[細菌戦真相] 義烏

被害の発生

被害の状況

金さんの意見陳述

王麗君さんの意見陳述



[義烏] 被害の発生

 浙江省義烏市市街地の細菌戦被害の死亡者は、一九四一年九月から一九四二年二月の間に、少なくとも二一五名にのぼるが、そのうち、原告(または傍線を付した原告の被相続人)の三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号7ないし68の六二名である。


 死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

  原告との続柄

10

11

12

13

14

 

 

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

 

金 爾 祥

金 祖 元

金 小 元

嗣 光 妻

呉 圻 牛

呉 章 珠

陳 竹 英

呉 才 英

 

 

金 宝 釵

楼 蘭 英

何 秀 順

王 惠 香

楼 斉 禄

樓 良 池

孟 樟 林

孟 四 妹

楼 筱 芳

金 華 喜

 

 

44歳

12歳

8歳

80歳

12歳

4歳

62歳

41歳

 

 

8歳

76歳

51歳

25歳

1歳

15歳

58歳

14歳

3歳

46歳

41年1116日

41年1124日

41年12月5日

41年10月5日

41年1028日

41年1031日

41年1119日

41年1121日

 

 

41年1129日

41年1218日

41年12月7日

41年12月5日

41年12月6日

41年1224日

41年10月

41年11月5日

41年1024日

41年1029日

原告金祖昌の父

原告金祖昌の弟

原告金祖昌の弟

原告呉圻林の祖母

原告呉圻林の兄

原告呉圻林の妹

原告金祖惠の祖母

原告金祖池の祖母

原告金祖惠の母

原告金祖池の母

原告金祖惠の妹

原告金祖池の妹

原告王惠光の祖母

原告王惠光の母

原告王惠光の姉

原告王惠光の甥

原告樓啓才の亡父の弟

原告孟賢富の父

原告孟賢富の妹

原告楼秋星の妹

原告金仁均の父

25

26

27

28

29

30

31

32

33

34

金 銀 香

金 華 海

朱 荷 鳳

朱 桂 鳳

朱 炳 堂

張 兪 氏

何 菊 鳳

楼 紹 通

楼 斉 ・

姚 小 田

10歳

42歳

44歳

51歳

49歳

60歳

30歳

35歳

5歳

39歳

41年1028日

41年1030日

41年11月3日

41年11月6日

41年11月7日

41年1231日

41年1017日

41年12月3日

41年12月4日

41年1126日

原告金仁均の妹

原告金仁均の叔父

原告楼賽君の母

原告楼賽君の伯母

原告楼賽君の伯父

原告張曙の祖母

原告葉樟基の母

原告葉小基の母

原告何関南の姉

原告楼斉龍の父

原告楼斉龍の弟

原告姚選宝の父

35

36

37

38

39

40

41

42

43

44

45

・ 七 妹

姚 根 生

姚 菊 如

姚 樟 田

姚 選 東

楼 金 栄

黄 順 英

楼 良 春

楼 忠 四

陳 応 奎

陳 知 松

35歳

14歳

5歳

47歳

27歳

50歳

50歳

7歳

48歳

56歳

25歳

41年1121日

41年1130日

41年1124日

41年12月1日

41年1130日

41年1125日

41年1128日

41年1130日

41年1130日

41年12月4日

41年12月3日

原告姚選宝の母

原告姚選宝の兄

原告姚選宝の姉

原告姚選宝の伯父

原告姚選宝の叔父

原告楼賽男の父

原告楼賽男の母

原告楼賽男の弟

原告楼賽男の叔父

原告陳知法の父

原告陳知法の兄

46

47

48

49

50

51

52

53

54

55

56

57

譚 茂 南

陳 章 漢

朱 良 蘭

陳 朱 氏

陳 文 賚

王 者 春

傅 宝 蘭

楼 忠 後

李 球 英

楼 雲 蘭

楼 春 香

楼 園 球

43歳

31歳

24歳

52歳

59歳

9歳

30歳

31歳

34歳

14歳

8歳

34歳

41年11月8日

41年12月4日

41年12月4日

41年12月6日

41年12月4日

41年12月7日

41年1128日

41年12月5日

41年12月1日

41年12月5日

41年12月6日

41年12月8日

原告楼肇松の母

原告陳学能の亡父の父

原告陳学能の亡父の母

原告陳学能の亡父の祖母

原告陳良福の叔父

原告張桂娥の長女

原告楼愛妹の母

原告楼良琴の父

原告楼良琴の母

原告楼良琴の姉

