧をするなどの手伝いをすることで、ご飯を食べさせてもらった。6才の牧童の生活は苦しいものだった。食事をあまり腹一杯食べられないばかりか、叔母はけちで、彼に対する態度は常に険悪だった(陽仁高陳述書6号)。

事例 幼い兄妹のみ生き残った
 徳山郷茶葉崗村の村民王吉大が、1942年8月にペストで両親と4歳の弟、2歳の妹に死なれて、当時11歳の吉大と6歳の妹、二人のみ残された。家に畑があったので、親戚の家には身を寄せなかった。
 畑は、叔父や祖父の兄弟に耕してもらい、収穫した穀物を少々譲ってもらう代わりに、吉大は叔父たちの牛放牧の世話をした。まだ2年半しか通っていなかった小学校も中退し、その後再び学校に行くことはなかった。
 父母のいない生活において、吉大は二つのことに一番困っていたと言う。一つは、まだ幼い妹が夜になると、必ず母親のことを思い出して、「お母さんに会いたい」と言って泣き止まなかったこと。もう一つは、衣服と靴を造ってくれる母親がいないので、着る服や履く靴に非常に困っていたということであった。買う金もないので、母の残したものばかりでどうにか間に合わせて、いつもぼろぼろの身なりであった(聞き取りと王吉大陳述書33号)。

事例 姉を「童養榔」に出した
 徳山郷楓樹崗村に在住する、当時8才の王懐徳の父親は、1942年4月にペストに感染して亡くなった。母親1人では9人の子どもを養うことができず、懐徳の一番上の姉を同じ徳山郷の何家坪村に「童養榔」*15として出した。
 母親は非常に悲しんで泣き続けたので、目がまったく見えなくなった。貧しい生活の中で、また、懐徳の3人の兄弟が相次いで病死した(王懐徳陳述書34号)。

事例 「独苗」同士
 石門橋鎮観音庵村に在住する高業君、李光栄夫婦は、ともにペスト被害者の遺族である。そして、二人の父親はともにペストの被害によって家の「独苗」となったのである。
 李氏家族は、常徳市東符家鷹頭(波止場)の近くに住んでいた。7人家族で、光栄の祖父友田とその兄少全、弟少厳の3人が波止場で「挑夫」(貨物を運搬する労働者)をし、彼らの妻たちは、家で刺繍の仕事をしていた。1943年10月中旬、ペストが家族を襲い、先に友田と妻劉本元が亡くなり、その後、少全と劉四賢、少厳と陳玉蘭の二組の夫婦も相次いで死亡した。
 残ったのは、当時若かった友田と本元の息子、光栄の父親一人のみであった。「出天天不応、出地地不霊」(天や地に加護するように祈ってもまったく応じてくれない)という孤立無援の状況にあった光栄の父親は、しばらくの間、怖さと悲しみに包まれたような毎日を過ごした。
 一方、観音庵村の高氏家族は、李氏家族と数世代にわたって姻戚関係をもち、業君の祖父建琅、その弟建満は、農閑期になると友田らと一緒に波止場で働き、親密に付き合っていた。李家の人たちがペストに感染した間に、高家兄弟が何度も見舞いに行き、葬式も熱心に手伝った。それで、建琅と建満もペストに感染し、11月の下旬に亡くなった。
 「独苗」となった業君と光栄の父親は、その後、それぞれ結婚し、「重振家業」(再び家業を栄えるために)のために、子どもをたくさん生まなければならないと思ったが、二人とも子どもを一人しか授からなかった。
 また、業君の家も、光栄の家も、とても貧しかった。業君も、光栄も、子どもの頃学校に行けずに、大人たちと一緒に働いた。二人とも、文字が読めない文盲で、成人となった後、父親同士の意思で結婚をした(高業君陳述書35号)。

事例 「母が苦しんで死んだ」
 1998年8月に初めて常徳調査をした時、韓公渡鎮で高超群という男性と出会った。彼は、自分の家のペスト被害を教える際、私は、彼の簡潔的でしかも韻を踏んでいる独特の言葉に気がついた。
 「それは詩ではありませんか」と、私は問いかけた。
 「そうです。私は、身をもって体験したことを詩にしました」と、彼は答えた。
 その詩をもう一度ゆっくりと教えてもらうと、次のようなものであった。

                  訳文
哭一声我的媽死得最苦、     ああ、母が苦しんで死んだ、
死了三天無人問、       死んで三日間誰も訪ねて来なかった、
親戚路場不敢進門。      親戚は門をくぐる勇気がない。
路断人稀無人走、       往来が途絶え人影もまばらで路上には
                  人っ子一人見あたらず、 
家々戸々関緊門。       家々は固く門を閉ざす。

我漁々去外三呼請不進、   父が出向き何度助けを求めても
                  誰も来ず、
家々戸々回硬信。   どの家も固く断わる。
我漁々出得没得法、      頼んでも仕方がないので、
溶把遥噛堂屋遥。       父は居間にスコップで穴を掘る。
一遥匯図好傷心、       ひと掘りごとに泣き悲しみ、
当時肢倒地下柿。       気を失って地面に崩れ落ちた。
我児大図漁々是否又感症。   父がまた病気かと息子は大声で泣いた。

我全家五口一路行、      我が家族は五人であり、
一無兄来二無弟、       一人っ子の私には兄も弟もない、
三無純々又無妹々、      姉も妹もない、
我的漁々死了我又真誰人。   父が死んだら一体誰に頼ればいいのか。
二伯々聴了没有法、      叔父さんはそれを聞いて仕方なく、
剱了両個青年把坑遥。     二人の青年を墓掘りにさそった。
先遥眼後埋人、        穴を掘ってから埋葬するつもりが、
卿阻六子就転身。       棺を投げ捨てあっという間に
逃げ去った。

六子未蓋就転身、       棺の蓋を閉めずに逃げたので、
我児没法要是不凉住、     もし私が閉めなければ、
狗藁霊。           野良犬が死体を食い魂を銜え
持っていくだろう。
把媽々的六子凉住我児就転身、 母の棺に蓋をして私はすぐ家へと
向かう、
図々問々回家門。       泣きながら家の門をくぐる。

回家之後漁未醒、       家に着いても父はまだ目を覚まさない、
連紺三声漁々不答應。     何度呼んでも答えはせず。
我児図得天肢地也柿。     私は絶望するほど泣いた。
肢々柿々涙珠獄、       朦朧としながら涙をこぼし、
柿到地下見閻君。       崩れ落ちてあの世の愛しい者へと
会いに行く。
天是我的屋、         空は私の家、
地是我的凸。         大地は私のゆりかご。
枕我的手芋子、        腕を枕代わりにし、
蓋我的設依骨。        肋骨を蒲団代りにする。

我漁々驚醒、         父ははっと目を覚ます、
我的乖々児兔、        私の良い子や、
無娘児天保佑、        母なき子に神の御加護を、
我生了児子就留下一独根。   私の息子はまさに天涯孤独。
無娘児天保佑、        母なき子に神の御加護を、
神仙扶養一養成人。      神様どうか立派な大人にして下さい。

