[細菌戦真相] 崇山村

被害の発生

被害の状況

王選さんの法廷陳述(1)

王選さんの法廷陳述(2)

王選さんの法廷陳述(3)

王選さんの法廷陳述(4)


[崇山村] 被害の発生

 浙江省義烏市崇山村の細菌戦被害の死亡者は、一九四二年一〇月から同年一二月の間に、少なくとも三九六名にのぼるが、そのうち、原告(または傍線を付した原告の被相続人)の三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号69ないし137の六九名である。


死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

原告との続柄

69

70

71

72

73

74

75

76

77

78

79

80

81

82

83

84

85

86

87

88

89

90

91

92

93

94

95

96

97

98

99

100

101

102

103

104

105

106

107

108

109

110

111

112

113

114

115

116

117

118

119

120

121

122

123

124

125

126

127

128

129

130

131

132

133

134

135

136

137

王 茂雲

王 二妹

王 煥章

王 基法

王 鳳

王 基炉

王 基有

王 樟

王 煥禄

王 雲菊

・ 桂香

楼 四妹

王 仙梅

王 茂雲

王 道生

鮑 春妹

王 旌善

王 旌菊

王 旌倫

王 興漢

王  妹

何 金球

王 樟潮

王 小弟

王 仙玉

王 基玉

兪 春球

王 興貴

王 関海

王  妹

王 明栄

王 春鳳

王 明芳

王 文権

鄭 桂珠

王 雲香

Q 樟翠

文 潭f

王 鳳華

呉 東妹

王 仙蘭

王 小弟

呉 翠珠

王 香菊

王 徳佳

朱 金芝

王 六妹

王 樟C

王 鳳林

賈 宝雲

王 栄章

王 牛妹

王 牛弟

王 牛兵

王 鳳生

王 善海

王 海蘭

王 煥興

王 興妹

王 満芝

王 善余

王  ・

王 海宝

王 栄禧

栄 禧妻

朱  ・

王 良善

呉 海蘭

王 小弟

50歳

30歳

59歳

39歳

31歳

25歳

6歳

62歳

41歳

16歳

10歳

54歳

25歳

74歳

63歳

55歳

34歳

18歳

16歳

11歳

7歳

35歳

6歳

2歳

16歳

2歳

38歳

10歳

5歳

2歳

5歳

4歳

3歳

47歳

48歳

0歳

21歳

60歳

16歳

67歳

13歳

52歳

35歳

12歳

54歳

17歳

42歳

36歳

40歳

38歳

13歳

11歳

9歳

7歳

36歳

23歳

27歳

17歳

15歳

42歳

10歳

9歳

13歳

59歳

57歳

79歳

16歳

25歳

0歳

42年10月下旬

42年11月上旬

42年10月14日

42年10月22日

42年11月上旬

42年11月

42年11月 6日

42年11月上旬

42年11月中旬

42年11月上旬

42年10月17日

42年11月

42年11月

42年11月18日

42年10月18日

42年10月23日

42年11月 2日

42年11月20日

42年10月26日

42年10月29日

42年11月上旬

42年10月下旬

42年10月下旬

42年10月下旬

42年10月下旬

42年10月下旬

42年10月17日

42年11月 1日

42年11月下旬

42年11月下旬

42年11月24日

42年11月28日

42年11月24日

42年10月23日

42年10月25日

42年10月28日

42年10月29日

42年11月 4日

42年11月 9日

42年11月19日

42年11月20日

42年11月22日

42年12月 8日

42年12月 7日

42年11月 8日

42年10月11日

42年11月 3日

42年11月28日

42年11月28日

42年11月16日

42年11月16日

42年11月20日

42年11月 8日

42年11月10日

42年12月 3日

42年10月18日

42年11月 2日

42年11月 6日

42年11月 9日

42年11月 2日

42年12月 9日

42年11月16日

42年11月25日

