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[第15回裁判] 呉方根さんの陳述

原告呉方根の意見陳述書

1、衢州の細菌戦被害者の気持ちについて

@ 私は呉方根と申します。現在74歳です。1926年に中国浙江省衢州市で生まれました。私は中国を侵略した日本軍731部隊が行った残虐な細菌戦の被害者の遺族です。


私の郷里衢州は、1800余年の歴史の・nbsp;る古い都市で、浙江省西部に位置し、福建、江西、安徽と境を接しています。衢州は、浙p鉄道が東西を貫き、道路は四通に発達し、水路も杭州湾に直接注いでおり、極めて交通の便の良いところです。

 このような衢州は、古来から「四省、衢州に連なる」と言われてきましたが、兵法家にとっては必ず奪い取るべき重要地点と見なされていました。

A 日本が1937年7月の蘆構橋事件を突破口にして中国に全面的な侵略戦争を開始して以降、侵略日本軍は、衢州を軍事要地とみなして重要な攻撃目標にすえてきました。

 侵略日本軍は、最初、空から飛行機で衢州に爆撃を加え、次に、衢州に細菌作戦を行い、さらには衢州を占領して数々の残虐行為を働きました。

 当時、私は衢州に住んでおり、年は10代でした。私には、両親と妹が・nbsp;り、日本軍が侵略してくるまでは楽しい子供時代を過ごしていました。

 私は、衢州に対して日本軍が犯した侵略行為とそれがもたらした悲惨な被害をたくさん見てきました。

 裁判官には、私が直接に体験した日本軍の侵略行為、その中でも特に私の父を殺し家族を奪った細菌戦の残虐な行為についてお話しをして、日本人の良心に訴えたいと思います。


2、私の家族の衢州での生活について

 私の家は、衢州の中でも賑やかな商業地区で・nbsp;る南街三聖口19号に・nbsp;りました。家族は両親と私と妹の4人家族でした。  両親は、13人の子供をつくりましたが、大きくなったのは私と妹だけで、特に男の子は私だけでしたので、親は私を大事にしてくれました。妹は8歳年下でした。

 両親は、その南街で小さな雑貨商を営むとともに、同時に、端午の節句に売る団扇を作って卸していました。その団扇の製造は、評判も良く、よく売れました。

 商売は繁盛し、生活は安定しており、何一つ不自由・nbsp;りませんでした。

私は、6年制の高等小学校を卒業後、家の家業を手伝うようになりました。

このような私の家族の平和な生活を、次に述べるような日本軍の侵略は一挙に破壊したのです。


2、衢州に対する日本軍の侵略について

@ まず細菌戦以前に、私が体験した日本軍の侵略のことからお話しします。

最初に日本軍が衢州に対して攻撃を加え、衢州の市民に死者を出したのは、1937年9月26日の日本軍飛行機による爆撃によるものです。

このころ私は11歳でした。丁度その・nbsp;、私は、病気になり衢州の近郊の親戚の家でしばらく静養していました。病気が治ったので、9月26日の午前中、父が迎えに来てくれ、衢州に戻る途中で、この日本軍飛行機による最初の衢州爆撃を目の当たりに見ました。

 この爆撃のとき、私は、衢州駅近くの荷花橋のたもとの大きな木の下にいました。日本侵略軍の数機の飛行機は、衢州駅を激しく爆撃していました。

 爆撃で同胞が路上で惨たらしく死んでいき、血や肉片が飛び散り、吹き飛ばされた手や足が、電信柱に引っかかるのをこの目で目撃しました。この惨状は本当に目を背けたくなるようなもので、今も忘れることが出来ません。

 中国の詳しい被害調査によれば、爆撃によって壊された家屋は100軒余り、死んだり傷ついたりした同胞は165人にも達しました。

この日以降、日本軍の飛行機は、頻繁に衢州の街を爆撃するようになりました。日本軍の空爆で衢州の街全体がほとんど廃墟と化すようになりました。空襲が・nbsp;るために、街は、昼間も商店が店を閉め、夜は灯火管制が行われました。