 2001年4月の2回目の常徳調査の時に、私は高超群を再度訪ねた。彼は、その詩の作成に関していろいろと教えてくれた。
 高の母親は、1942年秋に石公橋鎮を中心にした地域にペスト被害が大規模に発生した時、亡くなったそうである。当時11才だった彼は、目の前の母親の死をぼんやりと覚えていた。母親の死後まもなく、祖父母も亡くなり、もともと5人の家族が、父親と一人っ子の彼のみとなった。父親は畑仕事をし、彼は食事の用意や家畜の世話をした。
 彼が15才の時、父親が再婚した。新しい母親を迎える前に、父親は彼にもう一度母親の死を語り、これからもずっと彼を大事に育てていくことを誓った。しかし、義母の彼に対する態度が余り良くなかったために、父親は義母と夫婦関係を断った。
 その後、父親は2回ほど再婚し、いずれも彼に対する態度が悪いという原因で、妻を離縁した。
 高は、父親の再婚、離婚、再々婚、また離婚という生活を見て、また、義母といざござを繰り返し体験してきた自分の人生において、実の母親のことが頭から離れたことはなかった。
 彼が60才になった時、息子の結婚を機に、長年心に秘めた母への思いや我が身の境遇を、麹が長く発酵し酒が醸しだされるかのように、詩の言葉で吟じた。それを息子に語り、息子が字を書けない彼の代わりに記録した(高超群に対する聞き取り)。

事例 父親の切なる懇願で生き残った生後八ヶ月の女児
 1941年11月に日本軍の飛行機がペスト菌を撒いた後、常徳市内の鶏苦巷という地域では、ペストの死者が数多く出た。
 鶏苦巷には、「程家大屋」と呼ばれた程氏家族が住んでいた一帯があった。程氏の祖先は、清王朝の官吏で、家の財産は祖先から伝わってきたものである。一帯には、程氏家族のほか、部屋を程家から借りて住む世帯もあった。
程家大屋からは、ペストの被害者が複数出た。当時、伝染の拡大を防ぐために、警察がこのあたりを封鎖し、人々の出入りを禁止した。年配の地域住民は、今でも程家から死者が運び出された場面を鮮明に覚えている。
 しかし一方、そこで一体何人が死んだか、死者が誰なのかなどについて、年月が経過している為にはっきりと分かる者が一人もいない。但し、人々が程家大屋の被害を言及する時、ほぼ確実に触れるのは、程家の嫁張桂英の死に関してである。
 程家の主人程星吾(当時44才)は、「医術抜群」と言われた評判の良い漢方医であり、長男志安(当時21才)も父親の指導のもとで漢方医の勉強と訓練をしていた。桂英(20才)は、志安の妻であり、生後八ヶ月の長女啓秀の子育ての最中、ペストに襲われた。11月下旬のある日、桂英は、家人がワンタン屋から買ってきたワンタンを食べた後、具合が悪くなり、翌日に亡くなった。
 あまりにも突然の死に、程家の家族は愕然とし、名医である星吾もなす術を知らない状態だった。訃報を受けた桂英の両親及び親族は慌てて程家に赴き、愛娘の状況を見て、悲しみのあまり、娘が程家に毒殺されたのではないかと懐疑を抱き、程家を地方長官に訴えた。また、張家は、生後八ヶ月の啓秀を桂英と「陪葬」(殉死者として一緒に葬る)するよう程家に要求した。志安は、娘を生かして自分で育てると、舅と姑の前に跪いて切に懇願し、啓秀の幼い命は危うく救われた。
 一方、地方長官は、常徳市広徳病院に委託して桂英の遺体を解剖した。ペスト菌が判明された結果、毒殺説は否定された。それでも、張家は程家に対する恨みを持ち続け、その後数十年にわたって、張家と程家が互いに話を交わしたことさえなかった。
 新中国が成立する直前、張家は一家そろって台湾へ移った。桂英の妹桂麗が再び故郷の常徳を訪問し、そして、姉桂英の娘程啓秀を訪ねたのは、姉の死後54年も経った1996年のことであった(聞き取り調査と程啓秀陳述書36号)。

4.外傷性記憶
 精神医学者の中井久夫は、外傷性記憶が10程度の特徴を持つ*16と論じた。その中の幾つかの特徴が、常徳地域の細菌戦被害者によく見られた。
 例えば、(1)静止的映像で異様に鮮明である。
 (2)不変性、反復出現性。何年、何十年経っても昨日の如く再現する。私は、現地で自ら被害を受けた方や身内に被害者が出た方の口から、「目を閉じると、死者の腫れて黒くなった身体が脳裏に浮かんでくる」というような話を聞いた。
 (3)想起は非自発的、受動的、しばしば侵入的である。類似の感覚刺激によって誘発される。
 (4)しばしば強い情動と連合している。この情動は、嫌悪、驚愕、羞恥感であることが多い。これらは行動症状としての回避と接点を持つ。細菌戦被害者が訴えたのは、過去の辛い経験に触れるたびに、思わず身体が震えたり、涙が止まらなくなったりし、また、数日間食欲がなく、眠れない日々が続くことである。また、後述する丁旭章のように、精神的に憂鬱となり、集中力が著しく落ちたという症状も、外傷性記憶の影響によるもののではないかと考えられる。
(5)情動と身体感覚との距離が近く、しばしば感覚か情動かの区別がつきにくい。身体的現象とされる不調も、実際には心的外傷の共通感覚的想起であることが多い。後述する楊志恵のように、被害を受けた後、身体が弱く、いつも身体のどこかの病気に気をとられ、不調を訴えてきたことも、彼女の心の底に秘めた恐怖の記憶と関係していると考えられる。
 以下に、丁旭章と楊志恵二人の事例を挙げ、彼らにある外傷性記憶をより具体的に分析してみる。