42年11月下旬

42年11月下旬

42年11月下旬

42年11月下旬

42年11月26日

42年11月26日

原告王仕化の父

原告王仕化の叔父

原告王松良の祖父

原告王松良の伯父

原告王松良の伯父

原告王松良の叔父

原告王錦悌の弟

原告王錦悌の伯父

原告王錦悌の叔父

原告王希存の姉

原告王基良の妹

原告王煥潮の母

原告王煥潮の姉

原告王新林の亡父の父

原告王旌昌の父

原告王旌昌の母

原告王旌昌の兄

原告王旌昌の弟

原告王旌昌の弟

原告王旌昌の甥

原告王旌昌の姪

原告王栄理の母

原告王栄理の弟

原告王栄理の弟

原告王基月の姉

原告王基月の弟

原告王興銭の母

原告王興銭の弟

原告王炳樟の長男

原告王炳樟の長女

原告王明光の兄

原告王明光の姉

原告王明光の姉

原告王景松の父

原告王景松の母

原告王景松の娘

原告王基・の母

原告王基・の祖母

原告王福元の亡父の長女

原告王福元の亡父の母

原告王桂春の妹

原告王桂春の叔父, 原告王容儀の叔父

原告王基木の母

原告王基木の妹

原告王仙璧の父

原告王栄森の妹

原告王晋華の伯父

原告王晋華の叔父

原告王栄良の父

原告王栄良の母

原告王栄良の弟

原告王栄良の弟

原告王栄良の弟

原告王栄良の弟

原告王栄良の叔父

原告王善慶の兄

原告王善慶の姉

原告王麗君の兄

原告王麗君の姉

原告王善明の父

原告王善明の弟

原告王・の弟

原告王容儀の弟, 原告王選の亡父の弟

原告王俊豪の亡父の父

原告王俊豪の亡父の母

原告王俊豪の亡父の祖母

原告王俊豪の亡父の弟

原告鄭冬妹の亡夫の妻

原告鄭冬妹の亡夫の子



 また、崇山村で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。村の約半数の家屋は日本軍によって焼燬され、患者の一部は日本軍細菌戦部隊の人体実験の犠牲者となるなどの被害を被った。


[崇山村] 被害の状況 −細菌戦による崇山村のペスト被害


 1、義烏県城のペストは、隣の東陽市(当時東陽県)に伝播して四一年一〇月から翌四二年四月までに、少なくとも一一三名の死者を出した。さらに四一年中に始まった義烏の農村地区の流行は四二年に本格化し、佛堂、蘇渓、廿三里、平疇、青口、前洪、井頭山、官塘下、崇山などの鎮や村落に波及、四四年四月に最後の死者が出るまで、二年八カ月にわたって流行が続いた。義烏県城と県城周辺の農村の被害を含めると、義烏県全体のペストの死者は、九〇〇名を越える。なかでも最大の被害に見舞われたのが、江湾郷の崇山村であった(次頁の地図参照)。 崇山村の住宅は極度に密集している。同村のペストは、四二年一〇月から爆発的に流行した。崇山村のペスト患者は、村はずれの林山寺や、あるいは同じく村はずれにある碑塘殿などに収容されたが、国民政府の防疫隊は全く活動できなかった。流行が終息する翌四三年一月までに死者の総計は三九六名にのぼった。これは当時の崇山村の人口一二〇〇人の約三分の一に相当する(次々頁の地図参照)。

前記第一章の被害者番号69の王茂雲から137の王小弟は、このペスト流行で死亡したものである。

2、日本軍は、崇山村で流行した伝染病がペストであることを、その流行の当時、確定していた。

四二年五月に始まった浙〓作戦により、日本軍は義烏を占領し、九月二日には第一三軍二二師団八六連隊の本部を県城内に設置した。また浙〓作戦に随行し細菌戦を展開した一六四四部隊の隊員十数名も義烏に駐屯していた。

一一月初旬、右の八六連隊員と一六四四部隊員の調査班が、ペスト流行中の崇山村へ数次にわたり入村し「腺ペスト疑似症」と確認した。ついで近喰秀太大尉ほかの一六四四部隊の調査班が、埋葬されたばかりのペスト感染者の遺体を掘り出し、その肝臓から顕微鏡標本を作製してペスト菌を発見した。さらに、一一月一六日、義烏でペスト調査にあたっていた南京の一六四四部隊の調査班が、正式にペストであると断定した。

日本軍の崇山ペスト調査の目的は、二つあった。一つは自軍へのペスト波及を防ぐため、もう一つはペスト感染者を生きた実験材料とすることである。

前者の目的は、最終的に崇山村村民の家屋や財産を焼却することで達せられた。

日本軍は、一一月一六日、ペストの断定を行ったその日に崇山村の家屋焼却を決定、二日後の一八日、兵員を派遣して同村を包囲し、火を放って二〇〇余戸、四〇〇余室を焼却した。

 後者の目的は崇山村のペスト感染者の生体解剖を行うことで達せられた。ペスト菌種を確認し、人体を通して強力となった強毒菌を取り出すため、崇山村の中心から二キロ離れ、隔離施設とされた林山寺で、一六四四部隊員たちにより生体解剖が行われたのである。


