[細菌戦真相] 
江山

被害の発生

被害の状況

薜さんの法廷陳述



[江山] 被害の発生

 浙江省江山の細菌戦被害の死亡者は、一九四二年八月の間に、少なくとも約八〇名にのぼるが、そのうち、原告らの三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号189ないし194の六名である。

死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

原告との続柄

189

190

頼 世 貞

頼 清 漾

50歳

6歳

42年8月20日頃

42年8月20日頃

原告頼根水の父

原告頼清泉の弟


死 亡 者

性別

年齢

死 亡 日

原告との続柄

191

192

193

194

 

頼 双 蘭

頼 双 花

周 珠 芝

陳 愛 和

 

 

8歳

3歳

52歳

65歳

 

42年8月20日頃

42年8月25日頃

42年8月20日頃

42年8月25日頃

 

原告薛培沢の甥

原告頼清泉の妹

原告薛培沢の姪

原告頼清泉の妹

原告薛培沢の姪

原告鄭蓮妹の養母

原告金效光の祖母

原告金效軍の亡母の母



また、江山で発生した細菌戦の被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。経口感染するコレラの流行によって、患者の家族や住民は、食事や水を摂取するさいにもつねに感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。


[江山] 被害の状況 −細菌戦による江山のコレラ被害


江山市(旧称江山県)は、浙江省が江西省と境を接する付近、つまり浙江省では最奧の都市であり、江西省の玉山市とは浙カン鉄道で近接している。同地に対し、日本軍は、一九四二年、浙〓作戦の際に、細菌攻撃を行った。

すなわち日本軍は、浙カン作戦で一九四二年六月一一日、江山県城を占領し、八月二一日に撤退した。この時、日本軍は、県城近くの清湖から県城にいたるまでの一帯に、細菌を撒布し、多数の被害者を出した(次頁の地図参照)。

撒かれた菌は常山と同じくコレラ菌であり、やはり@井戸に直接入れる、A食物に付着させる、B果物に注射する、という三つの方法が用いられた。

このうち、Aの食物とは餅状のものであった。江山の人々は、日本軍の細菌戦は思いもせず、これを拾って食し、被害に遭っている。たとえば、県城近郊の蔡家山村の鄭蓮妹(女、一九三三年生まれ)の養母(五二歳)は、隣人が持って来てくれた餅状の食物を食べ、腹痛を起こした。さらに嘔吐と下痢が始まり、下痢は水様のものに変化して脱水症状を起こし、青黒い顔になって翌日夜に死亡した。症状は典型的なコレラのそれであった。

このコレラ流行で、江山では少なくとも約八〇名が死亡した。前記第一章の被害者番号189の頼世貞から194の陳愛和は、このコレラ流行の被害者である。


[江山] 薜さんの法廷陳述

細菌戦は正義の審判を受けるべきである

1、私は、中国浙江省の江山市の薛培沢といいます。私は、いま69歳ですが、定年になる前は、江山市文化館に勤務して『江山市志』の編纂などをしていました。

 江山市は、浙江省の一番西の奥に位置しています。江山の西は江西省と接しており同省の玉山市が近く、その南は福建省と接しています。浙江省を貫き江西省に至る浙ガン鉄道は、江山を通っています。浙ガン鉄道の「浙」とは浙江省を、「ガン」は江西省を意味しています。

2、真珠湾攻撃を受けたアメリカ軍は、1942年4月、日本の東京などの諸都市を空爆しましたが、日本の政府や軍部は、この空爆に強い衝撃を受けました。天皇の命令を受けて、日本軍は、同年5月から、日本空襲に利用される浙江省・江西省の衢州や玉山などの飛行場を破壊することを目的に、浙ガン鉄道沿線の諸都市を攻撃する大規模な作戦を開始しました。この作戦にもとづき、日本軍は、杭州占領に続き、義烏、金華、衢州を次々と占領し、ついに6月10日頃、江山の県城を占領しました。

 日本軍は、1942年6月から8月20日頃の2ヶ月余りの間、江山を支配しました。しかし江山の人は県城からは逃げ出しましたし、田舎でも家にいるのは夜だけで昼間は山に隠れて日本軍から逃れて生活していました。

 日本軍の江山占領中、当時13歳だった私は、日本軍に捕まった経験があります。私は、山に隠れていたところを、山の捜索にきた日本軍に発見されて捕まり、江山の街に連れて行かれ、日本軍の陣地で、日本軍のために、米をひいたり、野菜を洗ったり、さらにアワの草のうちわで日本の兵隊をあおいで涼んでもらうという労役を強制的にやらされました。日本軍の退却直前に他の中国人の協力をえてようやく逃げ出しました。

 私は、その捕えられていた間に、日本軍が江山の民衆を多数殺すなどの残虐行為を行った事実を、間近にこの目で見ました。

 しかし、もっと残酷な江山住民に対する日本軍の犯罪行為は、コレラ菌を使って731部隊などが江山で行った細菌戦です。

3、1942年8月下旬、日本軍は、江山を撤退しましたが、その際に731部隊などの細菌戦部隊は、江山の街と周辺の農村にコレラ菌を地上から散布しました。

 江山での細菌の地上散布の方法は、いく通りもありますが、その一つは、人が飲料用などに使っている井戸の中に直接コレラ菌を投げ込むという方法です。その後に井戸の水を飲んだ人をコレラに感染させようとするものです。他には、熟した果実の中にコレラ菌を注入したり、コレラ菌に汚染された餅などの食べ物を住民に配るなどの方法が行われました。

