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[第1回裁判] 王選さん(原告団代表)の陳述(1)

意見陳述

 私は王選です。1952年8月6日に上海に生まれ、この訴訟にある六カ所の日本軍細菌戦被害地の一カ所−中国浙江省義烏市崇山村の原告です。崇山村は私の父の故郷です。1942年に、そこで、日本軍の細菌戦によって、ペストが流行し、396人の村民が亡くなりました。私の祖父の大家族の中では、8人がペストでなくなりました。私の叔父がその中の一人で、当時13歳でした。

 私は、1969年中国文化大革命の時期に、知識青年として、上海から崇山村に下放され、そこで、四年近く村民たちと一緒に生活して来ました。終末のようなペストの災禍、強姦、略奪、詐欺、散毒、放火、殺人、生体解剖、世間にあらゆる罪を犯した日本軍の凶悪、村民たちの記憶に植えつけていた恐怖、悲しみと怒りが、中国の農民の子孫としての私は、青少年時代、そこで、彼らから受けたの歴史教育でした。

 1987年、私は戦後経済的に成功した日本から学ぼうと一心に、留学生として来日し、前後にして、三重大学、筑波大学で勉強しました。この十年の間、私は、中国では、ほとんとの人が知っている、戦争中日本軍のさまざま残虐な行為が、日本では、ほとんとの人が知らない、としみじみ感じながら、日本の人々と日本社会の激動的変化を経過して来ました。その内、1995年8月、終戦50周年の時に、私は崇山村を尋ね、細菌戦の被害を調査に行った日本軍の子孫たち等と運命的に出会って、それから、四季をわたり、彼らと肩並べて、崇山村等細菌戦被害地に行き、実態を調査し、細菌戦の歴史事実について、勉強して来ました。 

 本日、私はこの訴訟の108人の原告を代表して、ここで、意見陳述をします。

私たち108人の中国人原告は戦争中日本軍731部隊が中国浙江省、湖南省で実行した細菌戦の被害者及び被害者の遺族である。私たちは日本政府を被告とし、日本政府が日本国の責任者として、公式に日本軍による細菌戦歴史事実を認め、中国人民に対して謝罪し、細菌戦戦争犯罪被害に対して戦争責任を取ることをこの訴訟の目的としています。

周知の通り、50数年前、日本軍が日本国家の施策として実施した細菌戦は、既に当時にあっても、国際法に禁止された戦争犯罪であった。敗戦直前に、日本政府による隠蔽され、戦後、また日本政府とアメリカ合衆国の隠蔽工作によって、1946年から東京で開かれた極東国際軍事裁判で、当然裁かれるべきはずであった細菌戦戦争犯罪は、裁かれなかった。が、正義は必ず悪を懲罰する。今日、細菌戦を裁く裁判が日本の首都東京で開かれました。これは歴史の必然と私たちは認識しています、又は日本の進歩と私たちは認識しています。

 この歴史的裁判が開かれることは、中国、世界の人々と日本の侵略戦争を反対し続けて来た多くの日本の人々の長期にわたる努力の結果である。細菌戦の歴史事実を明らかにし続けて来た多くの日本の知識人、市民、及び旧日本軍の関係者の長期にわたる努力の結果である。私たちの弁護団の努力の結果である。中国人民はこれらの多くの日本の人々の努力が表明している日本人の真理と正義を求める精神力に感動しています、当時日本の国家政策としての侵略戦争によって、日本の人々が中国の人々と敵対関係になった状態を、彼らの努力によってくつがえし、平和に至る真の日中友好関係を生み出す希望をそこに見出しています。ここに、私たちは中国人民を代表して、心から、彼らに敬意を申し上げます。

我々は日本の中国侵略戦争を両国の歴史として、両国の人々が共に認識して行くべきことを出発点とし、この裁判を日本軍による細菌戦歴史事実を明らかにして行く過程にします。我々が日本の中国侵略戦争を両国の歴史として、両国の人々が共同認識を持つべきことを目標とし、この裁判を歴史事実に基づき、正しい歴史認識を築いて行く過程にします。我々は日本と中国の人々が戦争に対して、歴史事実に基づき正しい共同認識を持つことが日本と中国の相互理解、真の友好関係の前提であると主張します。