[崇山村] 王選さんの法廷陳述(1)

 私は王選です。1952年8月6日に上海に生まれ、この訴訟にある六カ所の日本軍細菌戦被害地の一カ所−中国浙江省義烏市崇山村の原告です。崇山村は私の父の故郷です。1942年に、そこで、日本軍の細菌戦によって、ペストが流行し、396人の村民が亡くなりました。私の祖父の大家族の中では、8人がペストでなくなりました。私の叔父がその中の一人で、当時13歳でした。

 私は、1969年中国文化大革命の時期に、知識青年として、上海から崇山村に下放され、そこで、四年近く村民たちと一緒に生活して来ました。終末のようなペストの災禍、強姦、略奪、詐欺、散毒、放火、殺人、生体解剖、世間にあらゆる罪を犯した日本軍の凶悪、村民たちの記憶に植えつけていた恐怖、悲しみと怒りが、中国の農民の子孫としての私は、青少年時代、そこで、彼らから受けたの歴史教育でした。

 1987年、私は戦後経済的に成功した日本から学ぼうと一心に、留学生として来日し、前後にして、三重大学、筑波大学で勉強しました。この十年の間、私は、中国では、ほとんとの人が知っている、戦争中日本軍のさまざま残虐な行為が、日本では、ほとんとの人が知らない、としみじみ感じながら、日本の人々と日本社会の激動的変化を経過して来ました。その内、1995年8月、終戦50周年の時に、私は崇山村を尋ね、細菌戦の被害を調査に行った日本軍の子孫たち等と運命的に出会って、それから、四季をわたり、彼らと肩並べて、崇山村等細菌戦被害地に行き、実態を調査し、細菌戦の歴史事実について、勉強して来ました。 

 本日、私はこの訴訟の108人の原告を代表して、ここで、意見陳述をします。

私たち108人の中国人原告は戦争中日本軍731部隊が中国浙江省、湖南省で実行した細菌戦の被害者及び被害者の遺族である。私たちは日本政府を被告とし、日本政府が日本国の責任者として、公式に日本軍による細菌戦歴史事実を認め、中国人民に対して謝罪し、細菌戦戦争犯罪被害に対して戦争責任を取ることをこの訴訟の目的としています。

周知の通り、50数年前、日本軍が日本国家の施策として実施した細菌戦は、既に当時にあっても、国際法に禁止された戦争犯罪であった。敗戦直前に、日本政府による隠蔽され、戦後、また日本政府とアメリカ合衆国の隠蔽工作によって、1946年から東京で開かれた極東国際軍事裁判で、当然裁かれるべきはずであった細菌戦戦争犯罪は、裁かれなかった。が、正義は必ず悪を懲罰する。今日、細菌戦を裁く裁判が日本の首都東京で開かれました。これは歴史の必然と私たちは認識しています、又は日本の進歩と私たちは認識しています。

 この歴史的裁判が開かれることは、中国、世界の人々と日本の侵略戦争を反対し続けて来た多くの日本の人々の長期にわたる努力の結果である。細菌戦の歴史事実を明らかにし続けて来た多くの日本の知識人、市民、及び旧日本軍の関係者の長期にわたる努力の結果である。私たちの弁護団の努力の結果である。中国人民はこれらの多くの日本の人々の努力が表明している日本人の真理と正義を求める精神力に感動しています、当時日本の国家政策としての侵略戦争によって、日本の人々が中国の人々と敵対関係になった状態を、彼らの努力によってくつがえし、平和に至る真の日中友好関係を生み出す希望をそこに見出しています。ここに、私たちは中国人民を代表して、心から、彼らに敬意を申し上げます。

我々は日本の中国侵略戦争を両国の歴史として、両国の人々が共に認識して行くべきことを出発点とし、この裁判を日本軍による細菌戦歴史事実を明らかにして行く過程にします。我々が日本の中国侵略戦争を両国の歴史として、両国の人々が共同認識を持つべきことを目標とし、この裁判を歴史事実に基づき、正しい歴史認識を築いて行く過程にします。我々は日本と中国の人々が戦争に対して、歴史事実に基づき正しい共同認識を持つことが日本と中国の相互理解、真の友好関係の前提であると主張します。