事例 一度に家族を失った丁旭章
 上述したとおり、石公橋鎮の町のトップレベルの商家の丁長発家では、一週間ほどの間に家族と奉公人など11人が相次いで亡くなり、残されたのは、その際常徳市内の学校で勉強していた長男旭章のみであった。
 その時、家族の死の訃報を受けた旭章は、まず、常徳市の近くにある婚約者李麗枝の家に行き、麗枝を伴って石公橋鎮へ赴いた。帰途中、麗枝が、「悲痛を抑えて、伝染されないように注意してください。私たちさえ生きていれば、丁家の「根」(血筋)が断たれることはない」と、旭章に繰り返し言い続け、心構えを持たせた。
 ペストが流行した当時、石公橋鎮へ出入りする橋は警察に封鎖され、通行人が検問され、予防注射を受けた証明書を持たないと通過することはできなかった。旭章と麗枝は、二人ともまだ予防注射を受けていなかった。しかし
警察が、旭章が丁家の長男だと聞くと、「一目見たらすぐに戻ってきて下さい」という条件付けで、彼らを通過させた。
 石公橋鎮に入ると、人と出会う度に、「あなたは丁家の唯一の生き残りだから、丁家の将来はあなたが担う。感染されないようにぜひとも気をつけて下さい。しっかりと生きて下さい」、というように声を掛けられた。
 旭章と麗枝が丁家の家屋に入ると、居間には、まだ埋葬されていない6人の家族の遺体が並んでおり、二人の奉公人も生死の際にいた。この悲惨な状況に打たれて、旭章は立ったまま呆然としており、涙もなかった。死者の埋葬を手伝った何人かの隣人は、「人は亡くなれば再び生き返ることはできない。あなたはぜひとも大事にして下さい。あなたさえいれば、丁家には将来がある。予防注射を受けていないなら、早く離れて下さい。ご家族の埋葬は、わたしたちが代わりにするから、ご安心下さい」と、旭章を慰めた。
 その後、長発の葬式が丁氏一族の祠堂丁楊家老屋で行われた。長発の葬式場は、同時に結婚式場でもあり、そこで、旭章と麗枝が結婚式を挙げた(王華璋、黄岳峰に対する聞き取り)。
 二人は、結婚後しばらく常徳市内で暮らしたが、二年後に石公橋鎮に戻り、他人と共同で小さな店を開いた。革命以後、旭章は「供銷合作社」*17という政府機関で働いた。
 二人のその後の人生は、いつもペスト被害の悪夢につきまとわれた。
 旭章の同僚黄岳峰によると、供銷合作社で働いていたときの旭章は、性格は温和的であったが、臆病で、些細なことにもすぐさま恐れおののき、人との接触を避けた。
 また、時々精神的混乱の状態に陥って、仕事の任に堪えなかった。旭章が仲の良い友人の岳峰に繰り返し言ったのは、「あなたが羨ましい。あなたには両親もいるし、兄弟もいる。僕は何もかも失った。僕は孤独です」という事であった。
 1950年代の半ば頃、精神的病気と孤独さに耐えられなかった旭章は、自ら命を絶った(黄岳峰に対する聞き取り)。

事例 楊志恵
「地獄の惨状を自ら体験した」という楊志恵は、1997年に常徳細菌戦被害調査員会が彼女に原告の一人になってほしいと申し出をした時、きっぱりと拒んだ。その拒否の理由を、私に対して次のように語った。
「理由は幾つかありました。第一に、日本の弁護士が私たち中国人被害者のために本当に誠意を持って弁護してくれるか否かについて疑いました。日本軍を恨んで、日本人に対しても不信でした。第二に、民間訴訟について中国政府の政策がどうなるかを知りませんでした。第三に、これは一番重要な理由ですが、過去のことに触れる度に、身体全体がその時の恐怖感に襲われ、震えて、数日間食欲もなく、夜も眠れない状態となります。目を閉じると、すぐさま隔離病院の地獄のような風景が目の前に浮かび、死者の顔や鬼火のような蝋燭の光が現れてきます。それは、本当に耐えられないことです。」
楊志恵の夫や息子の話によると、楊は長年細菌戦被害のことをめったに口にしなかった。結婚後、夫が彼女の身体の左鼠頚部に手術の傷跡があるのに気づき、それについて聞いた時、楊は、ペストに感染した後できた腫瘍をとるために手術をしたと説明し、過去の辛い経験を初めて夫に打ち明けた。
また、文化革命の時代に、常徳地域では異なる派閥の紅衛兵の間の武力闘争が激しかった。銃や大砲などの武器も使用され、死者が出た。病院に勤めていた楊は、負傷者を救助するために戦いの現場に行った。死者や負傷者が地面に倒れている場面に出くわした際、楊は、その「類似的感覚刺激に誘発され」、過去の細菌戦被害状況を思い出した。その夜、彼女は、息子に自分の被害体験を語った。
楊は、仕事に対する態度は真面目で、常に「年度先進工作者」*18として表彰されたが、実際の性格は一本気で融通がきかなく、特に家では些細なことでパニック状態に陥りがちだった。50代に入ってから、身体の不調を訴えることが増え、物忘れが徐々にひどくなり、ぼんやりする時間も長くなった(楊志恵、及び彼女の夫、息子に対する聞き取り)。
外見的には努力家のように見える楊志恵であるが、実際、性格的には、上述した外傷性記憶の特徴と相当符合し、それは、彼女の心の底の傷跡が癒されなかったことを物語っていると言える。


第4.被害記憶の保存

1.心に秘めてきた被害記憶
細菌戦被害は、中国では、民族圧迫に反抗して侵略者と戦うことを基調とする国家的イデオロギーのもとで、個々人、家族、地域の被害は、国家全体の戦争被害に関する統計データの中に集約されながらも、その苦難の記憶は公的記憶に組み込まれてこなかった。
革命以後、細菌戦被害に関する回想や紹介は、1950年にソ連での戦犯裁判が行われる際、中国の新聞*19に常徳の医療関係者や被害者家族による文章が掲載されたものの、その後、公の場にはほとんど登場することがなかった。
 一方、政府の「政治協商委員会」(共産党政権による共産党以外の「民主党派」を統轄するための機関)が出版した『文史資料』には、民主党派出身の医療関係者や被害者家族からの投稿が掲載されたが、共産党宣伝部門が主宰した大衆向けの出版物では、ほとんど細菌戦が触れられることはなかった。
したがって、被害者本人や遺族の記憶に残されている細菌戦被害は、必ずしも政府によって展開された抗日戦争の公的記憶に関係したものではなく、個人や家族や民衆のレベルで、私的記憶として蓄えられてきたものである。
また、その被害記憶は、しばしば個人の心の底に秘められ、配偶者や子どもにさえも教えられなかった。
上述した張礼忠や、何英珍、王懐来などは、自分の家族が受けた被害を長年配偶者に教えなかった。3人とも、細菌戦被害調査が開始され、自分もその活動に携わってから配偶者に身内の被害状況を説明したのである。
「どうして教えなかったのか」という私の質問に、張礼忠は「あの記憶は苦しすぎるので、心の底に封じ込め、蓋をした。細菌戦裁判がなければ、私はその蓋を開けようともしなかった」と答えた。
何英珍は、「可愛い弟や優しい嫂の死は、私にとって耐え難いものであった。また、家族に6人も死者が出た後、父親は見る見るうちに憔悴していってとうとう倒れ、まだ10代の私が家族を養うという重荷を背負わなければならなかった。本当に苦難の連続であった。一方、当時は家に死者が出たというので近所からも冷たい目で見られ、遠ざかられ、とてもつらかった。その辛い生活の中で、いつも前向きにものを考え、悲しいことを口にしない習慣を身につけた」と述べた。
楊志恵は夫や子どもに自分の被害経験を教えたものの、細菌戦被害のことは口にしないのが、楊志恵の家の暗黙のルールであった。