 コレラに汚染された食べ物は、直接に住民に手渡す場合もあれば、コレラ菌の付いた餅などを野菜かごに入れて、道路沿いの木の下や農家の入り口などに置いておく場合もありました。いずれの場合でも、日本軍は、卑劣にも中国の普段着を着て、中国の一般民衆や国民党兵に扮して細菌戦を実行しました。江山では細菌戦によるコレラで少なくとも80人以上の住民が殺されましたが、私は甥1人と姪2人を殺されました。

4、私が捕らえられていた日本軍の陣地から逃げ出して家にもどったのは、8月20日頃でした。その当時、私の家は、江山の県城から約4キロ離れた、現在の何家山郷の中の小さな山村にありました。私が家にもどって間もなく一家が団欒していた時、七里橋という村に住んでいた姉の薛泉妹が、はげしく泣きじゃくりながら家にかけ込んできました。姉は私よりはるかに年上で35歳くらいで、夫頼世富との間に4人の子供がいました。七里橋は清湖鎮の中にあり、私の家と約5キロ離れていました。 その当時は姉の夫とその長男の原告頼清泉の2人は私の家におり、姉とその長女と次女と次男の4人が七里橋に住んでいました。 姉は、家に着くなり、3人の子供が日本軍に殺されたということを泣きながら訴え始めました。2日前に、姉の次男頼清劒(当時6才)長女頼双蘭(当時8才)、次女頼双花(当時3才)の3人の子供が、野菜籠に入れられて竹薮のそばに置いてあった餅を食べたところ、間もなく3人とも激しい腹痛に苦しみだし、さらに嘔吐、下痢が止まらず、一昼夜が経って全員死んでしまった、というのです。 姉は泣きながら「この3人のチビたちは、本当にかわいそうな死に方だったわ。これは日本軍が毒を盛ったのよ」と言いました。また姉は続けて「双蘭は死ぬ前にまたぐったりとしながら、小さなお棺を私の為に作ってよ、と言ってたわ」と言いました。

 姉の話を聞いていた姉の夫は、歯をくいしばりながら、「日本兵は本当に天罰を受けるべきだ。彼らは子供でさえも容赦しない。この仇は必ず討ってやる」と言いました。

 その夜すぐに、私と姉夫婦とその長男頼清泉の4人で、七里橋に行きました。姉の家に着いたとき、ランプの下に、3人の子供たちの姿が見えました。藁もござもひいてないベッドの上に、3人の子供たちは、それぞれうずくまるように横になっていました。全身青黒くなった死体の周りは、排泄物だらけで、ハエや蚊が飛び回り、見るも無惨でした。姉は大声で泣きました。姉の夫は、泣こうにも怒りで声も出ず、ベッドの板で小さな棺を1つ作り、3人の死体を入れました。その頃は、まだ日本軍が江山の街の中にいましたので、近所の人にも手伝ってもらって、急いで山へ担ぎ出し、死体を埋めました。

 私と清泉は、姉の家に1日泊ってから、私の家にもどりました。ところが家に戻ってから、私と清泉が、コレラに罹りました。まず口が渇き、いつも水を飲みたくなり、水を飲むと、腹痛がして、下痢になりました。ただベッドの上で横になるしかありませんでした。

 幸い、当時私の家には、ある街で漢方の店を開いている親戚がおり、貴重な漢方薬が家に保管してありました。その親戚は、我々2人が病んでいるのを見て、2人の脈をとり、コレラにかかっていると診断して漢方薬を処方してくれました。1ヶ月あまりその漢方薬を飲み続け、やっと我々2人は死の縁からはいあがり、だんだんと健康を回復しました。我々2人が発病した原因は、七里橋で、日本軍がコレラ菌を入れた水を飲んだからでした。

5、日本軍731部隊は、細菌兵器のためにさまざまな種類の、危険な病原菌を大量に培養しました。それら多くの種類の細菌が、実際に細菌戦で使われ、中国各地にばらまかれたのです。現在でも、細菌戦で使われた病原菌は、中国国内で絶滅せずに生き続けており、また、ある種類の細菌は突然変異を生じてもっと危険なものになっているのです。このようにして細菌戦で使われた細菌が、現にわが中国を汚染し続けており、中国の民衆に危害を加え続けています。

 このような細菌戦によって汚染された環境を浄化し、安全で平和な環境を創造していくためには、まず日本政府が、中国の何処で、いつ、どんな細菌を散布したのか、という細菌戦に関する基礎的なデータを明らかにしなければならないと考えます。

 日本政府は、細菌戦の歴史的事実を正視し、全面的に認めなければなりません。中国の古い言葉に「もし知られたくなくば、自ら為すなかれ」とあります。歴史というものは無情なもので、真実を隠し通すことは絶対にできません。歴史の事実を認めない政府の責任は、時とともに重くなり、最後には民衆によって倒されるしかないのです。

 我々中国人には、罪深き細菌戦の事実を暴露するだけの千の理由、万の権利があります。もし日本政府がこれからも細菌戦の事実を隠そうとするなら、中国13億の人民だけでなく、世界中の正義感ある人々が日本政府を許さないでしょう。

 最後に、裁判官の方々には、被告の日本政府が、私たち中国人の細菌戦被害者に対して、細菌戦を行ったことを謝罪し、細菌戦の被害を賠償する判決を下されるよう心からお願いいたします。

 以上で江山の細菌戦被害者を代表しての意見陳述を終わります。


        1998年5月25日


         中華人民共和国浙江省江山市

              日本軍細菌戦被害者

              薛   培  沢