この裁判は提訴から、日本、中国、世界の人々から注目されています。注目される理由は、この裁判で裁かれているのは今世紀最大の国家犯罪の一つであり、人類の歴史に比類がない残虐行為からである。注目されているがゆえに、この裁判が法廷を乗り越え、海を乗り越え、国境を乗り越え、時代を乗り越え、影響します。この裁判に関わる全ての者が、どのような場で、どのような役を果たすのが、すべて、歴史的な意味を持ち、歴史に残り、歴史から問われると思います。

私たち原告団は弁護団、及びこの訴訟を支える日本、中国、世界中の人々と団結し、細菌戦被害者の人間としての権利と尊厳を主張し、人間の尊厳を守る。細菌戦の罪悪を暴露し、正義を守る。細菌戦の非人道性を控訴し、平和を守ることをこの裁判での私たちの役としています。 日本政府がこの裁判で唯一の果たすべき役は、日本国の責任者として、公式に日本軍による細菌戦歴史事実を認め、戦争責任を取り、戦争犯罪被害者に謝罪し、被害を回復することである。

日本軍731部隊は、十四世紀に、当時ヨーロッパ人口の40%を滅ぼしたペスト菌とその他の細菌を、私たちの祖国−中国の大地のあちこちに撒き散らした。善良無辜な人々がこれらの目に見えない細菌兵器によって殺害され、数百年、数千年にわたって築いて来た文明を持つ村町が毀され、最も悲劇的なのは、自然環境が破壊されました。この訴訟にある六カ所の細菌戦被害地の一カ所である浙江省衢州では、1940年10月に、日本軍のペスト菌空中投下によって、ペストが発生し、十三年間流行していた。また同省の被害地義烏では、ペストがほぼ県全域に蔓延し、また隣の東陽県まで伝播しました。細菌戦によるペストが発生した地域では、半世紀を経た、今日に至るまで、ペスト再発生の予防措置として、毎年数回、広い範囲で、多量の鼠、ノミを捕り、ペスト菌検査を行わなければなりません。それらの地域の衛生防疫機関の検査結果によると、浙江省衢州、義烏、そして、六カ所の被害地の中のもう一カ所湖南省常徳では、1980年代、1990年代、また最近まで、F1ペスト菌抗体陽性が発見されています。上述の検査結果はそれらの地域でペスト菌がまた活動していることを証明し、ペストの再発生の可能性を示しています。これらの地域に生活している人々にとっては、細菌戦が歴史ではなく、現実です。

 現在、環境問題が地球の前途を脅迫していることが、常識として知られています。人権が国際社会の普遍的理念と価値として認識されています。その一方、少なくとも十六カ国が生物、化学兵器を持ち続けています。尊敬なる裁判官諸氏、理性の秩序、道徳の規律、真理の法則の支えになる、細菌戦を裁く裁判が私たち108人の原告、日本、中国、世界中の人々から期待されています。

一人の元原告、中国浙江省寧波市の細菌戦ペスト被害者銭貴法さん、もう一人原告として、この訴訟に参加する予定になっていた、同省江山市の細菌戦コレラ被害者頼根水さんが、この裁判の開廷を待ち切れずに、この世を去った。細菌戦を裁くこの裁判が銭貴法さん、頼根水さん、彼らを含む、無数の細菌戦の被害者への永遠の記念になりますように、原告団一同が最終まで頑張るの決意をここに表明します。

以上、原告団代表として、私の意見陳述です。


1998年2月16日


[崇山村] 王選さんの法廷陳述(2)

2001年12月26日

 本裁判は、本日で27回目を迎えました。 この裁判の中で、原告たちは言いたいことを言い尽くしてきていると思います。裁判官たちは、もう事情が良く分かっていると思います。 この裁判のように、裁判官への希望と期待が、中国、日本、世界各国の多くの人々から寄せられている事案は、史上初めてであると思います。この希望と期待の根底にあるのは信頼です。理不尽なパワーゲームの犠牲者になっていった無辜の人々の命が、裁判官たちを信頼し頼りにしています。

 裁判官たちのこれからの判断と決定によって、多くの人々の人生が生まれ変わることができます。裁判官たちの公正な判決によって、無数の被害者たちは、何十年間も貯めてきた苦痛と、怒り、憎しみの重荷から解放され、心は安らぐことができます。

 また、篠塚良雄さんのような多くの旧日本軍関係者たちは、一生背負っている十字架が降ろされ、もう長くない人生の中でも、普通の人間のように生きて行くことができます。

 したがってこのような判決を下すことは、歴史が裁判官たちに与えている使命としか思えません。裁判官たちにとって、この歴史的判決言渡しの機会は聖なる意味を持ちます。その責任は重いのですが、使命を与えられているものにしかできない役目です。

