[細菌戦真相] 
衢州

被害の発生

被害の状況

楊さんの法廷陳述



[衢州] 被害の発生

 浙江省衢州の細菌戦被害の死亡者は、一九四〇年一〇月から翌四一年一二月の間 に、少なくとも二〇〇〇名にのぼる。そのうち、原告らの三親等内の親族の死亡者は、後記第七の原告番号1ないし9の死亡者欄記載の二四名である。 また、衢州で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。多くの死者・患者の家族は、防疫のため強制的な収容措置を受け、さらに住居を焼燬されるなどの被害を被った。

死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

原告との続柄

1

2

3

4

5

6

程 鳳娜

呉 土英

祝 汝松

楊 惠風

葉 孔氏

葉 松元

18歳

12歳

16歳

38歳

63歳

40歳

40年12月 7日

40年11月15日

41年 4月12日

41年 3月28日

41年 4月

41年 3月

原告程秀芝の姉

原告呉土福の姉

原告祝汝涛の弟

原告楊大方の父

原告葉賽舟の祖母

原告葉賽舟の伯父


 また、衢州で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。多くの死者・患者の家族は、防疫のため強制的な収容措置を受け、さらに住居を焼燬されるなどの被害を被った。


[衢州] 被害の状況 −細菌戦による衢州のペスト被害


 1、一九四〇年一〇月四日、日本軍機一機が衢州市(当時衢県、以下旧称を用いる)の上空に低空で飛来し、旋回の後、麦や粟などとともにペスト感染ノミを撒布した。日本軍機が飛び立った後、県城(市街地)内の柴家巷・羅漢井一帯の住民たちは屋根や地面のいたる所に散乱している投下物を発見した。

日本軍の空襲の一七日後、衢県県城では大量の死んだネズミが発見された。さらに二〇日後の一一月一二日、柴家巷三号の住民呉土英(女、一二歳)が発病し、

翌日、羅漢井巷五号の黄廖氏(女、四〇歳)、柴家巷四号の鄭冬弟(女、一二歳)が相次いで発病した。前記三名はいずれも発病後三、四日で死亡した。つづいて発見された患者にも高熱、頭痛、鼠径腺腫、嘔吐などの症状があり、県衛生院は二〇日、腺ペストと診断した。この診断は、のちに福建省から派遣された防疫専門官が行った顕微鏡検査、細菌培養、動物接種により確認された。

衢県のペストは、日本軍機から投下されたペスト感染ノミが、まずネズミの間でペストを流行させ(当時、捕らえられたネズミ一五八八匹の八・四%にあたる一三三匹からペスト菌が発見された)、これが人間に感染し、流行が引き起こされたものである。

衢県では一九四〇年以前にはペストが発生した歴史事実はなく、また同年のペストは、日本軍機によって穀物やノミが投下された地域に集中して発生した。

一一月下旬以降もペスト発病者の数は増え、柴家巷、羅漢井巷、水亭街、美俗坊、上営街、寧紹巷など隣接する数ヵ所の通りでペスト感染者が続けて見つかった(次頁の地図参照)。

一一月二二日、報告を受けた浙江省等を管轄する国民党軍第三戦区司令部は、ペスト流行地区をまず封鎖するように衢県駐屯の軍政部防疫部隊に命令した。同日、衢県の各界・各団体の緊急会議が開かれ、衢県ペスト防疫委員会設立を決定するとともに、流行地区の封鎖、医療従事者の組織、隔離病院・隔離所の設置を決定した。ペスト感染者は隔離病院に入れ、患者の家族や流行地区の住民は隔離検査のため、それぞれ流行地区内の隔離所と衢江に浮かぶ船に移転させるなどの措置がとられた。さらに防疫委員会は、ペスト予防についての宣伝活動、学校閉鎖、ペストワクチンの予防接種、ペスト患者の出た住宅の焼却などを行った。

一九四〇年末までに関係当局に報告されたペストによる死者は、ペスト患者二五名中、二四名であった。ただし、ペスト患者の家族の多くは、家族全員が隔離され、家を焼かれることを恐れ、患者を別の所に隠して報告しなかったため、実際の患者・死者数はこの数値を上回る。

前記第一章の被害者番号1の程鳳娜と2の呉土英は、この一九四〇年のペスト流行で死亡したものである。


 2、衢県でのペスト被害は一九四〇年だけに止まらなかった。翌四一年三月上旬ペストは衢県城の坊門街で再発し、まもなく城内十数本の通りで同時に発生した。現地政府は即刻、衢県臨時防疫処を設立し、防疫隊を派遣したが、流行は次第に激しさを増していった。