 日本軍の空襲で、衢州の人々の生活は脅かされ、毎日心配と恐怖でびくびくし、身も心も深く傷つきました。

A 後に述べるように1940年10月には、日本軍は、衢州に対して飛行機でペスト菌を散布して、衢州の住民に重大な被害を与えましたが、その後2年後の1942年に日本軍は衢州を軍事的に占領しました。

 衢州を占領した日本侵略軍は、衢州に侵入した最初の外国侵略者でも・nbsp;ります。


 この時、衢州飛行場近くの沙湾村で、日本軍が、中国人捕虜を殺害した事実が・nbsp;ります。一人一人の捕虜の鎖骨を針金で繋ぎ、機関銃で撃ち、ガソリンで焼き、死体を衢江に投げ捨てました。衢江の川の水は一面血に染まり、少なくとも1000人以上が殺害されました。彼らは、放火、殺戮、強姦、拉致、略奪などのファシストの暴行を働き、もっとも恥知らずで、もっとも残虐な「鬼畜兵」の役割を演じたのです。

 裁判官、日本軍の鬼畜どもがなんと惨たらしく非人道的な犯罪行為を行ったかをよく認識して下さい。

3、731部隊の衢州に対する細菌戦について

@ 次に日本軍の衢州に対する細菌戦について述べます。これは、「日本鬼畜兵」が公然と国際条約や国際法を踏みにじり、中国に対して初めて行った本格的な細菌戦で・nbsp;ります。

 1940年10月4日午前、一機の日本の飛行機が、衢州の西の上空からペスト菌の付着したノミや麦などを投下し、衢州の歴史上初めてペストを発生させました。

 衢州の県西街、水亭街などの疫病地区は石垣や石灰の粉によって封鎖地区として線引きされていましたが、厳格に隔絶することが出来なかったため、ペストは衢州の市街区全てと周辺地区に伝染してしまいました。

A 1941年4月初め、私の父呉秋狗は、ペストに罹りました。ペストは、それ以前から、衢州で流行していましたし、南街でもペストの犠牲者は出ていました。

 父は、当時44歳でした。身長は170センチの屈強な男子でした。私は15歳で、店の仕事を手伝って一緒に住んでいましたので、ペストに罹った父が急激に弱っていくのを間近で見ました。

 父の発病は突然でした。父は、頭痛を訴え、発熱して体温は40度余りに達し、顔が耳まで赤くなりました。

 父は、まもなく横になったきりで起き・nbsp;がることが出来なくなりました。手当たり次第に物を掴み、無理に立ち上がろうとして、躓いて転びました。

 トイレも、最初は、自分でトイレに行っていましたが、何度か転ぶうちに遂に起き・nbsp;がれなくなりました。

 父が自分でトイレに行けないので母が抱えて連れていき、ズボンを降ろしたときに、父の両腿のリンパ腺が卵大に大きく腫れていたのを憶えています。

 舌が回らなくなり、言葉がはっきりしないようになりました。

お茶や水をひっきりなしに求め、苦しがりました。両眼もぼんやりとしてきました。

 母は、父の大変苦しそうな様子を見て、すぐに父を三聖廟に移しました。医者に見てもらいたいと思いましたが、普通の医者はもう診てくれず、給ヌ、衢州の有名な医者王一仁先生に診察を頼みました。しかし、診断された王先生にも、ペストだから治療の方法は無いと言い渡されました。

B 母はどうすることもできないということを知り、母の両目からは涙が止めどなく流れ落ちました。私と妹も母の傍らで泣きました。

 父は気息奄奄の状態で一昼夜苦しみ続け、遂に死んでしまいました。父の死んだ直後、当時の「衢州日報」に、父の名前がペストの犠牲者として載りました。

 父の死体は、直ちに防疫係員によって運び去られ、私たちが埋葬することは許されませんでした。当然、葬式もできませんでした。

 後になって聞いたところによると、衢州市の大西門外黄泥坑に埋葬されたそうです。墳墓もなく、目印もないので、今になっても一体どこに葬られているのか詳しいことは分かりません。