この裁判は提訴から、日本、中国、世界の人々から注目されています。注目される理由は、この裁判で裁かれているのは今世紀最大の国家犯罪の一つであり、人類の歴史に比類がない残虐行為からである。注目されているがゆえに、この裁判が法廷を乗り越え、海を乗り越え、国境を乗り越え、時代を乗り越え、影響します。この裁判に関わる全ての者が、どのような場で、どのような役を果たすのが、すべて、歴史的な意味を持ち、歴史に残り、歴史から問われると思います。

私たち原告団は弁護団、及びこの訴訟を支える日本、中国、世界中の人々と団結し、細菌戦被害者の人間としての権利と尊厳を主張し、人間の尊厳を守る。細菌戦の罪悪を暴露し、正義を守る。細菌戦の非人道性を控訴し、平和を守ることをこの裁判での私たちの役としています。 日本政府がこの裁判で唯一の果たすべき役は、日本国の責任者として、公式に日本軍による細菌戦歴史事実を認め、戦争責任を取り、戦争犯罪被害者に謝罪し、被害を回復することである。

日本軍731部隊は、十四世紀に、当時ヨーロッパ人口の40%を滅ぼしたペスト菌とその他の細菌を、私たちの祖国−中国の大地のあちこちに撒き散らした。善良無辜な人々がこれらの目に見えない細菌兵器によって殺害され、数百年、数千年にわたって築いて来た文明を持つ村町が毀され、最も悲劇的なのは、自然環境が破壊されました。この訴訟にある六カ所の細菌戦被害地の一カ所である浙江省衢州では、1940年10月に、日本軍のペスト菌空中投下によって、ペストが発生し、十三年間流行していた。また同省の被害地義烏では、ペストがほぼ県全域に蔓延し、また隣の東陽県まで伝播しました。細菌戦によるペストが発生した地域では、半世紀を経た、今日に至るまで、ペスト再発生の予防措置として、毎年数回、広い範囲で、多量の鼠、ノミを捕り、ペスト菌検査を行わなければなりません。それらの地域の衛生防疫機関の検査結果によると、浙江省衢州、義烏、そして、六カ所の被害地の中のもう一カ所湖南省常徳では、1980年代、1990年代、また最近まで、F1ペスト菌抗体陽性が発見されています。上述の検査結果はそれらの地域でペスト菌がまた活動していることを証明し、ペストの再発生の可能性を示しています。これらの地域に生活している人々にとっては、細菌戦が歴史ではなく、現実です。

 現在、環境問題が地球の前途を脅迫していることが、常識として知られています。人権が国際社会の普遍的理念と価値として認識されています。その一方、少なくとも十六カ国が生物、化学兵器を持ち続けています。尊敬なる裁判官諸氏、理性の秩序、道徳の規律、真理の法則の支えになる、細菌戦を裁く裁判が私たち108人の原告、日本、中国、世界中の人々から期待されています。

一人の元原告、中国浙江省寧波市の細菌戦ペスト被害者銭貴法さん、もう一人原告として、この訴訟に参加する予定になっていた、同省江山市の細菌戦コレラ被害者頼根水さんが、この裁判の開廷を待ち切れずに、この世を去った。細菌戦を裁くこの裁判が銭貴法さん、頼根水さん、彼らを含む、無数の細菌戦の被害者への永遠の記念になりますように、原告団一同が最終まで頑張るの決意をここに表明します。

以上、原告団代表として、私の意見陳述です。


1998年2月16日




[第1回裁判] 胡賢忠さん(寧波)の陳述


日本軍731部隊の寧波細菌戦を血涙をもって告発する

1、私は寧波市に住んでいる胡賢忠です。日本軍731部隊が寧波に対して行った細菌戦の被害者の遺族です。私は1932年に寧波で生まれ、現在66才です。

 寧波は、浙江省の東北部の港湾都市です。寧波は日本との間で非常に古い交流の歴史を持っています。唐の時代、中日間の海上航路の中国側の港は、寧波港でした。日本の唐招提寺を創建した有名な唐僧鑑真も、寧波の港を出発して日本に行きました。

 日本軍731部隊は、このように、日本と深い歴史的、文化的な交流をもつ寧波の街に、細菌戦を強行したのです。

2、1940年10月下旬、日本軍731部隊の飛行機が、寧波の上空を低空で旋回し、街の中心の開明街に、麦やトウモロコシなどの穀物と一緒にペスト感染ノミを散布しました。その当時、私は8歳で、開明街70号に家族と一緒に住んでいました。私も近所の人たちも、日本軍の飛行機が落としたものが、まるで霧のように空一杯に散って地上に麦が落ちてくるのを見ました。