2.細菌戦訴訟で蘇った被害記憶
 常徳細菌戦調査委員会が被害調査を開始して以来、前述したとおり、15,000通以上の被害陳述書を受け取った。
 陳述書には、被害者や遺族が家庭や地域の被害状況を生々しく記述し、紙背に徹して伝わってくるのは、彼らの死んだ家族への哀憫や、突然の災難で愛する人と永遠に隔たられたことによる茫然自失の感、悲惨な死をもたらした日本軍への怨恨など、様々な情念である。
(1)感情の噴出口――詩歌
 たくさんの陳述書には、詩が入っている。それらの詩歌は、民間で伝わったものを引用したものもあれば、陳述書作成者が創作したものもある。文学的な視点で言うと、彼らの詩歌は必ずしもレベル高いものではないが、詩歌を吟じること自身は、彼らの内面に蓄積された感情の濃さを反映していると言える。
 中国では、詩歌は「語の精錬と意象の集約である」と言われている。
 「語の精錬」とは、つまり短い抒情詩で、一首の言葉は多くない。「意象」とは、書き手の考えや感情に脚色され、その人格や情趣が滲み込んでくる客観的な現象のことである。
 短い詩歌でも、含まれる「意象」が豊かであるから、詩の感情の容量が大きい*20。したがって、普通の人々でも、自分の感情と切り離せないような現象を、話し言葉や普通の言葉で表現しきれない場合、独特のかたちをもつ詩歌で、胸の奥義を表すことができる。
以下に、陳述書に書かれた詩歌や民謡を紹介し、意象に化した記憶を見てみたい。

対聯(死者を偲ぶための対句)(方恒山陳述書37号)
憶頻年歴尽蒋家辛酸、     かつて蒋介石による辛苦をなめ尽くし、
髪衣少食、常年累月当工役。  衣食に困り、年中苦しい仕事ばかりだった ことを思い出す。
悲此日深遭日冦鼠疫、     今日本軍がもたらしたペストの被害に遭い、
蘖毒殺民、喪女泣婆痛也哀。  細菌が人を殺し、家族を亡くして泣き叫ぶ 者の姿が痛ましい。

民謡(方恒山陳述書37号)   
倭寇侵華似鬼妖、       日本軍は悪魔のように中国を侵略し、
狂徒鼠疫殺人刀。       日本兵は狂ったようにペストで
中国人を殺す。
料人伝播髮家茨、       覃家榜にあふれかえったペスト患者たち、
血債不還誓不板。       血の債務は必ずや償ってもらわねばならぬ。

民謡――髮家茨(方恒山陳述書37号)
万悪罪模天、         数々の悪事は甚だ重く、
日冦凶残。          日本軍は極悪非道である。
草殫人民犯中原、       中国を侵略し人を無残に殺して、
鼠疫蔓延髮家茨、       ペストが覃家榜に蔓延し、
没絶人煙。          人気も絶えた。
華北到華南、         華北から華南まで、
惨不唇言。          その悲惨さは言い表せない。
枕骸遍野骨堆山、       死骸は野原一面に骨は山の如く積み上がり、
往々天陰聞鬼図、       至るところ曇り空に鬼の泣き声が
響いている、
血債償還。          この血の債務は必ず償ってもらう。
 
「打油詩」――髮家茨(方恒山陳述書37号)
家々関門閉戸、        家々は固く門戸を閉ざし、
個々愁眉苦眼。        人々は心痛の面持ちでいる。
老的図児泣女、        老いた者は子を思いて忍び泣き、
小的哀母想父。        幼きは父母を恋しがって泣きわめく。
痛泣声、           すすり泣く声、
慟号声、           泣き叫ぶ声、
声々入耳。          あらゆる悲しみの声が耳に入ってくる。
従天暁到黄昏、        夜明けから黄昏れまで、
箕喪送葬人群日夜不断、    野辺送りの人の列は日夜絶え間無く、
山崗上到処是黄土堆。     山の台地はどこもかしこも塚だらけ。
痛図声震撼四野、       慟哭の声が四方を揺るがせ、
死神籠孛着家郷。       死神がこの故郷に覆いかぶさっている。
人心嗣々、          人の心は不安と恐れで落ち着かず、
可憐孤児寡母、        憐れ孤児と未亡人は、
千古傷心。          とこしえに心を痛めつづける。
万事倶廃、          すべてが消えてなくなり、
家破人亡。          家をなくし家族を失う。
凄惨情景、          むごたらしい光景、
無不触目驚心。        目に触れるものみな心を痛ましめぬ
ものは無い。

「打油詩」――周家店鎮熊家橋村(楊仁高陳述書6号)
鼠疫真無情、         ペスト菌は猛威をふるい、
看了真痛心。         目の当りにして胸が張り裂けそうだ。
惨景真可殿、         悲惨な光景は本当に恐ろしく、
眼涙流湿襟。         涙が頬をつたって胸まで濡らす。
有的戸死得家破人亡一時空、  離散して空き家となった家あり、
有的戸死得妻離子散不得団圓、 妻子を失い団欒叶わぬ家あり、
有的戸死得死成孤児寡母無依無真、ある家では残された母子頼るあてもなく、
有的戸死得単身一人自身難存、 ある家では一人きりでどのように
生き延びるのか。
還有的死成絶亡戸。      一家全滅して子孫の途絶えた家までもある。
此情此景、          このような情景、
碚目驚心。          目に触れるものみな痛ましい。

民謡、当時の状況について――徳山郷楓樹崗村(曽昭輝陳述書1号)
医生請不来治病、       医者は往診に来たくないといい、
親友不敢来登門。       友人は尋ねてくる勇気がない。
路上無来往行人、       路上を行き来する人影は見えず、
隣居誰也不出門。       ご近所は誰も外出しない。
道士開路請不来、       道士を呼ぶこともできず、
一副龍顧箕音哺。       死体は多すぎて運びきれない。
今日箕阻低、         今日あなたを埋葬したら、
明日我得病、         明日は私の身が病に倒れる。
到処一片図紺声、       あちこちで泣き叫ぶ声がこだまし、
目驚墳山撹心痛。       一面の墓を目にして胸が張り裂けそうだ。

民謡、当時の状況について――石公橋鎮龍子崗村(王躍来陳述書38号)
十里埋墳千百塚、       十里に千の墓が連なり、
一家輪図両三桑。       一家で二三度葬式をだす。
狗溶屍骨備満地、       野良犬が食い散らかした人骨が散乱し、
鳥彡新屍血未干。       カラスが啄んだ死体の血が生々しい。

諺、当時洞庭湖の風景について――周家店鎮(蕭宋成陳述書39号)
夜聞屍腐臭、         夜中に屍の腐臭が漂ってくる、
目驚無人舟。         見えるのは無人となった舟ばかり。