4、衢州の細菌戦被害について

 衢州の細菌戦被害については、衢州出身の防疫分野が専門の医師邱明軒先生が、永年、衢州の各地を訪ねて調査をしてきました。

 邱先生が調べた衢州の細菌戦のペストによる被害の全体は、最近、本にして出版されていますが、私が覚えている衢州の被害の一端を紹介します。

 衢州市街地においてペストにかかって家族全員が死に絶えた家は17戸・nbsp;りました。例えば小西門街に住んでいた王利元一家の4人は、5日間に、父母、妻、そして彼自身全てペストによって死亡しました。一家全員が死に絶え、死体を片づける者もいないという惨状でした。

 また、一家のうち3人以上がペストで亡くなった家は20戸以上、ペストで2人死んだ家は39戸です。

 第二次細菌戦訴訟の訴状では、衢州に対する細菌戦で発生したペスト流行による死者について、1940年から1941年末までで、少なくとも2000名の死者が出たと主張している。

 しかし日本の731部隊は、1940年10月以降も、特に1942年には、衢州に対して細菌戦攻撃を行っています。細菌戦によるペスト以外の疫病の流行、例えば炭疽などの流行も発生しています。邱先生の推計によれば、1948年末までに、衢州に対する細菌戦のために死亡した数は約5万人と計算され、また疫病に罹った中国人の総計は約30万人と計算されるという。

 今後、衢州の細菌戦被害調査が進めば、全被害者の名前の特定が可能になる日も近いでしょう。

5、細菌戦によって破壊された私の家族について

@ 父の死後、残された私の家族は、しばらく南街で雑貨の小売りを続けて、ぎりぎりの生活を続けていました。

 翌1942年には、日本軍が衢州を一時占領したので、その間は、田舎に逃げました。最初は、順確辺まで逃げましたが、日本軍が接近したのでその日の内に逃げ出し、次の沐塵には2日いて逃げ出し、原口には1晩泊まっただけで日本軍の飛行機が接近したのでさらに逃げ出しました。最後に、衢州から20キロくらい離れた九華山というところの親戚の家に身を寄せました。

A 日本軍が撤退してから衢州に戻ると、南街の店舗は日本の鬼畜兵によって焼かれ、破壊され、店に・nbsp;った金目の物はことごとく略奪されていました。

 私たち親子三人は頼りになるものは何もなく、着るものもなく、食べるものにも事欠く・nbsp;りさまでした。

 それでも私たちは商売しか生活の方法を知らないので、近所の家から幾ばくかの借金をして、靴下とタオルを仕入れて、これを売って生活をしました。

 しかし、母親は知り合いに借金を申し込んだり、仕入れの商品を卸業者から買って担いで運んだり、私と妹の食事代を欠かさぬように気を配ったりなど、様々な苦労を重ねる内に身体をこわしてしまい病気になってしましました。このような残酷な打撃に耐えることが出来ず気力を失った母親は、・nbsp;っという間に死んでしましました。

 私の母親が死んだのは、ちょうど1943年春節で陰暦の元旦の朝ナした。母は46歳の若さで死んでしまいました。

 母親の遺体は全て隣近所の人に助けてもらって埋葬しました。それからは、私と妹は本当に乞食のようにして、心やさしい人からの施しにたより、小商いをするのを助けてもらったりしながら生きてきました。本当に・nbsp;らゆる労苦を嘗め尽くしました。

B 私から家族と肉親を奪い、悲惨な生活に突き落としたのは、全て「日本鬼畜兵」の仕業です。この血債を私は一生忘れることは出来ません。私の子孫も永遠に忘れることは出来ません。