私の家は、開明街で「胡元興」という麻雀の牌を作って売る店を経営していました。私の家では、日本軍の細菌戦によって、両親と姉と弟の4人がペストに感染し、4人全員が殺されました。

3、私の家族の中で最初のペストの犠牲者は、姉の胡菊仙でした。11月初め、姉は、まず頭が痛くなって発熱し、顔がまっ赤になって意識が朦朧となり、太もものリンパ節が腫れてきました。姉は食欲が無くなって水さえも飲めなくなり体は衰弱していきました。母が、姉にいろんな薬をのませましたが、病状は回復せず、発病から間もなく、姉は家族に見取られながら死んでしまいました。死んだ姉は、いつも一緒にいて私をかわいがってくれました。

 私は、突然、愛する姉を失って強いショックを受け、深い悲しみに打ちひしがれました。姉の死体は、棺桶に入れられて、祖母の墓の傍らに埋葬されました。私は、墓前にひざまづき、「お姉さん、あなたはなんでさっさとあの世に行ってしまったの。僕は、もっとお姉さんに遊んでもらったり、勉強を教えてもらいたかったのに。お姉さん、僕は、あなたと離れ離れになれないほどまだ小さいんだよ」と泣き叫びました。

4、姉の死から10日も経たない内に、弟が、そして父と母が、次々とペストで死んでしまいました。弟はとても活発な愛らしい子供でした。私は弟が死んだことが信じられませんでした。その後、父も姉や弟が死んだときと同じ症状で苦しむようになりました。やがてまっ白い帽子と服に白い長靴をはいた防疫隊の人が家にやって来て、彼らは、父を重症者だけを収容する甲部隔離病院に連れて行きました。私は、父が死なないように祈っていました。しかしまもなく、母が、泣きながら「お父さんは死んでしまった。こらからどうやって生きていこうか」と私に言いました。

 その後、間もなく母の病状もひどくなり、脇の下が腫れてかたまりができました。母は、「私は隔離病院に入れられて死んでしまうだろう」と私に言いました。実際、間もなく母も、甲部隔離病院に収容されました。その後私は、近所の人から母が死んだということを聞かされました。

 こうして私は、とうとう孤児になりました。私は、これから生きていけるのかどうか不安で胸が一杯になり、将来の生活のことを思えば思うほど、悲しみがこみ上げ、涙が出てきて止まりませんでした。孤児になってからの体験は、とても言葉では言い表せない悲惨なものでした。

 私は、私の運命を翻弄した細菌戦を、心から憎みます。日本軍731部隊は絶対に許すことができません。

5、寧波細菌戦に関しては、ペストに対する防疫活動と住民被害について、黄可泰、呉元章両医師をはじめとする地元寧波の研究者による貴重な調査があります。その調査によれば寧波全体では、日本軍の細菌戦によるペストで死亡した人は、約110名で、その死者の半数近くは子供でした。

 ペストが発生して間もなく、ペスト流行の拡大を食い止めるために、開明街などの汚染地区は、高さ約4メートルの壁で囲まれ、厳重に封鎖されました。こうして汚染地区の約600名の住民は、地区丸ごと移動を制限されました。またペスト患者のために、3つの隔離病院が設けられ、医師、看護婦などが献身的な治療を行いました。しかし甲部隔離病院に収容された真正ペスト患者は、後で述べる銭貴法さん以外は全員死亡しました。

 さらにペスト発生から約1ヶ月後の11月末、ペスト防疫対策として、開明街などの汚染地域の100戸以上の建物が全部焼き払われました。汚染地区の約500人は、こうして家族を失い住まいも財産も失い、路頭に放り出されました。私の家も焼き払われ、私は、住む場所すら無くなりました。

6、甲部隔離病院に隔離された真正ペスト患者のうちに、ただ一人だけ奇跡的に生き残った、寧波細菌戦の歴史的な生き証人がいました。それが原告としてこの裁判を起こした銭貴法さんです。彼は当時開明街の元泰酒店の従業員でした。銭貴法さんは、第一回裁判のために日本を訪問し、この法廷で、寧波の原告を代表して意見陳述をする予定でした。

 ところが、何と不幸なことでしょう、銭貴法さんは、パスポートの交付を受け、いよいよ訪日の日も近づいてきたとき、病に倒れたのです。そして病魔は無慈悲にも銭貴法さんを苦しめ、1997年12月16日、遂に彼の命を奪ってしまいました。銭貴法さんは、死の直前までベッドの上で日本軍の細菌戦は許せないと言い続けていました。私たちは、銭貴法さんの遺志を引き継ぎ、新しく原告となった銭貴法さんの奥さんの範小青さんとともに、731部隊細菌戦国家賠償訴訟の勝利を目指して闘い続けます。私は、この決意を銭貴法さんの霊に誓うものです。

