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[第2回裁判] 楊大方さん(衢州)の陳述

意見陳述書

1、私は、中国浙江省衢州の楊大方と申します。1932年衢州に生まれ、現在66歳です。私は、日本軍731部隊が衢州に対し行った細菌戦の被害者の遺族です。

 衢州は1800有余年の歴史ある文化都市であり、山紫水明、交通の便もよく、気候は温暖、物産も豊富なところです。衢州には中国の有名な思想家にして教育家であった孔子の南宗家の廟があり、衢州は孔子の家族の第二の故郷です。

2、衢州の人は、昔から勤勉かつ礼儀正しく、代々平和に暮らしておりました。

 ところが、今から58年前、衢州は、日本軍の細菌戦によって攻撃され、ペストが大流行するという取り返しのつかない災難に見舞われました。1940年10月4日、日本軍の飛行機が、衢州の街に穀物と一緒にペストに感染したノミを投下しました。悪名高い石井四郎が指揮する日本軍731部隊が、衢州に対してペスト菌を使った細菌戦攻撃を行ったのです。

 その直後、衢州の街では、地面に穀物にまじって大量のノミがいるのが発見され、大きな騒ぎになりました。ついで10月下旬ころから、衢州の街ではネズミの死体が多数発見されるようになりました。

 ついに11月12日、柴家巷の当時12歳だった呉土英がペストに感染しました。彼女は、原告呉土福の姉でしたが、発病から数日後に死亡しました。また原告程秀芝の姉程鳳娜は、12月初めにペストに罹りました。彼女は、当時18歳で、発病して数日後に死にました。

 資料によれば、1940年の11月以降年末までに、衢州の街では今述べた柴家巷や上営街のほか、羅漢井や水亭街などでもペストによる死者が出て、合計24名がペストで死亡しました。この死者の数は、はっきりしている者だけですから、実際のペストの犠牲者はもちろんもっと多いはずです。

 ペストに感染した人の共通した病状は、頭痛、発熱、悪寒、鼠径部などのリンパ腺肥大等でした。衢州の衛生院は、患者を診断し、さらに発病者のリンパ液を採取して検査し、ペストであることを確認しました。一方、防疫委員会は、ペストの流行した地区を封鎖したほか、隔離病院の設置、ペスト患者の出た家屋の封鎖焼却、さらに住民への予防注射およびネズミの撲滅などの防疫対策を実施しました。また患者の家族や住民を隔離したり検査を行う施設として、隔離所のほか、衢江に浮かべたたくさんの船が使われました。

3、こうして日本軍の細菌戦によって、1940年の11月と12月に、それ以前には衢州の歴史上一度も発生したことが無かったペストが、衢州で発生したのです。しかも衢州のペストは、すぐには終息しませんでした。ペスト対策として隔離されたり家を焼却されることを恐れた住民は、病状を隠したり、病人や病死体を街の外の農村に移したため、翌1941年には、ペストは、県城ではより広い範囲に拡がり、さらに県城周辺の農村にも伝播しました。衢州では、日本軍の細菌戦の結果、その後数年間にわたりペストが大流行しました。

 資料によれば、1941年には、衢州城区において281名がペストに罹り、うち274名が死亡しました。これらの衢県城での犠牲者に周辺の農村でのペストの犠牲者を加えると、1941年中の死者は合計で少なくとも1200人以上にのぼります。4、1941年3月、私の父楊惠風がペストに感染し、死亡しました。日本軍の細菌戦によって私の父は殺されたのです。

 当時の私の家族は、両親のほか兄が2人、妹が2人、父方の祖母の8人でした。父は38歳の働き盛りで、時計店を経営していました。店は、封鎖された疫病地区の一つの県西街から300メートル足らずの県城の南街にありました。