漁鼓詞――常徳地域(祝伯海陳述書40号)
鈩瀚瀚鈩鈩起、        チャンドンドンチャンチャン、
打漁鼓聴仔細。        漁鼓を奏でるのでみなさんよく聴いて。
民国三〇年怪事出、      中華民国三〇年に奇怪な出来事が起こった、
小鬼子似狼如虎天良喪、    日本の鬼たちは狼や虎のように良心なく、
焼殺姦掠不算満、       焼討・殺人・強姦・略奪だけでは満足せず、
硬往常徳把鼠疫菌放。     常徳にペスト菌を散布した。
鈩瀚瀚鈩。          チャンドンドンチャン。

大好山河遭駿難兔、      麗しい山河が災難に遭ったんだよ、
戸戸人家図響天。       家々から人々の泣き声が天を揺るがす。
黒分成山新鬼冤、       死体は黒山となり死んだばかりの霊魂は
恨みを抱え、
鬼紺冤晴。          霊魂が無実を訴えていますよ。
鈩瀚瀚鈩。          チャンドンドンチャン。
 
忍看親輩屈黄泉、       親戚たちが黄泉へと下って行くのを
目の当りにし、
報讐雪恥記心寝。       復讐を固く心に刻みつける。
天日昭昭法難容、       お天道様はちゃんと見ていて
法律だって許しはしない、
将来定孀昂晩的把帳算!把帳算!いつか必ず日本の畜生を見つけて
片をつける!けりをつける!
鈩瀚瀚鈩!鈩!鈩!鈩……   チャンドンドンチャン!
チャン!チャン!チャン……

ペストで亡くなった母親を悼む詩――常徳市秦泰(鐘佩徳、秦新建陳述書41号)
思母遊子吟、         母を偲んでみなしごがうたう、
此曲久不聞。         この曲は久しく耳にしていない。
夢中吟一曲、         夢の中で一曲うたえば、
難誕到天明。         夜明けまで眠れない。

ペストで亡くなった祖母を悼む詩――常徳市秦泰新建(陳述書40号)
草児青々、          草は青々と、
黄土塚々。          塚は累々と。
清明時節是掃墓的時候、    清明節はお墓参りの時期なのに、
遇我的通々抜没有墳墓。    私の祖母には墓がない。
通々、            おばあちゃん、
不知低的魂帰何処!      あなたの霊魂はどこにいるの!

ペストで一族が死滅した惨状――双橋坪郷大橋村蔡氏宗族(陳述書13号)
百戸曽無一戸完、       無事だったのは百軒に一軒も無く、
荒村日落少炊煙。       荒果てた村に日が沈み炊事の煙も立たない。
新墳一排々堆得、       新しい塚が列をなして盛り上がり、
不見親友焼紙銭。       紙銭を焼いて死者を弔う友人の姿も
見られない。

(2)詩歌で訴えたこと
 被害者と遺族が詩歌で訴えたのは、命が大量に無惨に失われていく「惨」、生と死に隔てられた無念さ、人間性のない「日本鬼」の酷さなどだと思われる。
 第一に、命が大量に無惨に失われていく「惨」について。「惨」という文字は、中国語では、@痛ましい、惨めであること、A甚だしい、B残酷であるなどの意味を表す。
 「無事だった家は百軒に一軒も無く、荒果てた村に日が沈み炊事の煙も立たない」「死体は多すぎて運びきれない」「死骸は野原一面に骨は山の如く積み上がり、至るところ曇り空に鬼の泣き声が響いている」「野良犬が食い散らかした人骨が散乱し、カラスが啄んだ死体の血が生々しい」などの文句は、まさに「惨」そのものである。
 第二に、生と死に隔てられた無念さについて。中国語では、夫婦や親子などの親族の間にある親愛なる情念を表す言葉として「親情」という語がある。その「親情」が、突然な災難でしかも無惨なかたちで、愛する親族と茫々たる境により隔たられた生と死の二つの世界に分けられ、永遠の別れを告げなければならない時間のつらさを、人々は詩歌で訴えた。
例えば、「親戚たちが黄泉へと下って行くのを目の当りにし」「家族を亡くして泣き叫ぶ者の姿が痛ましい」「老いた者は子を思いて忍び泣き、幼きは父母を恋しがって泣きわめく」「母を偲んでみなしごがうたう、」「憐れ孤児と未亡人は、とこしえに心を痛めつづける」「おばあちゃん、あなたの霊魂はどこにいるの!」など、その無念の思いの表れである。
第三に、日本軍に対する怨恨について。例えば、「日本軍は悪魔のように中国を侵略し、日本兵は狂ったようにペストで中国人を殺す」「数々の悪事は甚だ重く、日本軍は極悪非道である」「日本の鬼たちは狼や虎のように良心なく、焼討・殺人・強姦・略奪だけでは満足せず、常徳にペスト菌を散布した」など、日本軍に対する痛烈な怨恨の念を伝えた。
(3)絵で被害の状況を表現する
 ここでは、自らは被害者であり遺族でありながら、細菌戦被害調査委員会の会員でもある張礼忠と黄岳峰が書いた絵を紹介する。
 二人は、絵を描く動機について次のように語った。「脳裏に残っている当時の印象が非常に鮮明で、自分が拙い絵画の技術しか持っていなくても、どうしても被害現場の雰囲気を伝えたくて筆をとり描いた」と。
@張礼忠 死んだ二人の弟を埋葬しに行く父親
 前述したとおり、張礼忠の5才と3才の弟がペストで亡くなった後、父親は火葬を避けるために、二人が寝ているように装いかごに入れ天秤棒で担ぎ、城外の荒れ地にてこっそりと埋葬した。この絵はそれを描いたものである。
 暗闇の中で、後ろを向いた父親の表情は見えないのに対して、弟二人の顔がはっきりと描かれている。張礼忠の脳裏に刻まれた弟たちの姿は、永遠にその可愛らしいままである。
A黄岳峰 石公橋鎮
 ずっと石公橋に在住し、自分もペストに感染し九死に一生を得た黄岳峰の脳裏にあった、ペスト被害を受ける前の石公橋鎮ののどかな姿が描かれている。
B黄岳峰 丁長発家のペスト被害
 石公橋鎮にペスト被害が生じた際、自分の若さと身体の丈夫さに自信があった黄岳峰が、あちこちの死者が出た家で埋葬の手伝いをした。町の一流商家の丁長発家の被害状況も目の当たりにした。
C黄岳峰 石公橋鎮北極宮あたりの被害者埋葬風景
 黄岳峰が目撃した石公橋鎮北極宮あたりの被害者埋葬風景である。
D黄岳峰 石公橋鎮南極宮あたりの被害者埋葬風景
 黄岳峰が目撃した石公橋鎮南極宮あたりの被害者埋葬風景である。
E張礼忠 陳紫山の被害者墓地
 絵に描いた「陳紫山民謡」
               訳文
離城六十陳紫山、   常徳市街区から離れたところの陳紫山、
駐扎部隊一師団。   軍隊一師団が駐屯している。
三千壮漢瘟疫死、   三千人の男がペストで死んで、
周囲百姓受牽連。   周囲の百姓が巻き添えにされた。
二畝荒地墳埋満、   2畝の荒れ地が墓地にされ、
枯井瓦窖疫屍填。   井戸も瓦の竈も死体でいっぱいとなった。
狗?鳥啄狼争奪、   野良犬や狼が屍を争って食い、
屍骨遍地臭薫天。   あたり一面、人骨の臭いが鼻をつく。
鬼哭狼?人怕走、  野鬼が泣き狼が吠える地を恐れ、
夜点天燈心胆寒。   夜も明かりを消さずに肝っ玉を太くする。
*畝は土地面積の単位であり、1畝=0,992アール。
*陳紫山あたりに、国民党軍隊第44師486団が駐屯していた。1942~44年の間にその駐屯地からペストに感染して死んだ兵士が次から次へと運び出され、周囲の荒れ地や井戸、竈に埋められた。常徳調査委員会は、陳紫山あたりの村々で聞き取り調査を行い、兵士の葬式を主祭した道士や和尚、及び周辺の古老から当時の事情を聴取した。張礼忠もその調査に参加した。