7、日本政府は、敗戦から50年以上たった現在でも、日本軍が細菌戦を行った事実を認めていません。日本が、侵略戦争に沈黙したり、居直っておいて、一体、中日友好は実現できるのでしょうか。

 戦後も長期間にわたって、中国の各細菌戦被害地では、ペスト再流行の危険があるため、戦後も防疫機関が長期間にわたって鼠を捕獲してペスト菌の有無を検査してきました。この一事に照らしてみても、日本政府は、中国のどの地域に、何時、どの部隊が、どんな手段で、細菌戦を実行したのかを、中国政府と細菌戦の被害地の住民に、説明する義務があるのではないでしょうか。日本政府は、一刻も早く日本軍の細菌戦の事実を、国家として公式に認めるべきです。

8、私たち中国人民は、恒久平和を望んでいます。また中国人民と日本人民は永遠に友好でなければならないと思います。それらを実現するためには、侵略戦争に反対し、侵略戦争の根っこそのものを断ち切らなければなりません。

 私たち中国人民は、歴史上類例のない残虐な日本軍の細菌戦を、永久に許しませんが、「前事不忘、後事之師」と言います。日本政府が、日本軍の細菌戦の事実を認めて謝罪し、速やかに賠償することは、中日両国の真の和解と信頼関係を実現するのに重要な意味をもつことだと中国人民は信じています。

9、日本軍731部隊の細菌戦が裁かれるのは、この裁判が最初です。この裁判は、止むに止まれぬ中国人民の長年の思いを実現させたものですが、この私たちの裁判を周りから強く支えてくれている日本の多くの人たちの良心的なボランテイア活動に心から感謝したいと思います。

 最後に、日本の裁判所の尊敬する裁判官諸士が、自分の心の中の良心の声を聞き分け、細菌戦の犯罪を勇気を持って裁くことを、心から期待します。以上をもって、寧波の細菌戦被害者を代表した私の意見陳述を終わります。  

1998年2月16日




[第1回裁判] 王麗君さんの陳述

意見陳述

1、私は、1932年に、中国浙江省江湾郷崇山村に生まれました。現在は、崇山村の近くの江湾鎮に住んでいます。崇山村は、浙江省義烏市の郊外にある農村です。崇山村は、六百有余年の歴史がある村で、環境は美しく、村人は働き者で、みんな楽しく働き幸せに暮らしてきました。

2、1942年、私が10歳のころ、鬼のような日本軍がばらまいたペストの病原菌が原因で、崇山村で突然ペストが大流行しました。病人はみな、高熱を発し、頭痛がひどく、喉が渇き、リンパ節が大きく腫れるという共通した病状を呈していました。発病して1日か2日、長い場合でも5、6日で死亡しました。毎日死者が埋葬されるのを目にし、この人が死に、あの人も死んだという話を耳にし、みないつ死ぬかわからない状況で、全村が恐怖に包まれました。多いときには1日十数人が亡くなり、わずか2ヶ月余りの間に、村の人口の3分の1にあたる約400人がペストでなくなりました。20戸前後の家が、家族みんな死に絶えてしまいました。
私の家では、7人のうち4人がペストに感染しました。母と一番上の姉、二番目の姉、そして二番目の兄です。最初に発病したのは二兄で、当時17歳でしたが、発病してわずか3、4日で亡くなりました。引続いて母と長姉が発病し、さらに少しして15歳の二姉が発病し、苦しんだ末、わずか3日のうちに死亡してしまいました。母と姉は幸い助かりましたが、大変苦しい目に遭いました。

3、村中に病人があふれかえって大変になっているころに、日本軍の部隊が村にやってきました。日本軍は、白衣を着て防毒マスクをつけていました。その日本軍は、村の裏山の広場に無理矢理に村民を集め、身体検査をしたり、何かわけの分からない注射を打ったりしました。