 家族のうち両親と私が南街の店に住み、他の家族は店から近い棋坊巷にあったもう一つの家に住んでいました。

 父の時計店はとても繁盛しており、叔父が店の仕事を手伝うほどでした。

 父はとても健康で、病気をしたのを見たことはありませんでした。当時9歳だった私は、父が忙しそうに店で仕事をしている様子を見るのがとても楽しみでした。

 ところが、1941年3月、父は頭痛と発熱を起こし病に倒れました。すぐ医者に往診してもらいましたが、父の病状は悪化する一方でした。高熱は下がらず、食べることも眠ることもできない状態でした。両足の鼠径部のリンパ腺が腫れ、一日中うめき苦しみました。

 母は、必死で医者に治療を頼み、自分でもさまざまな民間療法や薬を試みましたが、父の健康は回復しませんでした。ついに3月28日、父は発病後わずか一週間でこの世を去ったのです。子供だった私は、父が死んだことが信じられず、母とともに泣き叫ぶしかありませんでした。今でも私は、母の顔を必死に見つめていた死ぬ直前の父の眼差しを忘れることが出来ません。父の眼は、生きたいという思いを私たち家族に伝えていました。

5、父が亡くなると、父の遺体は白い布にくるまれただけで、棺にも入れてもらえないまま、衢江の対岸の花園崗という荒れ地のどこかに埋められました。悲しいことですが、父が埋められた正確な場所は、今でもわからないままです。

 父の死後、時計店は封鎖されました。母と私は、隔離のために、衢江に浮かぶ船の中に送り込まれました。私と母は、約半月間、船の中に隔離された後、ようやく棋坊巷の家に戻りました。ところが、祖母は、自分の息子が突然ペストで死んだことへの悲しみから、体力が急に弱ってまもなく亡くなりました。

 一方、当時15歳だった兄は、父の死後、家族の負担を少しでも減らし、侵略日本軍と闘うために、母方の叔父と一緒に国民党軍に参加し故郷を後にしました。

 このようにして、幸せで円満だった私の家族は、日本軍の細菌戦によって、離ればなれになってしまったのです。

 10年前、台湾から、兄と叔父が、あいついで親族訪問で帰ってきました。父が細菌戦で死んでから47年ぶりに、私達兄弟姉妹は、一堂に会することができました。しかし、父の死後、長年苦労した母は、戦争中に別れた兄と再び会うこともできぬまま、1952年にすでに病気で亡くなっていました。

6、日本軍が敗北し中国侵略が終了した後も、衢州においてはペスト予防のためにネズミ駆除、予防注射、検査等を行っています。現在でも、毎年ネズミのペスト検査と大掛かりなネズミ駆除が実施されています。日本軍の細菌戦の影響は、今日でも続いているのです。

7、私は、衢州の細菌戦被害者を代表し、日本政府に対して、日本軍が細菌戦を行ったという歴史的事実を正式に認めて中国人民に公式に謝罪すること、また私たち細菌戦被害者の一人一人に対しても謝罪し、かつ損害賠償をすることを、ここに厳然と要求します。

 日本政府は、国際法に違反して日本軍が行った細菌戦の真相を積極的に究明し、勇気を持って細菌戦の責任を認め、細菌戦被害者たちに謝罪し、賠償すべきです。そうしてこそ、細菌戦による被害者の理解が得られ、中日友好の前提と基礎が築かれ、世界の人々の称賛と信任を得、真の世界平和に貢献することができるのです。

8、最後に、尊敬する裁判官の皆様、公正な判決をされるようお願いします。

 中国には古くから、「父を殺した仇とは共に天を戴かず」という言葉があります。日本軍の731部隊が中国で細菌戦を行ったことは、紛れもない事実です。この残忍非道な犯罪行為が清算されない限り、私たち細菌戦被害者は、日本政府を永遠に許すことはできません。私たちは、正義が邪悪に、良知が暴虐に勝つ日まで、最後まで闘い抜く覚悟です。


 以上をもって、衢州の原告を代表しての私の意見陳述といたします。


    1998年5月25日




[第2回裁判] 金祖池さん(義烏)の陳述


意見陳述書

1、私は、浙江省義鳥市稠城鎮の北門に住んでいる金祖池です。1921年9月生まれで、現在76歳です。私は、義鳥市の細菌戦被害者家族を代表して、貴裁判所に対し、意見を述べたいと思います。