 また、私たち原告も、裁判官たちがこの歴史的使命を果たすときにあたって、日本の皆さんに力添えすることができて、本当に光栄と思っています。 公正な判決を心から期待しております。是非とも、よろしくお願い致します。 長い間、どうも有り難う御座いました。


[崇山村] 王選さんの法廷陳述(3)

一、今年の一〇月一二日から一八日までに、華僑の国際団体である「世界抗日戦争史実維護連絡会」(以下「史実維護会」と略します)は、カナダのトロント市で、トロント大学と共催で、第三回大会を開きました。

 この大会のメインテーマは、「アジア太平洋地域における第二次大戦中の残虐行為・人文教育及び国際的正義」に設定され、中国大陸、台湾、香港から学者、華僑団体代表及び米加在住の日本人、さらにユダヤ人学者、団体代表など各国の人が参加しました。

 私は、二年前にサンフランシスコ市で開かれた第三回大会に、日本の市民運動の友人と参加しました。その時点では、私たちは細菌戦裁判を起こす準備を一所懸命やっているところでした。今回は、私は、この法廷で審理されている七三一部隊細菌戦訴訟の中国人原告の代表として、「史実維護会」から正式招待を受け、トロント大会に参加したわけです。 私は、貴重な時間を割り当てていただき、東京地方裁判所で行われている裁判の経過や、訴訟の最新状況、そして中国各地の原告の気持ちや活動状況、被害者連絡会や調査委員会など地方の人々の訴訟活動、被害者記念の活動などについて詳しく報告しました。

 私の報告が終わると、満員の会場から、大きな拍手が次々と送られ、最後には会場にいる全員が立ち上がって裁判への関心と協力を訴えた私の発言を支持してくれました。


二、アメリカとカナダで、今年六月末から、「史実護会」が中心になって、各地元の日本人やユダヤ人団体と共催で、第二次世界大戦における日本軍細菌戦など戦争犯罪写真展と証言集会を開きました。この内容やアメリカ・カナダでの反響については、すでに土屋弁護団長が七月の裁判の時に報告されました。

 その後、その写真展と証言集会は、中国の全国紙人民日報、中国中央テレビによって中国全土にも報道されました。それらの中国でのマスコミの報道によって、この細菌戦の訴訟が、多くの中国の人々に伝えられるとともに、細菌戦裁判が世界中の人々から支持を集めていることを中国にいる原告たち、被害者連絡会、さらに調査委員会の人々は、知り、本当に強く励まされました。


三、もう一つのアメリカでの展示会の影響について、裁判官にお伝えしたいと思います。アメリカの国会議員で国会人権組織の主席を務めているナンシー・パロシイ氏が、七月の始めに、この展示会をサンフランシスコで参観しました。彼女は、「旧日本軍の戦争犯罪が人類史上最も残酷な罪である」と感想を述べております。そしてナンシー議員は、この展示会を首都のワシントンD.Cでも開催するよう運動を始めています。

 また、「史実維護会」は、ニューヨークから代表者を派遣し、この展示会で展示されたものを持って中国を訪ねる予定です。細菌戦裁判の被害各地にいる原告たちや被害者連絡会・調査委員会は、それらの展示物を、中国各地で、特に地方の学校で展示することを計画しています。

 その代表者は、また一一月一八日に被害地祟山村で開かれる第一回目の義烏市全域細菌戦被害者記念大会に出席します。


四、最後に裁判官に是非お伝えしたいことが一つあります。今日の裁判には、アメリカの歴史学者でカリフォルニア州立大学名誉教授のシェルダン・ハリス氏が傍聴席にお見えになっています。

ハリス教授は、歴史家の立場から、日本軍細菌戦犯罪が、日本とアメリカの結託によって、この半世紀という長きにわたり隠蔽されてきた事実を、貴重な資料を分析して暴き出す研究を続けてこられました。

 ハリス教授は、日本軍細菌戦の研究者として、先ほど述べた今年六月から開かれたアメリカ・カナダでの展示会・証言集会で基調講演者として「アメリカと七三一部隊の犯罪の隠滅」について話をされました。

 また今月二一日には、アメリカの「全国社会科会議」(”The National Cou-ncil on Social Study")で、学校教科書における第二次世界大戦史の内容に日中戦争史を含めることの重要性について、講演をされます。この会議は、アメリカを中心に世界各地から五千人の教育者が参加するもので、大きな影響を与える会議です。