 1945年に日本の敗戦後は、新中国が誕生しましたが、私も1951年5月から「工商聯」に入りましたので、その立場から新中国の国家建設に力を出してきました。

 現在、妻と5人の子供がいます。今回、私が日本に行って裁判所で細菌戦の被害のことを話すことに、家族は皆理解と協力をしてくれています。特に子供達が、「お父さんは苦労しているから、日本の法廷でハッキリと意見を述べて欲しい」と言ってくれたことに、私は胸を打たれました。

6、衢州人民が日本政府に望むことについて

@ 私には、日本の裁判官に、衢州の細菌戦被害者の気持ちを分かって貰う責任が・nbsp;ります。そのために最後に、私たち衢州人民の願いと考えをお話しします。

 衢州の人々が「日本鬼畜兵」によって受けた侵略のむごたらしさ、暴行の激しさ、害毒の甚だしさは、言葉をもって表すことは出来ず、これまで聞いたこともないものでした。「日本鬼畜兵」の犯した甚大な犯罪行為は、衢州人民にとって血の債務で・nbsp;り、この仇と恨みは歴史の記録に記載されており、何時までも忘れることのないよう石碑に刻み込まれているものです。

 日本政府は、ドイツ政府のように、加害の事実と加害責任を明らかにし、被害者に賠償を行い、ナチス同様のファシスト的戦争犯罪による歴史的悲劇が再び繰り返されるのを防ぎ、中日両国人民の真実の友好を促進し、今後中国と日本が再び戦わないことを保障すべきです。

 日本政府は歴史的事実を正視し、日本軍731部隊が行った細菌戦の事実を正式に承認し、被害者及びその家族に対し、公式に謝罪し、必要な経済的保障を行うべきです。このようにして初めて、歴史を鏡とし、未来に立ち向かい、世界の恒久的平和を守る事が出来るのです。

A 本日、私は、衢州市で最近明らかになった1700余名の細菌戦被害者遺族代表として、私たち一人一人の家族が被った悲惨な血と涙の歴史を証明いたしました。

 これは「日本鬼畜兵」が中国の大地で繰り広げたもっとも惨たらしく非人道的な細菌戦の動かぬ証拠です。

 このとてつもない犯罪行為を日本政府が承認し、精算しなければ、私たち細菌戦被害者は一日たりとも闘うことをやめませんし、必ず、最後まで公正な道理を求めます。

 第一次細菌戦訴訟を提起した後、私たち細菌戦被害者は、衢州市内の日本軍飛行機が細菌戦攻撃を行った攻撃地点の近くに、衢州細菌戦被害者記念碑を建てました。私たちは、この記念碑の前で、細菌戦の事実を日本政府が認めるまで、そして当然の謝罪と賠償を行うまで、つまりこの正義の事業が最後の勝利を得るまで、孫子の代まで闘い続けることを誓いました。私たちのこの決意は永遠に不動のものです。

 最後に、裁判官の皆様が、国際法を尊重し、歴史の事実を尊重して人類の尊厳を守り、死者の無念の思いを晴らすために、公正な裁きを行われるよう、心からお願い申し・nbsp;げます。

 以上をもって、衢州細菌戦被害者代表としての意見陳述といたします。

    2000年6月19日

    中華人民共和国浙江省     衢州市 代表

  呉方根





[第15回裁判] 向道仁さんの陳述


原告向道仁の意見陳述書

1、常徳から来た私の気持ちについて 

@ 尊敬する日本の裁判官の皆さん、私は向道仁と申します。今年68歳で、湖南省常徳市の北側の周辺に位置する周家店鎮というところに住んでいます。

 日本の731部隊は、1941年、常徳に対してペスト菌を使った細菌戦を実行しました。その結果、恐るべきペストが常徳の中心街と、さらに広大な周辺の農村部に伝播し、農民や商人など罪のない中国の民衆が大量に殺戮されました。

 私の家族も、細菌戦のペストによって被害を受けました。たった一人の私を可愛がってくれた兄をペストで殺され、また母方の祖父もペストで殺されるという被害を受けました。さらに私自身もペストに感染し隔離病院に強制的に入院させられ、九死に一生を得て生き残った者です。