 義烏市は、浙江省の中央に位置し、北は諸寰sと、東は東陽市と、西は金華市と、それぞれ接しています。義烏は、浙ガン鉄道が通っている交通の要地であり、そのため昔から農産物の集散地として発達し、各地との交流も盛んでした。一番の特産品はハムです。また蛍石鉱が近くにあることでも有名です。産業と商業の街として歴史のある地域です。

 この豊かで平和な土地を、日本軍はペスト菌によって蹂躙したのです。

2、1940年の10月、日本軍731部隊は、当時の衢県の市街地に、飛行機から穀物などと一緒にペストに感染したノミをばらまきました。このため衢県では同年11月以降ペストが流行しました。義鳥市のペスト被害は、衢県で流行したペストが、翌41年9月以降伝播してもたらされたものです。

 最初に1941年9月初め、当時の義烏県の北門に住んでいた鉄道員の冠明が仕事で衢県に行き、そこでペストに感染して義烏にもどり、翌日に死亡しました。冠明は隣県の諸宸フ出身者でした。

 その後しばらくして、義烏の稠城鎮北門でペスト患者が発生し相次いで死亡しました。また病人の家やその近隣で、死んだ鼠が大量に発見されました。義烏県衛生院は、病人の病状や死んだ鼠の発見から、疫病がペストであると判定しました。

 県政府は、ただちに緊急措置をとり、防疫委員会を設立、医療班を組織し、隔離所を設置、防疫チームを作りました。

3、1941年当時、私の家は北門にありました。家族は、祖母、父、母、兄、2人の弟、3人の妹、そして私の計10人でした。ペスト流行地域は、疫区として封鎖されましたが、私の家も封鎖区内にありました。

 人々は皆、死の恐怖を感じていました。防疫係員は、私達に外出を禁止しました。病人を発見すると、通知を出し、その後は病人の家族も全員を強制的に隔離所に入れ、監禁状態にしました。そして隔離所に入ると、生きて帰れる望みはありませんでした。

 ですから、祖母陳竹英がペストに感染した時、誰も声に出して言うことができず、こっそり医者を頼みましたが、医者も恐れてきてくれません。祖母は、高熱にうなされ、脇の下や鼠径部のリンパが腫れ、顔じゅう真っ赤になって、水が欲しいと叫びました。祖母は、水を飲んでも飲んでも、やはり「水!水!」と叫び続けました。祖母は、ずっと寝床の上で寝返りを打ち続け、また髪の毛を掻きむしり、胸をたたき、そういう状態をくり返したすえ、死にました。祖母はまだ62歳でした。

 祖母が亡くなってすぐ、母呉才英もペストに罹りました。母は発病した頃41歳でした。やはり高熱が出て、リンパ腺が腫れました。母は、死ぬ間際に子供たちに向かってしきりに叫びました、「逃げなさい!逃げなさい!」と。

 私達が悲しみながらも涙を抑え、慌ただしく母親を埋葬しているとき、今度は、三女の8才の妹金宝釵もペストに罹り、危篤状態になりました。その妹は、母と同じベッドで寝ていたためペストに感染したのです。妹は、高熱の苦しみに耐えられなくなり、自分の服を破って転げまわるという悲惨な状態でした。妹は、死ぬ間際、ひとしきり痙攣し甲高い叫び声をあげました。妹は、まだ幼かったこともあり、一番かわいそうでした。

4、私の祖母、母、妹と身内が一人また一人と亡くなるにつれて、残された家族の心は、ずたずたに切り裂かれていきました。しかし、私達にはただ黙って涙を流すことしかできませんでした。

 埋葬も苦労しました。力の強い人を雇って棺を用意し、深夜人々が寝静まった頃になって、やっと肌を刺す寒風の中を、こっそり防疫係員の目を逃れながら郊外に行き、そそくさと身内の死体を埋めました。そして空が明るくならないうちに、人に知られないように家に帰りました。