 ハリス教授の名作「殺人工場・日本軍の細菌戦一九三二年〜一九四五年及びアメリカの隠蔽工作」は、近く日本語に翻訳される予定です。

 最後に、ハリス教授が、細菌戦被害者が起こしたこの細菌戦裁判に重大な関心を持たれ、歴史の真実を明らかにするために裁判所に提出する専門家意見書を準備されていることをお伝えして私の陳述を終えます。

以上


[崇山村] 王選さんの法廷陳述(4)

一、今年一一月一八日、この訴訟の原告団が、浙江省義烏市日本軍細菌戦被害者

連絡会や、調査委員会と一緒に主催して、この訴訟の日本軍細菌戦被害地の一カ所浙江省義烏市崇山村で義烏市全域四〇数カ鎮、村の約一〇七〇名の細菌戦被害者記念大会が行われました。

 東京から日本弁護団の代表、日本の大学生、ニューヨークから国際的華僑市民連盟『抗日戦争史実維護会』(以下「史実会」)代表、この訴訟の各被害地の原告代表、被害者連絡会、調査委員会代表、浙江省の他の日本軍細菌戦被害地、麗水、金華、東陽の被害者、調査委員会代表、義烏市四〇数カ所の被害地の原告、被害者連絡会、調査委員会代表、義烏地方の高校、中学校、小学校の教師・学生代表、崇山村所在の江湾郷人民政府代表、上海の市民、フリーランス・ライター、浙江省社会科学院の歴史学者、地方マスメディアの記者たち、香港マスメディアの記者たち、崇山村周辺の村人たち、約千人以上が参加しました。

 五六年前、一九四二年一一月一八日に日本軍が崇山村に侵入し、村民を村の後ろの丘に集め、機関銃で囲んで、ペスト流行中の村を焼き払いました。崇山村は、中国農村の細胞のような平凡な田舎村です。今回、外国、外地から大勢の人が集まってくるのは、村の六〇〇年余りの歴史のなかで、これで二回目のことです。


二、記念大会の参加者たちが、花輪、垂れ幕に囲まれている村中心にある作物干し場に集め、寒風の中、細菌戦被害者を追悼し、五〇数年前の中国の悲惨な、恥辱の歴史の一ページを回顧しました。各被害地の代表が細菌戦の事実を語り、記念式典に集まった全員が、細菌戦訴訟を支援している日本の弁護団及び市民たちに敬意を表しました。そして、被害者の人間としての権利と尊厳を守るために、日本政府が細菌戦の歴史事実を認め、戦争責任を取るまで、この訴訟に取り組むことを決意しました。

参加者の小学生の女の子は、地方の学校の学生を代表して、祖国の恥の歴史を忘れず、中国の若い世代として頑張ると発言しました。


三、最後に参加者たちが、花輪を会場から林山寺へ運び、林山寺で殺害された村 民の足跡をたどりました。田野の細い道には、四〇数個の花輪を持った長い追悼者の列が続き、その列には、国を超え、民族を超え、年代を超えた人たちの姿がありました。被害のあった鎮、村の名前が書かれた花輪の白紙が風にたなびいていました。私にとってこの光景は、心に残るものとなりました。

四、大会についての報道は、地方の二つのテレビ局が視聴者の要請に応じて、繰り返して八回放送されました。

五、その後一一月二〇日に、弁護団の代表一瀬敬一郎と私は、浙江省立義烏高校の学生たちに招かれ、義烏高校で訴訟について講演しました。学生全員と教職員約一五〇〇人が集まりました。学生たちが相次いで、日本社会の歴史認識の現状、日本の戦争責任問題に対して鋭い質問をし、また細菌戦の訴訟に対して強い関心を示しました。

六、被害者記念大会に参加した『史実会』の代表は、北米で行われた『七三一部隊細菌戦写真展』の展示パネルを持参し、そのパネルは一一月一八日の記念大会の日に崇山村に展示されました。その後、義烏高校、義烏第二、第三高校で展示されました。現在、展示パネルは浙江省の細菌戦被害地麗水で展示されています。その後は、順番に各被害地に展示される予定です。

原告団は、現在義烏高校生たちの感想文を集めています。これからの展示場所である地方の学生の感想文と合わせて、文集を作成する予定です。

 (尚、記念大会の写真及び地方新聞紙の記事を添付します。)  以 上