F張礼忠 陳紫山の被害者埋葬風景1
 古老たちの話に基づいた、張礼忠の脳裏に浮かんだ当時の陳紫山における被害者埋葬風景。
G黄岳峰 被害者の葬礼1
 ペストによる死者が出始めたばかりの頃、葬式はきちんと仕来りを守り、8人で棺を担いでいた。
H黄岳峰 被害者の葬礼2
 ペストによる被害が拡大するにつれ、各家で死者が出るようになった。
I黄岳峰 被害者の葬礼3
 家族と死者との忍びない別れ。
J黄岳峰 被害者の葬礼4
 死者の埋葬に追われる家族。
K黄岳峰 被害者の葬礼5
 家族全員が死亡し「絶戸」となった。
L黄岳峰 被害者の葬礼6
 ペスト被害を受けて人影が疎らとなった村。
M張礼忠 日本軍の常徳爆撃
 1938年12月から日本軍の常徳爆撃が始まり、数年に渡って続いた空襲によりたくさんの市民が亡くなり、張礼忠の家にも被害が出た。

3.記憶の共有
 2000年以後、常徳細菌戦調査委員会の活動は、調査以外の活動にも広がった。2001年、地元常徳市政府の後援を得て、彼らは、「日本軍731部隊による細菌戦と常徳地域における被害」という展示会を開き、市内の街頭や、大学や高校、中小学校などを巡回した。感想ノートには、市民や学生たちの感想がぎっしりと書き込まれた。現在、この展示は、常徳市档案館で常設展示されている。
 被害者や遺族たちが学校に招かれ、学校が主催する講演会で自らの戦争体験を若い世代に伝え、戦争の悲惨さを永遠に忘れないよう若者に語っている。
2002年に、調査委員会は、「細菌戦の罪行を認め、謝罪・賠償を行うことを日本政府に求める署名運動」を常徳地域で展開した。調査委員会の会員たちは、街頭に立ち、自らの被害体験を語りながら、市民に署名を呼びかけた。また、農村地域も訪れ、村々を走り回った。彼らは、30万人の署名を集めた。

4.継承される記憶
 1941年に起こった細菌戦から、すでに60年以上の歳月が経った。当事者としての被害者や遺族たちは年老いて、毎年亡くなっていく。
 私は1998年に一回目の調査で会った方々に、二回目、三回目に行った時に再び会いたかったが、親族から「亡くなった」と教えられたことが、何回かあった。例えば、陳述書が引用した向道同、曽昭輝等は、一回会ったがもう一度会いに行った時は既に亡くなっていた。
 但し、これらの亡くなった方々の細菌戦被害の賠償を日本政府に求めるという遺志は、息子や他の親族に継承されている。
 向道同は1999年10月25日に逝去した後、長男家振が父親の意志を継承し、原告となった。
 秦泰は1990年1月に逝去したが、妻鐘佩徳は生前秦泰がペストで死んだ母親を偲んでいる姿を見てきたので、死んだ秦泰の代わりに三男秦新建とともに陳述書を書いた。秦泰の吟じた母親を偲ぶ詩歌も陳述書に書き入れた。
 また、祝伯海のように、現在健在であるが、将来の用意として今のうちに息子を「訴訟継承人」として立てた人もいた。祝伯海は、次男を「訴訟継承人」として指名し、陳述書にもそれについて明記した。


第5.被害地の人々の細菌戦訴訟への思い

1.隠された歴史的事実を明らかにする
 東京地裁は細菌戦国家賠償訴訟に関する判決において、日本軍による細菌戦の事実そのものや、それによる人命や地域の社会生活に対する甚大な被害は認めたものの、賠償は認めなかった。また、日本政府により厳正な対応を促したが、政府に対する法的制裁は与えなかった。
東京地裁の判決及び日本政府の対応は、もう一度被害者の心を深く傷つけた。被告とされた日本政府は、地裁での訴訟の全過程において、終始沈黙を保ち続け、判決が出された後も、地裁の対応するような催促を無視してきた。このような日本政府の態度は、被害者や遺族に「在帯血的傷口上洒塩」、つまり、血が滲み出している傷跡の上に新しい傷をつけることに等しい。
彼らが望んでいるのは、日本政府が細菌戦の事実を認め、今まで隠されてきた歴史的事実を明らかにし、謝罪することである。歪められた歴史を改めないと、被害者の心に深く残る屈辱感はぬぐい去ることができない。被害者の人間としての尊厳への承認の第一歩は、歴史的過ちを認めさせることにある。

2.失われた多大なものへの償い
日本軍の細菌戦によって、常徳の人々は多大なものを失った。たくさんの尊い命が奪われ、人間としての尊厳が踏みにじられた。国家賠償訴訟に対して、被害者や遺族が要求しているのは、まさに命と尊厳への償いである。
 周家店鎮白鶴村の貴伯群は、陳述書に「百姓何辜、遭此横禍、小孩何辜、遭此劫難」、即ち、「民衆は何の罪があってこのような災難に遭わなければならないのか、子どもに何の落ち度があって災いに巻き込まれなければならないのか」、と書いた(貴伯群陳述書22号)。
私が訪問した被害地の人々が繰り返し言っているのは、「戦闘区域でもない地域に生活する民衆に対してこれほど規模の大きい、残忍な手段の殺戮は、歴史上まれなことである。被害を受けた我々は、賠償を要求する権利を持っている。但し、賠償をもらえたとしても、失った命は帰ってこない。我々が失った親族、歪められた人生、損害された健康、破壊された生活環境等々が、もう戻らない。それでも賠償を求めるのは、我々にとってそれが、罪を犯した側が罪を認める証であり、我々の犯された厳かな尊厳を認める証明となるからである」、という事である。
 被害者たちの証言の「私を被害者として承認せよ、私が、私の家族が受けた被害を事実として認めよ、という訴えには、法的認知や歴史的事実の認知を求める訴えとともに、それに還元し得ないもっとも根源的な要求――自分自身の尊厳を肯定するという要求が含まれているのである」。*21
 この点に関しては、細菌戦被害者ばかりではなく、「慰安婦」被害者や、強制連行被害者、化学戦被害者などが、一致していると言える。