原告楼良琴の姉

原告楼良琴の伯母

死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

  原告との続柄

58

59

60

61

62

63

64

65

66

67

68

馬 嘉 英

黄 肖 梅

呉 福 官

楼 三 妹

楼 章 松

王 鳳 蘭

劉 娥

張 錦 寿

傳 宝 琴

呉 大 妹

施 秋蓮

61歳

50歳

49歳

12歳

51歳

42歳

7歳

53歳

41歳

26歳

51歳

41年1130日

41年1128日

41年12月7日

41年1211日

41年12月4日

41年1128日

41年12月2日

41年1128日

41年12月2日

41年1128日

41年1130日

原告楼春娥の祖母

原告楼春娥の母

原告楼仁錦の母

原告楼仁錦の妹

原告楼良田の父

原告劉華栄の母

原告劉華栄の妹

原告張彩和の父

原告張彩和の母

原告樓仁耀の母

原告楼仁栄の母



また、義烏で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。

ペスト流行地区の多くの死者・患者の家族や住民たちは、住居や生業を捨てて逃亡し、あるいは同地区の封鎖後はここに閉じ込められて感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。


[義烏] 被害の状況 −細菌戦による義烏のペスト被害


 1、一九四一年九月に始まる義烏市(当時義烏県、以下旧称を用いる)のペスト流行は、その前年に日本軍が衢州に投下したペスト菌の伝播によるものである。これ以前に、義烏でペストが発生した歴史事実はない。

最初の発病者は、義烏県稠城鎮(県城)北門街に住む〓冠明(男、三六歳)であった。同人は、浙〓線の義烏駅に勤める鉄道員であったが、四一年九月二日、おりからペストが流行していた衢州で感染し、九月五日、列車で自宅へ戻り、九月六日死亡した(次頁の地図参照)。

 2、四一年一〇月九日、義烏県衛生院は、県城北門第十三保で急病による死者及び死者と同様の症状の患者が六人発生したこと、また病人の家や近隣で死んだネズミ数十匹が発見されたことを、県政府に報告した。これらの死者・患者の病状や死んだネズミの発見から、ペストである疑いが濃厚となった。

これを受けて県政府は、同日、現地稠城鎮の各機関と協議して防疫委員会を設置し、一〇月一一日に義烏県防疫委員会緊急会議を開催した。そこでは委員会の構成を決定し、予防注射の要員配置、隔離病院の設立、浙江省衛生処への要員派遣の要請、さらに宣伝の展開などが決議された。

一三日以降、義烏県衛生院の他に、軍政部防疫部隊、衛生署医療防疫隊、赤十字医療隊が稠城鎮に入り防疫活動に従事することになった。この中で一〇月半ば、軍政部防疫部隊が、細菌検査を行い、伝染病がペストであることを実証した。

一一月上旬、義烏県防疫委員会医務班も「真性肺ペスト」の発生を確認した。ついで翌四二年一月、患者・死者の血液や肝臓・脾臓に対する検査が行われたが、その検査結果もペスト「陽性」を示した。

 3、しかし、義烏の防疫活動は、資金不足から患者発生地区の封鎖が遅れ、しかも部分的な封鎖しかできなかったこと、同じ時期により軍事的な要地である衢県にペストが流行し、そちらに防疫部隊がより多く投入されたこと、さらに赤十字医療中隊の隊長劉宗讌がペストに感染して一二月三〇日に死亡したこと、などの諸事情から、困難をきわめた。このような状況のため、ペストは、県城北門一帯から、県前街、東門一帯などほぼ県城内全域に広がり、さらに小三里塘、嶺下、楊村など県城周辺にまで波及した。翌一九四二年の二月までの流行の被害は、少なくとも死者二一五名にのぼる。

前記第一章の被害者番号7金爾祥から68の施秋蓮は、このペスト流行で死亡したものである。


[衢州] 金さんの法廷陳述

1、私は、浙江省義鳥市稠城鎮の北門に住んでいる金祖池です。1921年9月生まれで、現在76歳です。私は、義鳥市の細菌戦被害者家族を代表して、貴裁判所に対し、意見を述べたいと思います。

 義烏市は、浙江省の中央に位置し、北は諸寰sと、東は東陽市と、西は金華市と、それぞれ接しています。義烏は、浙ガン鉄道が通っている交通の要地であり、そのため昔から農産物の集散地として発達し、各地との交流も盛んでした。一番の特産品はハムです。また蛍石鉱が近くにあることでも有名です。産業と商業の街として歴史のある地域です。

 この豊かで平和な土地を、日本軍はペスト菌によって蹂躙したのです。

2、1940年の10月、日本軍731部隊は、当時の衢県の市街地に、飛行機から穀物などと一緒にペストに感染したノミをばらまきました。このため衢県では同年11月以降ペストが流行しました。義鳥市のペスト被害は、衢県で流行したペストが、翌41年9月以降伝播してもたらされたものです。