 疲れ切った体を引きずりながら、涙がとめどなく流れ落ちて、その大きな悲しみは、本当に形容し難いものがありました。

 ペストが流行してから二女と四男は、母の実家に避難しました。母の死後、さらに長女と三男も、また母の実家に避難していきました。

 そのうちに私達家族の中にペストに感染したものがいることが防疫機関の知るところとなりました。防疫係員は、感染していない父親まで隔離所に連れて行きました。でも父は、監視員が気を緩めている隙にぬけ出して、母の実家に逃げました。しかし村に入るのを恐れ野原に隠れていました。そして叔母にこっそり食べるものを持って来させては、何とか生き長らえていました。

 私の兄金祖恵もペストにかかりました。兄は、胡椒の粉を混ぜて作ったきついお酒を酔いつぶれるまで飲み、生のニンニクをたべました。幸いなことに、兄は、体が丈夫だったので徐々に回復し、生き残ることができました。

5、義烏のペストが蔓延する速度は非常に速く、すぐに北門から東門、さらに県前街まで広がりました。さらに小三里塘、嶺下、楊村など、県の役所所在地の周辺地域にまで波及していきましたが、1942年2月になってようやく、徐々におさまってきました。

 資料によると、1941年9月から1942年2月までの間、義烏県城地域でペストに感染し死亡した者は、少なくとも215人いました。細菌戦が義烏の住民に与えた災難は、まさにこの世のものとも思われないほど悲惨なものでした。

 この日本軍の細菌戦は、県城の北門、東門を中心とした義烏の人々に、1941年秋以降の6ヶ月余りの間に、いやというほどの災難を与えました。一家全員が死に絶えた家や子供と妻だけ残して他の家族が全員死んでしまった家もありました。

 このような言葉に表せないほど悲惨な被害をもたらした細菌戦を呪わないでいられる人がいるでしょうか?

6、この事件があってからすでに56年が経ちました。今日やっと歴史は、私達に貴裁判所に被害の実状を陳述する機会を与えてくれました。中国の古い諺に「前事不忘、後事之師」というものがあります。それは、「過去のことを忘れないで、将来の戒めとする」というものです。この法廷で審理されている細菌戦は、まさに日中両国人民、ひいては全世界人民が、永久にこの残酷な歴史の事実を心に刻み込まなければならないものです。それによって、人類の尊厳を守り、世界平和を守る事業に奮起できるのです。そのための前提条件として日本政府は日本軍が中国を侵略していた間、中国で行った細菌戦という全世界周知のこの事実を、正視しなければなりません。細菌戦の事実を正視してはじめて、現在の日本政府は、世界人民の前に、公正な姿を打ち立てることができるのです。そして、そうしてこそ、中国人民ひいては世界人民の懸念、すなわち、日本が再び軍国主義の路を歩き出すのではないかという懸念を取り除くことができるのです。

 私達は、正しく歴史に対処することが、世界平和と正義を守る事業の最低限の前提であると考えます。私たちは、日本政府が一刻も早く事実を事実として認めて、二度と再び悲劇を繰り返して欲しくないのです。

7、私は、今年すでに76歳となり、高血圧を患っておりますが、この細菌戦の歴史の事実を明らかにするため、高齢で体が弱いのも顧みず、はるばる海を越え、日本の貴裁判所まで訴えにやってきました。これも一重に細菌戦を経験し、これを後世にまで真実として伝えていく者の使命感に基くものです。私達は、祖先を弔う祭りの時期には、亡くなった身内にこの裁判の報告をし、安心させてやることができることを願っております。

 最後に、敬愛する裁判官諸氏が、一刻も早く、日本政府の細菌戦に関する全面的な責任を認められるよう心から訴えます。

 以上をもって、義烏の細菌戦被害者を代表した私の意見陳述を終わります。


1998年5月25日




[第2回裁判] 薜培澤さん(江山)の陳述

細菌戦は正義の審判を受けるべきである

1、私は、中国浙江省の江山市の薛培沢といいます。私は、いま69歳ですが、定年になる前は、江山市文化館に勤務して『江山市志』の編纂などをしていました。

 江山市は、浙江省の一番西の奥に位置しています。江山の西は江西省と接しており同省の玉山市が近く、その南は福建省と接しています。浙江省を貫き江西省に至る浙ガン鉄道は、江山を通っています。浙ガン鉄道の「浙」とは浙江省を、「ガン」は江西省を意味しています。