4、また、日本軍は、村の郊外にある林山寺というお寺にたくさんの病人を集めて隔離していました。しかし、そこで治療が行われたのではなく、恐ろしいことが行われていました。当時18歳だった呉小乃という少女が、生きたまま日本軍の手で解剖され、内臓を抜かれるという許すまじき鬼の所業を受けたのです。その恐ろしい有様を目の前で目撃して怖くなりトイレから命からがら逃げ出した人がいました。張菊蓮という方でしたが、この方は、江湾鎮で私の隣の家だったので、よくその恐ろしい話を聞きました。その他にも、遺体を受け取り埋葬しようとしたら、片手や片足がなかったということもたくさんあったのです。

5、その後、日本軍は、また村に入ってきてたくさんの家を焼き払いました。その日、日本軍は村の全員を裏山の広場に集め、機関銃を抱え、手に銃剣や銃器を持ち、村民を包囲しました。それから、たくさんの家に火をつけたのです。びっくりした村民は火を消そうとしましたが、日本軍はそれを射撃したり、銃剣で刺したりして、村民が消火するのを許しませんでした。私の家も燃やされ、それに抗議すると、私たちを火の中に放り込もうとしました。

  初冬の寒風吹きすさぶ広場で、老若男女全ての村民は、銃や剣を手にした日本軍に包囲され、自分たちの家が大火に飲み込まれるのを目を大きく見開いて見ているほかありませんでした。痛ましい叫び声があたりに響き、村中が燃え上がり、その炎と煙は天を焦がすほどでした。

  家を燃やされた人は、全ての財産が焼き尽くされ、食べるものも着るものもなく、住むところもなくなり、寒い冬空の下、畑の中で野宿して生き延びるしかありませんでした。

6、こうして、当時1200人くらいいた村人のうち、何と約400人がなくなってしまいました。幸い生き延びた人も肉親も家も財産も失い路頭に迷い、大変な目にあったのです。

7、これまで、この村やこの周辺でペストは起こったことがありませんでした。この大惨事は、日本軍が起こした細菌戦争の結果であることに間違いありません。そして、日本軍はペスト菌をまき散らしたばかりか、村人を実験動物のように扱い、生体解剖までしたのです。私たち中国人民を人間として扱わず、私たちの人間的誇りを根元的に踏みにじったのです。

  日本軍は、中国人民に対して、天人ともに許さざる罪悪を働いたのです。苦しみながらなくなった私の兄や姉をはじめ、たくさんの村民の無念を思うとき、日本政府は、日本軍が中国人民に対して細菌兵器を使って、このような苦しみを与えたことを率直に認め、心から謝罪して政府としての責任を認めてほしいと思います。

8、私たち崇山村村民は、全村民及び近隣の村民もあわせ約1万名の署名を集めて、日本政府の謝罪と賠償を求めて、1994年10月、北京にある日本大使館に「連合訴状」を提出いたしました。しかし、これに対して何の返答もなく、結局無視されたままです。日本政府は今に至るも細菌戦を行ったことを認めていないと聞きました。そこで、今回、日本の心ある友人たち及び弁護団の協力を得て、東京の裁判所に提訴することにしたわけです。

9、私たちは、賠償金がほしくて裁判を起こしたわけではありません。まず何よりも、私たちは、日本政府が細菌戦を行った事実を認め、政府として当然とるべき責任をとり、それを正式に国として謝罪してほしいのです。かつ原告一人一人に文書で謝罪文を送ってほしいのです。苦しみを受けた村民に対して、日本政府は正式の形で誠心誠意謝るべきです。これは、人格を踏みにじられ、苦しみの中に死んでいった私たちの肉親、たくさんの村人に対して日本政府がとるべき最低限の態度であると思います。

  何よりもこの裁判は、私たちの人間としての尊厳を取り戻す闘いなのです。

  そしてまた、日本軍が起こした鬼畜のような仕業を歴史の中に明らかにし、日本の若い世代にしっかりと教え、二度とこのようなことが起こらないように、日中の真の友好関係が続けていけるようにしてほしいのです。

  私たち原告の一人一人は、お金がほしくて裁判を起こしたのではありません。賠償金が入れば、それによって村に細菌戦の被害を記念する歴史記念館を建てたり、歴史を検証するために使いたいと考えています。私たちは、崇山村村民全体とそして中国人民を代表してこの訴訟に臨んでいるのです。

10、この裁判で、日本軍の行った細菌戦争の残虐な行為をぜひすべて明らかにしてください。それを歴史事実として全ての日本の人民に教えて下さい。そして、日本政府に正式の心のこもった謝罪と賠償をさせて下さい。そのための歴史的裁判です。裁判官諸氏の賢明な判断を望みます。以上をもって、崇山村の原告を代表しての意見とします。         

           1998年2月16日