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[第6回裁判] 王選さんの陳述(4)

一、今年一一月一八日、この訴訟の原告団が、浙江省義烏市日本軍細菌戦被害者

連絡会や、調査委員会と一緒に主催して、この訴訟の日本軍細菌戦被害地の一カ所浙江省義烏市崇山村で義烏市全域四〇数カ鎮、村の約一〇七〇名の細菌戦被害者記念大会が行われました。

 東京から日本弁護団の代表、日本の大学生、ニューヨークから国際的華僑市民連盟『抗日戦争史実維護会』(以下「史実会」)代表、この訴訟の各被害地の原告代表、被害者連絡会、調査委員会代表、浙江省の他の日本軍細菌戦被害地、麗水、金華、東陽の被害者、調査委員会代表、義烏市四〇数カ所の被害地の原告、被害者連絡会、調査委員会代表、義烏地方の高校、中学校、小学校の教師・学生代表、崇山村所在の江湾郷人民政府代表、上海の市民、フリーランス・ライター、浙江省社会科学院の歴史学者、地方マスメディアの記者たち、香港マスメディアの記者たち、崇山村周辺の村人たち、約千人以上が参加しました。

 五六年前、一九四二年一一月一八日に日本軍が崇山村に侵入し、村民を村の後ろの丘に集め、機関銃で囲んで、ペスト流行中の村を焼き払いました。崇山村は、中国農村の細胞のような平凡な田舎村です。今回、外国、外地から大勢の人が集まってくるのは、村の六〇〇年余りの歴史のなかで、これで二回目のことです。


二、記念大会の参加者たちが、花輪、垂れ幕に囲まれている村中心にある作物干し場に集め、寒風の中、細菌戦被害者を追悼し、五〇数年前の中国の悲惨な、恥辱の歴史の一ページを回顧しました。各被害地の代表が細菌戦の事実を語り、記念式典に集まった全員が、細菌戦訴訟を支援している日本の弁護団及び市民たちに敬意を表しました。そして、被害者の人間としての権利と尊厳を守るために、日本政府が細菌戦の歴史事実を認め、戦争責任を取るまで、この訴訟に取り組むことを決意しました。

参加者の小学生の女の子は、地方の学校の学生を代表して、祖国の恥の歴史を忘れず、中国の若い世代として頑張ると発言しました。


三、最後に参加者たちが、花輪を会場から林山寺へ運び、林山寺で殺害された村

民の足跡をたどりました。田野の細い道には、四〇数個の花輪を持った長い追悼者の列が続き、その列には、国を超え、民族を超え、年代を超えた人たちの姿がありました。被害のあった鎮、村の名前が書かれた花輪の白紙が風にたなびいていました。私にとってこの光景は、心に残るものとなりました。

四、大会についての報道は、地方の二つのテレビ局が視聴者の要請に応じて、繰り返して八回放送されました。

五、その後一一月二〇日に、弁護団の代表一瀬敬一郎と私は、浙江省立義烏高校の学生たちに招かれ、義烏高校で訴訟について講演しました。学生全員と教職員約一五〇〇人が集まりました。学生たちが相次いで、日本社会の歴史認識の現状、日本の戦争責任問題に対して鋭い質問をし、また細菌戦の訴訟に対して強い関心を示しました。

六、被害者記念大会に参加した『史実会』の代表は、北米で行われた『七三一部隊細菌戦写真展』の展示パネルを持参し、そのパネルは一一月一八日の記念大会の日に崇山村に展示されました。その後、義烏高校、義烏第二、第三高校で展示されました。現在、展示パネルは浙江省の細菌戦被害地麗水で展示されています。その後は、順番に各被害地に展示される予定です。

原告団は、現在義烏高校生たちの感想文を集めています。これからの展示場所である地方の学生の感想文と合わせて、文集を作成する予定です。

 (尚、記念大会の写真及び地方新聞紙の記事を添付します。)  以 上