2、真珠湾攻撃を受けたアメリカ軍は、1942年4月、日本の東京などの諸都市を空爆しましたが、日本の政府や軍部は、この空爆に強い衝撃を受けました。天皇の命令を受けて、日本軍は、同年5月から、日本空襲に利用される浙江省・江西省の衢州や玉山などの飛行場を破壊することを目的に、浙ガン鉄道沿線の諸都市を攻撃する大規模な作戦を開始しました。この作戦にもとづき、日本軍は、杭州占領に続き、義烏、金華、衢州を次々と占領し、ついに6月10日頃、江山の県城を占領しました。

 日本軍は、1942年6月から8月20日頃の2ヶ月余りの間、江山を支配しました。しかし江山の人は県城からは逃げ出しましたし、田舎でも家にいるのは夜だけで昼間は山に隠れて日本軍から逃れて生活していました。

 日本軍の江山占領中、当時13歳だった私は、日本軍に捕まった経験があります。私は、山に隠れていたところを、山の捜索にきた日本軍に発見されて捕まり、江山の街に連れて行かれ、日本軍の陣地で、日本軍のために、米をひいたり、野菜を洗ったり、さらにアワの草のうちわで日本の兵隊をあおいで涼んでもらうという労役を強制的にやらされました。日本軍の退却直前に他の中国人の協力をえてようやく逃げ出しました。

 私は、その捕えられていた間に、日本軍が江山の民衆を多数殺すなどの残虐行為を行った事実を、間近にこの目で見ました。

 しかし、もっと残酷な江山住民に対する日本軍の犯罪行為は、コレラ菌を使って731部隊などが江山で行った細菌戦です。

3、1942年8月下旬、日本軍は、江山を撤退しましたが、その際に731部隊などの細菌戦部隊は、江山の街と周辺の農村にコレラ菌を地上から散布しました。

 江山での細菌の地上散布の方法は、いく通りもありますが、その一つは、人が飲料用などに使っている井戸の中に直接コレラ菌を投げ込むという方法です。その後に井戸の水を飲んだ人をコレラに感染させようとするものです。他には、熟した果実の中にコレラ菌を注入したり、コレラ菌に汚染された餅などの食べ物を住民に配るなどの方法が行われました。

 コレラに汚染された食べ物は、直接に住民に手渡す場合もあれば、コレラ菌の付いた餅などを野菜かごに入れて、道路沿いの木の下や農家の入り口などに置いておく場合もありました。いずれの場合でも、日本軍は、卑劣にも中国の普段着を着て、中国の一般民衆や国民党兵に扮して細菌戦を実行しました。江山では細菌戦によるコレラで少なくとも80人以上の住民が殺されましたが、私は甥1人と姪2人を殺されました。

4、私が捕らえられていた日本軍の陣地から逃げ出して家にもどったのは、8月20日頃でした。その当時、私の家は、江山の県城から約4キロ離れた、現在の何家山郷の中の小さな山村にありました。私が家にもどって間もなく一家が団欒していた時、七里橋という村に住んでいた姉の薛泉妹が、はげしく泣きじゃくりながら家にかけ込んできました。姉は私よりはるかに年上で35歳くらいで、夫頼世富との間に4人の子供がいました。七里橋は清湖鎮の中にあり、私の家と約5キロ離れていました。
 その当時は姉の夫とその長男の原告頼清泉の2人は私の家におり、姉とその長女と次女と次男の4人が七里橋に住んでいました。
 姉は、家に着くなり、3人の子供が日本軍に殺されたということを泣きながら訴え始めました。2日前に、姉の次男頼清劒(当時6才)長女頼双蘭(当時8才)、次女頼双花(当時3才)の3人の子供が、野菜籠に入れられて竹薮のそばに置いてあった餅を食べたところ、間もなく3人とも激しい腹痛に苦しみだし、さらに嘔吐、下痢が止まらず、一昼夜が経って全員死んでしまった、というのです。
 姉は泣きながら「この3人のチビたちは、本当にかわいそうな死に方だったわ。これは日本軍が毒を盛ったのよ」と言いました。また姉は続けて「双蘭は死ぬ前にまたぐったりとしながら、小さなお棺を私の為に作ってよ、と言ってたわ」と言いました。