A 私は四日間かけて日本に来ました。村から常徳まで一日かかり、常徳から汽車に乗り長沙、南昌を経て二日間汽車に乗ってくたくたの状態で上海に着き、さらに上海の飛行場で夜を明かし、ようやく上海から飛行機で飛び立ち日本に着きました。

 68歳の私が気力を振り絞って来日したのは、まさに私自身が日本軍の行った細菌戦の歴史の証人だからであります。

 私は、第二次細菌戦訴訟の31名の常徳の原告を代表して、細菌戦の事実を日本国が認めることを求めてやってきました。

 また、法廷での陳述を通して、日本の良識ある人々に、細菌戦被害者の怒りと無念の声を伝えるために来日しました。

 私は、この東京の裁判所の法廷において、正義と良識を有する裁判官と傍聴に来られた日本の皆様に、湖南省常徳が731部隊の細菌戦によって被った悲惨な細菌戦被害の実状について陳述したいと思います。


2、常徳の第二次細菌戦訴訟の意義について

@ 1941年11月4日、日本軍731部隊は九七式軽飛行機を湘西の玄関口である常徳に侵入させ、ペスト菌の付着した36キロのノミを散布しました。常徳は、四川省と貴州省の喉元にあたる軍事要地でありますが、この細菌戦によって空前の災難に見舞われました。

 731部隊が細菌戦を行ってから8日後の11月12日、常徳広徳医院は、12歳の少女蔡桃児を検診し、最初のペスト患者を発見したと報告しました。

 その後、常徳ではペストに感染して急死する人が相次ぎました。常徳は一気に恐慌状態に陥り、当時重慶にあった中国の中央政府は、医療隊を常徳に派遣し、緊急防疫活動を展開しました。

 しかし、当時は経済的条件が伴わず、衛生状態も悪く、市民の防疫に関する知識も充分ではなかったため、ペストを抑え込むことは困難でした。

 1941年に常徳の中心街で流行した後、ペスト流行は一旦終息したかのように見えたが、1942年春、市街地で再度ペストの大流行が発生し、さらに交易や人口の流動に伴ってペストは周囲の農村に蔓延していきました。

 すでに第一次細菌戦訴訟で明らかになっているとおり、1942年5月には、常徳から約30キロ離れた桃源県馬宗嶺李家湾村一帯でペストが流行しました。同年10月から1943年春にかけては、石公橋鎮でペストが大流行しました。また石公橋鎮の近くの鎮徳橋鎮にペストが流行したことも分かっていました。

A 1997年に第一次細菌戦訴訟を起こしてから、常徳では、さらに詳しい細菌戦被害に関する調査が行われました。その結果、今回の第二次細菌戦訴訟で原告になっているような常徳の周辺の新たな地域での細菌戦被害が分かってきました。

 例えば、河伏鎮、芦荻山鎮、聶家橋鎮、石門橋、許家橋、周家店鎮、韓公渡鎮などにおいて、大規模なペスト流行が発生し、大量殺戮の被害が出ていたことが分かりました。

 1994年から現在までの細菌戦被害調査によると、1941年から1944年までの間に、常徳市の周囲の10の県、36の郷、156の村が細菌戦の災禍に遭いました。

 現在までの調査結果では、細菌戦のペストによる常徳全体の死亡者数は約7000人に及んでいます。ただし、この数は名前が判明している死者だけです。

 常徳市の周辺の広大な地域で、ひっきりなしに発生するペスト流行の災難は、常徳の人々に堪え難い苦しみを与えたのです。


3、周家店鎮の細菌戦被害について

@ 私の郷里周家店鎮は、洞庭湖の西岸に位置し、常徳市の中心からは、北に約30キロのところにあります。周家店鎮は、当時人口が1万5000人くらいで、穀物、綿花、魚類やスッポン等を豊かに産出するところです。