四一年六月、衢県のペスト撲滅のため、国民政府衛生署外国籍防疫専門官でペストの専門家であったポリッツアー(Robert Pollitzer)が派遣された。彼は臨時防疫処の検査科長を自ら担当し、防疫活動を指導した。ペストは、県城の三七の通りで流行し、流行地区は城内全域に及んだ。また郊外でも二カ所で流行した。衢県のペスト流行は同年の一二月になってようやく終息した。

中国の統計によれば、四一年に衢県県城地区で発生したペスト患者は二八一人、うち死者は二七四人である。

このほか、衢県でペストが流行していた間、日本軍の飛行機が頻繁に県城を空襲したため、城内の住民は農村に疎開し、ペストは近代的な医療体制が全くなかった農村に広く蔓延した。県城地区とその周辺農村をあわせれば、ペストによる死者は、少なくとも一二〇〇人にのぼった。

前記第一章の被害者番号3祝汝松から6の葉松元は、この一九四一年のペスト流行で死亡したものである。

だが衢県のペストの蔓延は、市街地及びその周辺農村に止まらなかった。それは義烏の市街地、さらに崇山村を含む義烏周辺の農村にまで伝播することになる。


[衢州] 楊さんの法廷陳述

1、私は、中国浙江省衢州の楊大方と申します。1932年衢州に生まれ、現在66歳です。私は、日本軍731部隊が衢州に対し行った細菌戦の被害者の遺族です。

 衢州は1800有余年の歴史ある文化都市であり、山紫水明、交通の便もよく、気候は温暖、物産も豊富なところです。衢州には中国の有名な思想家にして教育家であった孔子の南宗家の廟があり、衢州は孔子の家族の第二の故郷です。

2、衢州の人は、昔から勤勉かつ礼儀正しく、代々平和に暮らしておりました。

 ところが、今から58年前、衢州は、日本軍の細菌戦によって攻撃され、ペストが大流行するという取り返しのつかない災難に見舞われました。1940年10月4日、日本軍の飛行機が、衢州の街に穀物と一緒にペストに感染したノミを投下しました。悪名高い石井四郎が指揮する日本軍731部隊が、衢州に対してペスト菌を使った細菌戦攻撃を行ったのです。

 その直後、衢州の街では、地面に穀物にまじって大量のノミがいるのが発見され、大きな騒ぎになりました。ついで10月下旬ころから、衢州の街ではネズミの死体が多数発見されるようになりました。

 ついに11月12日、柴家巷の当時12歳だった呉土英がペストに感染しました。彼女は、原告呉土福の姉でしたが、発病から数日後に死亡しました。また原告程秀芝の姉程鳳娜は、12月初めにペストに罹りました。彼女は、当時18歳で、発病して数日後に死にました。

 資料によれば、1940年の11月以降年末までに、衢州の街では今述べた柴家巷や上営街のほか、羅漢井や水亭街などでもペストによる死者が出て、合計24名がペストで死亡しました。この死者の数は、はっきりしている者だけですから、実際のペストの犠牲者はもちろんもっと多いはずです。

 ペストに感染した人の共通した病状は、頭痛、発熱、悪寒、鼠径部などのリンパ腺肥大等でした。衢州の衛生院は、患者を診断し、さらに発病者のリンパ液を採取して検査し、ペストであることを確認しました。一方、防疫委員会は、ペストの流行した地区を封鎖したほか、隔離病院の設置、ペスト患者の出た家屋の封鎖焼却、さらに住民への予防注射およびネズミの撲滅などの防疫対策を実施しました。また患者の家族や住民を隔離したり検査を行う施設として、隔離所のほか、衢江に浮かべたたくさんの船が使われました。

3、こうして日本軍の細菌戦によって、1940年の11月と12月に、それ以前には衢州の歴史上一度も発生したことが無かったペストが、衢州で発生したのです。しかも衢州のペストは、すぐには終息しませんでした。ペスト対策として隔離されたり家を焼却されることを恐れた住民は、病状を隠したり、病人や病死体を街の外の農村に移したため、翌1941年には、ペストは、県城ではより広い範囲に拡がり、さらに県城周辺の農村にも伝播しました。衢州では、日本軍の細菌戦の結果、その後数年間にわたりペストが大流行しました。