 最初に1941年9月初め、当時の義烏県の北門に住んでいた鉄道員の冠明が仕事で衢県に行き、そこでペストに感染して義烏にもどり、翌日に死亡しました。冠明は隣県の諸宸フ出身者でした。

 その後しばらくして、義烏の稠城鎮北門でペスト患者が発生し相次いで死亡しました。また病人の家やその近隣で、死んだ鼠が大量に発見されました。義烏県衛生院は、病人の病状や死んだ鼠の発見から、疫病がペストであると判定しました。

 県政府は、ただちに緊急措置をとり、防疫委員会を設立、医療班を組織し、隔離所を設置、防疫チームを作りました。

3、1941年当時、私の家は北門にありました。家族は、祖母、父、母、兄、2人の弟、3人の妹、そして私の計10人でした。ペスト流行地域は、疫区として封鎖されましたが、私の家も封鎖区内にありました。

 人々は皆、死の恐怖を感じていました。防疫係員は、私達に外出を禁止しました。病人を発見すると、通知を出し、その後は病人の家族も全員を強制的に隔離所に入れ、監禁状態にしました。そして隔離所に入ると、生きて帰れる望みはありませんでした。

 ですから、祖母陳竹英がペストに感染した時、誰も声に出して言うことができず、こっそり医者を頼みましたが、医者も恐れてきてくれません。祖母は、高熱にうなされ、脇の下や鼠径部のリンパが腫れ、顔じゅう真っ赤になって、水が欲しいと叫びました。祖母は、水を飲んでも飲んでも、やはり「水!水!」と叫び続けました。祖母は、ずっと寝床の上で寝返りを打ち続け、また髪の毛を掻きむしり、胸をたたき、そういう状態をくり返したすえ、死にました。祖母はまだ62歳でした。

 祖母が亡くなってすぐ、母呉才英もペストに罹りました。母は発病した頃41歳でした。やはり高熱が出て、リンパ腺が腫れました。母は、死ぬ間際に子供たちに向かってしきりに叫びました、「逃げなさい!逃げなさい!」と。

 私達が悲しみながらも涙を抑え、慌ただしく母親を埋葬しているとき、今度は、三女の8才の妹金宝釵もペストに罹り、危篤状態になりました。その妹は、母と同じベッドで寝ていたためペストに感染したのです。妹は、高熱の苦しみに耐えられなくなり、自分の服を破って転げまわるという悲惨な状態でした。妹は、死ぬ間際、ひとしきり痙攣し甲高い叫び声をあげました。妹は、まだ幼かったこともあり、一番かわいそうでした。

4、私の祖母、母、妹と身内が一人また一人と亡くなるにつれて、残された家族の心は、ずたずたに切り裂かれていきました。しかし、私達にはただ黙って涙を流すことしかできませんでした。

 埋葬も苦労しました。力の強い人を雇って棺を用意し、深夜人々が寝静まった頃になって、やっと肌を刺す寒風の中を、こっそり防疫係員の目を逃れながら郊外に行き、そそくさと身内の死体を埋めました。そして空が明るくならないうちに、人に知られないように家に帰りました。

 疲れ切った体を引きずりながら、涙がとめどなく流れ落ちて、その大きな悲しみは、本当に形容し難いものがありました。

 ペストが流行してから二女と四男は、母の実家に避難しました。母の死後、さらに長女と三男も、また母の実家に避難していきました。

 そのうちに私達家族の中にペストに感染したものがいることが防疫機関の知るところとなりました。防疫係員は、感染していない父親まで隔離所に連れて行きました。でも父は、監視員が気を緩めている隙にぬけ出して、母の実家に逃げました。しかし村に入るのを恐れ野原に隠れていました。そして叔母にこっそり食べるものを持って来させては、何とか生き長らえていました。

 私の兄金祖恵もペストにかかりました。兄は、胡椒の粉を混ぜて作ったきついお酒を酔いつぶれるまで飲み、生のニンニクをたべました。幸いなことに、兄は、体が丈夫だったので徐々に回復し、生き残ることができました。

5、義烏のペストが蔓延する速度は非常に速く、すぐに北門から東門、さらに県前街まで広がりました。さらに小三里塘、嶺下、楊村など、県の役所所在地の周辺地域にまで波及していきましたが、1942年2月になってようやく、徐々におさまってきました。

 資料によると、1941年9月から1942年2月までの間、義烏県城地域でペストに感染し死亡した者は、少なくとも215人いました。細菌戦が義烏の住民に与えた災難は、まさにこの世のものとも思われないほど悲惨なものでした。

 この日本軍の細菌戦は、県城の北門、東門を中心とした義烏の人々に、1941年秋以降の6ヶ月余りの間に、いやというほどの災難を与えました。一家全員が死に絶えた家や子供と妻だけ残して他の家族が全員死んでしまった家もありました。

 このような言葉に表せないほど悲惨な被害をもたらした細菌戦を呪わないでいられる人がいるでしょうか?