 周家店鎮では、1942年以降、ペストの大流行が発生しました。周家店鎮の中に細菌戦被害調査委員会を組織して、鎮の中の各村々を訪ねて調べたり、また70歳以上の老人10数名からも聞き取り調査をしました。

 その調査結果によれば、周家店鎮を含む洞庭湖西側周辺の一帯でペスト被害を受けて、死んだ者は3344人です。ペストに罹って奇跡的に生き残った者は9人です。ただし、この死者の数には未だ調査中のため名前が確定されていない約1600名の死者が含まれており、細菌戦被害の全体像は今後の調査でさらに明らかになるでしょう。

 このように周家店鎮は、常徳の細菌戦被害の中でも被害が激しかったことを示しています。これらの周家店鎮を中心としたペスト被害者を地域的に見ると、32の村に分布しています。

 さらに周家店鎮から、常徳以外の湖南省の各地や湖南省の隣の湖北省にもペストが伝染したことが分かっています。例えば、湖南省の湘潭の陳金階、長沙県の劉運坤などや、さらに湖北省閘口の沈大成、公安県の劉際発などの出身者が、周家店鎮九嶺村の向家の搾油場で商売をしてペストに伝染し、地元に帰宅途中ないしは帰宅後に死亡しています。

  以上の事実は、731部隊が使ったペスト菌の強力な伝播性を物語っています。

A  次に私の故郷である周家店鎮の細菌戦被害の悲惨な被害についてお話しします。

(1) 周家店鎮の九嶺村には、向家の搾油場がありました。そこは、当時、遠方や近隣を問わず、どこでも評判の食油生産場でした。

 しかし、この向家の搾油場にもペストが伝播し、1942年10月から11月にかけてのわずか10日余り、搾油場を経営している向氏の一族80人余りのうち、ペストで43人が死亡しました。向家は家族の半数以上をペストで殺されたのです。

 初めの頃の死者は、親戚や隣人によって埋葬されましたが、だんだん後から死んだ者は、乞食などの下層民の首領哄さんの手下たちに頼んで埋葬してもらうほかありませんでした。

 その結果、これらの手下たちもペストで死んでしまいました。

 九嶺村の向家の搾油場は、すでにペストが流行し疫病地区になっていた石公橋とも商売上緊密な往来がありました。調査によれば、最初の被害者は、向家の搾油場のアルバイトの向道伍という青年で、彼は仕事で石公橋に行き、ペストに感染して九嶺村に戻ってから死亡しました。

 もともと九嶺村の向家の搾油場は、頻繁に商人がやってくる所ですから、ペストの疫病は向家の搾油場から急速に四方へ伝染していきました。

 その結果、八劉家、羅家庵、下陳家、熊家橋、胡家庄、柳渓湾、黄公咀、向家盟、李家衝、徐家湾、新時堰など、湖の周囲のあちらこちらで絶え間なく疫病の災難が発生しました。

 当時、周家店では「水に毒有り、人疫病に遭う」という歌がはやりました。

(2)八劉家の32戸の農民や漁民の家族のうち、18戸でペストによる死者が出ました。劉方貝の一家11人のうち、7日の間に9人がペストで死亡しました。長男の劉采平夫婦だけが、遠いところに避難し、幸いにも難を逃れました。

 夾堤口の渡し船の船頭王老二の一家6人は、7日の間に全てペストで死んでしまい、渡し船は途絶え、行き来する人はいなくなってしまいました。

 渡し場から300メートルも離れていない清華造船所は、もともと取引が盛んで、繁栄している工場でした。その造船所工場の建物は27棟有り、労働者は38人いましたが、ペストで11人死亡し、工場は潰れ、人もいなくなってしまいました。

(3) 黄公咀村では、20歳の周米生と18歳の熊五枝は結婚式の準備を行っているさなかに二人ともペストに感染して死亡してしましました。祝い事が弔いに変わってしまいました。余りにも不幸なことで、人々は皆、深く嘆き悲しみ、涙を流しました。