3.日本・日本人に対するイメージの変化
 過去の戦争は、日中両国の民族間に大きな溝を造り出した。戦後、日本が「集団忘却」の雰囲気に浸ってきたのに対して、中国は、侵略され侮辱された歴史の記憶や、軍国主義に対する警戒心を持ってきた。日本政府の過去の戦争や戦争遺留問題に対する態度は、そのような溝を埋めるどころか、両国の国民間の相互不信や、隔たりをさらに拡大した。
 一方、細菌戦や、他の戦争賠償に関する訴訟に携わる日本の弁護士や、学者、市民団体の、日本軍による戦争犯罪の歴史的事実を再構成するための惜しみない努力が、被害地の人々の日本に対するイメージを大きく変えさせた。
 中国では、戦争被害者や遺族だけではなく、一般人も長い間日本軍を「日本鬼子」と呼んできたが、日本兵しか見たことのない被害地の人々にとって、日本人のイメージはまさに虐殺の「鬼」だった。
 細菌戦国家賠償裁判で、誠意を持って日本軍による被害を調べに来る日本人が初めて現れた時、各被害地では大きな反響が起こった。最初は、懐疑、不信、誤解もあり、情報提供を拒否する被害者もいたが、接するうちに、しだいに過去の日本人に対する固定観念から離れ、相手を一人の人間として見るようになり、協力関係が結ばれた。
 歴史的事実を尊重してはじめて、民族を超えた人間同士の連帯を創り出すことが可能となる。


第6.自分が危害を加えた他者への視線が欠如している日本

 現日本政府の過去の戦争遺留問題に対する態度は、広く言えば、日本社会の病理と関連する。ここでは、日本人や海外の学者の日本社会病理分析の議論を引用しながら、戦争遺留の諸問題をめぐって日本政府、日本社会における問題の所在に率直な意見を述べたい。

1.「忘却の政体」と「無罰化」
 アメリカに在住する日系人文化人類学者ヨネヤマ・リサ氏は、戦後の日本における戦争記憶について、次のように書いた。
 「自国民の受けた戦争被害と広島・長崎の原爆投下だけを記憶し、他のアジア諸国や太平洋地域にたいして行った数々の非道の歴史を思い出せない日本人、という表現は、今では海外のメディアにおいてさえもすっかり使い古された言い回しとなってしまった。日本帝国の植民地支配や、日本臣民の名のもとに行われた残虐行為を、国史の一部としてあえてひろく語ろうとしなかった戦争終結後の長い年月を支配してきたのは、まさに『忘却の政体』であったといえる。もっとも、この『忘却の政体』はけっして過去のものとなったわけではない。これまで隠されてきた歴史事実が発掘され、国家が過去に行ったさまざまな行為を『過ち』として認知することを余儀なくされたあともなお、この忘却を正当化する論理は社会の各所に伏在しつづけている。むしろ、つぎつぎと明らかにされる帝国日本の加害行為の凄惨さを目前にして、いっそう防衛的でナショナル的な動きを生んでいるように見える。」*22
また、精神医学者の野田正彰氏は、戦後日本人の精神構造について、次のように分析している。
 戦後、過去の戦争体験に対する日本人の「反応は、『無罰化』である。戦争の加担者もひっくるめて無罰化し、勝っても負けても戦争は悲惨なものだからと捉え、平和を唱える動きがあった。」「戦後の日本の反戦平和運動は、基本的に被害者意識の上に組み立てられた。」「それでもなお、南京の虐殺を語り、満州(中国東北部)や南方での虐殺を告げ、憲兵や特務としての罪を告白し、あるいは敗走のなかで家族や同胞を置き去りにした罪を記した人はいる。しかし、彼らの声は戦後の無罰化の圧力に押し流されてしまった。」*23
 戦後日本のこうした「忘却の政体」や「無罰化」の形成には、さまざまな理由が考えられるが、私は、歴史学者笠原十九司氏の意見*24に賛成する。笠原十九司氏は、南京大虐殺の記憶に関して、次のように論じた。
 日本では、「歴史学研究の成果が国民の記憶として共有されないという深刻な問題がある。」「その大きな阻害要因は日本の社会の中に、南京大虐殺の記憶を抹殺しようという強固な政治勢力があって、それが右翼と結びついて暴力的な脅威を行うことが放任されているところにある。そうした民主主義社会に敵対する言論報道抑圧の勢力が日本の一部保守政治家と結びついて活発な活動をしているため」、言論、報道の中に「南京大虐殺否定の構造」が存在するのである。

2.他者への視線の欠如と「集団無知」
 戦時中、日本の小説家石川達三は、南京攻略戦に参加した部隊に入り、兵士と同行しながら密着取材をし、将兵が戦場でいかに「生きている」かを描いた。小説『生きてゐる兵隊』は、「戦場のあるがままを描く」、日本兵の暴虐さ、「具体的には中国人非戦闘員の殺害、同捕虜の惨殺、『徴発』と称する略奪、強姦、そして放火」を描き、また、「兵士たちをそのような蛮行に駆りたてる戦場の残酷さを描き出した」。この小説が「安寧秩序ヲ紊」という罪で起訴された時、彼は、執筆した動機が戦場の真実を国民に伝えることであり、それが自分の「国家社会に対する良心」であると反論した。戦後石川は、「私が知りたいのは嘘も隠蔽も無い、不道徳と残酷と凶暴さと恐怖とに満ちた戦争の裸の姿である」と、回想した。
 戦後、日本社会において、『生きてゐる兵隊』をめぐって様々な議論があった。私がより注目したのは、次のような、侵略される側の人々をまったく無視したという作者の立場に対する批判である。
 「石川達三の『良心』は日本国家に対する『良心』であり、国境を越えるものではなかった。」「この小説に登場する人物の唯一人、自分たちの戦っている当の相手である支那軍、支那民衆について考えたり疑ったり感動したり追求したりすることがない。」「各将兵の行為がその本人にとってどのような意味をもつかは考えても、その行為が相手(中国民衆)にとってどのような意味をもつかを考えるところがなかった。」「侵略戦争の実態は眼の前にころがっていたはずであるが、石川達三は日本軍隊は侵略戦争をなしているという本質をつかむことをどこまでも回避している。」「侵略を見る眼がなければ侵略される側を見ることもできない。」*25
 南京虐殺については、三島由紀夫も「牡丹」というタイトルの短編小説を書いている。「牡丹」には、「南京事件における強姦殺害魔として知られる日本軍将校の中国人女性に対する性犯罪、加害行為が描かれているが」、「三島にも、中国人女性に対する残虐行為、性犯罪行為であったという意識はほとんど希薄で、むしろ『悪の楽しみ』として肯定的に描いている」*26。
 上記二人の作家の侵略戦争を見る目は、日本人の過去の戦争に対する見方を映し出していると言える。自民族中心主義的に戦争を捉え、虐殺される側の人々へ視線を向けずに、相手に人間としての配慮さえ見せなかった。彼らのそのような視線に対して、上に引用したとおり、日本社会、特に学界や知識人から批判の声が上げられたが、残念なことに、自ら「侵略される側」の立場に立って真剣に取り組んだ人文社会科学的研究成果や、文学作品が未だ非常に少なく、しかも、その成果が国民に広く伝わっていないのが現状である。
 侵略者として他者に与えた苦痛を、その他者の立場に立って理解しようとする姿勢が欠如した結果、日本人の間では、侵略戦争の戦場での日本軍の所業や、それによってもたらされた悲惨な結果などの、加害者としての非道の歴史に対する知識が少なく、驚くべき無知の状態である。過去の戦争に関するかぎり、日本人は自分を自己自身のみの世界に閉じこめている。