6、この事件があってからすでに56年が経ちました。今日やっと歴史は、私達に貴裁判所に被害の実状を陳述する機会を与えてくれました。中国の古い諺に「前事不忘、後事之師」というものがあります。それは、「過去のことを忘れないで、将来の戒めとする」というものです。この法廷で審理されている細菌戦は、まさに日中両国人民、ひいては全世界人民が、永久にこの残酷な歴史の事実を心に刻み込まなければならないものです。それによって、人類の尊厳を守り、世界平和を守る事業に奮起できるのです。そのための前提条件として日本政府は日本軍が中国を侵略していた間、中国で行った細菌戦という全世界周知のこの事実を、正視しなければなりません。細菌戦の事実を正視してはじめて、現在の日本政府は、世界人民の前に、公正な姿を打ち立てることができるのです。そして、そうしてこそ、中国人民ひいては世界人民の懸念、すなわち、日本が再び軍国主義の路を歩き出すのではないかという懸念を取り除くことができるのです。

 私達は、正しく歴史に対処することが、世界平和と正義を守る事業の最低限の前提であると考えます。私たちは、日本政府が一刻も早く事実を事実として認めて、二度と再び悲劇を繰り返して欲しくないのです。

7、私は、今年すでに76歳となり、高血圧を患っておりますが、この細菌戦の歴史の事実を明らかにするため、高齢で体が弱いのも顧みず、はるばる海を越え、日本の貴裁判所まで訴えにやってきました。これも一重に細菌戦を経験し、これを後世にまで真実として伝えていく者の使命感に基くものです。私達は、祖先を弔う祭りの時期には、亡くなった身内にこの裁判の報告をし、安心させてやることができることを願っております。

 最後に、敬愛する裁判官諸氏が、一刻も早く、日本政府の細菌戦に関する全面的な責任を認められるよう心から訴えます。

 以上をもって、義烏の細菌戦被害者を代表した私の意見陳述を終わります。


1998年5月25日


中華人民共和国浙江省義烏市稠城鎮

   金祖 池


[衢州] 王麗君さんの法廷陳述

1、私は、1932年に、中国浙江省江湾郷崇山村に生まれました。現在は、崇山村の近くの江湾鎮に住んでいます。崇山村は、浙江省義烏市の郊外にあ農村です。崇山村は、六百有余年の歴史がある村で、環境は美しく、村人は働き者で、みんな楽しく働き幸せに暮らしてきました。

2、1942年、私が10歳のころ、鬼のような日本軍がばらまいたペストの病原菌が原因で、崇山村で突然ペストが大流行しました。病人はみな、高熱を発し、頭痛がひどく、喉が渇き、リンパ節が大きく腫れるという共通した病状を呈していました。発病して1日か2日、長い場合でも5、6日で死亡しました。毎日死者が埋葬されるのを目にし、この人が死に、あの人も死んだという話を耳にし、みないつ死ぬかわからない状況で、全村が恐怖に包まれました。多いときには1日十数人が亡くなり、わずか2ヶ月余りの間に、村の人口の3分の1にあたる約400人がペストでなくなりました。20戸前後の家が、家族みんな死に絶えてしまいました。私の家では、7人のうち4人がペストに感染しました。母と一番上の姉、二番目の姉、そして二番目の兄です。最初に発病したのは二兄で、当時17歳でしたが、発病してわずか3、4日で亡くなりました。引続いて母と長姉が発病し、さらに少しして15歳の二姉が発病し、苦しんだ末、わずか3日のうちに死亡してしまいました。母と姉は幸い助かりましたが、大変苦しい目に遭いました。

3、村中に病人があふれかえって大変になっているころに、日本軍の部隊が村にやってきました。日本軍は、白衣を着て防毒マスクをつけていました。その日本軍は、村の裏山の広場に無理矢理に村民を集め、身体検査をしたり、何かわけの分からない注射を打ったりしました。