(4) 柳渓湾には、旧家曾家の曾広達、曾溢林が開設した少林武術館があり、もともと60名余りの門下生がいました。しかし、1942年10月曾広達の子曾昭勝がペストにかかって死亡し、続いて武術師範の曾広達が死亡し、更にそれを追って門下生、隣人など立て続けに死亡し、わずか10日余りで、ペストで死亡した者31名に達しました。

 ここが伝染源となり、20日の間に、この村の疫病による死者は158人になりました。このようにして武術館は閉鎖され、武術の伝統は途絶えてしまいました。

(5) 周家店鎮には官堤障、白榮湖などの荒れた中州や湖からなる地域があります。その面積は約80平方キロです。そこには3000人余りの人々が住んでいましたが、彼らは全て各地から子や娘を連れてやってきた貧しい農民や漁民でした。

 この地域でも、1942年秋以降、ペストに感染して死ぬ人が出てきました。ペストに罹った人々は、堤や湖の周り、或いは茅葺きの掘建て小屋で死に、死者の死体を片づける人は誰もいませんでした。

 荒れた中州の上の至る所に人や獣や鳥、魚の死体が散乱し、臭気が立ちこめ、埋葬する者のいない死体は、上空を旋回する鳥たちの啄むがままになりました。


4、私の家庭及び私自身のペスト被害について

@ 最後に、私の家庭で発生したペストによる死者と私自身がペストに罹った事実についてお話しします。

 私の家族は、両親と兄と私の4人家族で、周家店に住んでいました。両親は農業をやっていました。

 1942年、家族の中から、私が一番頼りにしていた兄の向道福がペストで死亡しました。当時14歳だった兄は、母方の祖父謝永祥がやっていた洞庭湖から周辺の小さな湖で魚を捕って生計を立てていた仕事を助けていました。

 兄と祖父の二人は、1942年10月中旬のある日、二人で船に乗って、隣の石公橋の丁国豪魚店に魚を売りに行きましたが、そこでペストに感染しました。周家店鎮の漁場に帰る途中、二人は与家湖の岸辺でペストで死んでしまいました。

 二人が戻ってこないので心配した私の両親は二人を捜していましたが、二日後にやっと彼らの死体を探し当てました。

 しかし、二人の死体は、体が黒く変わり果ててしまい、家まで運んで持ち帰ることは出来ませんでした。

 両親は、どうすることも出来ず、しかたなく漁船を棺桶として、その地で埋葬するほかありませんでした。それは、腑が千切れるような痛ましい光景でした。

A 私は、兄と祖父がペストで死亡した頃は、親戚である石公橋鎮響水盟村の母方の叔父易冬生の家にいました。

 丁度、私が石公橋にいる頃に、その叔父易冬生の姪の易恵清と弟の嫁周妹姐がペストに感染しました。二人は、たった一日で死んでしまいました。

 私は、二人が死ぬ前には看護の簡単な手伝いをし、さらに死んだ後は死体を棺桶に入れるのを手伝いました。

 ところが私は、その看護や死体の処理でペストに感染し、その二人が死んだ日の深夜から、頭痛が始まり、高熱を発し、寒気がしたりしました。

 私がペストに罹ったと判断した家族の者は、私を直ちに石公橋防疫院に入院させました。当時、石公橋では日本軍による細菌戦でペストが大流行していたため、隔離施設が3つありました。私が入院した隔離施設は、小学校の建物を使った施設でしたが、他に福音教会と杜家荘屋が隔離施設として使われていました。

 私は、その小学校でペストの治療を受けました。外国人で「ポリス」と呼ばれていた医者がいて治療をしてくれたことを覚えています。私は、最近の被害調査の中で中国の防疫関係の記録を見て、その外国人がポリッツアーという医師でペストの世界的な権威者であることを知りました。