 姉の話を聞いていた姉の夫は、歯をくいしばりながら、「日本兵は本当に天罰を受けるべきだ。彼らは子供でさえも容赦しない。この仇は必ず討ってやる」と言いました。

 その夜すぐに、私と姉夫婦とその長男頼清泉の4人で、七里橋に行きました。姉の家に着いたとき、ランプの下に、3人の子供たちの姿が見えました。藁もござもひいてないベッドの上に、3人の子供たちは、それぞれうずくまるように横になっていました。全身青黒くなった死体の周りは、排泄物だらけで、ハエや蚊が飛び回り、見るも無惨でした。姉は大声で泣きました。姉の夫は、泣こうにも怒りで声も出ず、ベッドの板で小さな棺を1つ作り、3人の死体を入れました。その頃は、まだ日本軍が江山の街の中にいましたので、近所の人にも手伝ってもらって、急いで山へ担ぎ出し、死体を埋めました。

 私と清泉は、姉の家に1日泊ってから、私の家にもどりました。ところが家に戻ってから、私と清泉が、コレラに罹りました。まず口が渇き、いつも水を飲みたくなり、水を飲むと、腹痛がして、下痢になりました。ただベッドの上で横になるしかありませんでした。

 幸い、当時私の家には、ある街で漢方の店を開いている親戚がおり、貴重な漢方薬が家に保管してありました。その親戚は、我々2人が病んでいるのを見て、2人の脈をとり、コレラにかかっていると診断して漢方薬を処方してくれました。1ヶ月あまりその漢方薬を飲み続け、やっと我々2人は死の縁からはいあがり、だんだんと健康を回復しました。我々2人が発病した原因は、七里橋で、日本軍がコレラ菌を入れた水を飲んだからでした。

5、日本軍731部隊は、細菌兵器のためにさまざまな種類の、危険な病原菌を大量に培養しました。それら多くの種類の細菌が、実際に細菌戦で使われ、中国各地にばらまかれたのです。現在でも、細菌戦で使われた病原菌は、中国国内で絶滅せずに生き続けており、また、ある種類の細菌は突然変異を生じてもっと危険なものになっているのです。このようにして細菌戦で使われた細菌が、現にわが中国を汚染し続けており、中国の民衆に危害を加え続けています。

 このような細菌戦によって汚染された環境を浄化し、安全で平和な環境を創造していくためには、まず日本政府が、中国の何処で、いつ、どんな細菌を散布したのか、という細菌戦に関する基礎的なデータを明らかにしなければならないと考えます。

 日本政府は、細菌戦の歴史的事実を正視し、全面的に認めなければなりません。中国の古い言葉に「もし知られたくなくば、自ら為すなかれ」とあります。歴史というものは無情なもので、真実を隠し通すことは絶対にできません。歴史の事実を認めない政府の責任は、時とともに重くなり、最後には民衆によって倒されるしかないのです。

 我々中国人には、罪深き細菌戦の事実を暴露するだけの千の理由、万の権利があります。もし日本政府がこれからも細菌戦の事実を隠そうとするなら、中国13億の人民だけでなく、世界中の正義感ある人々が日本政府を許さないでしょう。

 最後に、裁判官の方々には、被告の日本政府が、私たち中国人の細菌戦被害者に対して、細菌戦を行ったことを謝罪し、細菌戦の被害を賠償する判決を下されるよう心からお願いいたします。

 以上で江山の細菌戦被害者を代表しての意見陳述を終わります。


        1998年5月25日