4、また、日本軍は、村の郊外にある林山寺というお寺にたくさんの病人を集めて隔離していました。しかし、そこで治療が行われたのではなく、恐ろしいことが行われていました。当時18歳だった呉小乃という少女が、生きたまま日本軍の手で解剖され、内臓を抜かれるという許すまじき鬼の所業を受けたのです。その恐ろしい有様を目の前で目撃して怖くなりトイレから命からがら逃げ出した人がいました。張菊蓮という方でしたが、この方は、江湾鎮で私の隣の家だったので、よくその恐ろしい話を聞きました。その他にも、遺体を受け取り埋葬しようとしたら、片手や片足がなかったということもたくさんあったのです。

5、その後、日本軍は、また村に入ってきてたくさんの家を焼き払いました。その日、日本軍は村の全員を裏山の広場に集め、機関銃を抱え、手に銃剣や銃器を持ち、村民を包囲しました。それから、たくさんの家に火をつけたのです。びっくりした村民は火を消そうとしましたが、日本軍はそれを射撃したり、銃剣で刺したりして、村民が消火するのを許しませんでした。私の家も燃やされ、それに抗議すると、私たちを火の中に放り込もうとしました。

  初冬の寒風吹きすさぶ広場で、老若男女全ての村民は、銃や剣を手にした日本軍に包囲され、自分たちの家が大火に飲み込まれるのを目を大きく見開いて見ているほかありませんでした。痛ましい叫び声があたりに響き、村中が燃え上がり、その炎と煙は天を焦がすほどでした。

  家を燃やされた人は、全ての財産が焼き尽くされ、食べるものも着るものもなく、住むところもなくなり、寒い冬空の下、畑の中で野宿して生き延びるしかありませんでした。

6、こうして、当時1200人くらいいた村人のうち、何と約400人がなくなってしまいました。幸い生き延びた人も肉親も家も財産も失い路頭に迷い、大変な目にあったのです。

7、これまで、この村やこの周辺でペストは起こったことがありませんでした。この大惨事は、日本軍が起こした細菌戦争の結果であることに間違いありません。そして、日本軍はペスト菌をまき散らしたばかりか、村人を実験動物のように扱い、生体解剖までしたのです。私たち中国人民を人間として扱わず、私たちの人間的誇りを根元的に踏みにじったのです。

  日本軍は、中国人民に対して、天人ともに許さざる罪悪を働いたのです。苦しみながらなくなった私の兄や姉をはじめ、たくさんの村民の無念を思うとき、日本政府は、日本軍が中国人民に対して細菌兵器を使って、このような苦しみを与えたことを率直に認め、心から謝罪して政府としての責任を認めてほしいと思います。

8、私たち崇山村村民は、全村民及び近隣の村民もあわせ約1万名の署名を集めて、日本政府の謝罪と賠償を求めて、1994年10月、北京にある日本大使館に「連合訴状」を提出いたしました。しかし、これに対して何の返答もなく、結局無視されたままです。日本政府は今に至るも細菌戦を行ったことを認めていないと聞きました。そこで、今回、日本の心ある友人たち及び弁護団の協力を得て、東京の裁判所に提訴することにしたわけです。

9、私たちは、賠償金がほしくて裁判を起こしたわけではありません。まず何よりも、私たちは、日本政府が細菌戦を行った事実を認め、政府として当然とるべき責任をとり、それを正式に国として謝罪してほしいのです。かつ原告一人一人に文書で謝罪文を送ってほしいのです。苦しみを受けた村民に対して、日本政府は正式の形で誠心誠意謝るべきです。これは、人格を踏みにじられ、苦しみの中に死んでいった私たちの肉親、たくさんの村人に対して日本政府がとるべき最低限の態度であると思います。

  何よりもこの裁判は、私たちの人間としての尊厳を取り戻す闘いなのです。

  そしてまた、日本軍が起こした鬼畜のような仕業を歴史の中に明らかにし、日本の若い世代にしっかりと教え、二度とこのようなことが起こらないように、日中の真の友好関係が続けていけるようにしてほしいのです。

  私たち原告の一人一人は、お金がほしくて裁判を起こしたのではありません。賠償金が入れば、それによって村に細菌戦の被害を記念する歴史記念館を建てたり、歴史を検証するために使いたいと考えています。私たちは、崇山村村民全体とそして中国人民を代表してこの訴訟に臨んでいるのです。

10、この裁判で、日本軍の行った細菌戦争の残虐な行為をぜひすべて明らかにしてください。それを歴史事実として全ての日本の人民に教えて下さい。そして、日本政府に正式の心のこもった謝罪と賠償をさせて下さい。そのための歴史的裁判です。裁判官諸氏の賢明な判断を望みます。

以上をもって、崇山村の原告を代表しての意見とします。         

           1998年2月16日


中華人民共和国浙江省義烏市

      王 麗   君