 私は、隔離施設で注射や薬で手当を受け、奇跡的に1週間くらいで危機を脱し、その後健康を回復して、おかげで今日まで生き長らえることが出来ました。


5、今も続く細菌戦の被害について

@ 日本軍731部隊の細菌戦は、私たち中国人の数多くの同胞を殺害し、傷つけました。しかし、今の問題は、細菌戦という残虐な加害行為による被害は、50数年前の行為の時点で終わってはいないということです。

  戦争のつめ跡は、その加害行為が細菌戦のように残虐な場合には、被害者の心の傷となって、百年や二百年、あるいはそれ以上残り続けるものです。

 特に加害者である日本が、細菌戦の事実を隠そうとする以上、私たち細菌戦被害者にとって、細菌戦の残虐な被害は、今も被害者の気持ちの中に、家族の中に、さらに地域や社会の中に、癒すことの出来ない傷跡を残し続けています。

A 1998年8月、中国人であり、日本の大学で教員をしている女性文化人類学者の聶莉莉先生が、私の故郷の周家店鎮を訪れました。彼女は、50年前の細菌戦という残虐な戦争の傷跡が、周家店の中でどのように残り続けているかを詳しく調査されました。

 戦争犯罪の問題は、それが残虐であればあるほど、その残虐さを包み隠さず真実を明らかにすることが最も有効な解決方法なのです。しかも、その真相の解明に加害者の側が協力することが、絶対に不可欠な作業なのです。

 聶莉莉先生の調査のような専門家の調査と特に分析は、被害問題を整理し、私たち細菌戦被害者を戦争被害の呪縛から解き放つために重要な役割を果たす作業であり、私たち細菌戦被害者の全体的な状況を正確に把握するもので極めて貴重なものです。

 また私たち自身の被害調査も、そのような細菌戦の残虐さを明らかにして戦争犯罪の被害を克服する作業の一つなのです。


6、最後にー細菌戦被害者の決意について 

@ 私たち細菌戦被害者は、最近、日本と日本人に対して、ますます悪い印象を持つようになっています。

 中国細菌戦被害者は、最初、1997年8月に東京地方裁判所に提訴しました。中国の細菌戦被害者は、一刻も早く、日本の裁判所が公正な判決を下すことを待ち望んでいます。しかし、私たちが頼んである土屋先生を初めとする日本の弁護士さんから、裁判の中で、被告である日本国は、細菌戦の事実について、やったのか否かという事実の認否すらしていないと聞いています。被告は、事実はどうでもいいから細菌戦被害者の裁判を退けるように求めていると聞きました。

 私たちは、被告の日本国に、あなた達は731部隊の細菌戦を否定するつもりなのですか、と尋ねたい。

 他方、裁判所には、被告が事実を認めない以上、原告側が申請した証人を全部採用して731部隊の細菌戦の戦争犯罪を立証させるように求めたいと思います。

 私たち中国人は、日本の裁判官に細菌戦の被害地に来て、細菌戦被害者の多数の声を聞いてもらいたいと思っています。

 私が述べた常徳のペスト被害の惨状は、常徳を襲ったペスト被害のほんの一部に過ぎません。もっともっと悲惨な被害が、731部隊の細菌戦によって生まれているのです。

A 第一次訴訟の108名の原告と第二次訴訟の72名の原告が細菌戦裁判で求めていることは、中国の細菌戦被害者全体の最低限の要求です。

 日本の731部隊が細菌戦を行い、悲惨な被害を出したことについて、中国には多数の生き証人がいましたが、今では大部分の人が死に、生き残っている人もみんな高齢です。生き残っている人は、日本政府が細菌戦被害者に、細菌戦の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うことを、自分たちが生きているうちに自身の目で見たいと切望しています。

 もし中国の細菌戦被害者が裁判で求めている最低限の要求する認められなければ、私たち細菌戦被害者は、子々孫々まで、こぞって最後まで日本の細菌戦の責任を追及し、細菌戦の真実を明らかにするために闘い続けるでしょう。


中華人民共和国湖南省常徳市
鼎城区周家店鎮代表

向道仁
2000年6月19日