 資料によれば、1941年には、衢州城区において281名がペストに罹り、うち274名が死亡しました。これらの衢県城での犠牲者に周辺の農村でのペストの犠牲者を加えると、1941年中の死者は合計で少なくとも1200人以上にのぼります。4、1941年3月、私の父楊惠風がペストに感染し、死亡しました。日本軍の細菌戦によって私の父は殺されたのです。

 当時の私の家族は、両親のほか兄が2人、妹が2人、父方の祖母の8人でした。父は38歳の働き盛りで、時計店を経営していました。店は、封鎖された疫病地区の一つの県西街から300メートル足らずの県城の南街にありました。

 家族のうち両親と私が南街の店に住み、他の家族は店から近い棋坊巷にあったもう一つの家に住んでいました。

 父の時計店はとても繁盛しており、叔父が店の仕事を手伝うほどでした。

 父はとても健康で、病気をしたのを見たことはありませんでした。当時9歳だった私は、父が忙しそうに店で仕事をしている様子を見るのがとても楽しみでした。

 ところが、1941年3月、父は頭痛と発熱を起こし病に倒れました。すぐ医者に往診してもらいましたが、父の病状は悪化する一方でした。高熱は下がらず、食べることも眠ることもできない状態でした。両足の鼠径部のリンパ腺が腫れ、一日中うめき苦しみました。

 母は、必死で医者に治療を頼み、自分でもさまざまな民間療法や薬を試みましたが、父の健康は回復しませんでした。ついに3月28日、父は発病後わずか一週間でこの世を去ったのです。子供だった私は、父が死んだことが信じられず、母とともに泣き叫ぶしかありませんでした。今でも私は、母の顔を必死に見つめていた死ぬ直前の父の眼差しを忘れることが出来ません。父の眼は、生きたいという思いを私たち家族に伝えていました。

5、父が亡くなると、父の遺体は白い布にくるまれただけで、棺にも入れてもらえないまま、衢江の対岸の花園崗という荒れ地のどこかに埋められました。悲しいことですが、父が埋められた正確な場所は、今でもわからないままです。

 父の死後、時計店は封鎖されました。母と私は、隔離のために、衢江に浮かぶ船の中に送り込まれました。私と母は、約半月間、船の中に隔離された後、ようやく棋坊巷の家に戻りました。ところが、祖母は、自分の息子が突然ペストで死んだことへの悲しみから、体力が急に弱ってまもなく亡くなりました。

 一方、当時15歳だった兄は、父の死後、家族の負担を少しでも減らし、侵略日本軍と闘うために、母方の叔父と一緒に国民党軍に参加し故郷を後にしました。

 このようにして、幸せで円満だった私の家族は、日本軍の細菌戦によって、離ればなれになってしまったのです。

 10年前、台湾から、兄と叔父が、あいついで親族訪問で帰ってきました。父が細菌戦で死んでから47年ぶりに、私達兄弟姉妹は、一堂に会することができました。しかし、父の死後、長年苦労した母は、戦争中に別れた兄と再び会うこともできぬまま、1952年にすでに病気で亡くなっていました。

6、日本軍が敗北し中国侵略が終了した後も、衢州においてはペスト予防のためにネズミ駆除、予防注射、検査等を行っています。現在でも、毎年ネズミのペスト検査と大掛かりなネズミ駆除が実施されています。日本軍の細菌戦の影響は、今日でも続いているのです。

7、私は、衢州の細菌戦被害者を代表し、日本政府に対して、日本軍が細菌戦を行ったという歴史的事実を正式に認めて中国人民に公式に謝罪すること、また私たち細菌戦被害者の一人一人に対しても謝罪し、かつ損害賠償をすることを、ここに厳然と要求します。

 日本政府は、国際法に違反して日本軍が行った細菌戦の真相を積極的に究明し、勇気を持って細菌戦の責任を認め、細菌戦被害者たちに謝罪し、賠償すべきです。そうしてこそ、細菌戦による被害者の理解が得られ、中日友好の前提と基礎が築かれ、世界の人々の称賛と信任を得、真の世界平和に貢献することができるのです。

8、最後に、尊敬する裁判官の皆様、公正な判決をされるようお願いします。

 中国には古くから、「父を殺した仇とは共に天を戴かず」という言葉があります。日本軍の731部隊が中国で細菌戦を行ったことは、紛れもない事実です。この残忍非道な犯罪行為が清算されない限り、私たち細菌戦被害者は、日本政府を永遠に許すことはできません。私たちは、正義が邪悪に、良知が暴虐に勝つ日まで、最後まで闘い抜く覚悟です。


 以上をもって、衢州の原告を代表しての私の意見陳述といたします。


    1998年5月25日