3.他者への想像力の展開には「知識」の普及と不撓不屈の努力が必要
 ユダヤ人であり、アメリカ・ロスアンゼルスにあるユダヤ人権センター、サイモン・ヴィーゼンタールセンターの副館長であるエブライム・クーバーは、被害を受けた側が声を上げて、自分たちの受けた被害についての「知識」を広げていく必要があると述べた。
 「ホロコーストの生還者であり、『ナチハンター』としても有名なサイモン・ヴィーゼンタール氏は、『記憶の守り手』と呼ばれてきました。第二次世界大戦が終わって何年もの間、世界はナチスの絶滅収容所の恐ろしさを思い出そうとしませんでした。しかし、サイモン・ヴィーゼンタール氏は、ナチスの犯した犯罪と正面から向かい合うことこそが、ドイツ国民とユダヤ人の和解のために何より重要である、と主張してきたのです。彼は、過去に起きた人道に対する犯罪への沈黙と無関心が、やがて将来、同様の犯罪に繋がっていくことを恐れたのです。」
サイモン・ヴィーゼンタールのようなユダヤ人の努力があったからこそ、被
害の記憶が守られ、被害者の体験に基づいた生々しい被害実態の「知識」が世に知られ、それが、ドイツにおけるユダヤ人虐殺や戦争に対する反省につながった。*27
エブライム・クーバーが強調したとおり、過去のホロコーストや細菌戦などの戦争犯罪に対する反省や、加害民族と被害民族の和解に必要なのは、まず、「知識」、即ち「過去の事実」そのものである。
「過去の事実」に関する「知識」の形成は、当事者としての被害者を抜きには考えられない。被害者の体験や視点を取り入れて歴史を考えなければならない。その意味で、多くの当事者に回想をしていただいた今度の細菌戦国家賠償訴訟は、「過去の事実」を再構成することに大いに意味を持つことであった。
 また、被害者が声を上げることと同様に重要なのは、その声に真剣に耳を傾けることである。
 細菌戦の歴史を研究する学者や、細菌戦国家賠償訴訟のための事実調べの弁護士や市民団体の方々は、被害者の声をずっと聞いてきた。彼らの姿勢の根底には、人間の尊厳、屈辱的にこの世を去った被害者一人一人の命の尊厳を肯定する意志が見られた。また、被害者の心身に刻まれた精神的歴史的傷痕を見つめる勇気と配慮があった。そして、既成の秩序に安易に同調しない冷静的理性的判断があった。このような姿勢がなければ、細菌戦の事実が取り上げられることはなかった。戦争犯罪の歴史に直面する際は、このような姿勢が必要となるのではないかと、私は思う。
 さらに、笠原十九司氏が指摘されたとおり、日本社会では戦争犯罪の事実「抹殺する政治的構造」が存在する。過去の戦争の負の遺産を未来へと繋げ生かすために、その構造的問題を克服する必要がある。これに関して、日本の裁判官に大いに期待し、法学的見地からの公正な判断は、日本社会の「忘却の政体」の問題の克服に寄与できると考えている。

4.私の提案
 細菌戦の戦争被害と戦争記憶を研究してきた一学者として、裁判官に対して次のことを提案する。
 原告からの補償要求を受け入れることのほかに、第一に、日本政府は、細菌戦の戦争犯罪の事実を認め、被害者の方々に対して謝罪をすること。第二に、被害者の人間としての尊厳を認め、彼らの冥福のために日本政府が出資し、日中共同で被害地において被害者の方々の名前を刻む慰霊碑を建造すること。第三に、生物兵器の罪悪さを世に公示し、人類が永遠に生物兵器の使用を放棄するよう警鐘を鳴らすために、日本政府が出資し、日中共同で被害地において細菌戦記念館を建造すること。


第7.陳述書リスト:

1. 徳山郷楓樹崗村曾昭輝(2部)
2. 河伏鎮合興村李建華
3. 芦荻山郷伍家坪村朱明星
4. 芦荻山郷伍家坪村朱方正
5. 石公橋鎮市街区黄岳峰
6. 周家店鎮熊家橋村陽仁高
7. 周家店鎮九嶺村向家振
8. 周家店鎮九嶺村向道同
9. 周家店鎮黄公咀村熊善初(2部)
10. 周家店鎮胡家庄園陳続武
11. 韓公渡鎮牛?陂村高明順
12. 鼎城区蒿子港鎮丁徳望
13. 双橋坪郷蔡家湾村蔡文龍
14. 長嶺崗郷長嶺崗村顔華橋
15. 徳山郷楓樹崗村羅開明陳述書
16. 周家店瓦屋当村陳国建
17. 草坪鎮興皖黄桂栄
18. 常徳市街区聞宗雲
19. 周家店鎮柳渓湾村曾暁白
20. 常徳市街区楊志恵
21. 草坪鎮先鋒村高向東
22. 周家店鎮白鶴寺村貴伯群
23. 周家店鎮陽陂庵村銭本儒
24. 東郊郷易家湾村易孝信
25. 許家橋郷民族村李光府
26. 常徳市街区李明庭
27. 常徳市街区張礼忠
28. 河伏鎮合興村座談会記録
29. 河伏鎮雷壇崗村李本福
30. 許家橋郷民族村李錫林
31. 聶家橋郷雷家坡村徐万智
32. 聶家橋郷先鋒村戴慧福
33. 徳山郷茶葉崗村王吉大
34. 徳山郷楓樹崗村王懐徳
35. 石門橋鎮観音庵村高業君
36. 常徳市街区鶏苦巷程啓秀
37. 周家店鎮熊家橋村方恒山
38. 石公橋鎮龍子崗村王躍来
39. 周士郷(周家店鎮)郷公所(役場)蕭宋成
40. 常徳市朝陽路祝伯海
41. 常徳市鐘佩徳、秦新建

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